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グレイゾーン1  作者: サヤカ
Act6 ディパーチャーズ
35/36

 レイバに答えを告げてからは、慌ただしかった。

 まず、彼は伝言通りに新しい通信機をくれた。それも普通のものではなく、ガードが利用する機種の中でも特に高価な、森の中での通信を可能にするものだと言う。

「なくさないでね。いろいろ都合があって、他の機種で代用して欲しくないから」

 開いて動作を確かめると、すでに通話番号とメールアドレスがふたつ登録してあった。テンプル発明事務局(つまりはレイバ宛)、そしてケイト。

 レイバに訊いてみると、どうでもよさそうに答えてくれた。

「ああ、彼女たっての希望だよ。女の子同士の相談があったら、気軽に連絡ちょうだいねって言ってたけど」

 いまいちケイトの意図は読めなかったが、リリィは気にしないことにした。先日話した感触だと、悪い人間ではなさそうだ。知り合いが増えたと考えておけばいいだろう。

 準備が必要なのは、もちろん通信機だけではない。たいていのものはレイバが手を回してくれたが、リリィが個人的に使用する日用品や武器は、自分で用意しなければならなかった。銃は両方もう使えないが、それを除いた装備はすべて自宅に置いてあると告げると、レイバはケイトを呼んで、リリィを自宅に送り届けるように言った。用事が済んだら、誰かに気づかれる前に帰ってくるように、とも。

 形だけのガレージが存在していたことが幸いして、リリィは人目につくことなく、帰宅することに成功した。先日、エミリに送ったメールが効を奏したのか、家の周りに張り付いているような知り合いはいなかった。

 いや。そういえば授業が再開されるのも、今日だった。今頃はみな、学校にいるのだろう……

 念のため、ケイトを玄関口に残してから、リリィは家の中のものを物色することにした。のんびりしている暇はないが、それでも、二年を過ごしたこの家を見れば、感傷じみた想いが沸いた。

 リリィは自室に向かって、髪を結ぶゴムから、防御効果が高いインナーまで、一通りの愛用品をバッグにつめた。武器の整備に使う道具のセットも、めったに使わないナイフも、意外と効果が高いと分かった短いロッドも、グローブも、アームガードも、靴底に敷いていた詰め物の替えも。思いつく限りの全てを。

 服や下着を最低限だけ選んでから、最後に化粧品や常備薬と言った類を、ほんの少しだけ詰め込んだ。そして、すぐに部屋を出た。のんびりしていたら、出たくなくなると思った。

 〈教区〉に帰ると、レイバがまたもプレゼントを用意してくれていた。

「ほら」

 得意げに笑って差し出してくれたものは、三つの銃。

 一つ目は、学校から支給されるリボルバーとは根本的に形が違った。もっと大きく、長い。担がねば持てぬほどの全長と、遠くを見据えられるスコープが、端的に機能を示している。

「ストーン弾対応ライフルさ。森に出るならそこそこ使えると思うよ。射程と破壊力は、支給リボルバーの比じゃない」

 ライフルは扱える。縦長の構造を採用した学校の窓から、援護射撃のような訓練をしたことは記憶に新しい。そして、この種類の銃の使用感を、リリィは決して嫌いでない。

「市販品を改造した特製さ。銘は〈ブラスト〉。装弾数は二十。自慢は速射性でセミオート対応のオートマチック。有効射程は二百メートルで、危険区域は六百くらいかな。障害物の多い場所で使うことが多いだろうから、過信はしない方がいいけど」

 レイバはそう説明しながら、もう二つ、銃を目の前のテーブルに置いた。リボルバーだった。学校でなくしてしまったものと、ほぼ同じ大きさだ。ただし、こちらも弾薬はきっと違う。

 リリィは〈ブラスト〉を手に取った。ずっしりと重く、扱うには練習が必要だろうが、森で遠距離射撃をするにはこれ以上ない武器だと思った。レイバはリリィの反応に、実に満足したようだった。邪気なくはしゃぎながら、俺ってやっぱ天才だね、と笑う。

 こういう所は相変わらずだと、リリィは思った。


 慌ただしく準備が進む日々の隙間で、リリィが久しぶりにスティアの姿を見つけられたのは、雨の日の昼下がりだった。

 ざあざあと屋根を叩く水音が響く、人気のない食堂。彼は壁際のテーブル席で、椅子の背もたれに寄りかかって、居眠りをしているように見えた。

 リリィは、そっと近づいた。ずっと探してはいたのだが、同行を決意してからスティアに会ってはいなかった。彼は地下の実験室から出られなかったようだし、リリィ自身も準備に手間取って、慌ただしくしていたからだ。

 スティアはイヤホンを装着していた。耳から垂れたコードが、小さな機器に接続されている。音楽プレイヤーの存在は知っているが、あまり馴染みのない機械だったので、リリィは思わずそれをじっと見つめてしまった。そういえば、初めて会った日も、彼はこれを持っていた気がする。

 機械の中にあるレコードストーンが回転する、小さな摩擦音が聞こえた。彼が聞いている曲そのものは、雨音に紛れて、リズムすらも聞き取れない。

「……寝てるのかな」

 思わず呟いてしまったその瞬間に、スティアはゆっくりと目を開けた。

 リリィはびっくりして、肩を凍らせる。スティアが一度寝たら容易に目覚めないことは、身にしみて知っている。ならば、起きてはいたのだろう。

 声の主を探すように、彼はこちらを見た。独り言を聞かれてしまったような気まずさを感じながらも、リリィはなんとか挨拶の言葉を探した。

「お、おはよう? じゃないや、久しぶり、かな」

「そんなに動転しなくても。自分から近づいておいて」

 スティアはこちらの反応に笑いながら、耳からイヤホンを外して、機械のスイッチを切った。

「寝てたわけじゃないよ。……なんだろうな。イメトレかな」

「イメトレ?」

「ほとんど暗示みたいなもんだけどね。気合い入れたい時はこれ聴くの。初任給もらった時に、レイバが作ってくれたんだよ。……で、なにか用?」

「あ、そうだね。えっと」

 リリィは、ポケットに入れていたものを、さっと取り出した。

 一枚のハンカチだ。いつか返そうと思って、洗濯を終えてからずっと持ち歩いていた。学校で泣きだしたリリィに、スティアが無言で押しつけたものだ。

 綺麗に洗濯されて畳まれたその布を見て、スティアは一瞬だけ沈黙した。やがて気付いて、小さく笑う。

「別に、いつでもよかったのに」

 ハンカチを受け取りながら、スティアはそれを自分の服のポケットにしまった。ちらりとポケットの裾から見えたが、すでに今日の分が入っていたらしく二枚いっしょに詰めたようだ。常にハンカチを持ち歩いている男子なんて、珍しいなと思ったが。

 そんなことよりも重要な言い含めに、リリィは気づいた。

「……いつでも?」

 ここで別れる予定の人間に、向ける言葉ではなかった。

「もう知ってるの? これからのこと」

「レイバにだいたい聞いたよ」

「同行者が、誰だかも?」

 リリィが率直に訊くと、スティアは返事の代わりに、冗談めかした動作で、肩をすくめた。

「寝てる間に人の裸見るとか、リリィは悪趣味だと思う」

「ばっ……!」

 からかわれているとは分かっていたが、つい過剰に反応してしまう。スティアは笑った。嫌みたっぷりに。でも、明るく。

 リリィは返す言葉に詰まりながらも、今の一言にはどこかほっとしていた。彼が自分の体のことを、冗談の種にするとは思っていなかった。それができるということを考えると、こちらが思っている以上に開き直っていて、強い人なのかもしれない。だが。

「ほんとに、私でいいの?」

 半信半疑だったので、隠さずに訊くことにした。

「いいとか悪いとかじゃないでしょ。あんたの雇い主は、俺じゃなくてレイバだよ」

「……そうだけど。でも、あなたが嫌だって言うなら、私も無理にはついていけないよ」

 不安な気持ちを隠さずに、告げる。

「レイバもあなたも、いつもあなたの意向を置き去りにする。でも、私がもしあなたのパートナーになるなら、契約相手をきちんと立てたいよ。あなたは、私と一緒に旅をすることが、本当に嫌じゃないか、教えて欲しい」

 スティアは、ふっと息をついて、意味深に笑んだ。

「じゃあ、本音で言うよ。同行者は、きちんと仕事ができる人間なら誰でもいい。その点ではあんたを信頼してる。……でも、ひとつだけ条件を出したい」

 じっと、こちらの目を見つめてくる。深い碧色の瞳が、氷のように静かだ。

 リリィはたじろぎそうになったが、ぐっとこらえた。こちらも気を緩ませず、まっすぐに相手の目を見る。

 対等でいなければ。これは仕事なのだから。

「ロールのことを、怖がらないで欲しい」

 とても静かな声だった。

 リリィは、言葉に縛り付けられたように、身体を静止してしまう。

 目の前にある表情もまた、声と同じく静かだった。

 だけど、まるで、母の手を探す迷子のようだ。

「……けっこう、難しい事だよ。できる?」

 少ない言葉に込められた、寂寥を感じた。たぶん、今自分が感じているよりも、彼が背負っているものはもっと重い。

 怯んだことは否定しない。だけど。

 根拠のない確信が、胸に広がってゆくのを感じる。

 その確信は、とても温かい。まるで、父の腕の中のように。

「大丈夫」

 答えると、スティアは試すようにリリィを見つめ続けていた。その視線に胸を張って、続けた。

「私は鈍いから平気だよ。この前だって、ロールちゃんと一緒にご飯を食べたけど、普通にしてれば普通にしか見えないよ。眼帯を外されちゃうと……ちょっとびっくりするけど」

 話の内容が正直な感情にずれていって、あわてて首を振った。

「でも、大丈夫だから。ほら、だって私ってさ、あの子のお姉さんになれるんじゃない? なんたって父親が同じなわけだし」

 ごまかしてから、失言に気づいた。はたと唇を固まらせるが、遅い。

 スティアは、今の一言をしっかり捕まえてしまったようだった。じっとこちらを見て、つぶやく。

「……父親」

「あ、えっと、違うの深い意味はなくて」

 リリィは慌てて、悪気のないことを伝えようとしたが、慌てれば慌てるほど、わけがわからなくなってしまった。スティアとロールには、亡くした父親がちゃんといた。どうにもならない理由で失ってしまった本当の親と、気まぐれで面倒を見てくれたお節介な男とを同列にするなど、考えようによっては失礼極まりない。

 だが、リリィのそのような懸念を、そっと退けるように、スティアは笑った。

 とても、素直に笑った。

「やっぱ親子だ、ほんとに」

「え?」

「すげー似てる。そのアバウトな家族意識」

 誰のことを指しているのかは、言われなくても分かった。スティアの笑みの温かさが、なによりも物語っている。

「世の中の人みんなが、ブルーノ家の考え方したら、人類みんな兄弟になれるな」

「……そんなに変?」

「大絶賛だよ」

 スティアは改めて、リリィの顔を見る。

 深い碧。

 だが、冷たさはなぜか、もう感じない。

「これからよろしく。お姉さん」

 そう告げられて、リリィは自分がなぜ年上役であるのかとても疑問に思ったが、すぐに思い出した。そういえば彼は、リリィが四月生まれだということをガイルに聞いたと言っていた。

 思ったことが表情で伝わったのか、彼も同じことを考えていたのかは分からない。スティアは最後にぽつりと、こう言った。

「あんたの誕生日を覚えておくことには、俺にとって他の意味があるんだ」

「え?」

「出発の日に分かるよ」


 シェルターを運用・管理しているのは国だが、提供元はもちろんレアリス・カンパニーだ。目を光らされているだろう状況下で、どうやって街を抜けるのか疑問に思っていたのだが、レイバはあっさりと、リリィの常識を覆すプランを提供した。

「シェルターだけが出入り口だと思ってるから、いけないんだよ。他のルートでいけば、カンパニーのチェックは受けない」

「でも、私は実際に見たけど、街を覆う壁に隙間なんかないよ? 開いてるのは空くらいしか……」

「空が開いていることには気づいて、地面の下が開いてることには気づかないあたり、リリィは発明家には向かないかもね」

 学校から〈教区〉へ移動する際に使った地下道。あれはもともとこの街にあった森人の遺跡の一部の、巨大迷宮なのだと言う。かなり入り組んでいるので、道を知らずに入れば出ることは難しいが、把握さえしていれば、街のあらゆる場所に移動をすることに役立つ。そしてテンプル側の地区から通じる出口のひとつは、シェルターの下をくぐり抜けて、街の外で開いているのだと言う。

「ま、使いやすいように俺たちが改造したんだけどね」

 案内役のケイトと、見送りのレイバを含めたメンバーで、地下道を抜けることになった。

 旅装束を整えて、スティアとロールと合流をする。彼らの服装や雰囲気は普段とあまり変わらず、厳重装備で実地訓練を行ったリリィにしてみれば、若干気が抜けるほどだった。ビーストの被害がほぼないということを考えれば、妥当な選択なのかもしれないが。

 だが、スティアは街にいた時よりも、服を着込んでいるように見えた。おそらく、今は上着の下も長袖だ。布地と空気がうまく働いてか、普段よりはほんの少しだけ、まともな体格に見える。実験や診療が繰り返されたテンプルの生活では、着脱が耐えなかったのだろうと、リリィは見当をつけた。

 来た時と同じ部屋から地下に降りて、違う道へ進んだ。所々は、ライフルを背負っていると、身動きをとるのが辛いくらいには狭かったが、やがて道が開けて、車道ほどの広さになっていた。

 終点に着くまでは、かなりの時間がかかり、途中に何度か休憩もした。やがて道はゆるやかな上り坂になった。たどり着いた出口には、車が置いてあった。

 新しい車ではないが、明らかに整備の直後だとでも言うようにピカピカだった。小回りに優れた型だ。人気のオープンタイプではなく、天井と壁がある。必要に応じて天井は開閉できるらしく、蓋のような窓が取り付けられていた。

「シールドは一応、四つ入ってる。ロールがいるなら大丈夫だと思うけど、うまく使ってね」

 レイバが気楽に言う。これから世話になる車を前に、リリィは足取りが軽くなった。近づいて、様々な角度から点検をした。

 壁と天井がある分見通しには優れていないが、防御力が高そうなので、その点はむしろありがたかった。ガードの人数が少ないならば、機動製重視の型の方が扱いやすい。

「一番の自慢は、燃費がいいことだけどね」

 レイバは車を目で指しながら、リリィの頭にポンと手を載せる。

「運転できるよね?」

 リリィは頷いた。自動車免許は学校の一年目のカリキュラムで習得ができる。

「しばらくは交代の要員がいないけど、そのうちスティアにもてきとーに運転教えてやってよ。どうせ外の世界は無法地帯だし」

 いい加減なことを言いながら、レイバは車から離れて、さらに奥に向かった。

 車体に目を奪われて気づかなかったが、そこが出口なのだろう。大仰な扉の前に、シェルターのゲートによく似た、開閉装置と思われる機械パネルが貼り付いている。

「外から誰か入ってきたら困るから、施錠はしてるんだ。開けるの久しぶり」

 レイバは気楽に言いながら、機械に異常がないか確かめた。すぐに振り返る。

「スティア、鍵」

 呼ばれたスティアはレイバの方に向かおうとしたが、足を止めてリリィに声をかけた。

「一緒に開ける?」

「え?」

「これから同じ作業を何度もするんだし、あんたも覚えておいてよ」

 スティアに連れられて、装置パネルの前に来た。やはりシェルターの制御装置によく似ている。というよりも、同じものだろうか?

 鍵はガードライセンスだった。スティアが、取り出した父のブレスレットを装置にかざすと、電子音が鳴って、パネルが光る。たしか、本人登録の暗証番号を入れるはずだ……

「ガイルさんのライセンスだからね、これ」

「え? うん」

「暗証番号は、ガイルさんが考えた」

 告げながら、スティアは無造作にパネルに指を滑らせる。

 0413。

 とても見覚えのある数字の羅列が、何を意味するのか、一瞬だけ分からなかった。

 気づいたのは、スティアがにやりとしてリリィを見たからだ。――胸の奥が、熱くなった。

 扉が開く。光が溢れた。外からの太陽光が視界に降り注ぐ。

 閉ざされていた世界が確かに開いた。そんな壮大な錯覚を起こさせる。それは。

「四月十三日は、俺にとってはケーキの日だった」

 隣に立つスティアが、外の光を眩しそうに見つめながら、笑う。

「知らないって言ってんのに、あの人、毎年その場にいる人間みんなを巻き込んで、祝うんだ。本人の元へは戻ってやらないくせに。ほんと、勝手だ」

 この光に触れて、ここから流れる空気を吸って、夢にまで見た外の世界に出る。たとえそれが望んだ形ではなくても、きっと意味はある。失ってしまったと思い込んでいた夢のかけらは、ここにあった。

「だから、この暗証番号ばかりは、忘れたくても忘れられない」

 どこにも見当たらなかった父の想いは、確かな形として、こんなに近くに、残っていた。

 スティアが最初に車に乗り込んだ。ロールがそれに続く。最後にリリィは運転席に乗車した。

「街についたら、入る前にテンプル側に連絡よこすこと」

 レイバが近づいて、窓から声をかけてくる。

「これからお前たちは立派な〈裏ガード〉だ。身分の照会はなんとか避けて、胸を張って生きること。ギルドの場所は俺に連絡をくれればすぐに教える」

「裏ガード?」

 リリィが問うと、スティアが答えた。

「ライセンスを不法入手して、勝手にガードを名乗って商売をする連中のこと」

 あっさりと言い放たれて唖然とするが、彼は肩をすくめるだけだった。

「なにも間違ってないでしょ」

「カラーストーンの場所は、スティアに渡したレーダーでだいたいは見れる。詳細情報を調べただけのメモも渡した。新しい情報がこっちに入ったら、その都度連絡する。そっちからも、こっちに報告を怠らないこと。特に、定着剤と栄養剤は持てそうなだけ持たせたけど、消耗品だからすぐに足りなくなる。原材料は俺だけの秘密だから、こっちから送らなきゃマズいんだ。お前たちの居場所はスティアのピアスで把握できるけど、そればっかりに頼るのも怖いし、ちゃんと報告してきてよ」

 ふとリリィは気づいた。叔父の言葉をこうして聞く事は、これから先はしばらくないのだ。

「レイバ」

「ん?」

「お世話になりました」

 感謝だけは間違えずに告げようと、リリィは礼を言った。レイバは驚きも喜びもせずに、いつものように明るく笑った。

「ん。俺もまともな飯が食えて楽しかった」

「あたしの料理じゃ不満なのかよ」

 後ろからケイトがレイバを小突く。ぐお、と悲鳴を上げる叔父の姿を見て、ロールが笑った。リリィも笑む。

「それじゃ」

「ああ」

 リリィがアクセルを踏むと、上り坂になっていた道を車が進んだ。光に身を躍らせると、やがてガタンと音がして、地面が傾く。何かのスイッチになっていたようだ。重力が、回転する。

 ズシン、と重い音がしたと同時に、床の振動が止まった。気がつけば、地面の上にいた。先ほどまで地下道と通じていたはずの床が完全に閉ざされ、真下にあった。

 眼前に広がるのは、とてつもなく広い森だ。狂った鳥が飛んでいる。狂った獣もきっと潜んでいる。

 リリィは振り返る。シールドに覆われたデカルトの街は、少し離れた背後にあった。この場所は街道からは外れているが、そこまで遠くもない。

「じゃあ、行くよ」

 後部座席に向けて告げると、銀髪の兄妹はそろって了解を示した。不思議な旅の連れ。不思議な車。不思議な景色。

 リリィは旅立ちの高揚感を胸に抱いたまま、アクセルを踏んだ。これが大きな一歩目になるような気がしていた。

 門出の空は抜けるように青く、晴れ渡っていた。


 ****


 正しい決断をするには、リリィ・ブルーノはまだ、スティア・アリビートのことを知らなさすぎた。

 彼女がそれを知ることになるのは、もう少し後の話だった。

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