第3話
「嘘でしょ……」
そして午前いっぱい仕事に集中したシルファは、九件の依頼全ての作業を終えていた。
いつもならば午前中は他の部署の雑用に追われ、なんとか逃げ帰ってから業務に入るため、どうしても作業が終わるのは夕方か定時近くとなっていた。
それがどうだ。自分の仕事だけに集中できるとこうも捗るのかと感動に打ち震える。
「シルファ様、感傷に浸っているところ恐れ入りますが、昼食のお時間です」
いつの間にかエリオットは隣室のキッチンで昼食の準備を整えていたらしい。キッチンを覗くと、テーブルの上には色とりどりの料理が並べられ、温かな湯気を立ち上らせていた。
(いつの間にこんな量を……)
エリオットの有能ぶりに脱帽する。
シルファも子爵家にいた頃は厨房の仕事をすることがあった。優秀なコックや侍女達に手解きを受け、それなりに料理の腕にも自信がある。他部署の雑務を押し付けられない分、仕事に費やせる時間はたくさんある。今後は午前の作業を早めに切り上げてエリオットの手伝いをするのもいいかもしれない。
「あの、私も料理の心得はありますので、もしよろしければ次回からお手伝いさせていただけないでしょうか」
もしかすると余計なお世話かもしれないので、控えめに進言する。自らの領分を侵されることを嫌う人も少なからずいるからだ。
エリオットの反応を窺っていると、彼は物珍しいものでも見るように目をパチパチと瞬いた。
「えっと……?」
やはり、手伝いは不要だっただろうか。
シルファは真意を探るようにエリオットを見つめる。
「……すみません、まさかそのようなお申し出をいただけるとは。ありがとうございます。きっとルーカス様も喜ぶでしょうし、ぜひお願いします」
「! はい!」
エリオットは金縁の眼鏡をクイッと押し上げてから、わずかに口の端を上げて快諾してくれた。
(表情筋、生きていたのね)
なんて失礼なことを考えながら、シルファも笑顔を咲かせた。
元貴族令嬢ながら料理ができるというシルファの過去を詮索せずに受け入れてくれることもありがたかった。
エリオットがルーカスを呼びに行き、半ば引きずるようにキッチンにやってきたところでシルファも椅子に腰掛けた。
食事中もルーカスは思いついた魔術式や構築式について、シルファには到底分からない理論を用いてエリオットに語りかけている。本当に彼は魔法や研究が好きなのだろう。
エリオットはこの難解な話を理解しているのかと感心していると、シルファの羨望の眼差しに気づいたらしい彼は首を振った。
「この人はただ魔法のことを話していたいだけなので、聞き流していいですよ」
と、本当に無関心だというように黙々と食事を続けた。
「お前……」
ルーカスは呆れたような、怒ったような表情を見せたが、不意にシルファに視線を向けた。
「すまん。いつもこういう調子だから、つい。つまらなかっただろう」
「いえ。貴重なお話で興味深いです。私は魔法の才がありませんから、魔法に関しては基礎しか教わっていなくて……理解できないのがもどかしいです」
父が生きていた頃は、魔法の原理や基礎について家庭教師から教育を受けていた。
けれど、継母たちに子爵家を乗っ取られてからは、学ぶ機会も奪われてしまった。そろそろ応用や実践をというタイミングだったこともあり、とても悔しかったことを覚えている。
魔法への理解が乏しいと正直に告白すると、ルーカスは考え込んだように顎に手を当てた。
「ふむ、なるほど。俺が色々と手解きしてやりたいところだが、いかんせん仕事が立て込んでいてな。その代わりと言ってはなんだが、奥の書庫は自由に立ち入っていい。魔法の基本の書から応用、魔術式に関する論文など、魔法にまつわる資料はほとんど揃っている」
「えっ! いいのですか!? ありがとうございます!」
ルーカスからの嬉しい提案に、シルファは思わず身を乗り出した。
「シルファが喜んでくれるのなら、俺も嬉しい。そうだな……一日に一度、少しの時間であれば分からないことに答えるぐらいはできると思う。本を読んで理解できないことがあれば、遠慮なく聞いてくれ」
先ほど仕事が忙しいと言っていたばかりなのに、シルファのために時間を割いてくれるなんて――
ルーカスの優しさが身に染みると同時に、どうしてそこまで優しくしてくれるのかという疑問が浮かぶ。
「シルファが俺の妻だからだよ」
「えっ、心が読めるのですか!?」
口に出していないはずなのに、思考を先読みされて思わず両手で口元を押さえる。
「いや、シルファは分かりやすいから何となく考えていることが分かるだけだ。素直なところも可愛いな」
「うっ」
くつくつと喉を鳴らしながら笑うルーカスを前に、シルファは行き場のない感情を持て余す。やっぱりこの人は、人たらしだと思う。
まだ丸一日も一緒に過ごしていないが、ルーカスが噂のような冷徹な人ではないということは明白だ。
むしろ人懐っこくて、優しくて、思いやりに溢れた素敵な人だと思う。
ほんのりと頬が熱を帯びるのを感じながら、シルファは懸命に話題を探す。
「あ、そういえば、昨日話していた魔力の吸収の件はいつにしましょうか」




