第3話
「新婚旅行……はい、そうなれたら素敵ですね」
むず痒い単語を耳にし、シルファの頬に朱が差す。
ルーカスが自らにかけた退行魔法の解除の妨げになっている暴走した魔力は、そのほとんどがすでにシルファによって中和されている。
あと少し。鎖のように魔法式に絡みつく余剰な魔力を吸い取ってやれば、きっとルーカスは退行魔法を解除することができる。
けれど、あと一歩というところで、どうしてもシルファは躊躇してしまうのだ。
ルーカスが元に戻った時、果たして今の幸せな生活を続けることができるのか、と。
ルーカスからの愛情は疑っていない。シルファも彼を愛している。元の姿に戻った暁には、胸の内で育ててきた大輪の花のように咲き誇った想いを彼に打ち明けたいと思っている。
だが、彼の周囲はシルファの存在を良しとしないのではないか。その不安がどうしても消えてくれない。
マリアベルが魔塔の最上階に突撃してきたあの日、シルファは痛感したのだ。
シルファはルーカスに相応しくない、と。
シルファが魔塔の最上階で過ごし、少しずつ育んできた自信は儚く崩れ落ちてしまった。
あの日以来、マリアベルは魔法省に厳重注意を受けたらしくシルファたちの前には現れていない。だが、謹慎が明けたあと、決して諦めないといった旨の手紙が届いていた。
ルーカスは鼻で笑って手紙を廃棄していたが、所詮シルファは実家の後ろ盾もない非力な女である。侯爵家の生まれで、魔法省にも深い繋がりを持つマリアベルが本気を出せば、シルファなんて簡単に排除できるのではないだろうか。
それこそ、魔法省に圧力をかけられでもすれば――
「おい、何か良くないことを考えているだろう」
「えっ」
深くて暗い思考の海に沈みかけていたシルファを、ルーカスが引き上げてくれた。
目を瞬くシルファに、ルーカスは心配そうな表情を向ける。
「夜の闇に吸い込まれていきそうだったぞ」
「あ……」
ルーカスは未だぼんやりとしているシルファの手を引き、ベッドに腰掛けさせた。
「何か心配事があるのなら、遠慮なく俺を頼れ。何をそんなに不安に思う?」
黄金色の瞳に見据えられ、シルファの瞳が揺れる。
(元の姿に戻ったら、私の役割はもう終わりなのかなんて……聞けないわよね)
誤魔化すように微笑を浮かべると、ルーカスはボリボリと頭を掻いてドスッとシルファの隣に腰掛けた。
「まったく……シルファは安心して俺の気持ちを享受していればそれでいい。元の姿に戻れたら、一晩中愛を囁いてやる。もういいと言われてもやめてやらないから覚悟しておくことだ」
「えっ!?」
ルーカスはニヤリと口角を上げながら、スッと手を伸ばしてシルファの頬を撫でた。そして、輪郭をなぞるように細い指が下唇をなぞる。
ドキドキと、心臓が飛び出そうなほどうるさい。
縫い止められたようにルーカスから視線を逸らせないでいると、ルーカスの顔がゆっくりと近づいてきた。
シルファは導かれるように、そっと瞳を閉じて身体を彼の方へと傾けた。
フレデリカから手紙が届いた夜のように、二人は指越しに口付けを交わした。
「……シルファ」
熱い吐息がかかり、思わずふるりと身体が震えた。
少年のものとは思えないほど、艶のある声。
名前を呼ばれただけなのに、好きだと囁かれたような気がして、ギュッと胸が詰まった。
そっと目を開いて上目遣いでルーカスを見つめると、シルファの視線に気づいた彼は歯を見せて笑いながらコツンと額を重ねてきた。
理由は分からないが、ルーカスは初対面の時からシルファに好意的だった。
シルファの記憶では、あの日魔塔の最上階で顔を合わせた時が初対面だったはずだ。
魔塔を管理する者として、ルーカスがシルファを知っていたというのは理解ができるが、どうもそれよりずっと前からシルファを知っているような口ぶりをする時がある。
そしてシルファには、一つ心当たりがあった。彼との本当の出会いはひょっとすると――
(知りたい……私を選んだ本当の理由を……)
シルファがルーカスの退行魔法の鎖を解くためにも、二人の未来を見据えるためにも、今が聞くべき時なのだと、そう思った。
「ルーカス」
「なんだ?」
膝の上でギュッと両手を握りしめると、安心させるようにルーカスが手を重ねてくれる。
いつもシルファが不安を感じていると、ルーカスは急かさずに足並みを揃えて寄り添ってくれる。そんな彼の優しいところがたまらなく愛おしい。
「ルーカスは、以前から私を知っていたのですよね?」
「……どうしてそう思う?」
ルーカスの黄金色の瞳は、ただ真っ直ぐにシルファを見つめている。
「私の魔導ランプに、ルーカスの太陽のシンボルを見つけました」
「……なるほど、流石に気づいたか」
ルーカスは少し照れくさそうに頬を掻いた。そして両手で包み込むように、改めてシルファの手を握った。
「そうだ。シルファの言う通り、俺たちが初めて出会ったのは十五年前の開放市だ」
ルーカスは静かに十五年前のことを話し始めた。




