第十一記録【恋に落ちて】
日曜日。午前6時。
ジリリリ……と目覚まし時計が鳴る、その0.5秒前。
私はババッ! と布団を跳ね除けて、ロケットのように飛び起きた。
「うおっ!?」
隣で寝ていた夫・剛が、その風圧と振動に驚いて飛び起きる。
「な、なんだ!? 地震か!?」
「あ、ごめんなさい! 起こしちゃった?」
私は満面の笑みで振り返った。
剛は目を白黒させながら、壁掛け時計を見上げた。
「……なんだよ、まだ6時だぞ、せっかくの日曜なのによ」
「ごめんなさい。今日は実家に行くから、いろいろやっておかないといけないから!」
私の声は、自分でも驚くほど弾んでいた。
体内時計が勝手にアラームを鳴らしている。
細胞の一つ一つが起きろ! 今日はデートだ! と叫んでいるみたいだ。
剛は不機嫌そうに「……ふん」と鼻を鳴らし、再び布団を頭まで被った。
いつもなら、この態度は私の心を重くさせる鉛だ。
でも今日は違う。
むしろ、二度寝してくれてありがとう、とすら思う。
私は小走りでリビングへ向かった。
ウィーン!
洗濯機を回す。
トントントントン!
包丁がまな板を叩く音が、軽快なリズムを刻む。
鼻歌が自然と漏れる。
もしも願いが叶うなら、吐息を白いバラに変えて……
今、街中で流れている歌のフレーズ。
不倫の歌だけど、今の私には応援歌にしか聞こえない。
夫の昼食用のチャーハンを作り、中華スープを作り、手際よくラップをかける。
冷蔵庫にメモを貼る。
『お昼、チンして食べてね』。
掃除機はさすがに早朝すぎて近所迷惑だから、モップで床を磨き上げる。
キュッ、キュッ。
私の動きは倍速再生のビデオみたいだ。
『……すごいエネルギー効率ね』
ネグリジェ姿の明菜が、コーヒーカップ片手に驚く。
『いつもの家事が強制労働なら、今日のは完全にダンスね。アドレナリンの過剰分泌で、疲労物質をねじ伏せてる』
やるべきことはやっておかないと、後味が悪いでしょ。
『ふーん。それは罪滅ぼし?それとも、早く家を出るための免罪符作り?』
どっちもかな。
私は気持ちもこもっていない言葉を吐き捨て、シンクをピカピカに磨き上げた。
午前9時。洗面所。
ここからが本番だ。
私は洗面台の鏡の前に、化粧品を並べた。
普段のスーパーへの買い出しなら、薄くファンデーションを塗って眉毛を描くだけ。
でも、今日は違う。
結婚当初に買った、少し高かったデパコスのファンデーション。
まだ使えるかな。少し分離してるけど、振れば大丈夫。
アイシャドウは、最近流行りの薄いブルー。
口紅は、あの彼が好きだと言ってくれたピンク。
丁寧に、丁寧に色を乗せていく。
くすんだ肌が隠れ、頬に血色が戻る。
目元に色が乗ると、鏡の中の疲れ切った主婦が、少しずつ女の顔になっていく。
仕上げに、タンスの奥から引っ張り出したワンピースに着替える。
白地に紺の水玉模様。
襟元が詰まっていて、今のボディコンブームからすれば地味かもしれないけれど、私の一番のお気に入りだ。
鏡の前でくるりと回ってみる。
スカートの裾がふわりと広がった。
『気合入ってるわねー』
鏡の中に明菜が現れ、ニヤニヤと笑った。
『まさに戦闘服の装着完了ってとこ?』
変じゃない? 若作りしすぎ?
『ううん、いいわよ。普段のアンタが「白黒テレビ」なら、今は「カラーテレビ」になった感じ。ドーパミン配合の化粧ノリは最強ね。肌艶が昨日と全然違うもの』
明菜に褒められると、悪い気はしない。
私は最後に、手首に少しだけコロンをつけた。
夫には気づかれない程度の、微かな石鹸の香り。
午前10時。準備完了。
リビングに戻ると、剛がのそのそと起きてきて、あくびをしていた。
「……おう。なんだ、派手だな」
私の姿を見て、剛が言った。
ドキリとする。
「そ、そう? 久しぶりに実家に帰るから、少しはちゃんとしてないと、お母さんに心配されちゃうでしょ?」
私は用意していた嘘を、滑らかに口にした。
「お母さん、腰が痛いんだって。だから少し手伝ってあげたくて」
「ふーん。まあ、たまにはいいんじゃねえの」
剛は興味なさそうに、テレビのスイッチを入れた。
私の服なんて、本当はどうでもいいのだ。
ただ、自分の飯さえあれば。
「夕飯までには帰るんだろ?」
「……うん、もちろん」
心臓がドクン、と大きく跳ねた。
嘘をついた。
初めて、明確な意図を持って、夫を欺いた。
『脈拍上昇、発汗確認』
明菜が私の耳元で囁く。
『嘘をつく時のこの緊張感。これが恋愛のスパイスには最適なのよ。背徳感という名の調味料が、今日のデートを極上の味にするわ』
私は「行ってきます」と告げ、逃げるように玄関を出た。
背中で閉まるドアの音が、自由への号砲のように聞こえた。
駅前の時計台。
待ち合わせの11時より、10分も早く着いてしまった。
日曜日の駅前は、家族連れやカップルで賑わっている。
私は人混みに紛れながら、ドキドキして周囲を見回した。
知り合いがいないか。近所の奥さんがいないか。
まるで指名手配犯になった気分だ。
「洋子さん!」
名前を呼ばれ、振り返る。
そこには、彼がいた。
いつものダブルのスーツじゃない。
白いポロシャツに、ベージュのコットンパンツ。いわゆるアイビールック風の爽やかな装いだ。
そして何より、前髪を下ろしている。
テクノカットで固めた「係長」の顔ではなく、年相応の、24歳の青年の顔。
眩しい。
直視できないくらい、キラキラしている。
「お、おはようございます。徹さん」
「おはようございます」
彼は駆け寄ってくると、私の全身を見て、パッと顔を輝かせた。
「わあ……その服、すごく似合ってます。か、可愛いですね」
「そ、そうかな?ちょっと派手じゃない? 若作りしすぎって思われないかな」
私は思わず、自分の腕をさすった。
「いいえ。一番綺麗です」
彼は即答した。
真っ直ぐな瞳で。
周りの雑踏が一瞬で消え去り、世界に二人だけになったような気がした。
「行きましょうか。映画、始まっちゃいます」
「うん」
私たちは並んで歩き出した。
手は繋げない。
まだ、そこまでの勇気はない。
でも、肩が触れそうな距離で歩くだけで、体温が伝わってくるようだ。
映画館のロビーは、甘いキャラメルポップコーンの匂いで満ちていた。
チケットを買って、薄暗い場内へ入る。
選んだのは、今話題のハリウッド恋愛映画だ。
席に座る。
隣に彼がいる。
暗闇の中で、彼の存在感が強まる。
ブーッ、とブザーが鳴り、本編が始まった。
スクリーンに映し出される、異国の恋人たち。
でも、私の意識は映画の内容なんてちっとも入ってこなかった。
意識の全ては、右側の肘掛けに向けられていた。
狭い肘掛け。
そこに置かれた、私の腕と、彼の腕。
ほんの数ミリの距離。
服越しに、彼の体温が熱波のように伝わってくる。
触れたい……
そう思った瞬間、彼の手が動いた。
暗闇に紛れて、そっと私の手の甲に触れる。
ビクッとしてしまった。
でも、引かなかった。
彼の手のひらが、私の手を包み込む。
大きくて、熱くて、少し湿っている手。
彼の緊張が伝わってくる。
私はゆっくりと、その手を握り返した。
指と指を絡ませる。恋人繋ぎ。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓の音が、映画のBGMよりも大きく聞こえる。
今、私は夫に「実家に行く」と嘘をついて、暗闇の中で若い男の子と手を繋いでいる。
なんて悪い女なんだろう。
不貞な妻だ。最低だ。
でも、とてつもなく幸せだ。
この手の温もりが、私に「生きていていい」と教えてくれている。
『やるじゃない』
スクリーンの端っこに、明菜が座っていた。
彼女はポップコーンを食べながら、ニヤリと笑う。
『暗闇効果、吊り橋効果、そして背徳感。このトリプルコンボは、脳内麻薬の宝石箱よ。映画の内容なんてどうでもいいわね。今のアンタたちの方が、よっぽどドラマチックだわ』
私は繋いだ手に、さらに力を込めた。
このまま映画が終わらなければいいのに。
永遠にこの暗闇の中にいられたらいいのに。
映画館を出ると、外はもう夕暮れだった。
オレンジ色の光が、夢から覚めた私たちを照らし出す。
「面白かったですね」
「ええ、本当に」
言い合いながらも、私たちの足取りは重かった。
駅に向かう道。
一歩歩くごとに、魔法が解ける時間が近づいてくる。
「この後、どうします? お茶でも」
徹さんが足を止めて、私を見た。
その瞳は、「帰りたくない」と訴えていた。
私だって同じだ。
もっと一緒にいたい。
彼の話を聞きたい。
でも、時計の針は午後5時を回っていた。
夫との約束。
「夕飯までには帰る」。
初犯でその約束を破れば、これからの逢瀬が難しくなる。
「……ごめんなさい」
私は唇を噛んだ。
「夕飯までに帰るって、言っちゃったから。……今日は、帰らないと」
徹さんの顔が曇る。
でも、彼はすぐに優しく微笑んだ。
「そうですよね。……無理させて、すみません」
改札口。
別れの時。
「あの、洋子さん」
彼が真っ直ぐに私を見た。
「今日の洋子さん、すごく綺麗でした。服も、化粧も」
「……ありがとう。頑張っちゃった」
「でも」
彼は言葉を切って、少し照れくさそうに続けた。
「会社にいる時の、いつもの洋子さんも……俺は好きです。いつも綺麗ですから」
――っ!
胸が詰まった。
着飾った「ハレの日」の私だけじゃない。
地味な事務服で、お茶を配って、疲れている私。
その日常も含めて、彼は綺麗だと肯定してくれた。
夫が一度も見てくれなかった日常の私を、彼はちゃんと見てくれている。
「……ありがとう。徹さん」
「また、明日。会社で」
「うん……また」
私は改札を抜け、ホームへと向かった。
振り返ると、彼はまだそこに立って、手を振っていた。
帰りの電車の中。
窓ガラスに映る、自分の顔を見る。
朝のような、ロケットスタートの勢いはない。
メイクも少し崩れているし、疲れも見える。
でも、その表情はどこか艶っぽく、満たされていた。
『シンデレラ、魔法が解ける時間よ』
隣の席に座った明菜が、呟く。
『でも、ガラスの靴は置いてきた?』
ガラスの靴?
『そう。快楽の記憶よ。今日の手の温もり、高揚感、そして、もっと欲しいという渇望。それを置いてきたなら、王子様は必ずまた迎えに来るわ』
私は右手を開いた。
まだ、彼の手の感触が残っている。
熱くて、大きくて、力強い手の記憶。
私はその手をぎゅっと握りしめ、胸に押し当てた。
家には、夫が待っている。
冷めた日常が待っている。
でも、私にはこの熱がある。
この秘密がある限り、私はまた、あの灰色の日常を耐えられる気がした。
そして、耐えれば耐えるほど、次に会う時の爆発は大きくなるのだ。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/嘘つきなシンデレラ
現在のステータス
女子力:B+(恋するホルモンで肌年齢マイナス5歳)
演技力:B(夫への欺きスキル習得)
背徳感:A(手の温もりと共に急上昇中)
明菜の分析ログ
「嘘」は恋愛における最強のスパイスよ。
夫に対して「実家に行く」と偽り、他の男と会う。
この罪悪感が、普通の映画デートを「命がけのロマンス」に変えたの。
そして最後の彼のセリフ。
「いつもの洋子さんも好き」。
これはずるいわね。
特別な日だけじゃなく、日常の自分も肯定されたら、
女はもう、その男から逃げられない。
さあ、幸せなデートの次は……試練が待ってるのが物語の常。
あのバブルモンスターが、黙ってるわけないものね?




