第3話
「私のせいです! ほら、腕、擦りむいてます! すぐ手当てしないと!」
俺にぶつかってきた少女は、『クレア=フェンネル』と名乗った。
「あの、私、回復魔法が少しだけ使えるんです。これくらいなら、すぐ治せますから!」
そう言って、クレアは俺の擦りむいた腕にそっと手をかざし、優しい光の魔法を発動させようとする。
ふわり、と温かい光が彼女の手のひらから溢れ出す。
しかし、その光は不安定に揺らぎ、傷口に届く前に霧散してしまう。
何度か試みるが、結果は同じ。傷は全く治らない。
「あれ? おかしいな……どうしてだろう?」
クレアは不思議そうに小首を傾げる。
俺は(……またかよ)と内心で深いため息をつく。
どうやら俺の“理不尽フィールド”は、攻撃魔法だけでなく、回復魔法のような好意的な魔法すら、無意識のうちに吸収したり、阻害したりしてしまうらしい。
ますます厄介な体質だな。
◇
教室に戻ると、俺を取り巻く空気は、昼休み前とは明らかに一変していた。
嘲笑や侮蔑の視線は消え、代わりに畏怖と好奇、そして一部からは「なんか、すごくない?」「ちょっと見直したかも」といった囁き声が聞こえてくる。
エミリアとの模擬戦での一件――特に、魔法を無効化したという事実――が、一部の生徒たちにとっては、権威への反逆みたいで痛快に映ったらしい。
まあ、勝手に評価が変わるのは構わないが、注目されるのはやっぱり面倒だ。
「おい、イオリ! お前、学園の序列ひっくり返しちまったな!」
隣の席のユウトが、ニヤニヤしながら肘で俺をつついてくる。
「知らん」
俺はぶっきらぼうにそう返し、再び窓の外に視線を向けた。
これから先、もっと面倒なことが起こりそうな予感しかしない。
その予感は、残念ながら的中した。
突然、学園全体にけたたましい警報音が鳴り響いたのだ。
『緊急警報! 緊急警報! レベル4危険指定魔導生物一体が、西棟の実験施設より脱走! 付近の生徒は直ちに避難してください! 繰り返します……!』
窓の外を見ると、西棟の方角から黒煙が上がり、時折、派手な魔法の閃光と爆発音が聞こえてくる。
教師や腕利きの生徒たちが応戦しているようだが、状況はかなりマズそうだ。
クラスメイトたちは「どうしよう……」「逃げなきゃ!」「でも、どこへ……?」とパニックになっている。
避難指示が出ている。
普通なら、俺も他の生徒たちと一緒に安全な場所へ逃げるべきなのだろう。
だが――。
「……ちょっと様子見てくるわ」
俺は席を立ち、警報が鳴り響く実験棟の方へ、一人で歩き出す。
「え!? き、如月くん!? どこ行くの! 危ないよ!」
近くの女子生徒が慌てて呼び止める。
「んー、なんかヤバそうだしな。それに……」
俺は少しだけ口角を上げる。
「ちょっと、試したいこともある」
面倒くさいのは嫌いだ。
だが、目の前で誰かが困っているのを無視できるほど、俺は薄情でもないらしい。
それに、あの魔導生物とやらが、俺の“力”にどこまで通用するのか、少し興味があった。
廊下に出ると、ちょうど通りかかったニコル先生が「おっと、ヒーローごっこかい?」と声をかけてくる。
俺はそれを無視して、爆発音が近づいてくる方へと、足を進めた。
◇
実験棟前は、想像以上の惨状だった。
巨大なキメラ――ライオンの頭に、ドラゴンの翼、蛇の尾を持つ、見るからに凶悪な魔導生物が、暴れ狂っている。
その爪や牙、そして口から吐き出される腐食性のブレスが、教師や上級生たちが展開する魔法障壁を次々と破壊していく。
「くっ、再生能力が高すぎる!」
「攻撃が通じん!」
「このままでは校舎まで!」
教師たちは、相当苦戦を強いられているようだ。
まさに絶望的な状況。
そこへ、俺は、まるで散歩でもするかのような、のんびりとした足取りで現れた。
「うわ、でっか……キモいし。誰だよ、こんなモン作ったやつ」
俺は一言そう呟くと、巨大なキメラに向かって、右手をポケットに突っ込んだまま、軽く前に突き出す。
特別な詠唱も、派手な魔法陣もない。
ただ、俺の意識が、目の前の“異物”に向けられただけ。
瞬間。
世界から、音が消えた。
俺を中心に、不可視のフィールド――“理不尽フィールド”が展開される。
そして、キメラを構成していた魔法エネルギーの奔流が、まるで霧が晴れるかのように、急速に霧散していった。
生命活動を支えていた魔力が失われ、その巨大な身体はみるみるうちにただの肉塊へと変わり果て、次の瞬間、轟音と共に地面に崩れ落ちた。
ピクリとも動かない。
周囲は、完全な沈黙に包まれる。
必死に戦っていた教師も、遠巻きに見ていた生徒たちも、何が起きたのか全く理解できず、ただ呆然と、崩れ落ちたキメラの残骸と、その前に立つ俺を、交互に見つめるだけだった。
俺は頭をガシガシと掻きながら、今日何度目か分からない深いため息をつく。
「あーあ、やっぱ目立っちまった……最悪」
これから始まるであろう、更なる面倒事を予感しながら、俺は空を仰いだのだった。