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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

醜い蛙男と美しい鬼の娘

とある醜い蛙の妖怪と、美しい鬼の姫君の悲恋の話

 「お前が俺の元に来てどんくらい経ったか」

 主君である鬼の男がふと、縁側に座り、空を見上げながらそんなことを言ったものだから、大きな蝦蟇の化生である男も、同じように空を見上げた。

「四百年程でしょうかね」

「おお、そんなに経ったのか」

 大きな鎧をつけた鬼は白い顎鬚を撫でながら、感心したような声を出した。それが彼の癖であることを、大蝦蟇はよく知っている。

 大蝦蟇は鬼よりもずっと大きな体躯で小さく肩をすくめると、「こんなことをお忘れになるなんて、痴呆には早すぎますよ」と冗談交じりに言う。

 遥か昔、主君である男に拾われてから、大蝦蟇はずっと彼に仕えて、多くの戦場を共にしてきた。

 人間と妖怪の戦いだ。もう何百年も続くそれは終わる様子を見せない中、鬼の大将は誰よりも多くの人間を始末してきた妖怪たちの英雄であった。

 いつからかそんな鬼の大将の右腕と呼ばれるようになった大蝦蟇にとっても、そんな主君は大蝦蟇にとって誇りであり、道しるべであり、生きがいであった。

「あいつが産まれてから年月が早く感じるよ」

「姫様ですか」

「おう、美人に育ってよかったぜ。俺に似てな」

「ははは」

 にやりと笑う主君に、大蝦蟇も軽く笑って返す。

 数百年間仕えている主君には一人娘が居る。

 亡くなった主君の妻の忘れ形見で、そんな妻のことを深く愛していた主君は、彼女の亡きあと、娘を大層大事に育てていた。

 そんな主君の言う通り、彼の一人娘である鬼女はひどく美しいことで妖怪たちの間でも評判であった。

「ああそうだ、ちょいとあいつに用があるんだ。蝦蟇よ、探してきてくれるか」

「……わ、私が、ですか」

「お前以外誰がいんだよ」

 けれども、大蝦蟇にとって、敬愛すべき大将の娘は苦手な存在であった。

 柘榴のような瞳を持った美しい少女を見ていると、自分がいかに醜く、汚れた存在かを理解させられるようであったのだ。

 また、自分が触れたら汚してしまうのではないかという葛藤もあって、大蝦蟇は彼女に近づかないようにしていた。

「はぁ、わかりました……」

「頼むぞー」

 汚してしまう、というのは比喩ではない。

 大蝦蟇の大きな身体の表面からは常に猛毒の毒液がにじみ出ていて、それは少しでも触れてしまえば肌を焼けただらせてしまうほどのものだ。

 だからこそ、普段はその毒液が誰かに触れぬよう、大蝦蟇は身体中を分厚い布で肌を覆い、顔も面布で覆い隠している。

 面布の下からぎょろりと覗く大きな黄色い目に、大蝦蟇は困惑を滲ませながらも返事をした。

 主君の言葉は絶対だ。いつもよりものろのろとした動きで娘を探しに出かけた大蝦蟇は姫君がよくいる館の裏へと向かう。

「姫様、姫様、どちらにおられますか……」

 ぼそぼそとした声を出しながら、大蝦蟇は姫君の姿を見つけようと辺りをきょろきょろと見回す。

 けれども大蝦蟇の声に反応するものは何もない。

 はぁ、と再びため息をついた大蝦蟇は声を出しながらうろうろと林の中に入っていく。

「姫様、お父御上がお呼びですよ。戻りましょ──」

 少し進んだ先、大蝦蟇がくるりと振り返ると、その目に大きな杉の木が映った。

 樹齢何百年ともいえるだろうそれは何十メートルあるだろうか。ふとそれを見上げると、一本の太い枝の先に、見たことのある鮮やかな着物が見えた。

「ひ、姫様!」

 それは大蝦蟇が探していた鬼の姫君であった。木の上で昼寝をしていたらしい彼女は、大蝦蟇の悲鳴のような声に目を覚ますと、面倒臭そうに伸びをする。

「もう、うるさいったら。そんなに大声を出さなくなって聞こえているわ」

「も、申し訳ございません! で、ですがそこは危のうございます! 早くお降りになってくださいませ!」

「慣れてるわよ、これくらい。そんなに子供扱いしな──あら?」

 あくびをした姫君は枝からゆっくりと立ちあがろうとする。

 その瞬間、ずるりと、姫君は枝から足を滑らせ、木その細い体が落ちていく。

「ひ、姫様!」

 大蝦蟇は咄嗟に跳躍をして、彼女が地面に落ちる寸でのところで抱き留めた。 

「だから言いましたのに! 危ないでしょう!? 怪我をしてはどうするのですかっ!」

 大蝦蟇の心臓がばくばくと大きな音を立てている中、腕の中できょとんとしながら自分を見上げている少女を大蝦蟇は叱りつける。

 面布で隠されたその顔を真っ青にしながら、ここまで緊張したのは鬼の大将が二百年ほど前に戦で腹に大穴をあけた時以来だとふと思い出した。

「も、申し訳ございません! いきなりこのような出過ぎた真似を……」

 そんなことを思い出していると、抱き止めた姫君がじっとこちらを見つめてきているのに気づき、大蝦蟇は慌ててぱっと手を離す。

 いくら体中に布を巻いているから毒液が彼女を傷つけることはないとはいえ、決して気持ちの良いものではないということは大蝦蟇が一番よくわかっている。

 蝶よ花よと育てられてきた彼女に悲鳴をあげられても仕方がないとさえ思ったのだ。

「おい、誰が離していいと言ったの」

 けれども、勢いよく手を離して距離をとった大蝦蟇を見て、姫君はきっと目を吊り上げた。

 亡き母親譲りの切れ長の瞳は、そうすると異様に迫力がある。

 そして何が気に入らなかったのか、姫君は自分から離れた大蝦蟇につかつかと近づくと、震えながら頭を垂れる彼の顔を覗き込む。

「ももも、申し訳ございません姫様……」

「顔を上げなさい」

「ご、ご勘弁を……」

「私が上げろと言っているの」

「は、はい……」

 恐る恐る大蝦蟇は顔を上げた。

 吊り上がった瞳に、主君と同じ黒い二本の角を額に生やした、黒曜石のような長く切りそろえられた髪を持つ鬼の少女は、大蝦蟇が見てきた誰よりも美しい存在であった。

 これでも大蝦蟇も数百年生きてきた大妖怪と呼ばれる部類の妖怪だ。

 けれども、産まれてから十数年ほどしか生きていない、自分の半分にも満たない背丈の少女に逆らうことなど、主君の娘であるということをぬきにしてもできそうにはなかった。

「蝦蟇」

「は、はいっ」

 しゃんと背筋をのばして大蝦蟇は大きな声で返事をする。

 そんな大蝦蟇の顔をしばしの間しげしげと眺めた姫君は、にんまりと笑みを浮かべて、その場にすとん、と座り込む。

「蝦蟇、お父様のところまでわたくしを運んでちょうだい。もう歩けないわ」

「は? え? 姫様?」

「ほら早く、抱き上げて。さっきみたいに」

 困惑する大蝦蟇に、姫君は頬を膨らませて駄々をこねる。

 てこでも動かないと言わんばかりに、姫君は鮮やかな着物のまま地面にごろりと寝転がる。こうなったらもう聞く耳も持たないだろう。

 姫君のその美しい髪に土がついてしまうかと思うと大蝦蟇は気が気ではなくて、「わ、わかりましたから! 早く起き上がってくださいっ」と返事をしていた。

 姫君の小さく細い身体を、まるで砂糖菓子を扱うかのようにへっぴり腰になりながら、今まで見たことがないほど丁寧に父親の元に運ぶ大蝦蟇の姿を見て、鬼の館中に当主の大きな笑い声が響いたのはすぐ後のことだった。


 

   ***


 

「蝦蟇、遅いわ」

「も、申し訳ございません」

 何を気に入ったのか、少女はことあるごとに大蝦蟇を呼び出すようになった。

 以前は彼女の視線に触れないようにこそこそと隠れていた大蝦蟇も、呼ばれてしまえば隠れることはできない。

 いつも物陰からおずおずとやってくる大蝦蟇を見て、姫君はにやにやと父親に似た悪戯っぽい笑顔を浮かべるのだ。

「わたくし、寂しかったのよ。お前が居なくて」

「え? ですが、姫様がおっしゃれば皆が喜んで付き合って──」

「何か言った?」

「いいえ何も」

 大蝦蟇がきょとんとしながら反論すれば、姫君はぎろりとそれを睨みつける。

 美しい姫君とお近づきになりたいという妖怪はそこら中にいる。けれども、わがままで気まぐれな姫君は侍女以外の妖怪を自らの傍に置くことはなかった。

 そんな彼女があの醜い大蝦蟇を気に入って呼び出しているというのだから、妖怪たちは羨ましいと妬みの声をあげた。

 けれども、あのいつもつまらなさそうにしていた姫君が大層楽しそうに、大蝦蟇の布だらけの大きな腕を取って、双六やらかるたやらの遊びに付き合わせたり、大蝦蟇を強引に連れ立って散歩に出かけたりする姿を見ていれば、他の妖怪たちもいつしか「あぁまたか」という顔をして、そんな二人に黄色い声をあげては大蝦蟇にぎろりと睨まれるようになったのだ。

 そんな大蝦蟇がしばらく父に連れ立って何人かで遠出をすると聞いて、姫君は大層駄々をこねた。

 いつもはそんな姫君を微笑ましく見守っている鬼の大将も困り果てたが、「これは戦なのです」と大蝦蟇が何度も何度も説得すると、部屋の奥にひきこもってしまった。

「こんなのは初めてだなあ」

「姫君はまだ幼いですから、父親と離れて寂しいのでしょうね」

「いや、俺じゃなくて」

 しみじみと深く頷く大蝦蟇に、鬼の大将は怪訝そうな顔をする。

「……今までこんなに出かけるときに駄々こねられるなんてなかったんだがなあ」

「大将に甘えているのでしょうね」

「いや、絶対そうじゃねえって……」

 微笑まし気に目を細める大蝦蟇に、何か言おうとした鬼の大将は言っても無駄かと遠い目をした。

 忠誠心があり、信頼できる大切な腹心ではあるのだが、いかんせん見た目のこともあり、女ごころなんてものをこれっぽっちも理解できていない相手であることを、鬼の大将も理解していたのだ。

 遠出をしたのはやはり戦のためであった。鬼の大将に助けを求める古くからの馴染みの妖怪たちからの要請が入ったのだ。

 あまり広い土地ではないからと、できるだけ少人数で向かい、彼らを人間たちに殺される前に助けたはいいものの、大蝦蟇は致命傷ではないものの、右腕に大きな傷を負いながら一か月ほどで館に戻ることになった。

 そんな彼らを一番に出迎えたのは、門の前で仁王立ちする姫君の姿。

 いつものように鮮やかな着物を纏い、彼女の世話をする女中たちがどこかはらはらした目で彼女を見つめている様子を見ていると、その瞳が大蝦蟇の黄色いそれとぱちりと合った。

 じっと大蝦蟇を見つめる柘榴の瞳が、血のついた包帯が巻かれた右腕を見て、吊り上げられる。

 女中たちの「姫様!」と止める声も聴かずに、門まで数百メートルはある距離を物凄い速さで大蝦蟇の元に走ってきた姫君は、一目散にその大きな身体に抱き着く。

「蝦蟇! 怪我してるじゃない! お父様、ねえ蝦蟇が怪我をしているわ!」

「おいおい、父親である俺の心配よりもこいつの心配かよ」

「当たり前じゃない! ねえ蝦蟇、痛かったでしょう? わたくしが手当てをしてあげるわ!」

 姫君は甲高い声をあげて、大蝦蟇の布と包帯の巻かれた腕をそっと触る。

 大蝦蟇と言えば、目を白黒させながらそんな姫君になんとか返事をすることしかできない。

「い、いえ、大丈夫です姫様! こんな傷すぐに治りますので、ほおっておいてくだされば……」

「わたくしの手当てが受けられないっていうの?」

「え、あ、いや、その、そういうわけでは」

「ならいいでしょう。来なさいよ」

 姫君は大蝦蟇の左手を掴むと、父親やほかの者たちを置いてすたすたと先に歩いていく。

 呆れたような顔で姫君を見る主君と、自分を連れて行く姫君を交互に何度も見つめながら、困った顔の大蝦蟇はそれについていくことしかできない。

 少したどたどしい手つきで、大蝦蟇の手を手当しようとする姫君に、大蝦蟇は震える声で懇願した。

「姫様、いけません。私の肌からは毒液が出ていて、姫様のお肌が傷ついてしまいます」

「何言ってるの! お前はひどい怪我をしているじゃないの」

「ですがそれよりも、姫様には傷ついてほしくありません」

「あら、それはどうして?」

 けれども、大蝦蟇の必死の懇願も、姫君には通じない。

 それどころか、大蝦蟇の返事を聞いてうっすらと頬を染め、姫君は悪戯っぽく笑うばかり。

 その笑みがあまりにも美しいものだから、蝦蟇は思わず目をあからさまに逸らしながら腕を胸元に引っ込める。

「わ、私には、姫様があまりにも美しく、眩しすぎるからです……」

「そう、じゃあ慣れることね」

 細々と、蚊の鳴くような声で放たれた大蝦蟇の言葉は、けろりとした姫君に一蹴される。

 再び大蝦蟇の手をとって、手当をしていく姫君から強引に離れることもできず、大蝦蟇は「ぐぇ」となんともいえぬ、それこそ蛙の潰れるような声を出してしまった。

「は……離れることはお許しくださらないのですか。私は、遠くからあなた様が笑っている姿を見れれば充分でございます」

「お前はそうかもしれないわね、でもわたくしは許さないわ。お前はわたくしの傍にいなければいけないの。土の中も水の中も許さないわ」

 そう言いながら、ほらできた、と姫君は笑うと、不器用に包帯を巻いた大蝦蟇の腕を持ち上げる。

 そのせいで姫君の白魚のような指先が少しかぶれてしまっているのを見て、大蝦蟇は悲鳴をあげたが、姫君は「全然大したことないじゃないの」と豪快に笑って見せた。

 

 ──鬼の大将の体調が崩れたのは、そんなことがあってから数か月後のことだった。

 

「あいつを頼む」

「……もちろんでございます。この命に代えても、姫様は御守りいたします」

 あいつ、というのが誰を差しているかなど、わかりきっている。

 大蝦蟇を含めた鬼の大将の側近たちは、寝所で横になる鬼の大将の横に座り、皆そろって頭を垂れていた。

 数百年前の戦で腹に大怪我を負った鬼の大将は、その傷が原因で身体を壊すようになっていたのだ。数か月前の遠征も、本当であれば大将一人で充分なんとかなるようなもの。

 けれども、大将の身体が以前よりもずっと弱っていることを知っていた側近たちが、彼が一人で行くことを決して許さなかったのだ。

 部下たちを心配させまいと、誰にも見えないように血を吐き、目の下が黒くなっていく大将の姿を見て、誰もが鬼の大将はもう永くないということはわかっていた。それを、決心しているつもりだった。

「お前は昔っから、涙もろいのは変わんねえなあ」

 けれども、ぼたぼたと畳を濡らす涙を、大蝦蟇は止めることができなかった。

 嗚咽をかみ殺しながら、敬愛する主の最期を見届けようとする大蝦蟇の顔に、鬼の大将はゆっくりと、昔に比べてあまりにも細くなってしまった手を伸ばし、その肩を軽く叩く。

「お前がいりゃあ、大丈夫だよ。悪ィな。俺は、先に逝くよ」

 今思えば、誰もが近づきたがらない蝦蟇に、初めて近づいて、まるでなんてことないかのようにその背を叩いてくれたのは鬼の大将であった。

 大蝦蟇は同族たちよりもずっと身体が大きく、歪で、彼らからも嫌煙され、追い出された身だ。

 そんな大蝦蟇を迎え入れてくれたのが鬼の大将であり、この館の妖怪たちであったのだ。

 ふ、と力なく笑った大将はゆっくりと目を閉じる。

 それが、妖怪たちを率いる主の最期であった。

 

 鬼の大将が死ぬと、必然的に姫君がその跡取りとなるのは必然であった。

 敬愛すべき鬼の大将を殺したのはかつて人間がつけた傷のせいだ! と怒り狂い復讐を誓う妖怪たちを、姫君はじっと見ていた。

 産まれて二十年も経っておらず、戦を経験したこともない姫君には、あまりにも酷。

 けれども、跡取りである彼女の選択したのは、また別の選択肢であった。

「……婚約、ですか」

「ええ、和平のため。皆のためよ、わかってくれるわね」

 彼女が取り付けたのは、とある人間の男との結婚。

 ここら一帯を統べるという人間の男との婚約で、妖怪たちは人間に手を出さず、人間も妖怪には手を出さないという取り決めをしたのだという。

「それ、は」

 それは、鬼の大将であれば決してできなかった選択肢であった。

 愛する妻を人間に殺された大将は、そんなことを許さなかったであろうし、ましてや愛する娘が人間に嫁ぐことも決して許さなかっただろう。

「終わりがないわ、この戦には。終止符を打ちたいの。血なまぐさい争い以外で。誰かが違う方法をとらなくちゃいけないわ」

 その選択肢を当然妖怪たちは認めなかった。

 尊き鬼の血統を汚すのですか、と姫君に非難の声をあげたが、それでも姫君が首を横に振ることはなかった。

 もちろん、大蝦蟇も本当であれば他の妖怪たちと同様に、そんな姫君を止めたかった。

 

 ──誰よりも無邪気で、美しくて、眩しい。花のような姫君が人間如きに嫁ぐなど! 姫君の幸せになるはずもないというのに!

 

 けれども、数百年続く長い戦で、傷ついている者も、亡くなった者も多くいることは事実であった。

 そう、鬼の大将のように。

 それを、これ以上増やしたくはないという姫君の気持ちも、大蝦蟇はそれ以上によくわかるのだ。なぜなら大蝦蟇は数百年、ずっと戦にいたのだから。

「ご立派な、決断です」

 非難の声をあげる妖怪たちを、大蝦蟇は説得した。

 対象の右腕であった大蝦蟇に「お前までそういうのか」という声も多く上がったが、そんな大蝦蟇は必至に彼らに頭を下げた。

 姫君が選んだ選択なのだ、彼女がこれで争いを終わらせると言っているのだ。そうしたら、もう誰も失わずに済む。

 大将に誰よりも長く付き従い、その最期を見届けた右腕が、そう泣きながら言うのだ。

 姫君が誰よりも慕い、楽しそうに過ごしていた男が、そう言うのだ。

 皆は押し黙った。押し黙って、お前がそういうのなら、としばらくしてからか細い声を出してくれたのだ。

「ねえ蝦蟇」

 そんなことを思い出していた大蝦蟇に、姫君はそっと声をかける。

「もし、」

 それは囁くような声であった。

 誰にも聞こえないほどの小さな声に、大蝦蟇は顔を上げる。

 

「……わたくしを連れて逃げてと言ったら、お前はどうする?」


 姫君は空を見ていた。

 いつかの、大蝦蟇の主君のように、遠くの空をじっと見て、顔色一つ変えない。その表情は親子でそっくりであった。

「……いいえ、できません。私には」

「お前はいつも正直ね」

 その返答を予想していたかのように、姫君は力なく笑う。

 大蝦蟇は卑怯で、臆病であることを自覚していた。

 敬愛する主君の、大切な娘が幸せになれないと思いながらも、でもこうしたら幸せになれるのだと信じようとしていた。

 そして、その選択肢を折り曲げて彼女の矜持を傷つけ、罪悪感に飲まれたまま逃げ出すことなど、できやしなかったのだ。

「ですが、あなた様の御身は、必ず私が御守りいたします。この命に代えても」

 それは鬼の大将にも誓った言葉であり、紛れもない大蝦蟇の本心でもあった。

 たとえこの臓腑が焼けただれようとも、四肢が切り落とされようとも、この娘が幸せになるのならば、そのために大蝦蟇はなんだって耐えてみせるし、やってみせようと思った。

 大蝦蟇の言葉を聞いた姫君は、その胸元に勢いよく抱き着いた。

「ひ、ひめさまっ!?」

 突然の姫君の行動に、大蝦蟇は赤面して素っ頓狂な声をあげる。

 けれども姫君は、何度もした、遊びの最中のように。無邪気に、少しも怖がることなく、大蝦蟇の懐に顔を摺り寄せる。


「……どうか元気でいなさい」


 そう、一言だけ。

 それだけ言って、姫君は顔をあげる。

 そしてゆっくりと離れると、大蝦蟇の肩を軽く叩いてみせた。

 少しだけ、泣きそうな顔で。


 

 ***


 

 美しい鬼の姫が白無垢を着て人間の列の中に並んでいるのを、蝦蟇を含めた妖怪たちは見送ることしかできない。

 婚礼の儀式もしかり、人間たちを怯えさせないよう、大蝦蟇たち妖怪は、姫君の住む城に近づくことは今後一切禁じられた。

 大蝦蟇もその一人であった。

 鬼の大将の側近であった大蝦蟇は人間たちには特に恐れられていたからだ。

 そのため、妖怪たちは姫君のことを、嫁いだ城から遠く離れた館から、無事を祈ることしかできない。

 けれども、姫君の取り決めのせいか、人間が妖怪を傷つけることはなく、争いもぱたりと止んだのは確かなのだった。

「姫様は先見の明を持っておられたのじゃな」

 側近の一人であった老鼠がそう言うのももっともなことだ。

「あぁ、そうだな……」

 姫君は確かに約束を果たして見せた。

 これで争いを終わらせるのだと言う、うら若き彼女の決意の表れであった。自らを犠牲にして、他の妖怪たちを護ってみせたのだ。

 姫君からの便りには、自分が元気であること、しっかりやっていることが毎月のように綴られてやってきた。

 妖怪たちはそれに安堵しながら、その便りを毎月、今か今かと待っていた。

 

 ──けれども、その便りが途絶えたのは、姫君が嫁いでから一年ほど経った頃のこと。


 妖怪たちはもちろんそれを訝しみ、心配した。

 けれども、城に近づくことは禁じられているし、行ったとしても門前払いされるだけだ。

 姫君との約束を破るわけにはいかないと、遠くに見える姫君のいる人間の城を見つめては、思いを募らせる妖怪たちの元に、ある日鴉天狗が駆けこんできたのだ。

「蝦蟇、蝦蟇! 聞いたか!?」

 長年の付き合いであり、いつもは冷静な鴉天狗が大慌てしながら大蝦蟇に詰め寄ってきたものだから、大蝦蟇は首を傾げる。

「どうしたんだ、一体……」

「ひ、姫様が! 我らの姫様が!」

 その表情は青白く、目は血走っていた鴉天狗はその場に力なく崩れ落ちた。

 ただ事ではない様子に大蝦蟇を含めた周りが駆け寄ると、鴉天狗は顔を手で覆い、感情をかみ殺した声でぽつりと言う。


「姫様が、亡くなられたと」


 ──姫様が、死んだ?


 「は、」

 大蝦蟇は思わず面布の下で笑ってしまった。

「ははは、はははっ!」

 そして誰にも見えない口元を歪ませて笑うと、鴉天狗の胸倉を乱暴に掴み挙げる。

「そんなわけがないだろう!?」

 吐き捨てるような声で大蝦蟇は言った。

 普段は温厚で穏やかな大蝦蟇に周囲はぎょっとした様子でその様子を見守るばかり。

「姫様は我らのために人間如きに嫁いだのだ! あの強く勇敢な姫様に、そんなことがあるはずがないだろう! 嘘でも言っていいことと悪いことがある! 恥を知れ!」

「冗談でこのようなことを言うと申すのか! 私も信じたいわけがない! 手下の鴉どもが姫様の気配がないと言うから急いで探させたのだ! そうしたら、」


 ──城の中で、血を流す姫君が、倒れ伏していたのだという。

  

 途端、大蝦蟇は館を飛び出していた。

「待て! 我らはあの城に近づくことが禁じられておるだろう!」

「姫様の御身に何かあってからでは遅いのだ! あの方と約束をしたのだ! この命に代えても護るのだと!」

 止める周りの妖怪たちをものともせず、自慢の脚力で姫君のいる城へと一目散にかけていく。


 ──あの姫君は、お転婆だから。


 きっと、紙で手を切ってしまったに違いない。

 いや、鋏で少し大きな怪我をしてしまったに違いない。

 それを見間違えたのだ。

 まったく、と大蝦蟇は息を吐く。

 大蝦蟇の手当てはしたがるくせに、外で転んでも手に擦り傷を作ろうと、しれっとした顔で放っておこうとする姫君のことだ。

 鴉どもの見間違えだ。

 どうせ「ちょっと切っただけよ」とむくれた顔をしているに違いない。

 だから、たまには大蝦蟇が教えてやるのだ。ちゃんと薬の塗り方も、包帯の巻き方も。


  ──こうやって駆けつけてあげられるのも今回だけなんですからねなんて、そう言ってやりながら。

 

 「邪魔だ!」

 突然城にやってきた大きな妖怪を見て、城の人間たちは悲鳴をあげ、ときには刀を振り下ろした。

 だが、今の大蝦蟇にはそのようなものに構っている暇はない。

 片手で軽くそれを退いて、姫君がいるであろう城の一番奥の部屋に大蝦蟇は向かっていく。

 走っている最中で身体を覆う布が緩んだのか、イボのある醜い身体のほとんどが衣服の隙間から丸見えになっていた。

 普段であれば、それは大蝦蟇が最も嫌がることだ。一目散に誰にも見えない部屋の陰に隠れていそいそと布を巻き直すのが常であった。

 けれども、そんなこと今はどうでもいいこと。

 何よりも、誰よりも、あの姫君の姿を見て無事を確認することが、大蝦蟇にとって大切なことであった。

「姫様! ご無事ですか!?」

 何度も何度も襖を開けた、奥の奥の、さらに奥の部屋。

 かすかに香る、姫君の匂いを辿りながらやって来た、一番豪華な部屋の大きな襖を蹴破るように開けたその先。

 

 ──大蝦蟇の目に初めて映ったのは、鮮やかな着物。


 柘榴のような瞳に良く似合う、紅い着物が彼女にはよく似合っていた。

 けれども、その場に広がるのは、幾度となく嗅いだことのある血の匂い。

 

「……ひめ、さま?」

 

 姫君は、その広い部屋の中央に、畳に仰向けになって倒れ込んでいた。

 その美しい着物はずたずたに裂かれていた。それはまるで、紙屑のように。

 そして、そこから垣間見える真っ白で雪のような肌には無数の青や赤の痣、切りつけられたような痛々しい傷が全身に刻まれていた。

 それは到底、一度や二度でできるような痕ではない。

 何度も何度も、何回も何回も。何日にもわたって、傷つけられ続けたような痕であった。

 館にいたころは丁寧に整えられていた髪は無残にまるで首を斬りおとされた罪人のように、首元で短く、雑に切られていた。

 ただでさえ細く華奢であったその身体はまるでずっと何も食べていないかのように、皮と骨のよう。

 そんな身体が、無残に、そして文字通り、その場に投げ捨てられていた。


 ──まるで、捨てられたかのように。

 

 挙句の果てに、その細い首元からは、溢れんばかりの鮮血が畳を汚していた。

 死後数日は経っているだろうそれは黒く固まり、腐ったようなひどい匂いを放っている。


「姫様……?」


 蝦蟇はもう一度、恐る恐る声をかける。

 そうすれば、いつものように彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべてくれるのではないかと思ったのだ。

「ひ……ひめさま、ひめさま? 蝦蟇が、蝦蟇がまいりました。もう大丈夫ですよ」

 身体が重い。

 目の前がまるで溶けていくかのように、大蝦蟇には周りの景色が曖昧であった。

 それでも、まるで泥のようになった身体を引きずるようにして、大蝦蟇は彼女の元へと向かっていく。

「ひめさま、どうか、返事を」

 顔を覗き込む。目の前のそれは答えない。

 虚ろな、何も映っていない瞳が、虚空を見つめているだけ。


『──ねえ蝦蟇、わたくしに付き合いなさいよ』


 そんなことを言って、細められていた、この世の何よりも美しい柘榴のような瞳は何も映さない。答えない。応えない。

 大蝦蟇は布の巻かれていない、イボまみれの手で姫君に触れようとして、寸でのところで止めた。

 そして、姫君の傍に座り込んだ大蝦蟇は床に額をつけるほどに頭を垂れる。


 ああ、と大蝦蟇は理解したのだ。

 彼女が、この城でどんな扱いを受けていたのかを。そして、どんな気持ちでそれに耐えていたのかを。

 あの小さな細い身体で、何を考えていたのかを。

 だって、彼女はずっと握っていたのだ。きっとこっそり書いていたのであろう仲間たちへの手紙を記す、細い筆を。

 誰にもとられないように、心配させまいとばかりに。


『……どうか元気でいなさい』


 自分はどうなろうと、構わないのだと。


「姫様、」

 

 こんな手では、美しい彼女に触れることができない。

 優しく、勇敢な姫君を傷つけることなど、決して許されはしない。

 そう、大蝦蟇は敬意をこめて、頭を下げる。


「もうしわけ、ございません」


 ──たとえ、目の前の彼女の身体にはもう命が宿っていなくても。


「おい、誰かいるのか!」

 そんな蝦蟇の耳に入ってきたのは、見知らぬ声であった。

 ゆっくりとそちらに視線を向けた大蝦蟇は、自分と姫君しかいなかった部屋に、武器を持った見知らぬ多くの人間が入ってくるのを見た。

「ッおい、妖怪がいるぞ! 誰だ! この城には妖怪が入ることは許されていないはず──」

 ずるりと、大蝦蟇は口を開けて、長い舌を伸ばす。

 そして、大声で叫ぶ男の首元にその舌を瞬時に絡ませた。

 あ、と誰かが言う間もない。

 男の首は真逆の方向にへし折れて、胴体から離れて床に転がった。

「ひ、よ、妖怪だ! 殺せ! こいつを殺せ!」

 鮮血の雨がほとばしる。

 突然のことに腰を抜かした他の人間たちは悲鳴を上げながらに逃げようとする。

 けれども、大蝦蟇はそれを許さない。

 ゆっくりと、大蝦蟇は姫君を庇うようにその前に立ち上がった。

 ひい、ふう、みい。

 舌を伸ばして、その場に居た三人の首をへし折った。

 大きな手のひらで、男の頭を握りつぶす。

 その声を聞いて見回りにきた悲鳴を上げる女の腹に噛みついて、下半身を丸呑みにした。


 一人残らず、一人残らず、全員。

 彼女を傷つけた者たちから、彼女を護らなくてはならない。

 

「私が、」


 ──あの娘が受けた苦しみなど、この程度では納まりきるはずもないのだから。


「これからは、この蝦蟇がずっとあなた様を御守りいたしますから。もう離れたりなど、いたしませんから」


 誰よりも優しくて、勇敢な姫君。



 ***

 

 

「周防の大蝦蟇?」

 旅人はきょとんと首を傾げる。

 その様子を見て、村人たちは顔を見合わせた。

「知らねえのか、子の辺りじゃ有名な話だぜ」

「化け物退治だかなんだか知らねえが、あそこには寄らん方がいいぞ」

「そんなに有名な伝説なんですか」

「有名も何も、そりゃあ、なあ?」

 時折やってくる妖怪退治の者たちにには皆言っているのだと村人の老人たちは語る。

「伝説どころか、今もだよ! い、ま、も!」

 好奇心だの、お金のためだの、あの無人の城に止めても無謀に足を踏み入れる輩はあとを絶たないが、それらは全員帰ってくることはないのだと。

「あの城に入った奴は全員喰われちまうんだ。大蝦蟇に、ぺろっとな」

 曰く、毒液が充満した部屋のあちこちで、少しでも触れれば皮膚は焼けただれ、地獄の苦しみを味わうのだという。

 その奥に、大きく、醜い大蝦蟇が鎮座して、その城に居座っているのだと。

 ああ、特にそうだ、と話慣れた老人は語り続ける。

 

「──あの城の一番奥の部屋、大蝦蟇はそこでとんでもない宝を護ってんのさ」


「……どんな宝なんですか?」

 旅人は好奇心で瞳を煌めかせながら、食い気味に問いかける。

「さぁて、なあ。大蝦蟇が住み着いたのは何百年も前に鬼の姫さんが人間に嫁いでからだって言うがね」

 老人たちは肩をすくめる。

 

「そっからずっと護ってんだ。よっぽと大事なもんなんだろうな」

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