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夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました  作者: ベルガ・モルザ


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第十記録【Xデー】




 土曜日の朝。

 窓の外は、梅雨特有のしとしととした雨が降っていた。


 私は寝室の鏡の前に座り、自分の顔をじっと見つめていた。

 目尻の小じわ。少し落ちてきた頬の肉。


 今日で、私は30歳になった。


「……おはよう、私。おめでとう」


 鏡の中の自分に向かって、小さく呟く。

 誰も言ってくれないから、自分で言うしかない。


『三十路突入、おめでとうー!』


 紫色のスーツを着た明菜が現れた。

 彼女は私の肩に手を置き、同情とも嘲笑ともつかない表情で私を見ている。


『昭和の婚活市場じゃ、25歳を過ぎた女は「クリスマスイブ(24日)を過ぎた売れ残りのケーキ」なんて呼ばれてるけど……30歳はどうなるのかしらね?廃棄処分? それとも家畜の餌?』


 ……ひどい言い方。

 でも、それが世間の本音だ。


 女の幸せは結婚で、若さこそが価値。

 30歳になれば、もう女としての市場価値はゼロ。ただのおばさんだ。


『ま、腐らないで。未来じゃ30歳なんてまだ女子よ。バリバリの現役。時代がまだ、アンタの美しさに追いついてないだけ』


 明菜はウインクしてみせる。


 未来の話をされても、何の慰めにもならない。

 私が生きているのは、今、この昭和60年なんだから。

 


 午前10時。


 リビングに行くと、夫の剛がソファに寝転がってテレビを見ていた。

 お笑い番組の録画だろうか。下品な笑い声が響いている。


「……おい、飯。腹減った」


 私を見ることもなく、彼は言った。

 「おはよう」もない。「おめでとう」もない。

 ただの燃料補給の要求。


 わかっていたけれど、胸が痛む。


 私はエプロンをつけながら、背中に向かって声をかけた。


「ねえ……今日、何の日か覚えてる?」


 夫は面倒くさそうに首を動かした。


「あ? ……燃えるゴミの日か?」


 時が止まった気がした。


 燃えるゴミ。

 私の誕生日は、彼にとってゴミの日と同列、あるいはそれ以下なのか。


「そうね。ゴミの日かもね」


 私は乾いた声で答え、冷蔵庫を開けた。


 怒りすら湧かなかった。

 ただ、心の中にある期待という名の風船が、プシュゥと音を立てて萎んでいくだけだ。


 フライパンに油を敷き、ウインナーと卵を割り入れる。

 ジューッという焼ける音を聞きながら、ふと昔のことを思い出した。


 結婚1年目だけは……祝ってくれたな。


 仕事帰りに、駅前のケーキ屋で小さなショートケーキを買ってきてくれた。

 「洋子、おめでとう。これからもよろしくな」って、照れくさそうに笑って。


 あの時の剛さんは、どこへ行ってしまったんだろう。

 それとも、最初からそんな人はいなかったの?

 私が勝手に幻を見ていただけ?


『ねえ洋子。人間がなぜ食事をするか知ってる?』


 洋子の隣で、明菜が囁いた。


『医学的には「グルコース(ブドウ糖)の補給」よ。脳と体を動かすための、単なる燃料投下』


 彼女は、大口を開けてあくびをする夫を指差した。


『あの昭和ザウルスにとって、アンタの料理はただのガソリンなの。味わうとか、感謝するとか、そこに愛なんて調味料が含まれてるとか……そういう情緒的なデータは、彼の味覚センサーには検知できないのよ』


 ガソリンスタンドの店員。

 それが、今の私の役割。


 食卓に向かい合い、無言で朝食を食べる。

 カチャ、カチャという食器の音だけが、気まずい沈黙を埋めていく。


「……あのさ」


 私は箸を置いて、最後の賭けに出た。


「午後、久しぶりにどこか行かない?駅前に新しい喫茶店ができたの。コーヒーが美味しいって……」


「あー、疲れてるからいいわ」


 夫は口をもぐもぐさせたまま、即答した。


「平日働いてんだぞ? 土日くらい休ませろよ。また今度な」


 また今度。

 その「今度」が、この数年間一度も来ていないことを、私は知っている。

 そしてこれからも、永遠に来ないことも。


 


 午後3時。


 私は掃除機をかけ終わり、呆然とソファに座っていた。

 夫は昼寝をしている。


 プルルルル……。


 突然、黒電話が鳴った。

 私は弾かれたように顔を上げた。


 もしかして……徹さん?


 淡い期待が胸をよぎる。


 私は慌てて受話器を取った。


「はい、佐々木です」


「奥さん? 俺だけど、剛いる?」


 受話器から聞こえたのは、野太いダミ声だった。

 夫の飲み友達の山下さんだ。


「あ……はい、少々お待ちください」


 落胆を押し殺して、夫を起こす。


 夫は不機嫌そうに電話に出たが、すぐに声色が明るくなった。


「おう山下! ……え? 麻雀? 行く行く!面子足りねえの? 今からすぐ行くわ!」


 ガチャン、と受話器を置くと、夫はさっきまでの疲労が嘘のように、素早く着替え始めた。

 鼻歌まで歌っている。


「……出かけるの?」


「ああ、山下から麻雀の誘いだ。急だから仕方ねえだろ」


「でも、疲れてるんじゃ……」


「付き合いも仕事のうちなんだよ! うるせえな」


 夫は財布を掴むと、玄関へ向かった。


「今日は遅くなるから、飯いらねえ」


 バタン!


 鉄のドアが無慈悲に閉まる音がした。


 リビングに取り残された私。

 静寂が戻ってくる。


『はい、決定』


 明菜が冷ややかに拍手をした。


『あの男の中での優先順位。「麻雀の牌 >>>> 超えられない壁 >>>> 妻の誕生日」明白ね』


 明菜は吐き捨てるように言葉を投げてきた。


『あんな粗大ゴミ、回収車に投げ込みなさいよ。リサイクルも不可能だわ』


 私は何も言えなかった。

 涙も出なかった。


 ただ、私の中で何かが「死んだ」音がした。

 


 夕方。


 私は一人でスーパーに行き、少し高いステーキ肉と、小さなショートケーキを一つだけ買った。

 誰のためでもない、私のためだけの誕生日ディナー。


 肉を焼き、ワインを開ける。

 テレビは消した。


 テーブルには、私一人の食事と、ショートケーキ。


 ロウソクに火を灯す。

 揺らめく炎が、私の孤独を照らし出す。


『ハッピーバースデー、洋子』


 向かいの席に、明菜が座った。

 彼女だけが、私を祝ってくれる唯一の存在。


『アタシがいるから、一人じゃないわ』


 明菜は頬杖をついて、優しく微笑んだ。


 そして、いつものように指を立てて講義を始めた。


『ねえ洋子。人間はどうして祝われたいと思うのか知ってる?』


 ……承認欲求、とか?


『心理学ではこれを「ストローク(存在認知)」と呼ぶわ。「おめでとう」という言葉はね、あなたがここに生きていてくれて嬉しいという、存在を認めるサインなの』


 明菜の声が、心に染み込んでくる。


『人はパンのみにて生きるにあらず。ストロークが欠乏すると、人の心は壊死するの。今の洋子は、長年の無視ネグレクトによって、心の栄養失調で死にかけてる状態よ』


 心の、栄養失調。

 だからこんなに、心が渇いているんだ。


 お腹はいっぱいになっても、心が空っぽのままだから。


『特効薬。持ってるんでしょ?』


 明菜が私の財布を指差した。


『このまま餓死するか、それとも栄養を摂取するか。選ぶのはアンタよ』


 私はワインを一気に飲み干した。


 そして、震える手で財布から、あのボロボロになったメモ用紙を取り出した。


 電話台に向かう。

 夫はいない。文句を言う人は誰もいない。


 ジーコ、ジーコ……。


 ダイヤルを回す指が熱い。

 コール音が鳴る。


 一度、二度……。


『はい、高橋です』


 彼の声だ。

 少し驚いたような、でも落ち着いた声。


「……私です。佐々木です」


 喉が詰まりそうになりながら、名乗った。


『! 洋子さん……』


 受話器の向こうで、彼が息を飲む気配がした。


「あの……」


 私が用件を口にする前に、彼が続けた。


『お誕生日、おめでとうございます』


 え?


 時が止まった。


「……え、なんで……」


『社員名簿で見ました。ずっと、気になってて……。今日、かけていいか迷ってたんです』


 彼は知っていた。

 10年連れ添った夫が忘れていた日を、彼は覚えていてくれた。


 その事実だけで、私の心の砂漠に、大量の水が流れ込んでくるようだった。


『素敵な一日を、過ごせてますか?』


 彼の優しい問いかけに、私の目から涙が溢れ出した。

 止めどなく、頬を伝う。


「……ううん。独りぼっち」


 私は泣き笑いのような声で答えた。


「夫は麻雀に行っちゃった」


『……』


 沈黙。


 そして、彼の強い声が響いた。


『会いたいです』


 その言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。


『今すぐ行って、抱きしめたいけど……迷惑になりますよね。だから、明日。日曜日、空いてませんか?』


「うん」


 私は子供のように頷いた。


「会いたい。私も……徹さんに会いたい」


『行きましょう。どこへでも』


 電話を切った後、私はその場に泣き崩れた。


 悲しい涙じゃない。

 「生きていていいんだ」と認められた、救いの涙だった。



 私は涙を拭い、顔を上げた。


 テーブルの上では、ショートケーキのロウソクがまだ燃えている。

 その炎の中に、今までのいい妻だった私が燃えていくのが見えた。


「明菜」


 呼びかけると、彼女はニヤリと笑った。


『なによ』


「私、もう我慢しない」


 私はロウソクの火に顔を近づけた。

 瞳の奥に、強い光が宿るのを感じた。


「欲しいものは……奪うことにする」


 ふっ。


 息を吹きかけると、炎は消えた。


 闇に包まれた部屋で、立ち上る煙の匂いだけが、

 新しい私の始まりを告げていた。





【明菜先生の研究メモ】


被験者データ No.001

氏名:佐々木 洋子(30)

職業:事務職/略奪者(覚醒完了)

 

 現在のステータス

・メンタル:鋼鉄(夫への情は完全に消滅)

・行動原理:本能優先(「正しいか」より「欲しいか」)

・ターゲット:高橋 徹(ロックオン完了)


 明菜の分析ログ


 おめでとう、洋子。そしてさようなら、良妻賢母の洋子。


 「燃えるゴミの日」発言は、

 夫が自ら押した自爆スイッチだったわね。


 人間は、自分を大切にしてくれない人間のために

 人生を使うほど、暇じゃないの。


 栄養を与えてくれる人が現れたなら、

 そっちに移動するのは生物として当然の生存戦略よ。


 さあ、第1章はこれにて閉幕。

 次からは泥沼と快楽の第2章。


 遠慮はいらないわ。

 全部、食らい尽くしなさい。

毎日21∶20に投稿


※作中の医学・心理学描写について

本作に登場する心理学用語や医学的な説明は、作者なりに調べて執筆しておりますが、あくまで「明菜先生の独自解釈」や「物語上の演出」が含まれます。

厳密な学術書ではなく、エンターテインメントとして楽しんでいただければ幸いです!


この作品が面白い!と思っていただけたのなら

是非ぜひブクマと評価のほうよろしくお願いします。

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