【第5シーン】「はじめての読者」
――春の風が、まだ冷たい季節だった。
ルシエナの屋敷の裏庭。
干した羊皮紙が風に揺れ、ぱたぱたと音を立てる。
> 「あっ……!」
次の瞬間、強い風が吹いた。
描きかけの漫画がふわりと宙に舞う。
白い紙片が蝶のように空を舞い、森の向こうへ飛んでいった。
「うそ、まって! 戻ってきて!」
ルシエナはスカートを掴み、慌てて駆け出した。
靴に泥が跳ねる。髪がほどける。
それでも構わず追いかける。
――その先。
村の丘の上で、一人の少年が羊皮紙を拾い上げていた。
薄汚れた服。痩せた体。けれど、その瞳は澄んでいた。
「……なんだ、これ?」
少年――トマは、紙をじっと見つめる。
描かれていたのは、小さな子猫と、大きなパン。
パンを盗もうとして転んで、ランプの灯りに照らされ、
お姉さんが笑って手を差し伸べる――そんな絵だった。
「……ぷっ……あははっ!」
笑った。
心の底から、声を出して。
「これ、子猫がパンを盗むのに怒られなくて……お姉ちゃんが笑うんだ!
なんか……すごく、あったかい!」
その声に、ルシエナは立ち止まった。
胸がきゅっと締めつけられる。
「……笑った? 本当に……?」
トマが顔を上げ、にっこりと笑う。
「うん! これ、すごく好きだ!」
その言葉を聞いた瞬間――ルシエナの視界が滲んだ。
涙が、勝手にこぼれ落ちた。
「……ありがとう。……描いてよかった……」
ぽつりと呟いた彼女の周囲で、風が静かに舞う。
ふと、少年の笑顔の周りに、淡い光が生まれた。
それは金色の粒子のようにふわりと浮かび、空へと広がっていく。
「……え……なに、これ……?」
トマが目を丸くする。
ルシエナも息を呑む。
光は、風に乗って村へと流れていった。
畑の上で、しおれていた草花がゆっくりと花開く。
家々の窓辺では、争っていた家族がふと笑い合う。
街道を歩く旅人の肩の荷が、少し軽くなるような――そんな不思議なぬくもり。
> 「……笑いの、魔法……?」
ルシエナは手を胸に当てた。
心の奥で、何かが確かに灯った気がした。
「トマくん。」
「うん?」
「また、見てくれる? 次の話も、描くから。」
少年は力強く頷く。
> 「うん! ぜったい見る!」
その瞬間、屋敷の上空を、春の風が駆け抜けた。
光の粒が尾を引きながら、空に一本の軌跡を描く。
それはまるで――
“新しい物語のページ”がめくられていくようだった。




