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グレイゾーン1  作者: サヤカ
Act6 ディパーチャーズ
34/36

 夕食時をすぎた食堂には、誰もいなかった。厨房からは、水音と、食器を置く音が忙しく聞こえてくるが、テーブルの設置されている部屋には、明かりも灯っていない。

 リリィは誰もいないテーブルについて、椅子に腰掛けていた。部屋に戻る気にはなれなかった。今ロールに会ってしまったら、どんな顔をすればいいのか、分からない。

「おひとり?」

 突然、声をかけられて顔をあげる。

 首にかけたタオルで手を拭きながら、ケイトは不思議に思う気持ちを隠しもせずに、こちらを見ていた。飾り気のないエプロンと、色気なくひとつに縛った長い髪と、化粧っけのない顔立ち。リリィは、彼女が食事の後片づけのために残っていたのだと見当をつけた。

「……ええ。レイバもスティアも忙しいみたいだし」

「レイバに頼まれたんだ? スティアのパートナーになれって」

 驚いて目を丸くすると、ケイトは屈託なく笑った。

「あたしは一応、この施設の関係者だしね。事前にレイバから聞いてたんだよ。で、当のあなたは、気が進まないって顔だね、それ」

「私は……」

「気を遣わなくてもいいよ。あたしは別にレイバびいきてわけじゃないし」

 ケイトは明快に言って、片手を腰に当てた。

「レイバはああいう奴だから、分からないだろうけど。悪行の片棒をかつぐのは、誰だっていい気分じゃないでしょ」

「悪行?」

「法律とか倫理とか、難しいことはあたしにゃ分からないけど、どんどん痩せていくスティアの様子を見るに、あのやり方が正しいなんて思えない。感情的な意見よ、もちろん」

「ならどうして、あなたはここで働いているんですか」

「他人事だからよ」

 ケイトはそう言って、いたずらっぽく笑った。

「あたしがここに就職した理由は、知人のツテ。路頭に迷っていた所を拾われた。で、雑用を一手に引き受けてる。あたしの雇い主のテンプルって奴は、どう見てもまっとうじゃないけど、あたしはそれに直接関わってない。つまりテンプルのやってるあこぎな商売に対して、直接に責任がないのよ。だから、やっていけてるの」

 さばさばと、諦観的なことを言う。

「スティアのことは、可哀想だと思う。でもそれって、悲劇の主人公を見て『かわいそう』って思うのと、同じレベルの可哀想なのよ。あたしの人生にはなんの関わりもない。だから、自分が食っていくために横目で見つめて知らないふりだってできる。だけど、もしもサポーターになって実験の補佐をしろなんて言われたら、とたんに怖くなってこの施設を飛び出すと思う」

「…………」

「薄情でしょ。あたし正直なのよ」

 自分の中にある想いが、ケイトの主張と同じだとは思えなかった。だが、断片的には分からなくもない。

「テンプルが、怖くなったって言うのは、確かにあります。ケイトさん……は、ここで行われている実験の内容は知っているんですか」

「ここの施設の職員に、建前上は優劣がない。雑用のあたしも含めて、全ての情報はオープンよ。キメラとか〈キャロル〉まで、だいたいのことは分かる」

「私は、レアリス・カンパニーが世界を守るふりをして、その裏でビーストを利用していると知って、失望しました。でも助けてくれたテンプルだって、その点は何も変わらない」

 思いを口にすることには、予想していた以上の意味があった。漠然としていた感情が、絞り込まれる。胸がきりきりと痛くなる。

「ずっと、心のどこかで思ってたんです。好きなことを選んで、生きていけるって。私は、父さんの背中を見すぎたのかもしれない。ガードになるって言う目標があって、その目標にそって努力すれば、夢をつかむことが絶対にできるって。努力は必ず報われるものだって、信じてたんです」

 ぎゅっと、拳を握りしめた。

「でも、外からの、思いも寄らない要因で、目標を見失って……後ろめたくないものや、正しいものなんて見あたらなくて、誰を信じたらいいのかが分からない。心から信じられて、目指したいと思えるものが、現実の世界のどこにも見あたらない」

 なにが〈ブラック〉と〈ホワイト〉だろう。世界には白も黒もない。さまざまな属性が混迷している。混ざって、濁って、何がなんだか分からない。

 ビーストの瞳のグレイと、何も変わらない。

「テンプルに協力することには、やっぱり抵抗があります」

 声を振り絞った。精一杯に。

「私には、理屈や理由は言えない。ただ、キメラの顔を思い出すと、怖いんです。……科学なんて、もうこれ以上、進歩しなければいいのに」

 限りなく本音でそう言うと、ケイトは苦笑した。

「それは極論だね」

 痛いほどに分かっていた。レイバの言葉は、いつでも思いやりがないが、いつでも現実的なのだ。

 今更、シェルターやシールドなしでは生きられない。発展した文明は、確実に身体に浸透してゆく。それが人間の進化だからだ。現れたものを破棄するのは、容易なことではないし、意義のあることでもない。

 〈ブラック〉も〈ホワイト〉もキメラもスティアも、同じレベルで考えれば、リリィに止める力はない。

「……まあ、分からなくもないけどね。でも、人間はそこまで弱くないよ」

 ケイトは言った。きっぱりとした話し方だが、彼女の言葉は不思議と冷たくない。

「あのさ。夢を掴める人間と、夢をあきらめる人間のどっちが多いかって言われれば、どんな時代だって関係なく、たぶん後者なのよ。でも、そんな統計には意味なんてない。自分の定めた将来設計にそって、自分の定めた通りに全てがこなせる人間なんて、きっとどこにもいない。おおまかにそれができた所で、必ずしも幸せになれるとは限らない」

「…………」

「目標を定めるのは、物事を始める前。だから、実際にやってみて想像とのギャップがあるのは当たり前。それに絶望するのも、多くの人間が通る道。歩んでしまった道の長さを振り返って、戻ることもできないのに、怯えてしまうことも含めてね」

「受け入れろって言うんですか? この現実を」

「いいえ。抵抗することは悪くはないと思う。ただ、潔癖な気持ちを保とうとして、可能性を狭めてしまうのなら、もったいないと思うのよ」

 ケイトは笑った。

「テンプルの実験は、スティアの身体をたぶん壊す。それの片棒を担ぐのが嫌なら、拒否する手段は、依頼を断る他にも色々ある。たとえば、あなたが内側から見てみればいい。どうすれば、もっとよくできるか、考えてみればいいのよ。もしもここから飛び出して、あいつのことを忘れて生きる道を選んだら、絶対に見えなかったことが見えてくるはずだよ。……組織に属するってことはね、魂を売ることと同義じゃない」

 呆然と、ケイトを見つめ返す。

「もちろん、関わりたくないなら止めやしないし、それが悪いとも、臆病だとも思わない。あなたとスティアはあくまで他人だし、あなたがテンプルに所属する理由がないって言うなら、もっともだからね。なによりそういうの全部、あたしにとっては他人事だから」

 彼女はそこまで言って息をつき、なんだか寂しそうに笑った。

「だけど個人的には、あなたとスティアがコンビを組むのは、悪くないんじゃないかなって思える。あのままじゃ可哀想だから」

 ぐっと、リリィは奥歯に力がこもるのを感じた。ケイトはにやりとした。

「可哀想だと思うのは、可哀想って言いたい?」

 目を、見開いてしまった。

 けらけらと、邪気なく笑うケイトの声が響く。

「ごめん。揚げ足をとりたかったわけじゃないよ。むしろあたしは、あなたがそういう風に考えられる子だから、いいと思ったんだ」

「……どういうことですか」

「スティアは、たぶんあなたが思っているより、二倍くらいはガキだよ」

 馬鹿にするような言葉を吐きながら、声だけがとても優しかった。

「ま、きっとあたしが思ってるよりは五割増くらいで、大人なんだろうけどね」

「……?」

「あいつがガキなのは大人ぶるところよ。親を失ってから自分が妹を守るためにって、周りの大人と対等でいようと肩肘を張っている」

 リリィは直感した。ケイトは、たぶん本気でスティアを心配しているのだ。言葉通りの感情しか読みとれないレイバとは、違う。

「もうすぐ十八で成人なんだし、むしろそれって今の時代じゃ普通なのかもしれない。けど、十四の時からずっとよ。さらにやっかいなのは、あいつは立場上、仕事とプライベートの区別がない。知らないままで育ったし、その状態で利害や責任ばかりを気にかけることに慣れてしまった。いつだって気が抜けないのよ。周りの大人たちはもう少し卑怯者なのに、同じように小ずるくやれる立場じゃない」

 リリィはテッドの言葉を思い出していた。現実に抵抗しているのは、お前らガキどもだけじゃないさ。ただ俺はもう少し手軽な方法をとった。それを大人の世界ではストレス解消って言うんだよ。

「要するにあたしは、石がどうとか、〈ブラック〉や〈ホワイト〉がどうとかって前に、スティアは友達を作るべきだと思ってるのよ」

 ケイトは、微笑んだ。

「あなたならそういう意味で、いいんじゃないかなって思ったの。ガイルだって、四六時中かっこつけられたわけじゃないんだから」

 突然、父の話になってリリィは驚いた。ケイトは得意げになる。

「あなたは、お父さんのことをどう思ってたのかな。さっきの一言を聞くに、自分の好きなことだけ好きなようにやって、自分勝手に人生を謳歌して、最初から最後まで楽しいばっかりだと思ってた?」

「えっと……」

「たいていの男が、一番かっこつける場所がどこだか知ってる? 自分の娘の前だよ。ガイルにだって、情けない面や汚い面はあったし、あたしはそれを見たことがある。ただ、あなたにそれを見せようとしなかっただけ」

 思ってもみなかった言葉が、だけど少し考えればきっと分かった言葉が、胸を突いた。

「どんな形でも、一人で生きていける人間なんていない。ガイルはそれが分かりづらくて、スティアはそれが分かりやすいけど、違いなんてそれだけしかないのよ。……あたしから言えるのはこれくらい」

 ケイトは最後にニヤリと笑って、颯爽と去っていった。タオルで手を拭いながら、厨房の方に歩いていく。

 その背中を見送りながら、リリィは、心のざわめきが、鎮まっていくのを感じていた。


 部屋に戻ると、ベッドのサイドテーブルに、シルバーのストラップがついた、見慣れた機械が置かれていた。その隣にはメモがある。よく知ってる、レイバの字だ。

 ――通信機は返しておく。でも、この事件のアフター・ケアとして、今度新しいのをプレゼントするよ。これはとっておきたいならとっておけばいいし、捨てたいなら捨てればいい。

 リリィは、ずいぶん久しぶりに見た気がするその機械を手にとって、開いた。

 恐ろしい数のメールが届いていた。差出人は主にエミリだった。日付はほとんどが今日。「生きてる?」「どうしたの?」「あんたの家の前まで来たんだけどいないじゃんどこにいるの?」……

 エミリからの連続メールに紛れて、ジャンとリックからも一通ずつ届いている。そして、ラルフからも一通だけ。本当に久しぶりのことだ。

 おおまかにチェックしていると、ふと、もっとも見覚えのある差出人の名前が目に入った。

 ガイル・ブルーノ。

 新しいものではない。大切に保存していた過去のデータが、変わらず存在している。

 開く気にはなれなかったが、件名を見るだけで、大抵の内容は思い出せた。差出人が偽者だと発覚しても、思い出は消えてくれやしない。

 それでいいのだと、それでもいいのだと断言するには、まだ、時間が足りない。

 だけど分かる。胸がつんと痛いけれど、ちゃんと分かる。今の自分がここにいるというそれだけのことに、級友から届いた大量のメールと同じくらいには、価値があるはずなのだ。

 何を信じればいいか分からないと、スティアに言った。自分で考えろと言われた。

 正しいものなんてどこにもないと、ケイトに言った。自分で考えろと言われた。

 最後に会った父は、問いかけを投げた。この世界をどう思う? と。

 どの答えも、今のリリィにはまだ出せない。

 だけど。

(……何もしないで、ここで悩み続けるよりは)

 母が死んで、ひとりになったあの時に、周りの人間の助言に従って、ガードの夢を諦めていたらどうなっていただろう。スピノザから出ることなく、外の世界を知ることもなく、慎ましく暮らしていたのだろうか。

 そんな人生も悪くないと思う。世界の秘密を知って、得体の知れない科学に怯えて、罪悪感を抱えながら生きるよりは、ずっと賢いと思う。

 だけど、もしその道を選んでいたら、今こうして感じているような、悲しいほどの清々しさは、知らないままだった。

 潔癖でいることは、今この胸の中で混ざり合う、たくさんの人の声を、知らないままでいることなのだ。

(動いてから悩むほうが、ずっといい)

 起きてしまったことを悔やんでも仕方がない。これからどうするかが肝要なのだ。

 リリィは胸中でつぶやいて、苦笑した。

 信じられない現実がいくつもある。怖いことがたくさんある。だけど、誰かさんが繰り返した、この言葉は好きだった。

 今は、それが理由でいい。

 たとえあとで後悔しても、それでいいはずだ。

 心を決めてからは、躊躇わなかった。リリィは開いていた通信機を操作して、メールの返事を打つ。

 受取人はエミリに決めた。ジャンやリックやラルフには届けてやらない。これくらいの仕返しは許されるだろう。



Equ8/7/23 21:04

 To:  エミリ

 Title: 心配かけてごめん


 すっかり音信不通でごめんね。ちょっと色々ありました。私は元気。

 いきなりだけど、このメールは、さよならを言うために書きました。

 返事はいりません。きっと、あなたのことだから、勇んで電話をかけてくれるだろうけど、出ることはできません。

 ごめんね。

 話せないことが多いけど、たいしたことじゃないの。

 事情を知りたいなら、ジャンかリックを尋問してね。あなただけ知らないのは、仲間外れみたいだものね。

 でも、もし何か感じることがあったとしても、二人を責めないであげてください。

 ついでに伝言も頼んじゃおうかな。ジャンとリックには、気にしてなんかないよバーカ、って言っておいて。一字一句間違えずにね。


 ちょっと、みんなより一足早く、ガードの仕事をもらえることになりました。

 学校を一緒に卒業できないのは残念だけど、このチャンスに乗ろうと思います。

 今まで、色々ありがとう。

 新しい連絡先を、教える勇気がなくてごめんね。


 このくらいのアクシデントでダメになるほど、今までの努力が、薄っぺらくなかったことが誇りです。

 みんなで学んだことは忘れません。

 エミリと一緒に、笑ったり泣いたりしたことは、忘れません。

 全部ひっくるめて私です。


 また会える日が、いつか来るって信じてます。


 そこまで打って、推敲をせずに送信した。送信完了を確認すると、リリィは通信機の電源を切った。

 機体をテーブルの上に置く。鞄にはしまわない。

 ここに置いていく。この機械に記憶された言葉のすべてを。ガイル・ブルーノと交わした、言葉の全てを。

 お気に入りの、シルバーのストラップも、一緒に。

「……さよなら」

 リリィはそれきり通信機には触れず、窓辺に歩み寄った。スティアがカーテンを開け放したままだったので、月がよく見えた。その下の、人気のない白い町並みも。

 見慣れない景色だ。これからはさらに知らない景色をたくさん見るのだろう。そう考えると、好奇心が不安を染めあげていった。


 ****


「……というわけだ。ケイトにも一枚噛んでもらったし、たぶん断らないと思うよ。ナイスアイデアだろ?」

「…………」

「どうした? 不満そうだけど」

「分かってて言ってるだろ」

「うちの姪っ子じゃ嫌?」

「嫌だ」

「はっきり言うなぁ」

「……女の子じゃん」

「お、なになに、やっぱり意識しちゃうの? いいよ別に好きになっても。誰も困らないし」

「茶化すな。やりづらいし、めんどくさいし、もっと頑丈な方いい。それに、出会って間もない同じ年の女子に、介護されたいなんて誰が思うんだよ。俺にだってプライドはなくはない」

「おっさんとしては羨ましいけどなー。どうせ世話してくれるなら、むさい男よりは若い女の子がいいじゃん」

「…………」

「それに、女の子であることは、お前にとって都合がいいんじゃない? 他の理由で」

「……なに」

「ロールの友達になってくれるかもしれない」

「…………」

「どれだけ希少で、どれだけ魅力的なチャンスだかは、分かるだろ?」

「…………」

「お前のプライドなんて、その恩恵に比べれば安いもんだと思うけどな。それとも、リリィじゃ不満かな。あの子のこと、嫌い?」

「そういう意味じゃない。ただ……」

「ただ?」

「あんたのことは死ぬほど嫌いだ」

「そりゃ何より。お前と一緒に仕事をするには、嫌われた方が効率が上がるからな」

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