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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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第十二記録【嵐のナンバー】



 月曜日の朝。

 憂鬱の代名詞であるはずのその時間は、今の私にとって、金色の輝きを帯びていた。

 

 始業のチャイムが鳴り、いつものようにラジオ体操の音楽がフロアに流れる。

 

 体を動かしながら、私は自分の右手を見つめた。

 昨日、映画館の暗闇で、彼と繋いだ手。

 

 一日経ってもまだ、その温もりが皮膚の奥に残っているような気がする。

 

 昨夜は、家に帰ってからも夢見心地だった。

 

 夫の剛が「実家どうだった?」と聞いてきた時も、「元気そうだったよ」と笑顔で嘘をつくことができた。

 

 罪悪感?

 そんなものは、あの手のひらの熱さが焼き尽くしてしまった。

 

 体操が終わり、社員たちがぞろぞろと席に着く。

 オフィスの空気は、週末に溜まった澱んだ空気と、吸い始められたタバコの煙で白く濁っている。

 

 視線を斜め前に向ける。

 高橋係長――徹さんが、ネクタイを直しながら席に座るところだった。

 

 ふと、彼がこちらを見た。

 目が合う。

 ほんの一瞬。

 彼は誰も見ていない隙に、小さく眉を下げて、でも口元だけで微笑んで見せた。

 

 『おはよう』

 

 声に出さなくても、聞こえた気がした。

 

 ドキン、と胸が高鳴る。

 

 これだ。この「二人だけの秘密」が、灰色の職場をバラ色に変えていく。

 私は幸せを噛み締めながら、伝票の束に手を伸ばした。

 

 ――その時だった。

 ジリリリリリリ!!

 

 徹さんのデスクにある黒電話が、けたたましい音を立てた。

 

 オフィスのあちこちで鳴る電話音の一つ。

 最初は誰も気に留めなかった。

 彼は何気なく受話器を取った。

 

「はい、高橋ですが……」

 

 次の瞬間、彼の背中がビクリと強張ったのが見えた。

 横顔から、サーッと血の気が引いていく。

 

「……あ」

 

 彼は慌てて受話器を耳に押し当て、周囲を伺うように体を丸めた。

 

「今は、仕事中だから」

 

 押し殺した声でそう告げると、彼は逃げるようにガチャンと電話を切った。

 

 ふう、と深く息を吐き、額の汗を拭う。

 

 間違い電話?

 いや、あの反応は違う。

 ジリリリリリリ!!

 受話器を置いたコンマ数秒後。

 まるで彼の指が離れるのを待っていたかのように、再び電話が鳴り響いた。

 鼓膜を突き刺すような、金属的なベルの音。

 それはただの呼び出し音ではなく、何かの警報のように聞こえた。

 

 徹さんは動かない。

 いや、動けないのだ。

 受話器を睨みつけたまま、石のように固まっている。

 

 ジリリリリリリ! ジリリリリリリ!

 

 誰も出ない電話の音は、静かなオフィスで異様な存在感を放ち始める。

 周囲の社員たちが「ん?」と顔を上げ、不審そうに彼を見た。

 ガチャッ。

 彼が再び受話器を取り、何も言わずに切った。

 ジリリリリリリ!!

 即座に鳴る。

 もはやホラーだ。

 

『……来たわね』

 

 私のデスクの横に、明菜が腕組みをして立っていた。

 彼女はベルの音に合わせて、楽しそうに指でリズムを刻んでいる。

 

『バブルモンスターの逆襲よ。昨日の日曜、連絡つかなかったんでしょね〜。彼女の縄張り意識が爆発してるわ』

 

 彼女?

 

『そう。彼女にとって日曜日は自分の所有物を確認する日。なのに連絡がつかない。不安が怒りに変わり、怒りが執着に変わる。このベルの音はね、彼女のヒステリーそのものよ』

 

 徹さんは蒼白な顔で、三度目の切断をした。

 さすがに周囲がざわつき始める。

 すると今度は、フロアの入り口にある庶務課の電話が鳴った。

 女子社員が電話を取り、困惑した顔で立ち上がる。

 

「あのー……高橋係長」

 

 彼女の声が、フロア中に響き渡った。

 

「外線の女性からです。至急だって怒ってます。さっきから何度も切れてるって」

 

 シーン、とフロアが静まり返った。

 全員の視線が、彼に突き刺さる。

 昭和の会社において、勤務中に私用電話、それも女性からの感情的な電話がかかってくることは、仕事ができないこと以上に恥とされる。

 

 「女の管理もできない男」というレッテル。

 

 それは出世コースからの脱落すら意味する。

 

「……チッ」

 

 向かいの席の課長が、あからさまに舌打ちをした。

 

 新聞を広げながら、わざと聞こえるような独り言を漏らす。

 

「朝っぱらから痴話喧嘩かよ。仕事にならんなあ」 

「若いっていいねえ、モテて」

 

 隣の係のおじさんが、下卑た笑いを浮かべて茶化す。

 徹さんは小さくなり、消え入りそうだ。

 

 その背中は震えていて、見ていられないほど痛々しい。

 

 彼はヨロヨロと立ち上がり、自分のデスクの電話を取った。

 転送されてきたのだ。

 

「……はい」

 

 受話器から、甲高い叫び声が漏れ聞こえてくる。

 内容は聞き取れないけれど、凄まじい剣幕だということは、ここからでもわかる。

 

 徹さんは「すみません」「あとで」「仕事中だから」と繰り返すばかり。

 

 ひどい。

 あんまりだ。

 彼の立場なんてお構いなしに、自分の感情だけで突っ走るなんて。

 これが、あの赤い車の女のやり方なの?

 私は拳を握りしめた。

 怒りが湧いてくる。

 彼を辱め、追い詰める彼女への怒り。

 そして、何もできずに立ち尽くしている彼への、もどかしさ。

 助けなきゃ。

 私が、助け出さなきゃ。

 私は立ち上がった。

 椅子がガタッと音を立てる。

 手近にあった分厚いファイルを掴み、大股で彼のデスクへと向かう。

 カツ、カツ、カツ!

 ヒールの音を響かせて近づき、私は彼の目の前にファイルを叩きつけた。

 バンッ!!

 その音に、徹さんが、そして電話の向こうの彼女も、一瞬ひるんだようだった。

 

「高橋係長!」

 

 私はフロア中に聞こえるような、通る声で叫んだ。

 

「例の在庫確認の件、至急お願いします! 先方が待ってるんです! 資料室で確認しないと間に合いません!」

 

 徹さんが驚いた顔で私を見る。

 私は目で合図を送った。

 早く、と。

 

「あ……」

 

 彼は状況を理解したようで、慌てて受話器に向かって「急用ができた」と告げ、乱暴に電話を切った。

 

「す、すみません! すぐ行きます!」

 

 彼は額の汗を拭いながら立ち上がった。

 私は「こちらです」と先導し、逃げるように彼をフロアから連れ出した。

 背中で課長の「ったく、騒がしいな」という声が聞こえたが、無視した。

 

 

 鉄の扉を閉めると、オフィスの喧騒も、あの忌々しい電話の音も、嘘のように遮断された。

 ひんやりとした冷気。

 古紙とインクの匂い。

 蛍光灯が一本だけチカチカと点滅している。

 

 徹さんは、一番奥の棚に手をついて、崩れ落ちるように膝をついた。

 

「……はぁ、はぁ……」

 

 過呼吸気味に肩を上下させている。

 相当、追い詰められていたのだ。

 私は入り口の鍵をかけ、彼のそばに歩み寄った。

 

「大丈夫?」

 

 声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。 

 その顔は、涙目になっていた。

 

「……すみません、洋子さん。……助けてもらって」

 

 情けない声だった。

 昨日のデートで見せた、頼り甲斐のある男の姿はどこにもない。

 でも、不思議と幻滅はしなかった。

 むしろ、傷ついた子供のような彼を、抱きしめたいという衝動に駆られた。

 

「彼女、でしょ? あんなにかけてくるなんて」

 

 私は努めて冷静に尋ねた。

 

「……はい」

 

 彼は床を見つめたまま、力なく頷いた。

 

「昨日、連絡しなかったから……。朝起きたら、留守電が20件以上入ってて……パニックになってるみたいで」

 

「会社にかけてくるなんて、非常識よ」

 

「わかってます。でも、彼女……思い込んだら周りが見えなくなる性格で」

 

 彼は頭を抱えた。

 

「はっきり言えばいいじゃない。もう終わりにするって」

 

 私の言葉に、彼は苦しそうに顔を歪めた。

 

「言ってます! 何度も言ってるんです! でも……」

 

 彼は唇を噛み締め、絞り出すように言った。

 

「彼女が納得しなくて……別れるなら死ぬとか、会社に火をつけるとか言い出すから……怖くて、強く切れなくて」

 

 死ぬ。火をつける。

 常軌を逸している。

 でも、あの赤い車の女ならやりかねない。

 そして、優しい徹さんは、その言葉を無視できないのだ。

「……俺、どうしたらいいのか」

 彼は頭を抱えてうずくまった。

 

 その姿を見て、私はこれ以上彼を責めることができなくなった。

 しっかりしてよと言うのは簡単だ。

 でも、彼は彼なりに戦っている。その優しさが、今は仇になっているだけだ。

 

 それに、私には彼を責める資格なんてない。

 私だって、夫がいながら彼を愛している共犯者なのだから。

 私は屈み込み、彼の背中にそっと手を置いた。

 スーツ越しに伝わる体温。

 震えが、私の手のひらに伝わってくる。

 

「……落ち着いて」

 

 私は子供をあやすように、背中をポンポンと叩いた。

 

「今は、ここにいればいいから。電話も聞こえないし、誰も来ない」

 

 彼は顔を上げ、すがるような目で私を見た。

 

「洋子さん……。軽蔑、しましたか? こんな情けない男」

 

「ううん」

 

 私は首を振った。

「優しいんだね、徹さんは。……でも、その優しさは、いつかは自分も相手も傷つけるだけだよ」

 

 私は彼の手を取り、両手で包み込んだ。

 氷のように冷たい手だった。

 

「私がついてるから。だから、もう自分を責めないで」 

 彼は私の手を、痛いほど強く握り返してきた。

 

 その力強さが、彼の言葉にならない助けてほしい、離さないでほしいという叫びのように感じられた。

 薄暗い空間。

 二人きりの密室。

 ここでは、私たちは上司と部下でもなく、不倫相手でもなく、ただ傷を舐め合う二匹の獣だった。

 

 十分ほど経っただろうか。

 彼の呼吸が落ち着いてきたのを見計らって、私たちは資料室を出た。

 

「戻ろう。長居しすぎると、怪しまれるから……徹さん立てそう?」

 

「うん」

 

 オフィスに戻ると、嵐は去っていた。

 電話の音は止んでいる。

 もしかしたら、徹さんが受話器を上げて話し中にしておいてくれたのかもしれない。

 それとも、彼女が疲れて諦めたのか。

 周囲の視線はまだ痛かったけれど、徹さんはさっきよりずっとマシな顔をしていた。

 席に着き、溜まっていた書類仕事に取り掛かる。

 

 給湯室から戻ってくると、自分のデスクに新しい書類の束が置かれていた。

 徹さんから回ってきた決裁書類だ。

 何気なく一番上のファイルをめくった時、ハッとした。

 書類の間に、小さな黄色い付箋が挟まれていた。

 周りの人には見えない位置。

 そこには、彼の走り書きでこう記されていた。

 

 『ちゃんと清算します。信じてください』

 

 胸が熱くなった。

 たった一行のメッセージ。

 でも、そこには彼の決意が込められていた。

 彼は逃げない。

 怖くても、震えていても、私との未来を選ぶために戦おうとしてくれている。

 私はその付箋を剥がし、手帳の間に大切に挟んだ。

 そして、彼の背中に向かって、心の中で小さく呟いた。

 信じてる。……頑張って

 

『……やれやれ』

 

 明菜が私の肩に腕を乗せ、ため息をついた。

 

『優柔不断で、女に脅されてビビってる男。客観的に見ればダメンズ確定なんだけど……』

 

 彼女は私の顔を覗き込み、苦笑する。

 

『その放っておけない弱さが、アンタの母性本能をくすぐるんでしょ? 私が守ってあげなきゃって。……男の弱さは、時として最強の武器になるわね』

 

 悔しいけど、その通りかも

 私は彼を守りたいと思った。

 そして同時に、彼をこんな目に合わせるあの女から、彼を完全に奪い取ってやりたいという欲望が、より一層深く、熱く燃え上がるのを感じていた。

 これは戦争だ。

 ベルの音は、開戦の合図だったのだ。


【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.001

氏名:佐々木 洋子(30)

職業:事務職/守護者

 

現在のステータス

* 母性本能: 限界突破(「彼を守る」が最優先事項に)

* 敵対心: A+(絵里を明確な「排除すべき敵」と認識)

* 絆: 強化(「二人で秘密を共有した」事実により結束)

明菜の分析ログ

「外部からの攻撃」は、内部の結束を強める。

これを社会心理学では「外敵脅威による集団凝集性の高まり」と言うわ。

絵里が電話攻撃をすればするほど、洋子と徹の絆は深まっていく。

皮肉なものね。

彼女のヒステリーが、二人を「共犯者」から「運命共同体」へと進化させてしまった。

でも気をつけて。

追い詰められた獣は、次にもっと物理的な手段に出てくるかもしれないわよ。

毎日21∶20に投稿


※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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