第十五記録【愛は泣いてたんだろう秘密の場所で】
紫色のベルベットと鏡に囲まれた、背徳の城。
昭和のバブル景気が生み出した、悪趣味なまでに豪華な室内。
足が震えていた。
寒さのせいではない。ここに入ってしまったという事実の重みに、膝が笑っているのだ。
徹さんが、濡れたジャケットをハンガーに掛け、振り返る。
雨に濡れて張り付いたワイシャツ。
そこから透ける肌の色が、妙に生々しい。
彼が近づいてくる。
その瞳は、熱病に浮かされたように潤んでいる。
普段の礼儀正しさは消え失せ、そこには一人の男が立っていた。
「シャワー、浴びましょう。冷えちゃいますから」
彼の提案に、私は機械的に頷いた。
拒否権なんて、最初から持っていない。
この部屋に入った時点で、私はもう貞淑な妻という看板を下ろしたのだ。
しかし、バスルームを見て、私は息を飲んだ。
ガラス張りだった。
浴槽も、洗い場も、部屋から丸見えのスケスケ仕様。
80年代特有の、見られることを前提とした舞台装置。
「……っ」
羞恥心で顔から火が出そうだった。
30歳のおばさんの裸なんて。
少し肉のついた腰回りや、張りのなくなった胸。
そんなものを見られたら、幻滅されるに決まっている。
「……恥ずかしい。電気、消していい?」
私はバスルームの入り口で、懇願するように彼を見た。
暗闇なら、まだ誤魔化せるかもしれない。
けれど、徹さんは首を横に振った。
「消さないでください」
彼は私の手首を掴み、ガラスの向こう側へと引き寄せた。
「全部、見たいんです。洋子さんのすべてを、目に焼き付けたい」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも強烈に、私の劣等感を溶かしていった。
私は反射的に腕で胸を隠し、体を丸めた。
見ないで。
若くないの。
あの子のような、ピチピチした肌じゃないの。
でも、彼は私の体を、まるで壊れ物を扱うように見つめていた。
「綺麗だ」
吐息のような声。
彼の手のひらが、私の肩に触れる。
その熱さに、ビクリと震える。
シャワーの音が響く。
湯気がガラスを白く曇らせるが、お湯がかかればすぐに透明に戻る。
石鹸の泡が、二人の体を包んでいく。
彼の手は、いやらしいというよりも、探索するようだった。
首筋、鎖骨、背中の窪み。
一つ一つを指先でなぞり、確認していく。
『羞恥心は最大の媚薬ね』
湯気の中に、明菜の声が混じった。
彼女はバスタブの縁に腰掛け、面白そうに私たちを眺めている。
『見られたくない、でも見られたい。この矛盾した感情が、脳下垂体を刺激して興奮物質を垂れ流してるわ。洋子の肌、今ピンク色に発光してるみたいよ』
あっち行っててよ。
『無理ね。私はアンタの一部だもの。この快楽のデータ、一秒たりとも漏らさず記録させてもらうわ』
彼が私の体を洗い流し、バスタオルで包んでくれる。
その手つきの優しさに、私は泣きたくなった。
夫との生活で、こんなふうに扱われたことがあっただろうか。
ない。一度もない。
夫にとって私の体は、ただの家具の一部か、
あるいは欲を処理するための排泄口でしかなかった。
でも、徹さんは違う。
彼は私を一人の人間として、そして愛しい女性として扱ってくれている。
ベッドルームに戻ると、照明が少し落とされていた。
枕元のコントロールパネルには、有線放送のチャンネルや、照明の調整ボタンが並んでいる。
彼は私をベッドに押し倒した。
ふかふかのマットに体が沈み込む。
上から覆いかぶさる彼の重み。
男性特有の、硬い筋肉の感触。
「洋子さん……」
彼は何度も私の名前を呼んだ。
そのたびに、口づけが降ってくる。
額に、瞼に、鼻先に、そして唇に。
夫との行為を思い出す。
それはいつも、突然始まるものだった。
テレビを見ている最中、あるいは寝ようとした時に、
無言でパジャマの中に手が入ってくる。
愛なんてない。
ただ事務的に、自分の快楽だけを追求して、
終われば背中を向けて寝息を立てる。
そこには会話もなければ、心の触れ合いもなかった。
でも、今は違う。
徹さんの手は、時間をかけて私の準備が整うのを待ってくれている。
指先が、慈しむように肌を這う。
「……あっ」
声が漏れる。
甘噛みされる痛みと快楽。
私が女であることを、細胞の一つ一つが思い出していく。
そうだ。
私は家政婦じゃない。
私はお母さん代わりじゃない。
私は、感じることができる女なんだ。
『データの書き換えを開始しまーす♡』
天井の鏡の中から、明菜が実況中継を始めた。
彼女はクリップボードを持ち、チェックを入れている。
『古いファイル「夫との屈辱的な記憶」を削除。新しいファイル「徹との快楽」で上書き保存中。……すごい容量ね。アンタの体、こんなに感度良かったっけ?』
ちょっと!
『エンドルフィン分泌。鎮痛作用あり。もう「罪悪感」なんて痛み、感じないでしょ?今あるのは純粋な快感だけ』
その通りだった。
夫への裏切り?
そんなものは、彼の指先が触れるたびに蒸発していく。
今はただ、彼が欲しい。
もっと奥まで、私を満たしてほしい。
彼の指が、秘部へと伸びる。
「楽しい」
彼が掠れた声で囁く。
恥ずかしさよりも、彼を興奮させているという事実が嬉しかった。
私でも、まだ男の人をこんな風に夢中にさせられるんだ。
「いいですか?」
彼は耳元で問いかけた。
許可を求めてくれる優しさ。
私は彼の首に腕を回し、力強く頷いた。
「いいよ」
初めて、自分から言葉にした。
夫には一度も言ったことのない言葉。
満たされていく感覚。
長年、心に空いていた風穴が、
物理的な質量を持って塞がれていく。
彼は私を強く抱きしめた。
「洋子さん……好きです。愛してます」
愛してる。
その言葉が、体内に入ってきた熱よりも熱く、心臓を焼いた。
荒い息遣い。
彼にしがみつき、爪を立てた。
天井の鏡には、乱れた髪を振り乱し、
快楽に顔を歪める女が映っていた。
地味な事務員の佐々木洋子は、もうどこにもいなかった。
そこにいるのは、ただの一匹の雌。
快楽の波が押し寄せてくる。
世界が白く弾けた。
ドクン、ドクン、ドクン。
二人の心臓が、一つのリズムで重なり合う。
体温が溶け合い、境界線が消滅する。
私たちは抱き合ったまま、しばらく動けなかった。
余韻。
甘く、重く、気だるい余韻。
『聞こえる? 脳内でパチパチ音がしてるわ』
ベッドの隅で、明菜が静かに呟いた。
『今、大量のオキシトシン(愛情ホルモン)が分泌されたわ。これは「結合」の合図。哺乳類はね、このホルモンが出た相手を「運命のつがい」だと脳に刷り込むの』
彼女は憐れむように、でも祝福するように私たちを見下ろした。
『おめでとう。アンタの脳の構造は、完全に書き換わったわ。もう、昨日のアンタには戻れない。夫のところへ帰っても、体はこの快楽を忘れられないわよ』
戻れなくていい。
私は彼の汗ばんだ背中を撫でながら思った。
もう、戻るつもりなんてない。
ふと目が覚めると、部屋の中は青白い光に満ちていた。
窓のカーテンの隙間から、鋭い陽光が差し込んでいる。
日をまたいでいた。
隣を見ると、徹さんが子供のような顔で眠っていた。
長い睫毛。通った鼻筋。
昨夜の獣のような激しさが嘘のように、無防備な寝顔だ。
私は音を立てないように起き上がり、天井の鏡を見上げた。
ひどい顔だ。
メイクは落ちて目の周りは黒ずんでいるし、
髪は鳥の巣みたいにボサボサだ。
でも、肌は内側から発光しているように艶々としていた。
これが、女の顔なのかもしれない。
賢者タイム。
俗にそう呼ばれる時間。
急激に現実が押し寄せてくる。
やってしまった。
ついに、一線を越えてしまった。
これは不貞行為だ。
法律上の離婚事由だ。
もしバレたら、私は慰謝料を請求され、
社会的な信用を失い、路頭に迷うかもしれない。
恐怖がないと言えば嘘になる。
でも、後悔はなかった。
昨夜の充足感は、何物にも代えがたい真実だった。
私は30年間の人生で、初めて生きた気がしたのだから。
私は徹さんの肩を揺すった。
「……徹さん」
「……んん……」
「朝だよ」
彼がゆっくりと目を開ける。
私を見て、一瞬ぼんやりとし、それからパッと顔を赤らめた。
昨夜の記憶が蘇ったのだろう。
「お、おはようございます……」
「おはよう。……台風、行ったみたい」
私は窓の外を指差した。
身支度を整え、ホテルを出る。
外は、目が痛くなるような快晴だった。
台風一過の青空。
昨日の嵐が嘘のように、空は高く、澄み渡っている。
朝の空気が冷たくて美味しい。
雀がチュンチュンと鳴き、
新聞配達のバイクの音が遠くで聞こえる。
日常の音だ。
昨夜のような甘い雰囲気はない。
あるのは、共犯者特有の、重たくて静かな連帯感だ。
「……会社、行かなきゃですね」
徹さんが眩しそうに空を見上げて言った。
いつも通りの火曜日が始まる。
「……うん。行かなきゃ」
私は頷いた。
でも、知っている。
これから向かう会社も、
家に帰れば待っている夫も、
昨日までとは違って見えるだろう。
私の体には、消えない烙印が押されている。
彼に愛された記憶。
彼を受け入れた記憶。
会社の玄関扉の前で、私たちは一度だけ視線を交わした。
言葉はいらなかった。
お互いの瞳の中に、
同じ熱が燻っていることを確認しただけで十分だった。
私はヒールを鳴らして歩き出した。
足取りは重いが、心はどこまでも軽かった。
私は、堕ちた。
そして、生まれ変わったのだ。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/雌
■ 現在のステータス
・フェロモン値:測定不能(全身から放出中)
・依存度:Sランク
(オキシトシンによるインプリンティング完了)
・夫への関心:ゼロ以下
(生理的嫌悪感が発生するレベル)
■ 明菜の分析ログ
ついにやっちゃったわね。
おめでとう。これでアンタは立派な「背徳のヒロイン」よ。
性行為はただの運動じゃない。
脳の書き換え作業よ。
夫との事務的な行為しか知らなかったアンタにとって、
徹の愛撫は麻薬以上の劇薬だったはず。
もう、あの冷めた味噌汁の味には戻れない。
でも気をつけて。
賢者タイムが終われば、
次は「欲求の暴走」が始まる。
「もっと会いたい」
「もっと触れたい」。
その渇望が、
アンタの生活を少しずつ、
確実に狂わせていくのよ。
毎日21∶20に投稿
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
この作品が面白い!と思っていただけたのなら
是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。




