第十三記録【七夕の短冊と、最終電車のブレーキ】
七月五日、金曜日。
梅雨明けの湿った空気が、夜の街を重たく包み込んでいる。
宴会場の襖が開け放たれ、紫煙とアルコールの臭いが混じり合った熱気が、私の顔を打った。
今日は、人事異動に伴う歓送迎会だ。
「さあさあ、ジャンジャン飲んで! 今日は無礼講だぞ!」
上座で真っ赤な顔をして叫んでいるのは、営業部の部長だ。
彼の右手にはビール瓶、左手にはタバコ。
昭和の宴会における典型的な権力者の図だ。
私は末席で、ひたすらビールを注ぎ続けていた。
私のグラスには、温くなったビールが残っているだけ。
周囲では「一気! 一気!」という野太いコールが響き、畳の上にはこぼれた酒と枝豆の皮が散乱している。
不快指数はMAX。
でも、今日の私は少しだけ余裕があった。
視線の先に、彼がいるからだ。
徹さんは、部長の近くで酌をさせられている。
苦笑いを浮かべながらも、丁寧にお酒を注ぐ横顔。
時折、私の方を見て、困ったように眉を下げる。
その視線だけで、この地獄のような時間が、二人だけの秘密の通信に変わる。
「おい佐々木君! 何ぼーっとしてるんだ、お酌!」
課長に怒鳴られ、私は慌ててビール瓶を持ち上げた。
「……はい、ただいま」
作り笑顔で酌をして回る。
その時、話題は来週に控えた「七夕」のことになった。
「そういやもうすぐ七夕だなあ。みんな、短冊に何書くんだ?」
部長が呂律の回らない口調で聞いた。
「ガハハ! 俺の願いは決まってるぞ! 女子大生と混浴だ!」
ドッ、と下品な笑いが起きる。
私は眉をひそめそうになるのを、必死で堪えた。
「やだー部長ったらー♡ エッチなんだからぁ」
部長の隣で媚びるように体を寄せたのは、庶務課の新人、エミちゃんだった。
大学を出たばかりの二十四歳。
聖子ちゃんカットにパステルカラーのワンピース。
若さを武器にすることに何の躊躇いもない彼女は、部長の太ももに手を置いている。
「私はねー、お金持ちと結婚して、一生遊んで暮らすかなー」
「おっ、正直でいいなあ! 俺じゃダメか?」
「えー、部長はお小遣いくれるなら考えてあげてもいいですよお」
キャハハ、と乾いた笑い声。
その向かいに座っていた経理のお局様、安藤さんがボソリと呟いた。
「私は、老後の資金が二千万円貯まりますようにだね」
切実すぎる願いに、周囲が一瞬静まり返る。
『……見てごらんなさい、洋子』
不意に、私の隣――正確には部長とエミちゃんの間に、明菜が割り込んできた。
彼女は紫のボディコン姿であぐらをかき、楽しそうに部長のハゲ頭をペチペチと叩いている。
『これぞ、アルコールによる前頭葉の麻痺実験よ』
明菜はジュリ扇で部長の頭を指した。
『アルコールは大脳新皮質――つまり理性を司るブレーキを麻痺させるの。その結果、人間は脳幹レベルの本能(欲望)を垂れ流すゾンビになる』
彼女は次に、エミちゃんのふっくらした頬を、指先でプニプニと突っついた。
エミちゃんは「なんか顔が痒いー」と首を傾げている。
『部長は「性欲」、この女子は「物欲」、そしてお局様は「生存欲求」。わかりやすいでしょ?』
明菜は私の顔を覗き込み、ニヤリと笑った。
『七夕の短冊なんてね、ロマンチックな飾りじゃないの。あれはただの欲望の展示会。人間の業をカラフルな紙に書いて晒してるだけよ』
私はビール瓶を握りしめながら、苦笑した。
確かにその通りだ。
ここに綺麗な願い事なんて、一つもない。
「おい高橋! お前の願いはなんだ?」
突然、矛先が徹さんに向けられた。
「えっ、僕ですか?」
「そうだよう。お前みたいなエリートで色男なら、願い事なんてねえか?」
部長が絡む。
徹さんは困ったように首を振った。
「いえ、そんなこと……」
「あ、わかった! あれだろ?」
部長がニヤニヤしながら、大声で続ける。
「お前には、赤いスポーツカーの織姫様がいるからなあ! 願いごとなんて必要ねえよな! ガハハ!」
その瞬間、私の心臓が凍りついた。
周囲がドッと沸く。
「そういえば、この前会社まで迎えに来てましたよね!」
「すごい派手な美人でさあ、お前にはもったいないよ!」
「高橋係長、隅に置けないねえ!」
冷やかしの嵐。
徹さんの元彼女――絵里のことだ。
あの日、私が見送った、あの赤い車の残像が鮮明に蘇る。
徹さんの視線が、一瞬だけ私の方へ泳いだ。
助けを求めるような、謝るような目。
でも、こんな公衆の面前で違いますなんて言えるわけがない。
彼は上司に酒を注がれ、逃げ場を失っている。
「……はは、まあ、そうですね」
彼は曖昧に肯定し、苦い顔でグラスを煽った。
ズキン。
胸の奥が、鋭利な刃物で刺されたように痛んだ。
わかってる。
彼はその場を収めるために、話を合わせただけ。
心の中では私を思ってくれているはず。
でも、そうですね、という肯定の言葉を、彼の口から聞きたくなかった。
私の前で、他の女を織姫だと認めないでほしかった。
また徹さんと目が合った。
今度は、私は微笑み返さなかった。
フンッ!
わざとらしく視線を外し、不機嫌な顔でビールを飲み干す。
生ぬるい液体が食道を通り過ぎても、胸の焼けつくような熱さは消えなかった。
もう知らない。
織姫様のところへ帰ればいいじゃない。
嫉妬だ。
醜い、ドロドロとした感情が、胃の腑で渦を巻く。
『あらあら、洋子の短冊には「独占欲」って書かなきゃね』
明菜が部長の頭の上でピースサインをしながら、意地悪く囁いた。
一次会が終わり、雪崩れ込むように二次会のカラオケスナックへ移動した。
店内はミラーボールが回り、部長がマイクを握りしめて演歌を熱唱している。
「北の~酒場通りには~♪」
鼓膜が破れそうな大音量。
手拍子をする社員たち。
狂乱の宴。
私はもう、限界だった。
タバコの煙で目は痛いし、さっきの嫉妬で心も痛い。
徹さんは遠くの席で、先輩たちに捕まっている。
帰ろう。
これ以上ここにいても、惨めになるだけだ。
私はバッグを掴み、隣にいた課長に声をかけた。
「すみません、私、終電があるので失礼します」
「あん? もう帰んのか? 佐々木君も歌えよー」
「主人が待ってますので」
嘘でもなんでも、この印籠を出せば誰も文句は言えない。
私は逃げるように店を出た。
外の空気は、生ぬるかった。
夜風が火照った頬を撫でる。
静かだ。
カツ、カツ、カツ。
ヒールを鳴らして、駅の方へ歩き出す。
涙が出そうだった。
もっと話したかったのに。
どうして私は、あんな態度をとってしまったんだろう。
タッタッタッ。
背後から、走ってくる足音がした。
「洋子さん!」
振り返ると、息を切らした徹さんがいた。
ネクタイを緩め、額に汗を浮かべている。
「……高橋係長」
私はわざと他人行儀に呼んだ。
「どうしたんですか? 皆さんと楽しまないんですか?」
「抜け出してきました。……洋子さんが帰っちゃったから」
彼は私の隣に並び、呼吸を整えた。
「送ります。駅まで」
「いいです。一人で帰れます」
私はぷいと前を向いて歩き出した。
足が速くなる。
彼が慌ててついてくる。
「洋子さん、待ってください」
「……何よ」
私は立ち止まらずに続けた。
「いいですね、織姫様がいて。みんなに冷やかされて、お似合いだって言われて。私なんて必要ないんじゃない?」
ああ、止まらない。
口を開けば、可愛げのない言葉ばかりが出てくる。
「怒ってます? さっきのこと」
「怒ってない。……ただ、面白くないだけ」
子供みたいな言い草だ。
30歳にもなって、こんな嫉妬をするなんて。
その時、彼が私の前に回り込み、足を止めた。
「洋子さん」
見上げると、街灯の下で彼が笑っていた。
困ったような、でもどこか嬉しそうな顔で。
「……ふふ。洋子さん、ヤキモチ焼いてる顔、すごく可愛い」
カァッ、と顔が熱くなった。
「っ! ……からかわないで」
「本気です」
彼は真顔になった。
「俺の願いは……洋子さんと2人きりになりたい……ですから」
その言葉に、胸のつかえがストンと落ちた。
私だって。
私だって、そうだった。
気がつくと、私たちの手は自然と触れ合っていた。
どちらからともなく、指を絡める。
湿った夜風の中で、彼の体温だけが心地よかった。
駅のホーム。
時計の針は、23時50分を指していた。
『まもなく、1番線に、当駅止まりの最終電車が参ります。危ないですから、白線の内側までお下がりください……』
無機質なアナウンスが、別れの時間を告げる。
ホームには、酔っ払ったサラリーマンが数人いるだけだ。
私たちは一番端の、太い柱の陰に立っていた。
遠くから、ガタンゴトン……と電車が近づいてくる音が聞こえる。
光の点が、闇の中から大きくなってくる。
あの電車に乗れば、日常に戻れる。
夫のいる団地へ。
冷めた味噌汁のある場所へ。
嫌だ。
突然、強烈な拒絶反応が湧き上がった。
今日、彼の言葉に傷つき、そして救われた。
感情を揺さぶられすぎて、理性のタガが緩んでしまったのかもしれない。
私は俯いたまま、彼のワイシャツの袖をぎゅっと掴んだ。
「……洋子さん?」
「……帰りたくない」
小さな声だった。
でも、電車の轟音の中でも、彼には届いたはずだ。
彼が息を飲む気配がした。
「……帰りたくない。もっと、一緒にいたい」
言ってしまった。
それは、一線を越えるためのパスポート。
今、彼が行こうと言えば、私はどこへでもついていく。
沈黙。
電車がホームに入ってくる。
ヘッドライトが私たちを眩しく照らす。
彼の腕が動いた。
私を抱きしめようとして――止まった。
その手は、震えていた。
「洋子さん」
彼は苦しげに呟いた。
「だめです。今日は、帰さないと」
え?
私は顔を上げた。
彼は泣きそうな顔で、でも必死に理性を保っていた。
「今、連れて行ったら……洋子さんが困ることになる。明日、ご主人の前で嘘をつけなくなる」
彼は私の生活を守ろうとしてくれている。
私の未来を、私の破滅を防ごうとしてくれている。
それが彼の愛情だとわかった。
わかったけれど――体は納得していなかった。
「徹さん……」
プシューッ。
電車のドアが開く音がした。
「その代わり……」
彼が私を引き寄せた。
柱の陰。
電車の死角。
彼の顔が近づき、私の唇を塞いだ。
んっ……。
それは、今までのどのキスよりも深く、熱く、渇望に満ちていた。
舌が絡み合い、互いの息を奪い合う。
酔いのせいだけじゃない。
抑え込んでいた、七夕の短冊に書けない願いが、このキスに凝縮されていた。
長く、濃密な時間。
発車ベルが鳴り響く。
唇が離れた時、銀色の糸が引いた。
二人とも、肩で息をしている。
「……次は」
彼が私の瞳を射抜いた。
熱い、獣の目だった。
「次は、帰しませんから」
その宣言は、最終電車のドアが閉まる音よりも重く、私の胸に響いた。
私はよろめくように電車に乗り込んだ。
ドアが閉まる。
窓越しに、彼が立っているのが見えた。
電車が動き出す。
彼の姿が遠ざかり、闇に消えていく。
ガタン、ゴトン。
振動に揺られながら、私はシートに座り込んだ。
車内はガラガラだ。
唇を指でなぞる。
熱い。痛い。
もっと触れられたい。
もっと奥まで。
体中の細胞が疼いている。
帰りたくないと言った私。
それを止めた彼。
でも、その「おあずけ」が、余計に私の欲望に火をつけてしまった。
『……あらあら』
私の目の前で、明菜が吊革にぶら下がっていた。
彼女はブラブラと揺れながら、憐れむように私を見下ろす。
『寸止め(おあずけ)食らっちゃったわね』
いちいち言わないでよ。
『でもね、心理学的にはこれが大正解。ツァイガルニク効果の極致よ』
明菜は吊革を鉄棒のように使い、くるりと一回転した。
『人間はね、完了したタスクよりも、未完了のタスクの方を強烈に記憶するの。「抱かれた」記憶よりも、「抱かれ損ねた」記憶の方が、脳に深く刻まれる』
彼女は私の目の前に顔を寄せた。
『今夜のアンタは、欲求不満で眠れない夜を過ごすことになるわ。体が火照って、夫の隣で身悶えすることになる』
明菜は妖艶に微笑んだ。
『……それが、一番の媚薬なんだけどね』
私は窓の外を見た。
流れる街の灯りが、涙で滲んで見えた。
次に会う時。
次は帰さないと言った彼。
その時が来たら――
私はもう、理性なんてかなぐり捨ててしまうだろう。
七夕の短冊なんていらない。
私の願いはただ一つ。
彼と、溶け合いたい。
それだけだ。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/織姫(発情期)
■ 現在のステータス
・性的欲求:危険域(寸止めにより限界突破)
・嫉妬心:B(彼への独占欲が愛情を加速)
・理性:残り1%(次回の接触で消滅予定)
■ 明菜の分析ログ
「帰りたくない」という爆弾発言。
よく言ったわね。あれは男の理性を試す最強のテストよ。
そこで流されずに「帰す」選択をした彼は、ある意味で誠実で、ある意味で残酷な策士ね。
おかげで洋子の脳内は今、彼への渇望でパンク寸前。
さあ、準備は整ったわ。
あとは「きっかけ」だけ。
例えば……台風で電車が止まる、とかね?
毎日21∶20に投稿
※作中の医学・心理学描写について
本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。
厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!
この作品が面白い!と思っていただけたのなら
是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。




