第7話
◇
シルファは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
澄んだ菫色の瞳には、決意の色が滲んでいる。
どちらにせよ、彼の秘密を知ってしまったのだ。もう後には引けない。
それに、どうせ自分には帰る家も守ってくれる家族もいない。
ただ、互いの利のために結ぶ婚姻だ。そこに愛はない。いわば業務の延長上と考えればいい。
それにきっと、ルーカスが元の姿に戻るまでの期間限定のものだろう。用無しになって放り出されたとしても、メンテナンスの仕事に集中できる環境を用意してもらえればそれでいい。
シルファは覚悟を決めてごくりと喉を上下させた。すっかり乾いた唇を舐め、小さく息を吐き出す。
「分かりました。そのお話、お受けいたします」
しっかりと胸を張って答えると、ルーカスは悪戯が成功した子供のように笑みを深めた。
「そうこなくっちゃな」
ルーカスは楽しげに椅子から飛び降りると、スタスタとシルファの前まで歩いてきた。
座っているとちょうど同じぐらいの視線の高さだなと思いながらジッとしていると、ルーカスは徐に腕を上げてシルファの頬を撫でた。その手がとても優しくて、思わず息を詰まらせる。
「ま、ここまでが建前といったところだ」
「え?」
「シルファ嬢も知っての通り、君を戸籍ごと魔塔で買い取ったのは俺だ。もちろん、身元を引き受けた立場上、仕事や普段の様子についての報告を受けてきた。勤勉で真面目。蔑ろにされがちな古い魔導具も丁寧に大切に扱う。それに、突拍子もない俺の話を子供の戯言だと疑わず、笑わずに耳を傾けてくれた。これまで、俺がルーカスだと名乗っても、信じることなく笑い飛ばした者も少なくはない。契約結婚だからといって、誰でもいいわけではない。俺はシルファ嬢――いや、シルファ、君と夫婦になりたい」
「あ……」
柔らかく細められた黄金色の瞳。その眼差しはどう見ても十歳の少年の眼差しではない。熱を帯び、色気をも孕んだ瞳。どうしてそんな目で見つめるのだろう。
シルファはその瞳に射抜かれたように身動きが取れなかった。
それだけではなく、彼はこれまでのシルファの仕事や振る舞いを見守ってくれていたと言う。
必要のない仕事だと鼻で笑わず、認めてくれている。そのことが無性に嬉しくて、ジワリと胸の奥が暖かくなる。
「さて、とにかく契約成立だ。さっさと婚姻の誓約書を書いてしまおう。あと、契約結婚のルールを決めておこう」
そう言ってルーカスはピッと三本指を立てた。
「相手の嫌がることを無理強いしない。夫婦として心を通わせる努力をする。どちらかが離縁を望んだ場合、相手は必ず了承する、この三つでどうだ」
「え、三つだけですか?」
契約結婚というのだから、分厚い文書を認めるのではと身構えていたシルファは驚いて声が上擦ってしまった。
「ああ、細々とした決まり事は苦手だ。必要に際して都度追加すればいいだろう」
あっけらかんと答えるルーカスは、案外大雑把な性格なのかもしれない。煩わしそうにヒラヒラと手を振っている。
「互いに利のある契約結婚とはいえ、シルファは今日から俺の妻だ。先ほどはどちらかが離縁を望んだ場合、と条件をつけたが、俺から君に離縁を持ちかけることはないと思っていい。離縁したところでまた結婚しろとうるさく言われるだけだしな。君が望むのならばその限りではないが……俺は、この先誰でもない、君だけを大切にすると誓おう」
「へっ!?」
てっきり期間限定のお飾り妻になるものだと思っていたシルファは思わず声が裏返ってしまった。
それに対し、ルーカスは平然とした様子でデスクに移動すると、引き出しから金色に輝く一枚の紙を取り出した。
遠方からでも王都の中央に位置する神殿に瞬時に提出ができるという特別な結婚誓約書だ。もちろんシルファは実物を見るのは初めてである。
戸惑うシルファを置いて、ルーカスはサラサラと誓約書にサインを済ませてしまう。
そして、シルファを手招きし、羽ペンを差し出した。
シルファは恐る恐るデスクに歩み寄り、ルーカスの名が記された結婚誓約書に視線を落とす。
この紙にサインをすれば、二人は夫婦として認められる。
本当にいいのだろうかという思いが脳裏を掠めるが、覚悟を決めて羽ペンを受け取った。
ギュッと強く握りしめて、震える手で母が付けてくれた大切な名前を刻む。
「契約成立だ。今この時から俺たちは夫婦となった」
ルーカスは結婚誓約書を手に取り署名を確認すると、満足げに微笑んだ。
そして次の瞬間、結婚誓約書はルーカスの手の中で青い炎に包まれて消えてしまった。
「これで提出完了だ」
消えた結婚誓約書は今頃神殿のしかるべき部署に届いているはず。
後日正式に結婚が成立したことを知らせる文書が形式的に届くらしいが、基本的には提出をした時点で夫婦と認められる。
「ふ、不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「ああ、よろしく頼む」
シルファが頭を下げると、ルーカスはシルファの手を取り嬉しそうに微笑んだ。
二人並ぶと、平均的な身長のシルファの胸元あたりにルーカスの頭が来る。外見が少年であるが、中身は大人。今日から彼がシルファの旦那様となる。そう思うと、なんとも奇妙な気持ちになる。
「さて、もう夜も遅い。夕飯は食べたか? 後でエリオットに用意させよう……いや、その前にまずは紹介せねばならんな。エリオット」
名前を呼ばれてルーカスの隣に立ったのは、シルファを迎えてくれた銀髪の男性であった。ルーカスとシルファが話している間、気配を殺して壁際にずっと立っていたらしい。
「改めまして、エリオット・ブルストロードと申します。ルーカス様の助手兼お世話係を務めております」
「おい、お世話係はないだろう」
「語弊がありましたか?」
「ぐぬぬ……」
二人の様子から、気心が知れた仲だということは明らかだ。
(信頼し合っているのね)
なんだか微笑ましくて、シルファはようやく肩の力が抜けて笑みを漏らした。
「シルファです。よろしくお願いいたします」
右手を差し出すと、エリオットは表情を変えずに握り返してくれた。無表情で感情の読めない人物だが、きっと誠実な人なのだろう。仲良くやっていけそうな気がする。