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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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11/30

第十一記録【恋に落ちて】



 日曜日。午前6時。

 ジリリリ……と目覚まし時計が鳴る、その0.5秒前。

 私はババッ! と布団を跳ね除けて、ロケットのように飛び起きた。


「うおっ!?」


 隣で寝ていた夫・剛が、その風圧と振動に驚いて飛び起きる。


「な、なんだ!? 地震か!?」


「あ、ごめんなさい! 起こしちゃった?」


 私は満面の笑みで振り返った。


 剛は目を白黒させながら、壁掛け時計を見上げた。


「……なんだよ、まだ6時だぞ、せっかくの日曜なのによ」


「ごめんなさい。今日は実家に行くから、いろいろやっておかないといけないから!」


 私の声は、自分でも驚くほど弾んでいた。

 体内時計が勝手にアラームを鳴らしている。

 細胞の一つ一つが起きろ! 今日はデートだ! と叫んでいるみたいだ。


 剛は不機嫌そうに「……ふん」と鼻を鳴らし、再び布団を頭まで被った。


 いつもなら、この態度は私の心を重くさせる鉛だ。

 でも今日は違う。

 むしろ、二度寝してくれてありがとう、とすら思う。


 私は小走りでリビングへ向かった。


 ウィーン!

 洗濯機を回す。


 トントントントン!

 包丁がまな板を叩く音が、軽快なリズムを刻む。


 鼻歌が自然と漏れる。


 もしも願いが叶うなら、吐息を白いバラに変えて……


 今、街中で流れている歌のフレーズ。

 不倫の歌だけど、今の私には応援歌にしか聞こえない。


 夫の昼食用のチャーハンを作り、中華スープを作り、手際よくラップをかける。

 冷蔵庫にメモを貼る。


 『お昼、チンして食べてね』。


 掃除機はさすがに早朝すぎて近所迷惑だから、モップで床を磨き上げる。


 キュッ、キュッ。


 私の動きは倍速再生のビデオみたいだ。


『……すごいエネルギー効率ね』


 ネグリジェ姿の明菜が、コーヒーカップ片手に驚く。


『いつもの家事が強制労働なら、今日のは完全にダンスね。アドレナリンの過剰分泌で、疲労物質をねじ伏せてる』


 やるべきことはやっておかないと、後味が悪いでしょ。


『ふーん。それは罪滅ぼし?それとも、早く家を出るための免罪符作り?』


 どっちもかな。


 私は気持ちもこもっていない言葉を吐き捨て、シンクをピカピカに磨き上げた。


 


 午前9時。洗面所。

 ここからが本番だ。


 私は洗面台の鏡の前に、化粧品を並べた。


 普段のスーパーへの買い出しなら、薄くファンデーションを塗って眉毛を描くだけ。

 でも、今日は違う。


 結婚当初に買った、少し高かったデパコスのファンデーション。

 まだ使えるかな。少し分離してるけど、振れば大丈夫。


 アイシャドウは、最近流行りの薄いブルー。

 口紅は、あの彼が好きだと言ってくれたピンク。


 丁寧に、丁寧に色を乗せていく。


 くすんだ肌が隠れ、頬に血色が戻る。

 目元に色が乗ると、鏡の中の疲れ切った主婦が、少しずつ女の顔になっていく。


 仕上げに、タンスの奥から引っ張り出したワンピースに着替える。

 白地に紺の水玉模様。


 襟元が詰まっていて、今のボディコンブームからすれば地味かもしれないけれど、私の一番のお気に入りだ。


 鏡の前でくるりと回ってみる。

 スカートの裾がふわりと広がった。


『気合入ってるわねー』


 鏡の中に明菜が現れ、ニヤニヤと笑った。


『まさに戦闘服の装着完了ってとこ?』


 変じゃない? 若作りしすぎ?


『ううん、いいわよ。普段のアンタが「白黒テレビ」なら、今は「カラーテレビ」になった感じ。ドーパミン配合の化粧ノリは最強ね。肌艶が昨日と全然違うもの』


 明菜に褒められると、悪い気はしない。


 私は最後に、手首に少しだけコロンをつけた。

 夫には気づかれない程度の、微かな石鹸の香り。


 午前10時。準備完了。


 リビングに戻ると、剛がのそのそと起きてきて、あくびをしていた。


「……おう。なんだ、派手だな」


 私の姿を見て、剛が言った。


 ドキリとする。


「そ、そう? 久しぶりに実家に帰るから、少しはちゃんとしてないと、お母さんに心配されちゃうでしょ?」


 私は用意していた嘘を、滑らかに口にした。


「お母さん、腰が痛いんだって。だから少し手伝ってあげたくて」


「ふーん。まあ、たまにはいいんじゃねえの」


 剛は興味なさそうに、テレビのスイッチを入れた。


 私の服なんて、本当はどうでもいいのだ。

 ただ、自分の飯さえあれば。


「夕飯までには帰るんだろ?」


「……うん、もちろん」


 心臓がドクン、と大きく跳ねた。


 嘘をついた。

 初めて、明確な意図を持って、夫を欺いた。


『脈拍上昇、発汗確認』


 明菜が私の耳元で囁く。


『嘘をつく時のこの緊張感。これが恋愛のスパイスには最適なのよ。背徳感という名の調味料が、今日のデートを極上の味にするわ』


 私は「行ってきます」と告げ、逃げるように玄関を出た。


 背中で閉まるドアの音が、自由への号砲のように聞こえた。


 


 駅前の時計台。

 待ち合わせの11時より、10分も早く着いてしまった。


 日曜日の駅前は、家族連れやカップルで賑わっている。


 私は人混みに紛れながら、ドキドキして周囲を見回した。

 知り合いがいないか。近所の奥さんがいないか。

 まるで指名手配犯になった気分だ。


「洋子さん!」


 名前を呼ばれ、振り返る。


 そこには、彼がいた。


 いつものダブルのスーツじゃない。

 白いポロシャツに、ベージュのコットンパンツ。いわゆるアイビールック風の爽やかな装いだ。

 そして何より、前髪を下ろしている。


 テクノカットで固めた「係長」の顔ではなく、年相応の、24歳の青年の顔。


 眩しい。

 直視できないくらい、キラキラしている。


「お、おはようございます。徹さん」


「おはようございます」


 彼は駆け寄ってくると、私の全身を見て、パッと顔を輝かせた。


「わあ……その服、すごく似合ってます。か、可愛いですね」


「そ、そうかな?ちょっと派手じゃない? 若作りしすぎって思われないかな」


 私は思わず、自分の腕をさすった。


「いいえ。一番綺麗です」


 彼は即答した。

 真っ直ぐな瞳で。


 周りの雑踏が一瞬で消え去り、世界に二人だけになったような気がした。


「行きましょうか。映画、始まっちゃいます」


「うん」


 私たちは並んで歩き出した。


 手は繋げない。

 まだ、そこまでの勇気はない。


 でも、肩が触れそうな距離で歩くだけで、体温が伝わってくるようだ。


 


 映画館のロビーは、甘いキャラメルポップコーンの匂いで満ちていた。


 チケットを買って、薄暗い場内へ入る。

 選んだのは、今話題のハリウッド恋愛映画だ。


 席に座る。

 隣に彼がいる。


 暗闇の中で、彼の存在感が強まる。


 ブーッ、とブザーが鳴り、本編が始まった。


 スクリーンに映し出される、異国の恋人たち。

 でも、私の意識は映画の内容なんてちっとも入ってこなかった。


 意識の全ては、右側の肘掛けに向けられていた。


 狭い肘掛け。

 そこに置かれた、私の腕と、彼の腕。


 ほんの数ミリの距離。


 服越しに、彼の体温が熱波のように伝わってくる。


 触れたい……


 そう思った瞬間、彼の手が動いた。


 暗闇に紛れて、そっと私の手の甲に触れる。


 ビクッとしてしまった。

 でも、引かなかった。


 彼の手のひらが、私の手を包み込む。


 大きくて、熱くて、少し湿っている手。

 彼の緊張が伝わってくる。


 私はゆっくりと、その手を握り返した。


 指と指を絡ませる。恋人繋ぎ。


 ドクン、ドクン、ドクン。


 心臓の音が、映画のBGMよりも大きく聞こえる。


 今、私は夫に「実家に行く」と嘘をついて、暗闇の中で若い男の子と手を繋いでいる。


 なんて悪い女なんだろう。

 不貞な妻だ。最低だ。


 でも、とてつもなく幸せだ。


 この手の温もりが、私に「生きていていい」と教えてくれている。


『やるじゃない』


 スクリーンの端っこに、明菜が座っていた。

 彼女はポップコーンを食べながら、ニヤリと笑う。


『暗闇効果、吊り橋効果、そして背徳感。このトリプルコンボは、脳内麻薬の宝石箱よ。映画の内容なんてどうでもいいわね。今のアンタたちの方が、よっぽどドラマチックだわ』


 私は繋いだ手に、さらに力を込めた。


 このまま映画が終わらなければいいのに。

 永遠にこの暗闇の中にいられたらいいのに。


 


 映画館を出ると、外はもう夕暮れだった。


 オレンジ色の光が、夢から覚めた私たちを照らし出す。


「面白かったですね」


「ええ、本当に」


 言い合いながらも、私たちの足取りは重かった。


 駅に向かう道。

 一歩歩くごとに、魔法が解ける時間が近づいてくる。


「この後、どうします? お茶でも」


 徹さんが足を止めて、私を見た。


 その瞳は、「帰りたくない」と訴えていた。


 私だって同じだ。


 もっと一緒にいたい。

 彼の話を聞きたい。


 でも、時計の針は午後5時を回っていた。


 夫との約束。

 「夕飯までには帰る」。


 初犯でその約束を破れば、これからの逢瀬(おうせ)が難しくなる。


「……ごめんなさい」


 私は唇を噛んだ。


「夕飯までに帰るって、言っちゃったから。……今日は、帰らないと」


 徹さんの顔が曇る。


 でも、彼はすぐに優しく微笑んだ。


「そうですよね。……無理させて、すみません」


 改札口。

 別れの時。


「あの、洋子さん」


 彼が真っ直ぐに私を見た。


「今日の洋子さん、すごく綺麗でした。服も、化粧も」


「……ありがとう。頑張っちゃった」


「でも」


 彼は言葉を切って、少し照れくさそうに続けた。


「会社にいる時の、いつもの洋子さんも……俺は好きです。いつも綺麗ですから」


 ――っ!


 胸が詰まった。


 着飾った「ハレの日」の私だけじゃない。

 地味な事務服で、お茶を配って、疲れている私。


 その日常も含めて、彼は綺麗だと肯定してくれた。


 夫が一度も見てくれなかった日常の私を、彼はちゃんと見てくれている。


「……ありがとう。徹さん」


「また、明日。会社で」


「うん……また」


 私は改札を抜け、ホームへと向かった。


 振り返ると、彼はまだそこに立って、手を振っていた。


 


 帰りの電車の中。


 窓ガラスに映る、自分の顔を見る。


 朝のような、ロケットスタートの勢いはない。

 メイクも少し崩れているし、疲れも見える。


 でも、その表情はどこか艶っぽく、満たされていた。


『シンデレラ、魔法が解ける時間よ』


 隣の席に座った明菜が、呟く。


『でも、ガラスの靴は置いてきた?』


 ガラスの靴?


『そう。快楽の記憶よ。今日の手の温もり、高揚感、そして、もっと欲しいという渇望。それを置いてきたなら、王子様は必ずまた迎えに来るわ』


 私は右手を開いた。


 まだ、彼の手の感触が残っている。

 熱くて、大きくて、力強い手の記憶。


 私はその手をぎゅっと握りしめ、胸に押し当てた。


 家には、夫が待っている。

 冷めた日常が待っている。


 でも、私にはこの熱がある。


 この秘密がある限り、私はまた、あの灰色の日常を耐えられる気がした。


 そして、耐えれば耐えるほど、次に会う時の爆発は大きくなるのだ。


 


【明菜先生の研究メモ】

 

被験者データ No.001

氏名:佐々木 洋子(30)

職業:事務職/嘘つきなシンデレラ 


 現在のステータス

 女子力:B+(恋するホルモンで肌年齢マイナス5歳)

 演技力:B(夫への欺きスキル習得)

 背徳感:A(手の温もりと共に急上昇中)


 明菜の分析ログ

 「嘘」は恋愛における最強のスパイスよ。

 夫に対して「実家に行く」と偽り、他の男と会う。

 この罪悪感が、普通の映画デートを「命がけのロマンス」に変えたの。


 そして最後の彼のセリフ。

 「いつもの洋子さんも好き」。


 これはずるいわね。


 特別な日だけじゃなく、日常の自分も肯定されたら、

 女はもう、その男から逃げられない。


 さあ、幸せなデートの次は……試練が待ってるのが物語の常。


 あのバブルモンスターが、黙ってるわけないものね?

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