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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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第十四記録【最低の女ね】



 月曜日の朝。

 目覚めた瞬間、自分の体温が異常に高いことに気づいた。


 熱がある。

 でも、喉も痛くないし、寒気もしない。


 ただ、体の奥底、へその下あたりに熱い塊があって、そこから全身に痺れるような電流が走っている。


 私は鏡台の前に座り、ぼんやりと自分の顔を見つめた。

 頬が上気している。目は潤んでいて、まるで高熱を出した子供みたいだ。


 土曜日、日曜日。

 あの金曜の夜の寸止めキス以来、私はずっとこの状態だった。


 夫と話していても、テレビを見ていても、意識は駅のホームの柱の陰に飛んでいってしまう。


 唇に残る感触。

 強く抱きしめられた腕の力。

 そして、「次は、帰しませんから」という低い声。


 思い出すたびに、下着が擦れる感覚にさえ過敏になってしまい、何度も足を組み替える。


『よしよし。よく耐えたわね、この土日。偉い偉い』


 背後から、優しい手が伸びてきた。

 明菜だ。


 彼女は私の髪を手に取り、猪毛のヘアブラシで丁寧に梳かし始めた。


 サッ、サッ。

 リズミカルな音と共に、頭皮に心地よい刺激が走る。


 まるで姉が、ぐずる妹をあやしているような手つき。


『医学的に言うとね、今の洋子は「離脱症状ウィズドロー」の真っ最中よ』


 明菜はブラシを動かしながら、耳元で解説する。


『金曜日の夜、過剰分泌されたドーパミンとPEA(恋愛ホルモン)が、土日に急激にカットされた。そのせいで、脳が渇きを訴えて暴走してるの。「もっとくれ、あの快楽物質をよこせ」ってね』


 彼女は私の首筋に指を当てた。

 冷たい指先が、火照った肌に気持ちいい。


『体温37.2度。風邪じゃないわよ。これは発情の熱ね。生物としては正しい反応だけど、理性を保つのはしんどいわよねえ』


「……言い方」


 私は明菜を睨んだ。


「怒ってるわけじゃないけど、もっと綺麗な言葉ないの? 」


『あはは。綺麗な言い方? 脳内はただの薬物中毒患者と同じ状態なのに?』


 明菜はケラケラと笑いながら、仕上げに髪をひと撫でした。


 文句を言いながらも、彼女に髪を委ねている自分がいる。


 この熱を、誰かに冷ましてほしい。

 あるいは、もっと燃やし尽くしてほしい。


 


 リビング。


 重苦しい空気が漂っているのは、低気圧のせいだけではない。


 窓の外は、すでに不穏な風が吹き始めていた。

 木がザワザワと揺れ、灰色の雲が猛スピードで流れていく。


「……ジャム」


 夫の剛が、新聞から目を離さずに手を差し出した。


 私は無言でイチゴジャムの瓶を渡す。

 カリカリに焼けたトーストに、赤いジャムが塗られていく。


 その動作一つ一つが、今の私には酷く無神経なものに見える。


 テレビのニュースキャスターが、緊張した面持ちで原稿を読んでいる。


『大型で非常に強い台風12号は、勢力を保ったまま北上を続けており、今日の午後には関東地方に最接近する見込みです。交通機関への影響も予想されますので……』


 台風。

 非日常の予感。


 私はコーヒーを啜りながら、窓の外を見上げた。


「電車、止まらなかったらいいけど」


 口ではそう言いながら、心の中では真逆のことを願っていた。


 止まってしまえばいい。

 世界中の時計が狂ってしまえばいい。


 剛が鼻で笑った。


「止まったら会社休みか? いい身分だな、OLは。俺なんか台風だろうが槍が降ろうが、現場に行かなきゃならんのによ」


 彼はトーストを乱暴に口に放り込んだ。


 この人には、私の不安も、そして期待も、一生理解できないだろう。

 私たちは同じテーブルにいながら、別の惑星に住んでいるのだ。


  ✳✳✳✳


 予報よりも早く、嵐はやってきた。


 ビューッ!! ガタガタガタ!!


 窓ガラスが悲鳴を上げている。


 外は真っ白な雨のカーテンで覆われ、向かいのビルさえ霞んで見えない。


 蛍光灯がチカチカと瞬いた。


「おい、総武線が止まったらしいぞ!」


「地下鉄も間引き運転だって!」


 フロアがざわつき始める。


 電話が鳴り止まない。取引先からのキャンセルや、配送の遅延連絡だ。


 部長がフロアの中央で手を叩いた。


「よし、今日はもう解散だ! 業務終了! 電車が動いてるうちに帰れ! 無理ならタクシー使え、経費で落としていいから!」


 その号令と共に、社員たちが一斉に動き出した。


「お疲れ様でした!」

「気をつけて!」


 みんな慌ただしく鞄を抱え、エレベーターホールへと走っていく。


 私もロッカーへ走り、バッグを掴んだ。


 心臓が早鐘を打っている。


 怖いからじゃない。

 期待しているからだ。


 ふと、徹さんの席を見る。


 ……いない。


 席は空っぽだ。もう帰ってしまったのだろうか。


 ズキン、と胸が痛む。


 挨拶もなしか。


 まあ、こんな状況だもの、仕方がない。


 私はため息をつきながら、フロアを出ようとした。


 その時。


 あ。


 ポットのコンセント。


 長年の習性が、私を呼び止めた。


 給湯室の電気ポット。あれを抜いておかないと、火事の元になるかもしれない。


 誰も気にしないような些細なこと。でも、気になってしまうのが私という人間だ。


 私は人の波に逆らい、給湯室へと戻った。


 薄暗い小部屋。


 ポットのプラグを引き抜く。

 赤い保温ランプが消えた。


 よし。


 これで帰れる。


 給湯室を出て、廊下を曲がろうとした瞬間だった。


 そこに、彼が立っていた。


「……!」


 壁に寄りかかり、ポケットに手を入れていた彼が、私を見て体を起こした。


 徹さんだ。


 誰もいなくなった静かな廊下で、私を待っていたのだ。


「洋子さん」


 低い声が、雨音に混じって響く。


「徹さん……どうして? もう帰ったんじゃ」


「待ってたんだ。洋子さんが、まだ出てきてなかったから」


 彼はポケットから車のキーを取り出し、指先でクルクルと回した。


 チャリ、という金属音が静寂を裂く。


「車、地下駐車場に出してあります。……送りましょうか?」


 彼は問いかけた。

 でも、その瞳は送らせてほしいと訴えていた。

 いや、連れ去りたいと言っていた。


 周囲を見渡す。


 誰もいない。


 部長も、お局様も、みんなエレベーターで降りていった。


 ここには私たち二人だけ。


 私は彼を見上げた。


 自然と、顎が引かれ、視線が上に向く。


【スキル習得:上目遣い Lv.5】

【効果:男の保護欲求を刺激する(成功率99%)】


 脳内でファンファーレが鳴った。


 以前はぎこちなかったこの仕草も、今では呼吸をするように自然にできる。


 私は少し首を傾げ、甘えるような声色を作った。


「……うん。送ってもらおうかな」


 一歩、彼に近づく。


「ありがとう♡」


 その一言が、引き金だった。


 彼の瞳に、激しい炎が灯るのが見えた。


 彼は無言で頷くと、私の背中に手を回し、エスコートするように歩き出した。




 地下駐車場にある、彼の白いマークII。


 助手席に滑り込み、重厚なドアを閉める。


 バムッ。


 外界の音が遮断され、密室が出来上がった。


 革のシートの匂いと、彼のコロンの香り。


 エンジンがかかり、エアコンが唸りを上げる。


 車がゆっくりと動き出した。


 地上に出た瞬間、世界は灰色だった。


 バケツをひっくり返したような豪雨。


 ワイパーが最速で動いているのに、視界はほとんど効かない。


「すごい雨ですね……」


 彼がハンドルを握りしめながら呟く。


「本当。……前が見えないくらい」


 私も窓の外を見つめながら答えた。


 会話は途切れがちだ。

 でも、沈黙は気まずくない。むしろ、濃密だ。


 車内という狭い空間。

 右肩から感じる彼の体温。


 私の意識は、金曜日の夜の記憶に縛り付けられていた。


 あのキスの続きを、体が求めている。


『ヒュ〜♪』


 後部座席から、口笛が聞こえた。


 明菜だ。


 彼女は運転席と助手席の間に顔を出し、楽しそうに私たちを見回している。


『動く密室。湿度100%。フェロモン濃度測定不能』


 彼女は私の耳元で囁く。


『ねえ洋子。このまま大人しく家に帰るつもり? ナビゲーションシステム、目的地設定エラー起こしてない?』


 こんなときに話しかけないでよ。


 私は膝の上で手を握りしめた。


 このまま家に帰れば、夫がいる。


 この熱を持て余したまま、つまらない夕飯を作らなければならない。


 そんなの、耐えられない。


 車は大通りを進んでいたが、渋滞にはまっていた。


 赤いテールランプの列が、雨に滲んで伸びている。


 風が強まり、車体が横に揺れるほどだ。


「……くそっ」


 徹さんが小さく悪態をついた。


 ワイパーの音が、焦燥感を煽るように激しくなる。


「洋子さん」


 彼が私を見た。


 その目は、もう限界だと告げていた。

 運転の限界ではない。理性の限界だ。


「この雨じゃ、これ以上走れません。危険すぎます」


 それは、言い訳だった。

 誰にとっても正当で、完璧な言い訳。


「……そうだね。危ないよね」


 私も共犯者として、その言い訳に乗った。


 彼はウィンカーを出した。


 ハンドルを大きく切り、大通りから外れた路地へと入っていく。


 そこは、ラブホテル街だった。


 薄暗い雨の中に、けばけばしいネオンサインが浮かび上がっている。


『HOTEL シャルマン』『御殿』『愛の巣』。


 昭和の欲望が具現化したような看板たち。


 その中の一つ。


 ヨーロッパの古城を模したような、一際大きな建物。


『HOTEL QUEEN』の紫色のネオンが、雨に濡れて妖しく光っていた。


 車が減速する。


 入り口には、車のナンバーを隠すためのビニールの暖簾(のれん)が下がっている。


 彼はそこでブレーキを踏み、私の方を向いた。


 ハンドルを握る手が、白くなるほど震えている。


「雨宿り、していきましょう」


 彼は絞り出すように言った。


「……少し、休みたいです。……二人で」


 雨宿り。

 休憩。


 なんて便利な言葉だろう。


 それが「シよう」の隠語だということは、学生だって知っている。


 ここで拒絶すれば、私は貞淑な妻に戻れる。


 でも、そんな選択肢は最初から私の脳内にはなかった。


 私は彼を見つめ返し、ゆっくりと頷いた。


「……うん。雨、すごいもんね」


 彼がアクセルを踏んだ。


 車はビニールの暖簾(のれん)をくぐり、ネオンの海の中へと滑り込んだ。


 後戻りできない境界線を越えた瞬間だった。


 


 部屋に入った瞬間、目に飛び込んできたのは「非日常」そのものだった。


 無駄に豪華なシャンデリア。

 壁は紫色のベルベット張り。


 そして部屋の中央には、円形のベッドが鎮座している。


 これが噂の、回転ベッド。


 見上げれば、天井は全面鏡張りになっていて、立ち尽くす私たち二人を映し出していた。


 濡れたスーツの男と、事務服の女。


 なんて背徳的な絵面だろう。


 入り口のドアの横には、料金カプセルを入れるためのエアシューターの筒がある。


 誰とも顔を合わせずに済むシステム。


 ここは、社会から切り離された異界だ。


 主婦にとって、ここは不潔で、破廉恥で、足を踏み入れてはいけない場所。


 強烈な罪悪感が襲ってくる。


 夫の顔がよぎる。カオリの軽蔑した顔がよぎる。


 でも。


 その罪悪感がスパイスとなり、体の奥底からマグマのような高揚感が湧き上がってくる。


 私は悪い女だ。

 どうしようもなく、汚れている。


 ガチャリ。


 徹さんがドアの鍵をかけた。


 重たい金属音が、退路を断つ音に聞こえた。


 彼が振り返る。


 その瞳は、もう上司の目ではなかった。


 獲物を前にした、飢えた雄の目。


「洋子さん……」


 彼が近づいてくる。


 私はバッグを取り落とした。


 もう、逃げ場はない。

 逃げるつもりもない。


『さあ、ショータイムの始まりよ』


 明菜がベッドの上に寝転がっていた。


 彼女はベッドサイドのコントロールパネルを操作し、回転スイッチを押した。


 ウィーン……。


 低いモーター音と共に、円形ベッドがゆっくりと回り始める。


 明菜が、妖艶に手招きをしている。


『この回転ベッドは、地球の自転より速く、アンタたちを堕とすわ』


 私は覚悟を決めて、目を閉じた。


 外の嵐よりも激しい嵐が、これからこの部屋で吹き荒れるのだ。





【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.001

氏名: 佐々木 洋子(30)

職業: 事務職 / 堕ちた聖女


現在のステータス


体温: 38.5度(発情熱による上昇)

理性: 機能停止(台風により吹き飛ばされた)

場所: ラブホテル(ロマンスの最深部に到達)


 明菜の分析ログ


「雨宿り」か。

日本語の中で、これほどエロティックで便利な言い訳はないわね。


台風という不可抗力が、二人の背中を蹴り飛ばした。


80年代のラブホテルの煌びやかさは、日常を忘れさせるための麻酔装置。


鏡張りの天井、回転ベッド……すべてが「正気」を奪うために設計されている。


さあ洋子。

事務服を脱ぎ捨てて、本能のままに貪りなさい。


明日の朝、後悔するかどうかは……アンタの腰使い次第よ。

毎日21∶20に投稿


※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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