【第1章・第5シーン】 「最初の魔法」
夜の屋敷に、風が鳴いていた。
窓の外では、月が雲に隠れ、世界が息を潜めている。
――けれど、その部屋だけは微かに灯っていた。
ルシエナのアトリエ。
古びた机の上、羊皮紙の束と炭筆。
迫る弾圧の報せにも、彼女の手は止まらない。
> 「……描くの。」
炭筆の先が紙を走るたび、黒い線が光を帯びていく。
まるで誰かの“笑顔”をなぞるように、淡く暖かい輝き。
彼女の指先から流れ出すそれは、もはや単なる絵ではなかった。
――線が震え、ページの中の子猫が、ふっと瞬きをした。
次の瞬間、パンを咥えたその子猫が小さく跳ねる。
紙の上の物語が、命を得たように動き出す。
ルシエナは息を呑む。
胸の奥から、言葉にならない感情が込み上げた。
> 「ペンを取る。それは……祈ることと、同じ。」
彼女の声に呼応するように、光があふれた。
炭筆の軌跡から花びらのような粒子が舞い上がり、
それは部屋を満たし、廊下を抜け、屋敷全体へと広がっていく。
ミリアが駆け込む。
> 「ルシエナ様……! 外を! 夜が、光ってます!」
ルシエナは立ち上がり、窓を開けた。
夜空には、幾千もの光の粒――笑いの魔法。
村の家々の窓がぽつりぽつりと灯り、
それぞれがまるで“読者の心”のように輝いていた。
遠くで子どもの笑い声が聞こえる。
花の香りが夜風に混じる。
ユリウスが呆然と呟いた。
> 「……これが、“想像記述魔法”の極致……?」
ミリアは涙を拭いながら笑う。
> 「いいえ、これは――“ルシエナ様の魔法”です。」
ルシエナは、静かにペンを置いた。
窓から差し込む光が彼女の横顔を照らす。
> 「うん。……これが、私の祈り。」
夜が、まるで昼のように明るく照らされた。
花々が咲き乱れ、人々の夢が微笑む。
――この夜の出来事は、のちに「ルシエナの奇跡」と呼ばれる。
ひとりの“悪役令嬢”が描いた線が、
世界に笑顔を取り戻した、最初の夜だった。




