#1 眠気の限界は新世界の扉?
――俺は、何を目的に上京したのだろうか?
中倉優太は大きなため息をつき、キーボードを打つ指を止めた。PCから視線を外すと、自分以外の人の気配が全くしない寂しいオフィスに、虚しくなった。
蛍光灯の冷たい光が、書類やファイルの山を照らし、デスクの上に落ちた影は疲労感を一層際立たせている。耳を澄ませば、時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえ、まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。
窓の外を覗くと、真っ暗なビル群の足元で煌々と輝く申し訳程度のクリスマスイルミネーションが僕を嘲笑っているように見える。反射で映った自分の顔は、隈がはっきりと濃く浮かび、疲れ切っている。
痩せこけた顔も相まって、実際の二十九歳という年齢よりも年老いて見えた。
リストの文字をひたすらにタイピングしながら、心の中で『明日の9時までだから』と告げて書類を置いた挙句、定時に帰った上司をめった刺しにする。
――頭が痛い。
――腰だって痛い。
身体中に蓄積された疲労が、まるで濁流のように襲い掛かる。こんなに頑張っていても、明日にはそいつの手柄になっているだろう。
評価にもならないような、けれども誰かがやらないといけない雑用の全てを見た目に覇気が無い、成績が少し悪いという理由で押し付けられた。タスクが増して、以前よりも一杯一杯になり、更に成績が落ちた。
そうして、優太は周りの社員から使えない奴だと言われるようになった。
微かに足音が聞こえ、優太は廊下に目をやった。ライトを片手に歩いている警備員の歩く速度や姿勢から、気怠さが伝わってくる。その光が一瞬自分のデスクを照らし、現在の時刻に気が付いた。もう深夜一時を回っている。
いつの間にか、この時間になると警備員が巡回に来ることを覚えてしまった。そんなことを優太は考えて一人悲しくなった。
カタカタと響くキーボードの音が、広い空間に虚しく反響している。この孤独な環境に耐える自分がまるで囚人のように思えて、自然とため息が漏れる。
――もう帰ろうか。
そもそも、自分の仕事ではないのだから、終わっていなくても自分が困ることは無い。ただ、大勢の前で「??咤激励」という名で晒上げられるだけだ。
別に、もう既に会社では使えない奴なんだ。どうせどっちにしろ評価は変わらない。
――まじで、何のためにこんなに必死なんだろう……
――頑張る必要はない。
エレベーターのボタンを押し、静かにドアが開くのを待つ間、心の中にあるわずかな罪悪感を押し殺した。
――頑張った。頑張ってる
優太は、誰にも聞こえない様な小さな声で呟くと、先程よりも明るい気持ちで歩き出した。歩き出して数分でまた明日の「処刑」ばかりが脳を浸食する。これでは休まらないとロング缶のチューハイを最寄りのコンビニで調達し、ワンルームのオアシスに向かう最中、優太はそれを煽った。
「大丈夫ですか?」
駅員が面倒くさそうに、優太に声をかけた。改札で定期券をかざすのを何度もしくじっているのを見て、乗客の一人が駅員に通報したようだ。
「大丈夫です。すみませんちょっと酔ってるみたいで……駅から家も近いので……ご迷惑をおかけしました」
優太は、酒で満たされた脳みそで何とか告げて、逃げるようにホームへ向かった。
ホームに落ちたお菓子のカスを鳩が狙っている様子を愛おしく思った。
次の列車を待つ数少ない同士に同情を覚えた。
今まで感じたことの無い感情で心を満たされて、苦しくなった。
瞳からは、訳も分からずに水が零れて、それを自分で感じながら、『涙と海水の塩分濃度は一緒なんだっけ?』とつまらない事を考えていた。
駅から歩いて十数分の道のりがやたらと長く感じ、やっとの思いで辿り着いたワンルームの小さなオアシスは、新しい生活に心を躍らせていたあの頃よりも、ずっと汚くなっていた。手に持っていたロング缶を、感覚でゴミ箱がありそうな場所に放り投げると、ガサゴソと生き物の気配を感じる。
ふと、視線を外すと、何カ月も放置された、実家からの段ボールが目に付いた。
――最後に帰ったのいつだっけ?
中身を確認すると、体調を心配する手紙と、すぐに食べられるようなレトルト食品がたくさん入っていた。途端に腹の虫が鳴ったので、ありがたく、カップラーメンを啜る。
時間に余裕が出来たらやろうと思っていた、プラモデル。
環境を何とか変えたくて、本屋で買い込んだ資格の本。
読みたくて大人買いした漫画。
その全てが手つかずのまま、見たくもないSNSをスクロールしている。
握っているスマホがブルブルと震えた。
「元気にしてる?」とだけ書かれた短い母親からの言葉だったが、その文章に込められている思いを感じて涙が零れる。
「辛い」とここで母親に吐き出せれば、出口になるのかもしれないとよぎったが、返事を打とうとする手が震えて、結局「久しぶり。元気だよ」と送信しただけだった。
ブブブブ……
また、スマホのバイブレーションが鳴り響く。画面には、先程思いを馳せていた実家の母からだった。電話に出る勇気なんて持ち合わせているはずもなく、無情に鳴り響く音の根本をただ見つめていた。
――記憶があるのはここまでだ。