第十六記録【セカンド・ラブ】
火曜日の朝。
台風一過の空は、憎らしいほどに澄み渡っていた。
午前7時半。
私は誰よりも早く出社し、オフィスの電話機を握りしめていた。
相手は、夫の剛だ。
「……あ、もしもし? 洋子だけど」
『ん……なんだよ、朝っぱらから』
受話器の向こうから、不機嫌そうな寝起き声が響く。
「ごめんね。昨日は台風で電車が止まっちゃって、電話も繋がらなくて……。近くのビジネスホテルに泊まったの」
私は滑らかに嘘を吐いた。
心臓の鼓動は一定のリズムを刻んでいる。
罪悪感?
そんなものは昨日のホテルのシャワーと一緒に排水溝へ流してしまった。
『あー、そう。まあ、あの風じゃしょうがねえか』
夫はあくびを噛み殺しながら答えた。
私が一晩帰らなかったことへの心配など、微塵も感じられない。
『それだけか? んじゃあ、切るわ』
「じゃあね、お仕事頑張って」
『ガチャ』
ツーツーツー……。
無機質な切断音。
私は受話器を置き、ふふっ、と笑みをこぼした。
無関心が、今はとてつもなく有り難い。
おかげで私は、完全に自由になれた。
私は軽い足取りで給湯室へ向かった。
鼻歌が止まらない。
今日はバラードじゃなくてアップテンポな気分だ。
蛇口をひねり、ポットに水を入れる。
普段なら重たくて憂鬱な作業も、今日は羽が生えたように軽い。
フロアに戻り、おじさんたちのデスクにある灰皿を回収する。
山盛りの吸殻。ツンとするヤニの臭い。
いつもなら顔をしかめる汚物さえ、今日の私には愛すべき日常の風景に見えるから不思議だ。
窓を開け放つ。
七月の湿った風が入ってくる。
ああ、空気が美味しい。
世界が輝いて見える。
『無敵モードね』
私の横で、明菜が呟いた。
彼女は楽しそうに私を見ている。
『勇者がスター取った時と同じ状態よ。今のアンタ、魔王が来ても体当たりで倒せるわね』
なんとでも言いなさい。
今はとっても気分がいいんだから。
私は雑巾を絞り、デスクを拭き上げていく。
『医学的に説明してあげるわ』
明菜は雑巾がけをする私の背中に乗り、解説を始めた。
『今の洋子の脳内では、「β-エンドルフィン(脳内麻薬)」と「セロトニン(幸福ホルモン)」が合同カクテルパーティーを開いてるの。この二つが過剰に混ざり合うとね、脳は痛みも疲労もストレスも、すべてシャットアウトするわ』
彼女は背中から飛び降り、私の頬をつんと突いた。
『世界がバラ色に見えるフィルターがかかってるのよ。夫の無関心も、上司のハゲ頭も、全部キラキラして見えるでしょ? それ、ただの脳内バグだから』
バグで結構。
この幸せが続くなら、一生バグったままでいい。
時刻は8時20分。
社員たちがパラパラと出社してくる。
「いやー、昨日の風はすごかったなあ」
「電車止まって大変だったよ」
口々に昨日の苦労話をしている。
私も「大変でしたねえ」と話を合わせるが、心の中では舌を出していた。
私にとって昨日の嵐は、最高のハプニングだったのだから。
ガチャリ。
オフィスのドアが開いた。
空気が変わった。
私にだけわかる、微細な気圧の変化。
徹さんが入ってきた。
いつものダブルのスーツ。
きっちり固めたテクノカット。
でも、その表情は少しだけ柔らかい。
ふと、彼が顔を上げた。
私と目が合う。
ドクン!!
視線が絡み合った瞬間、電流が走った。
昨夜の記憶。
肌の熱さ、汗の匂い、彼の吐息、私の中で脈打っていた彼の鼓動。
すべてがフラッシュバックして、身体の奥がキュンと疼いた。
彼は誰も見ていない一瞬の隙に、小さく頷いてみせた。
『おはよう』
その瞳は、昨日までとは明らかに違う熱を帯びている。
共犯者を見る目であり、所有者を見る目だ。
私は慌てて視線を逸らし、書類に目を落とした。
だめだ。
見つめ合っているだけで、目眩が起こりそうだ。
顔が熱い。耳まで赤いのが自分でもわかる。
いつも通りに仕事が始まった午前9時。
私はコピーを取るために、資料を抱えて席を立った。
コピー機の前には、徹さんがいた。
心臓が早鐘を打つ。
他人のフリをしなきゃ。
「……おはようございます、高橋係長」
「おはようございます、佐々木さん」
すれ違いざま、事務的な挨拶を交わす。
その瞬間。
彼の手が、私の手に触れた。
サッ。
何か小さなものが、私の掌に滑り込んできた。
私は反射的にそれを握りしめ、そのままポケットにねじ込んだ。
誰にも見られていない。
心臓が喉から飛び出しそうだ。
中学生みたいな手口。
でも、それがたまらなくスリリングで、背徳的だ。
トイレの個室に駆け込み、震える手でメモを開く。
そこには、彼の几帳面な字でこう書かれていた。
『昨日は幸せでした。……今すぐ抱きしめたい』
――っ!
私はメモを胸に抱きしめ、音のない悲鳴を上げた。
幸せ。抱きしめたい。
そんな言葉を、会社の中で、あんな涼しい顔で渡してくるなんて。
鏡を見る。
そこに映る私は、頬を紅潮させ、潤んだ瞳をした女の顔をしていた。
もう、夫に見せる顔とは別人だ。
10時。
お茶くみの時間だ。
私は給湯室に入り、使用済みの湯呑みを洗い始めた。
ジャージャーと水の流れる音。
狭い空間に、茶渋と洗剤の匂いが充満している。
コンコン。
ドアがノックされ、誰かが入ってきた。
「お茶、もらえますか」
その声に、私は弾かれたように振り返った。
徹さんだ。
彼は中に入ると、背手で静かにドアを閉めた。
そして、鍵をかけた。
「と、徹さん……?」
私が慌てて濡れた手を拭こうとすると、彼は一歩で距離を詰めてきた。
「……我慢できない」
切羽詰まった声と共に、強い力で抱きしめられた。
「あっ……だめ、誰か来ちゃう……っ」
私の抗議は、彼の胸の中でくぐもった。
狭い給湯室。
シンクの角が腰に当たる。
彼は私の首筋に顔を埋めた。
昨夜、彼がつけたキスマーク。
髪で隠しているその場所に、熱い唇を押し当てる。
「んっ……」
声が漏れそうになり、私は自分の手を噛んで耐えた。
壁一枚向こうでは、部長たちの話し声が聞こえる。
電話のベル、日常のノイズ。
そのすぐそばで、私たちは体を密着させ、互いの匂いを貪っている。
怖い。
この「バレるかもしれない」というスリルが、昨夜の快楽を何倍にも増幅させる。
『アラート! 心拍数160突破!』
徹さんの背後から、明菜が楽しそうに実況した。
『スリルによる吊り橋効果の再発動ね。背徳感と恐怖が混ざり合って、脳内麻薬がドバドバ出てるわ。……これだから社内恋愛はやめられないのよね』
彼は顔を上げ、私の唇を塞いだ。
深い、深いキス。
昨日の夜と同じ、私が溶けてしまいそうなキス。
「洋子さん」
唇を離し、彼が熱い瞳で見つめてくる。
「綺麗だ。今すぐ、連れ出したい」
「……ばか」
私は涙目で笑った。
「我慢して。」
その言葉に、彼は嬉しそうに目を細め、もう一度短く唇を重ねてから離れた。
昼休み。
私たちは示し合わせたように、時間をずらして屋上へと向かった。
普段は誰も来ない、給水塔の裏側。
抜けるような青空の下、二人で並んで缶コーヒーを開ける。
プシュッ。
乾いた音が、風に乗って消えていく。
さっきまでの情熱的な空気とは違い、今は穏やかな時間が流れていた。
肩が触れ合う距離。
それだけで満たされる。
「洋子さん、肌綺麗になりましたね」
彼が私の横顔を見て、しみじみと言った。
「……徹さんのせいでしょ」
私はコーヒー缶で火照った頬を冷やしながら答えた。
自分でもわかる。
今の私は、30年間で一番綺麗だ。
「ふふ。責任、取りますよ」
彼がイタズラっぽく笑う。
その責任という言葉が、重く、でも甘く響く。
不倫における責任なんて、果たせるわけがないのに。
でも、今はその甘い嘘に酔っていたい。
『はいはい、ごちそうさま』
明菜が給水塔の上から足をぶらつかせて言った。
『幸せホルモン満タンね。でも忘れないで。高く上がれば上がるほど、落ちた時の衝撃は大きいのよ?』
わかってる……。
でも、今はまだ落ちたくない。
キーンコーンカーンコーン……。
予鈴のチャイムが鳴った。
夢の時間の終わり。
「じゃあ、戻りましょうか」
彼が飲み干した空き缶をゴミ箱に投げ入れた。
「……共犯者さん」
その呼び名に、私はゾクゾクした。
ただの恋人じゃない。
秘密と罪を共有する、共犯者。
「ええ。……戻りましょう」
私は頷き、彼より少し遅れて重たい鉄のドアを開けた。
薄暗い階段を降りていく。
日常という名の戦場へ。
夫の待つ家には帰りたくない。
罪悪感がないわけじゃない。
でも、ポケットの中のメモと、唇に残る彼の感触がある限り、私はどこでも生きていける。
灰色の世界も、退屈な日常も、この秘密があれば極彩色の冒険に変わるのだ。
私はヒールを鳴らし、無敵の笑顔でオフィスへと戻っていった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業: 事務職 / 共犯者(無敵モード)
現在のステータス
* 幸福度: MAX(セロトニン・ドーパミン過剰分泌中)
* ストレス耐性: 無限大(夫の言動すらBGM化)
* 背徳感: 快楽のスパイスとして完全に消化
明菜の分析ログ
人間は「秘密」を持つと強くなる。
それが誰にも言えない、社会的に許されない秘密であればあるほど、その効力は絶大よ。
夫への罪悪感?
そんなもの、今の「無敵モード」の彼女には通用しないわ。
彼女は今、自分の人生の主導権を初めて握った気になっている。
でもね、洋子。
躁状態の後には必ず鬱状態が来る。
永遠に続く無敵時間なんてないのよ。
そろそろ、「現実」とのズレが見え始める頃かしらね。
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
この作品が面白い!と思っていただけたのなら
是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。




