あなたの願いは誰が為に~伯爵令嬢ブリジット・ドナルドソンの場合~
いつかの私へ、いつかの誰かへ
大陸の中で領土も権力も軍力も頭ひとつふたつ飛びぬけて君臨するバラーク帝国の社交界には、一際厳しい女性への美の基準が根付いていた。透き通るようなシミひとつない白い肌、ふっくらと柔らかで豊満な胸、けれど伸びる四肢は小枝のように細く儚げで身長は男性よりも低くけれど低すぎず、零れ落ちそうな大きな瞳を縁取る睫毛は長ければ長いほどよい。唇はぽってりと厚く、髪は腰以上の長さと艶やかさが命。貞操観念はしっかりと持った淑女、けれど自分の前でだけは大胆に…なんてここまで行けば誰かの癖なだけだろと冷ややかな目線でも貰いそうなものだ。
だが、この国ではそうはならない。長い年月をかけて刷り込まれた価値基準はまるで洗脳のように貴族社会だけでなく国民全体に蔓延していた。
「……婚約破棄、されてしまったんです」
帝都にほど近い森の中に少し異質な豪邸があり、そこの門をたたくのは訳アリのものが殆ど。みな、そこに住まう魔女に導かれるように会いに来る。名はヘルガ。とある高貴な血筋の落とし子か、はたまた没した国の王女ではないか。そう噂されるほどにヘルガは気品と誰もが憧れるこの国の美の基準をまるっと持ち合わせていた。
切なる願いは森に住むヘルガへ導く、ここ数年まるで夢物語のように密やかに広まった合言葉だ。ヘルガに婚約破棄をされたと告げたのはこの国の伯爵令嬢ブリジット・ドナルドソン。昔から皇帝に覚えめでたい一族で法を司るドナルドソン家の長女であるブリジットもまた導かれたひとりであった。
破棄を告げられたあと傷ついた心を持て余してさ迷い歩いていたところ、いつの間にか豪邸の門をノックしていたブリジット。独りでに開いた扉に導かれ、気づけば優雅に椅子に腰かけるヘルガの前で紅茶をご馳走になったうえ、人生の汚点を口にしている。まるでなにかに化かされている気分だ。
「婚約破棄……たしか、お相手はスペンサー伯爵令息、だったかしら」
「ご存じなのですね。……はい、その通りです」
「それで?」
「私昔からお見合いが失敗続きでアレン様と漸く婚約できたのです。スペンサー家への多額の融資を引き合いにした結婚とは分かっていましたが、それでも私は構いませんでした。はじめは家に有益な結婚でなくても、せめてこれ以上迷惑をかけないように嫁いだあとに有益な融資先にしてみせると。ですが……やはりお前のような美しさの欠片もないものとの結婚はできないと、別の女性と結婚すると破棄されてしまいました」
「ふぅん、随分な男が居たものねえ」
悔しさでか悲しみでか俯いたブリジットの肩は小さく震えている。女性にしては高い上背はアレンと殆ど変わらず、中世的な顔立ちは切れ長の目が印象的で知的ともとれるがこの国では冷たいと評されることが多い。流行りのドレスに身を包んでいるものの何処か着られた様子のブリジットはまるで消えてしまいたいとばかりに背を丸め、息を顰めて生きていた。
この国では貴族女性は爵位を継ぐことも事業をはじめることも認められず結婚して血を繋ぐことこそが役目とされてる。そんな中で女性の価値はいつからか他者から選ばれることとなり、伯爵家の力をもってしても誰にも選ばれないブリジットは無価値だと突き付けられているようだった。
「あなたはどうしたいの?お相手への復讐かしら」
「いいえ。特別想っていたわけでもありませんから。きっちりと融資した分の返却に慰謝料を加算して徴収したのでそれ以上は望みません。今後どうなってしまうかなど火を見るよりも明らかですから」
「抜かりはないというわけね。流石は帝国きっての才女と名高いご令嬢だわ」
ブリジットはずっと努力し続けていた。美という基準ではこの国の価値にあてはまらないけれど、それ以外のところで役に立つ妻となれるよう必死に励んだ。いつしか刺繍は名誉ある賞を授与された経験がある腕前に。文字の美しさは抜きんでて、隣国の言語も日常会話に困らない程度には習得した。社交界での立ち回りや話術、ドレスの流行りに領地経営をサポートできる教養。どれをとってもブリジットの右に出るものはいない。
そして今回の婚約破棄でもその手腕を存分に発揮して、ブリジットの言葉通り抜かりなく綺麗さっぱりけりをつけた。恐らくアレン・スペンサーは二度と日向に立つことは無いだろう。
「そんなあなたが私のところへ来るなんて、どうしたのかしら」
「ヘルガ様は願いを叶えてくださる魔女だとお聞きしました。……私を、どうか美しくしていただけませんか」
「美しく?」
「はい。このままでは私きっと結婚できません。弟が成人し婚約者と結婚するまでに家を出なければならないのに」
「そうかしら。あなたは十分美しいと私は思うわ。それに賢さも実行する強さもある。きっとそのままのあなたが良いという人も」
「ヘルガ様が美しいからそう言えるのです!いくら賢くても強くてもこの国では何の役にも立たない。私が今回行った対応は間違ったことなんてひとつもないのに…っ、それでも『美しくないだけでなく中身も可愛げがないのか』って陰でいわれているのだって知っているわ!!持つ者が持たざる者へ知ったような口をきかないで…っ!………ぁ、…ご、ごめんなさい、わ、私…なんてこと」
何度も聞き飽きた優しい母や友人たちからの慰め。ありのままでも美しい、きっとあなたを理解する人がいる、そんな言葉は聞き飽きた。だってそんな人は現れない。なぜかヘルガの前ではひた隠しにしていた本音が口を突いて出てしまう。
家族はみなブリジットに優しく、結婚できなければ家に居てもいいと言ってくれている。けれどそう言われれば言われるほどブリジットは何とかしなければと焦ってしまう。だからアレンのことなどよく知りもせず婚約に飛びついてこのありさまだ。
咄嗟に謝るブリジットに気にした風もないヘルガは心の中を覗き込むような透き通った瞳をしていた。
「ふぅん…それが、あなたの願いなのね」
「……はい」
「いいわよ、その願い叶えてあげる」
「え!?」
あまりの安請け合いに思わず驚きの声が漏れる。魔女などとおとぎ話にしか出てこない子供だましと半信半疑であったためまさか本当に承諾されるとは思ってもみなかったのだろう。そしてその反応には慣れたものなのか華奢な肩をちょんと竦めてヘルガはつんと唇を尖らせた。
「なあに。ここまで来ているのに私のことを疑っているのね。ひどいわ」
「…!も、申し訳ありません…!ただ、その……できるとは、思ってもみなくて…」
「ふふっ、冗談よ。みんなブリジットと同じ反応をするもの、慣れっこだわ」
ブリジットは鈴の音が鳴るようにコロコロと笑うヘルガの美しさに思わず見惚れてしまう。ヘルガのように美しくなれる、本当にそれが叶うならどれほど幸せなことだろう。
「それじゃ、ちゃちゃっとやっちゃいましょうか!」
「ちゃちゃ…とって、……あ!えっと、お値段はいくらほどに…。慰謝料はそのまま両親から受け取ったのでそれで足りるかどうか確認を」
「ああ、うちは成功報酬型なの。願いをかなえて一ヶ月後、その成果をもってあなたに支払える中で価値に見合ったものを支払ってもらうわ。良心的でしょ?」
すでに準備を始めているのか古めかしくも立派な戸棚で何かを取り出しているヘルガは背中越しでも魅力が溢れている。新手の詐欺にでもあっているのかもしれない。しかし藁をもすがる思いのブリジットは覚悟を決めたように深くソファに座り直した。
「それじゃあ、まずブリジットがなりたい姿を頭の中に思い浮かべて」
「なりたい姿、ですか」
「当たり前でしょ。美しいっていってもブリジットの願う美しさがなにかなんて私には分からないもの」
「……それならヘルガ様のようになりたいです」
「あら嬉しい。私みたいに?」
「はい。小柄で柔らかそうな体、大きな瞳に真っ白な肌…それから」
きっとその姿はこの帝国の誰もが振り返る。陰口に傷つくことも舞踏会で壁の花になって惨めな思いをすることも、理不尽に婚約破棄されることもない。
まるで少女が星に願いを込めるようにブリジットから零れる願望のひとつひとつをヘルガは小瓶へと詰めていく。ブリジットの願いに応えるようにヘルガが紡ぐ言葉は帝国語ではなく今はもう滅びた古代語であることを知る者はいない。
ありったけの願いを詰め込んだ小瓶はいつの間にかとろんと粘度のある薄紫色の液体へと姿を変えていた。
「こんなところかしら。あなたの願いを叶える薬よ」
「……これを、飲めば私は…」
「ええ。あなたの願い通りの姿になれるわ」
ヘルガから渡された小瓶を食い入るように見つめるブリジットの手は震えている。それが喜びなのか不安なのかはブリジット自身でもまだ分からない。
「ブリジット。よく聞いて。この薬はふたつあるの。まずその手にある薬を飲めば一ヶ月間願いが叶う。一ヶ月後報酬と引き換えに、ふたつめの薬をお渡しするわ。そうすれば願いは期間限定のものではなく一生のものとなる。…まあ、私が報酬をとりっぱぐれないようにするためのものと思ってもらって構わないわ」
「わかりました」
深呼吸をひとつ、ふたつ、みっつ。そのタイミングで勢いをつけて小瓶の液体をぐいっと飲み込んだ。粘度があるように思えた液体は舌の上を転げ落ちると思いのほか、さらっと軽くあっという間にブリジットの喉を通り体全体に駆け巡っていくような不思議な心地に包まれる。味はしないが慣れない度数の高いアルコールでもあおったように一瞬で全身が熱くなり、そこでブリジットの意識が途切れた。
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「ねぼすけさん。折角願いが叶ったのにベッドと結婚するつもり?」
鼓膜を震わせる優しい音色に丸三日寝て過ごしたかのような重い瞼が漸く持ち上がったのはヘルガ曰く薬を飲んでから一時間と経っていないらしい。柔らかなソファの上で上体を起こすブリジットにヘルガは壁側を指差した。
「願いがかなった気分はいかが?」
「……っ!」
ヘルガの言葉に靄がかかった眠たいままの頭が急激に冴えわたった。ブリジットは勢いよく飛び起きるとヘルガに示された先にある大きな姿見を食い入るように覗き込む。そうして映し出された姿に息を呑んだ。
「……これが、…私」
鏡に映るのは正しくブリジットが描いた理想の姿だ。ブリジットが動くたびについてくる鏡の姿が不思議でならないのになぜだろう、確かにそれがブリジット・ドナルドソンであることは分かった。
「姿が変わっても存在は変わらないもの。あなたを見てご両親や弟さんにも気づかれないなんて寂しいでしょ。私配慮ができる魔女なのよ」
不思議そうにしているブリジットに気付いたのか自慢げにヘルガは補足する。何度も何度も鏡の中の輪郭を辿って指を這わせるブリジットは喜びのあまりいつの間にか涙までしていた。
「ヘルガ様、ありがとうございます!ありがとうございます!」
「お礼は一ヶ月後まとめて頂戴な。折角願い通りになったみたいだし、今からでも散策してきたらいかが?」
ヘルガの言葉にブリジットは素直に従い、再度深く頭を下げてから軽い足取りで街へと駆けていく。その姿を屋敷の窓から見えなくなるまで見送ったヘルガはもうすっかり冷めてしまった紅茶に口をつけた。
「ブリジット、あなたの願いは叶ったかしら」
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ヘルガの家を出たブリジットはまっすぐ街が一番賑わう大通りへと向かった。ちょうど昼を過ぎた頃だったからか人通りもピークを迎えており、路面店で呼び込む店員の声や道行く人々の笑い声が入り混じって活気に満ち溢れている。
いつもは背中を丸めてなるべく目立たないように歩くブリジットだったが今日は違う。どきどきと高鳴る胸を抑え込んで今、新しいブリジットとしての一歩を踏み出した。
「あの子、すっごい綺麗」
歩き始めて数歩目。たったそれだけの距離を歩いただけでも集まる好意的な視線は数えきれない。甘い溜息と共に褒めたたえる言葉はすべてブリジットに向けられていた。今まで感じたことの無い視線、今までかけられたことの無い賞賛。喜びと照れくささと優越感とがない交ぜになってブリジットへ一気に押し寄せる。今ほど幸せな日はないと願いを叶えてくれたヘルガへ心の中で再度感謝を伝えた。
その日からブリジットの人生は一変した。街を練り歩き優越感を引き攣れたまま帰宅したブリジットを出迎えた家族たちは何とも不思議な体験をしたことだろう。確かにそこにいるのは娘である姉であるということは理解できるが、眩しく輝く笑顔は昨日までとはまるで違う。何かあったのかと当人に問うても「魔女様のおかげよ」とおとぎ話の台詞のようなことを言うので要領を得ない。
社交界においても突然花開いたブリジットを男性たちは放っておかなかった。最初は目線さえ違うブリジットに誰も理解が及んでいなかったが時間が経つごとにまるで昔からそうであったように馴染み、怪訝そうな視線も全て街を練り歩いた時と同じ好意的なものへと変わっていく。あっという間にブリジットは多くの男性たちに囲まれて壁の花をする余裕など一切ない。
いつか見合いを断った令息たちは厚顔無恥にその輪に入る勇気は流石になく、ブリジットを中心に華やぐ箇所を遠巻きにチラチラと羨まし気に視線を送ることしかできていない。その事実にすっかりブリジットは気分が良くなった。
「美しいってなんて楽しいのかしら」
ブリジットは積極的に男性からの誘いを受け、先月とまるで違う華やかな一ヶ月となった。打診のあったお見合いも今までは一度の顔合わせで断られることも少なくなかったのに、今や次の約束を取り付けるのは相手側から。
似合わないと箪笥の肥やしになっていた煌びやかなドレスや流行りの帽子、主張の強い口紅も大粒のジュエリーだって今のブリジットにはしっくりと馴染んでいる。何度鏡を見てもまごうことなき美しさがそこにはあった。ブリジットは有り余る喜びを抱えてくるりと鏡の前で一回転。今ならあの美しい魔女の隣に立ったって惨めな思いはしないだろう。
お見合い相手の中から正式に婚約の打診があった。念願の言葉を父から聞いたのはちょうど二週間目のこと。それも一件ではなくお見合いした相手全員から是非にとの声がかかったそうだ。特別何かをしたわけではない。ついつい傲慢になってしまいそうな自分を律することはあれど、中身は今も変わらずブリジットのまま。ただ美しさを手に入れた、それだけだ。
「あんなにも苦しんだのに……、美しいというだけで、こんなに簡単に手に入るなんて」
当然前回のように婚約破棄される可能性はゼロではない。それでも一ヶ月と経たず、喉から手が出るほど欲しかったものがこうも簡単に掌に転がり込んでくることに驚きと喜びと…やるせなさが溢れてくる。
「……いいえ、これでいいの。家のためになる相手と繋がりをもって、結婚して子供を産んで。………そうでないと、罰が当たるわ。私は他の人が願っても手に入らない幸運を手に入れたのだもの」
鏡に映る美しい自分自身へ何度も言い聞かせる。魔女の気まぐれか神様のお導きか、何がブリジットに巡ってきたのか分からないが幸運を身に受けて授かった美しさ。ヘルガへ告げた願いがまるっと叶う。それを心から喜べないなんてあってはならないと何度も頭を振った。
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ヘルガと約束した一ヶ月後。ブリジットはあの日と同じソファに腰掛けていた。最近買った口紅はじんわり血色感を浮き立たせ透き通るような白い肌にとても映えている。着ているドレスも新調したのか誰かからの贈り物か、すっかりその姿に馴染んでいた。
誰が見ても美しく帝国中が振り返る美女となったブリジットはそれでもヘルガを初めて訪ねて来た時よりも暗い顔をしていた。
「一ヶ月ぶりね、ブリジット。ご機嫌はいかがかしら」
「……婚約を望んでくださる方が現れました。…しかも、ひとりじゃないんですよ」
「まあ!それはおめでたいわね。よかったわ、願いが叶ったようで」
「………はい。ありがとうございます」
言葉の通りには見えないブリジットの表情に目を細めたヘルガは紅茶を入れ始めた。部屋いっぱいに広がるベルガモットの香りがブリジットの鼻孔をくすぐる。初めてここを訪ねて来たときと同じ香りにトゲトゲとした心が少しずつ丸くなるのが分かった。ヘルガが目の前に置いてくれたティーカップの中で揺れる琥珀色に視線を落としたままブリジットは深く考え込んでいるようで。
「折角願いがかなったのに、どうしてそんなに浮かない顔をしているの?喜んでもらえると思っていたのだけれど」
「……!あ、ご、ごめんなさい!嬉しいです、とっても。本当にヘルガ様には感謝しております。感謝、しているんです…。……ただ」
折角力を尽くしてくれたヘルガへ向ける顔ではなかったと慌てて頭を下げるブリジットにやはりヘルガは気にした風もなく鈴の音のような笑い声を零すばかり。手持ち無沙汰で思わず手に取ったカップに口をつけるとやはりあの日と同じものなのだろう、爽やかな香りが口から鼻へ抜け身体中を巡っていく。まるで母の腕に抱かれていたときのような安心感は、口は堅くあるべしとの淑女の掟を簡単に崩してしまう。
「……結局変わらないんです。美しくないんだからせめて従順で大人しくしていろという言葉から、折角美しいんだから君は意見せずニコニコ笑っているだけでいいんだよって言葉に変わっただけ」
「あら、随分と変わったじゃない。美しいと誰もが認めているわ」
「……っ、……私は、傲慢になってしまったのでしょう。美しくさえあればと思っていたのに、手に入れたら今度は…私の心を見て欲しいだなんて。……なんて欲張りなのかしら。誰かを非難なんて出来る立場じゃないですね…私」
みるみる瞳に溜まっていく涙は大粒の雫となって降り注ぐ。どれだけ貶されてもどれだけ相手にされなくても自分自身に誠実に誇りをもって生きてきたはずなのに。美しく着飾ったブリジットが今は何よりも醜く思える。
「美しくあれば、美しくなりたい。そんなことばかり言って……結局私はアレン様や陰でとやかく言う人と同じ。恥ずかしい、情けない…っ」
「あのね、私あなたが望む美しさだったりそうなりたいって気持ちを否定したことなんてあったかしら。そのままでも美しいとは伝えたけれどね」
「……同じこと、ではないですか?外側だけ取り繕ってもどうしようもないとお分かりで、私を変えてくださったのでしょう。自分で自分の愚かさに気付くように」
「嫌だわ、私ってそんなに性格が悪く見える?魔女って響きが良くないのかしら。――私が問うているのは、それを望んでいるのが本当にあなたかってこと」
「…?」
「あなたの価値に他者を介在させないで。あなたの願いは誰のためでもなくあなたのためにあるものよ」
確かに魔女と言う響きはヘルガには似合わない。そう思わせるほど、慈しみにあふれた笑みをブリジットに捧げるヘルガはまるで女神や聖女のようであった。それもまた、偏見という名の潜在意識だ。魔女は意地が悪く、女神や聖女は清く正しいなど誰が決めたのだろう。
「なぜ、ブリジットは美しくなりたかったの?」
「………なぜ。…結婚したかったから。結婚して、貴族として女として生まれた責務を果たしたかったから。堅実に働き懸命に生きる領民たちにとって少しでも利がある結婚をと…」
当初の目的はそれ。大恋愛をして愛し愛されなどとは到底思っていなかった。それが貴族に生まれたものの定め。ノブレスオブリージュ。多少年齢が離れていようとも性格に難があろうとも領民にプラスになる婚姻でさえあればよかった。しかし、選ばれるためにこの国では美しさは必須条件だったのだ。
「……ヘルガ様のように美しくなりたかったのは本当です。でもそれは、私がそうなりたい思いよりも周りに私は美しくないと否定され続けられることが辛かったから」
「ええ」
「子供の頃、身長が高いことが自慢でした。誰よりも遠くまで見渡すことができたから。領民たちと一緒に農作物の様子を見て回ったり孤児院の子供たちと駆けまわってできたそばかす、私案外気に入っていました」
「確かにあのそばかす、チャーミングだったわね」
「……いつからそれが恥ずかしいと思うようになってしまったのでしょう」
真っ新だった子供のころ、世界は小さくも美しかった。他者からの見られ方に重きをおきはじめたのはいつからだっただろう。真っ白なシーツにひとつひとつシミができて、いつしか元の色が分からなくなるほどシミだらけになってしまった。
「もう一度聞くわ。あなたの願いはなあに?」
ヘルガは優しく問いかける。魔女でも女神でも聖女でもなく、ヘルガとして。心の奥底を覗き込むような透き通った瞳に見透かされた今、隠し立てすることなど何もない。
「私の願いは、胸をはって生きること。誰かの基準ではなくて私の基準で私の価値を決められること。……私以外の誰にも、私の価値を委ねないこと」
「この国ではまだまだ難しい願いね」
「はい」
「でもとってもいい願い。心の底から込み上げてくる強くて激しくて……震えるほど、美味しいわ」
赤く弾力のある舌がぺろっとヘルガの唇の端から覗く。いつの間にか靄と化し、部屋を浮遊するブリジットの言葉をその魅惑的な舌が絡めとった。何度かにわたって咀嚼をして飲み下されていく姿を唖然と見つめるブリジットを気にするでもなく、恍惚とした表情で願いの欠片を平らげていく。
「ご馳走様。確かに報酬は頂戴したわ。…ふぅ、予想通りとってもいいお味♪」
「え、ほ、報酬って…」
「さて。はい、これ約束の薬よ」
目の前で行われた一部始終の殆どを理解できぬまま進んでいく話についていけないブリジットはついつい差し出された薬を受け取ってしまった。一か月前に飲んだものよりもほんの少し彩度が高い色の薬が入った小瓶は手の中で艶めいている。ブリジットは小瓶とヘルガとを視線で行き来しながら戸惑いを隠しきれない。
「………え?」
「なあに、もう忘れちゃったの?一ヶ月後に美しさを永遠のものにできる薬を渡すって言ったでしょう?報酬はもう頂いたし、薬を渡さなくっちゃ契約不履行になっちゃう。魔女の契約の不履行って大変なのよ」
「それは覚えていますが…、えっと……ここは、なんと言いますか…、あなた自身の姿で自信を持って生きていきましょうって、なる…展開、かと」
「あらどうして?一番お得なのは…それを理解して美しいと感じる姿のままいることじゃない?偉そうなことを言ってもやっぱり美しさは武器だということも事実。もしかしたらあなたの本当の願いを叶える糧になるかもしれない。利用しない手はないんじゃないかしら」
美しさは武器。それはこの一ヶ月嫌と言うほど感じた。老いも若いも男女関係なくブリジットの言葉に耳を傾けてくれる。その後に続く言葉が美しいんだから余計なことを…と言った類のことであったとしても、最後まで話を聞いてもらえるということさえ以前では考えられなかった。
「……確かにそうですね。でも何だか私の願いの重みも変わってしまいそうで」
「真面目ねぇ…。ラッキーって貰っちゃえばいいのに。私が美しく生まれたのも運、あなたが私に巡り着いたのも運。そしてその運を手繰り寄せたのは、あなたが真っすぐ生きてきたからではなくて?運やチャンスって案外見過ごすものよ。きちんと誠実に生きていない限りね」
だからこそブリジットは薬に飛びつかないのだろうけれど。人間の矛盾で愛おしいところだ。
「それにこれは対価。あなたは私に見合ったものを差し出したのだから過不足なく渡さないといけない決まりなの。…まあ、この薬を飲むも飲まないもそれはブリジットの自由よ。受け取ってくれさえすればね」
ブリジットはヘルガの言葉を頭の中で反芻させる。そうしてブリジットは意を決したようにその小瓶の蓋を開け、それから――。
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ブリジット・ドナルドソンが理解ある両親と弟の力も借り、法の目を潜って女性のためのサロンを立ち上げたという噂がヘルガのもとにも届いたのはあれから数年後。
帝国の女性たちの願いはいつしか形を変え始めていた。
――森の中に佇む豪華な屋敷には願いを叶えてくれる魔女が住むという。
心の底にあるその願いを。
最後までお読みいただきありがとうございました。
拙い文で恐縮ですが、またご縁がありましたらお立ち寄りください。
※読み返しておりますが何分至らないところがありますので、誤字があれば報告いただけますと大変助かります。皆さまいつもありがとうございます。