第5章 第4シーン「インクルの涙」
――暴風が唸っていた。
黒い風は空を裂き、廃村を飲み込もうとしていた。
瓦礫が舞い、窓硝子が砕け、古い紙の束が宙に散る。
その中で、ルシエナは机に伏したまま、微動だにしなかった。
原稿の上を、黒いインクが生き物のように這う。
描きかけの絵の中で、線が震え、涙のように滲んでいく。
――その時だった。
紙の中心から、柔らかな光が滲み出した。
黒の中に、ひとしずくの“白”が生まれる。
インクの海が波打ち、小さな影が浮かび上がった。
それは――一人の道化。
帽子を傾け、目元に涙のしずくを描いた小さな存在。
インクでできた、ルシエナの“優しさ”の化身。
その名は、インクル。
インクル:「ルシエナ……どうして泣いてるの?」
その声は、鈴の音のように震えていた。
ルシエナは顔を上げ、呆然とその姿を見つめる。
ルシエナ:「……あなた、まさか……私が……描いた?」
インクル:「うん。ずっと見てたよ。
君が笑って、泣いて、描いて……それが好きだった。」
外の風が一瞬だけ止まった。
ルシエナの瞳が揺れる。
ルシエナ:「私はもう、描く資格なんてないの。
希望を描いたつもりが、世界を壊した……」
インクル:「違うよ。」
インクルは首を振り、彼女の手に触れた。
小さな指先から、ぬくもりが流れ込む。
インクル:「君の線が止まったら、
世界の笑顔も止まっちゃうんだ。」
その瞬間――インクルの頬から、涙がこぼれた。
それは透明な雫ではなく、淡く光る“白いインク”。
落ちた場所で黒い線が溶け、光を取り戻していく。
ルシエナの手が震えた。
倒れたペンを、そっと拾い上げる。
ルシエナ:「……もう一度だけ。
笑ってくれる誰かのために。」
その言葉とともに、紙の上に新しい線が走る。
黒い風が次第に穏やかになり、嵐の中に白い光が生まれる。
インクルは笑った。
その笑顔は、まるで“創作の夜明け”のようだった。
ルシエナは涙を拭いながら、ペンを走らせる。
ルシエナ:「――描くこと、それが私の祈り。」
線が輝き、廃村を包むように光の輪が広がっていく。
黒い風は溶け、世界が静かに息を吹き返した。
それは、創作者が再び“自分を描き始めた”瞬間だった。




