義兄の様子がおかしい。今日はデビュタントなのに。
コーデリアは前公爵夫妻の忘れ形見らしい。
らしい、というのはコーデリアが幼いころに彼らが亡くなってしまったためだ。
天候が悪く道がぬかるみ、馬車が転落してしまったのだという。
コーデリアは自室にある前公爵夫妻の姿絵をぼんやりと眺めた。
にこやかに笑う二人が醸し出す雰囲気は穏やかだった。
コーデリアの頬も自然と緩む。
二度と会うことが出来なくても、自分が祝福された子供だということが、二人の視線は語っていた。
コンコン、と、ドアを叩く音がする。
「はい。」
コーデリアが返事をすれば、夫妻にそっくりな瞳でこちらを見つめたギルバートが扉を開けた。
「もう立派な淑女だね。」
ギルバートは美しいドレスを身にまとったコーデリアを見て、少し驚いたように言った。
「お義兄様ったら、私はもうずいぶん前から立派な淑女だわ。」
コーデリアが少し頬を膨らませてみれば、ギルバートも柔らかい笑みを返した。
「そうだね、レディ・フランシス。今宵エスコートする名誉を下さりませんか?」
「光栄ですわ。フランシス小公爵様。」
恭しくギルバートが膝を折ったので、コーデリアも礼を返す。
ここが王宮の一室であれば、絵画になるほど美しい光景だっただろうとコーデリアは内心皮肉った。
義兄に腕を差し出され、連れ添いながら馬車に乗り込むまでの間、コーデリアが感じていたのは小さな絶望だった。
今日、コーデリアはデビュタントを迎える。
それは貴族社会の一員として認められるということであり、婚姻を結ぶために行うすべてをこの時から始めるという合図でもあった。
コーデリアが密かに抱いていた義兄への恋心も、この日、断ち切らなければいけないと彼女は思っていた。
「どうした?」
ガタゴトと揺れる車内で、コーデリアの向かい側に座ったギルバートがコーデリアの瞳をのぞき込んだ。
「楽しみじゃないの?」
コーデリアははっとして、急いで表情を明るくする。
「もちろん楽しみに決まってるわ。少し緊張してしまったの。練習通り踊れるかしら。」
「緊張なんてする必要ないよ。」
憮然と断言するギルバートだったが、コーデリアは小さくため息をつく。
「お義兄様はなんでも上手にできるけれど、私はそうじゃないのよ。」
小さいころから、ギルバートは何事もそつなくこなす人だ。剣術も馬術も、座学だって誰からも称賛を受けてきた。そんなギルバートを尊敬し、そしてうらやましくもあるコーデリアは少し憂鬱な気持ちになる。
「できなくったって、何の問題もない。」
コーデリアが不可解そうに顔を上げれば、ギルバートは腕を組んで外を見ていた。王城が近いらしい。光に照らされた姿が神聖だった。
「そのままでいればいい。」
下手な慰めだ、とコーデリアは思った。義兄が不意に見せる不器用さが、親しい者にだけ見せる本心のようで、コーデリアに甘い優越感を与えていた。
会場に入ると、もうほとんどの貴族がそろっていたようだった。フランシス公爵家の二人が入場したのは王家の一つ前だった。
「おお、コーデリア。今夜は一段と美しいね。」
先に入場していた現公爵のデズモンドがコーデリアを見かけて近寄ってきた。
40代とは思えない洗練された現公爵に褒められて気後れしたコーデリアだったが、その瞳が愛おしそうに彼女を見つめていたから、彼女も今日一番の礼を返した。
「光栄です。お義父さま。」
「うん、うん。今日は楽しみなさい。」
そう言ってまた誰かに話しかけられる公爵は忙しそうだ。
「コーデリア、ダンスの時間だ。」
ギルバートに言われて意識すると、楽隊の曲調がゆったりしたものに変わっていた。
「本当に美しいよコーデリア。」
「お義兄様こそ素敵だわ。」
差し出された手を取りながら、コーデリアは遠巻きにギルバートを見つめる子女たちを確認する。美しい銀髪も、すらりと高い背も、整った顔もよく目立つ。
コーデリアの婚約を見届けたら、この次期公爵はすぐに婚約を整えてしまうだろう。
回る。踊る。
なんて短い時間だろう。
完璧なステップ。
ギルバートの大きな手がコーデリアの腰をしっかりと支えている。
熱くなる、錯覚をする。
「お義兄様。」
小さな小さなコーデリアのささやきは、騒がしい会場の音楽にかき消されて聞こえないだろう。
愛おしいお義兄様。
結婚してから会えるのは、何回ほどだろうか。
きっとそのどれも、彼は傍らに美しい女性を連れ添っているだろう。
自分に向けられることのなかった恋情のこもった視線をその女性は受け取る。
自分には許されない、その立場。
「コーデリア。」
不意にギルバートが耳元で囁いた。
思索に耽っていたコーデリアはびくりと体を震わせ、そして、足がもつれた。
転ぶ……
瞬間、コーデリアの体が宙をうき、楽しそうに彼女を見つめるギルバートの顔が下の方に見える。
悲鳴を上げなかったのは、その日最大の功労だった。
転ぶ寸前のコーデリアをギルバートが持ち上げたのだ。
コーデリアの足が地面に着くのと同時に、音楽が終わった。
派手な動きがむしろ人々を見とれさせた二人は、賞賛の拍手を受け取った。
「ありがとうお義兄様。」
「こちらこそ、あまりに可愛かったおかげで、つい持ち上げてしまった。」
「なんですかそれ。」
コーデリアは笑いながら目を細めた。
二曲程度は踊らなくてはならない。同じパートナーと連続で踊るには婚約者や夫婦である必要があるため、口惜しいがギルバートとはこれっきりだ。
家格が良いコーデリアであるから、ダンスの申し入れはたいして困ることがないだろう。デビュタントから結婚を視野に入れた関係性作りは幕を開ける。
もし誰からも誘われなかったとしても、それはそれでいい。ギルバートとのダンスが、思い出としてコーデリアを支えてくれるはずだったから。
「足は疲れていない?」
ギルバートがコーデリアを気遣う。一曲踊った程度で疲れるはずがない。
「大丈夫、次のダンスは……」
「おや、僕の得意なワルツかな。」
「ああ……」
ギルバートを気にしているたくさんの目がある。ギルバートは誰を誘うのだろう?中には公爵令嬢もいる。将来のフランシス家は安泰だ。
「じゃあ、行こうか。」
ギルバートがコーデリアの手を引いた。
「え?」
驚きに体が固まるコーデリアに、ギルバートが目を丸くする。
「どうした?やっぱり疲れた?」
「え?……いや……。」
少し流れた絶妙な間に、ギルバートの小さな笑いが飛び込んだ。
「コーデリアはワルツは苦手だったかな。大丈夫、支えてあげるからほらおいで。」
「あ、あの……二曲目は違う方と踊らなくては。」
「え?誰と?」
「誰と……?」
なぜ義兄はここまでしてこの冗談を引っ張りたがるのか理解できず、コーデリアはただただ困惑した。
二人が二曲続けて踊れば醜聞この上ない。二人とも社交界デビューしているにも関わらず、単純なルールすら理解できない馬鹿だと指をさされるだろう。
「婚約者を差し置いて、ほかの男とダンスするつもりなの?」
ギルバートが続けた言葉の意味が分からない。誰と誰が婚約?
「浮気性だな。」
うっとりと笑みを浮かべた彼が、何を考えているのか分からない。下手な冗談にしては、コーデリアの傷をえぐりすぎている。
曲の途中にも関わらず、ギルバートが強引にコーデリアをダンスの輪に連れて行こうとするので、コーデリアは急いで声を上げた。
「つ、疲れたのかもしれないわ。足が少し痛むの!」
ギルバートはおやと振り返った。
当然嘘だったが、それ以外に静止する方法は考えつかなかった。
「そうか、ごめんよ無理に歩かせようとしてしまって。じゃあ今日はもう帰ろうか。」
来て早々に帰宅するのは少し顰蹙を買ったが、高位貴族である2人を表立って非難する人間はいない。
憂鬱気味だったコーデリアも、とはいえ帰宅すること自体に不満は無い訳ではないが、それ以上に様子がおかしい義兄が変なことをしでかさないかと心配した。
待たせていた馬車にコーデリアを乗せると、ギルバートは言う。
「僕は父上に挨拶をしてくるから、少しだけ待っててね。」
小さく頷いたコーデリアだったが、動揺で頭がうまく回らなかった。
どうして、わざわざデビュタントの日にあんな質の悪い冗談を言ったのか分からない。冗談じゃないとしたらなんなのか、分からない。
幼いころからずっと一緒だった義兄の真意が分からなかった。
「婚約者だよ。」
ふざけないでほしかった。
帰りの馬車で、義兄はなんでもないことのように告げる。
「お義兄様……、私を失望させないで。どういう意図なの?」
悲しみが怒りにかわって、強めの言葉が出た。
対する義兄は妹の言葉など歯牙にもかけていないというように、穏やかな笑みを崩さない。
「そのお義兄様っていうのも今日で終わりにしよう。兄じゃない。ギルバートと呼ぶんだ。」
「……本気なの?」
どうして義兄がこんな態度なのかは理解できないが、義兄の中では私と彼は婚約者らしい。にわかに信じがたいが、実際従妹同士だ。一度私がどこかの家の養女となれば、法律的に結婚は可能だ。
わざわざそんな面倒事をするメリットが感じられないことを除けば。
「でも……、どうして。」
「こんなに愛おしい妹を、手放せないよ。」
ギルバートの視線が絡む。頬をするりと撫でられる。
まさか、本当に?
「愛してる、コーデリア。」
どくりと心臓が跳ねた。
愛している?愛されている?私が、この義兄に?
まさか。
本当に?
ギルバートが、私を。
思わずこぼれた涙を、ギルバートが指の腹でぬぐった。
「どうして……だって……義理の妹で……」
くすりとギルバートが笑った。
「義理じゃないよ、実の妹だよ。」
言葉を反芻する。
噛み砕く。
実の妹?
「え?」
「似てないだろ、前公爵夫妻に。二人に子供が出来なかったから、コーデリアを養子にしたんだよ。信じられる?許せないよ、僕から可愛い妹を奪うなんてこと。」
言葉をつづけられない。
兄は狂っているのか、それともすべて私の妄想なのか、むしろそちらの方がよかった。
「殺したの?」
恐ろしい言葉が口をついた。
「うん。」
何気なく、穏やかに、兄はそう返した。
「車輪にね、仕掛けをしたんだ。」
無邪気な子供が褒められようと期待する瞳で、そう言った。
「僕からコーデリアを奪ったから。」
言葉が続けられないでいると、また笑った。
「コーデリアは鈍感だから、僕が処理してあげないといけないだろ?ほら、さっきまで君に熱い視線が注がれていたことに気付いてる?嫌だよね、ああいう害虫は……どうしたって沸いてくる。ああなるのも、仕方がないよね。」
兄の袖口が変色している。
暗くてよく見えない。
「処理って、何?」
唇が震えていた。きっと顔も真っ青だったと思う。
「なにって、別になんてことないよ。」
にこりと笑った兄が、誰なのか分からない。
「コーデリアも、気を付けるんだよ。可愛い抵抗ならまだいい。僕から逃げようとしてごらん。」
その先の言葉は、継がなかった。
言葉にする必要はなかったのだろう。
光が当たる。
袖口が赤い。
殺したの?と、再びは聞けなかった。
「帰ろうか、僕たちの家に。」
私は、これから……