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大陸において獣が狂暴化し、森が活性化したのは、〈グランドクロス〉と呼ばれる災厄が起きてからのことだった。
兆候はそれ以前から見られたらしいが、政府が事態を正式な異常と認定したのは〈グランドクロス〉が起きた八年前だ。三年前の〈セカンド・グランドクロス〉と合わせて、二度の天変地異が区切りとなって、多くの野生動物・植物の成長速度や性質に関する突然変異が観測されている。
天災による影響を受けて大気中の〈アニマ〉が異常増殖したからだ、という通説が一般的に知られている。だが学者の間ではいまだに意見が割れているらしく、万人を納得させる証明は存在しない。
原因の解明よりも差し迫っていたのは、生活の維持だった。
突然に狂暴化した野獣の群れは、未曾有のバイオハザードとなって多くの街に襲いかかった。時を同じくして植物が異常な速度で成長を早め、街の外は増殖する森で溢れてしまった。小規模集落の滅亡、インフラ機能の麻痺、流通の停滞、亡命者の増加による人口の偏りや医療師の不足など、様々な要因が重なって、いまだ大陸全体の統治が混乱の渦にある。
獣の狂暴化の定義は曖昧で、種による個体差がある。一般的には脳が大きい生き物ほど程度が深刻なのではと言われているが、例外もあった。第一に、人間は誰一人として、同じ症状を出した例がないのだ。
程度のひどい個体は、瞳の色が鈍い灰色に混濁する。その状態の個体を共生が不可能なレベルとして区切り、通常の動物との区別のため〈ビースト〉と呼ぶ。
人類は森の増殖を逃れた都市部に集結し、そして外界を遮断した。――〈シェルター〉という、森と獣をブロックするバリア装置を開発した企業が、レアリス・カンパニー。
そして、カンパニーがスポンサードする対ビースト戦闘職のひとつが〈ガード〉という。リリィ達はその卵だった。
「〈グランドクロス〉が八年前ならさ」
荷台に座ったままのエミリが、思いつきの口調でつぶやいた。
「カンパニーが有名になったのも、そのくらいの時なんだよね」
「それがどうしたの?」
リリィが問うと、エミリはうーんと唸りながら、眼前の光景を見つめていた。鬱蒼と茂る森の木々と、徐々に開けてきたそれらの隙間から、遠くに見えるデカルト・シティの〈シェルター〉。
「上手い具合に事が運んだなぁって思うの。奇跡的なタイミングじゃない? シェルターの開発には、何年も費やしてたわけでしょ。まさに必要とされているその時に完成して、そのまま政府に認められたのよ。もし、カンパニーが開発を始めたのが少しでも遅かったらって考えると」
シェルターの外観は、高くそびえる半透明のガラス壁といったところだ。ひたすら広く平坦で、かなりの高さがある。内側にはコンクリートを積み上げた普通の外壁も存在していた。初めは誰もがこういった手段で獣の侵入を阻もうとしたらしいが、シェルターの構成物質にはそれらに含まれない、森の増殖や獣の凶暴化といった異常現象そのもの――通称〈バーサク〉――に反発する性質があるとかで、現在は政府の認定のもと、シェルターの取り付けが義務化されている。
シェルターの内側には、森一辺倒だったこれまでの光景と一変して、人工的な建造物の集合体がうっすらと見えていた。語源は「殻」の意味ではあるが、空を遮断すると生活に不都合が多いため、街をぐるりと囲い側面だけを守る形状をとっている。構造上は鳥型のビーストの襲来を防げない。だがシェルターの構成成分の影響か、実際にそういった事態に陥ったところはまだなかった。
「別の使用目的で開発してた技術を転用したって聞いたことがあるよ。こういうのを奇跡って言うのかもね」
「そうなんだろうけど、なんか予定調和だよね。最初から決まってたみたい」
「どうしても必要な事があれば、運命はそっちに流れざるをえないんじゃないか?」
これはジャンだった。女子二人で一斉に彼の方を見て眉根を寄せる。
「どういう意味?」
「その場しのぎってのは、成功すれば奇跡になるって事さ。深い意味はない」
ジャンは視線に答え、軽薄に笑う。
「俺はそれより、そのたかが七年間で、これだけ体系的に対ビースト体制が出来上がっていった事に驚いてるけどなぁ」
「それこそ、どうしても必要なことだから、でしょ」
「そりゃ、そうだけど」
トラックが速度を落とし、停車する。
気づけば街のゲートのすぐそばにいた。大仰な門構えを抜けた先、半透明の壁の一部に、道路と同じほどの幅を持つ巨大な鉄扉が設えられている。
リリィたちの乗るトラックの運転席の窓が開き、運転手が手を伸ばした。ちょうどそろ位置に開門装置であるセンサーがあった。ビ――! 巨大な音が響き、周囲の木々の葉がびりびりと振動した。重い音と土煙を立てて、扉が両側にスライドされていく。
車は開かれた扉を通過し、もう一枚の同じような壁と鉄扉に阻まれた。背後の扉が音を立てて閉ざされていく。ビーストの共連れを防ぐ意味で、前室を設けているのだ。
壁と壁の間で、森とも街とも隔絶されてようやく検問が始まる。二枚目の扉の前にも同じような開門装置が設置されているのだが、今度はスピーカーがついており、機械ごしに人の声が聞こえた。
「こちらデカルト・シティ。怪我人や急病人は」
「いません。昼間に出て行ったガードアカデミーの者です。実地試験を終えて帰還しました」
「了解。おかえりなさい。……車体識別オーケー。ライセンスをかざして入門してください」
教官、と、運転を担当していた学生が荷台上のシモンを呼んだ。シモンは待ち構えていたようで、軽やかな足取りで地面に飛び降り、開門装置に近づいた。歩きながら自らの左手首から、腕時計のような細い鎖を外した、遠目からでも決して見間違えない。〈ガード〉のライセンスだ。
シモンが開門装置にライセンスをかざし、付属のパネルに指を滑らせた瞬間、細く強い、耳を貫くような警音が響く。
扉が重々しく開くその音に紛れて、先ほどのスピーカーから、何やら機械音声が聞こえる。何を言っているかまでは聞き取れなかったが、内側の役員が受付の準備に奔走している雰囲気は伝わってきた。
やがて完全に開いた二枚目のゲートを潜って街に入ると、見える景色も、感じられる空気も全てが変わる。すっかり見慣れたデカルト・シティが視界いっぱいに広がって、リリィは思わず息をついた。他の学生も同様だ。――自分たちで思っていたよりずっと、緊張をしていたのかもしれない。
コンクリートの外壁をくぐり抜けると、ゲート管理の詰所が建っていた。待機していた管理人たちは表に出て、荷台に座りこむ学生たちの無事を確認して手を振ってくれた。ガードアカデミーは組織だって定期的に外出をする立場のため顔パスも同然だが、旅人はここで入門審査を受ける仕組みとなっている。
シェルターという、この不可思議な壁が登場したのは八年も昔だが、開門装置の作動を目の当たりにする機会は一般人にはごく少ない。日常生活とは懸け離れた最新技術には、いまだ現実感を覚えられない。……内部の町並みに、高度な技術を匂わせるような何かがあるわけではないからなおさらだった。技術は近年に局地的な進化を遂げたが、文化のすべてが様変わりしたわけではないのでギャップを感じてしまう。
――ピピピピ、と電子音が鳴った。
リリィは目を見開く。荷物の中から、通信機を取り出した。手のひらサイズの個人用連絡機械であり、機体が光っているのは着信を知らせる合図だ。
街の外では電波の整備が十分ではないので、特殊な機種を持ち歩かない限り通信は難しい。よって街に入った途端に通話や通書を受信することは、特に不思議でない。
取り出すのに難儀して、着信音が途切れてしまう。ストラップにしているシルバーチャームを揺らしながら手に取ると、新着のメールが届いていた。カクカクとした機械文字が並ぶ画面を見つめて――ちょっと、力が抜けた。
「どしたん?」
ジャンが問いかけてくる。自分で思っていたより派手に肩を落としていたらしい。自覚すればさらに落胆の色を隠せず、溜息をついた。
「ううん。なんでも」
街を眺めていたはずのエミリが、ピンと来た、とでも言うように、満面の笑みを浮かべて顔を覗き込んできた。
「男?」
「違うって……いや、違くないけど。レイバだよ」
個人名を告げると、二人は揃って、ああ、と納得をした。
「落ち込むようなこと書かれたの?」
「ううん。文面はまだ見てない」
「じゃあ、なんでまた」
ジャンが苦笑する。リリィはようやく、正直すぎる自分の反応に気恥ずかしさを感じたが、格好をつけるのも今さらだ。だから、素直に口を開く。
「今朝から大事な連絡を待ってるの。だから、必要以上に期待しちゃったってだけだよ」
「大事な連絡? 男?」
「もー。そればっかり。今そういうのいいって言ってるでしょ」
エミリの軽口に苦笑いを返しながら、リリィは改めてメールの文面を見つめなおした。どうせ大した内容でもないと思っていたので、中身を見た途端に、また目を見開くことになった。
(『今日は早く帰るので、俺の夕飯も用意してくれると嬉しいでーす☆ それと』……)
眉根を寄せて、見間違いでないかをもう一度見直した。
(『客が二人来るから、うちに泊めてあげてもいい? 急で悪いけど』 ……?)
続きもまた、唐突な内容だった。
(『でも一人はお前と同い年の男なんで、そういうの嫌だったら遠慮なく言ってください。その場合は、俺たち三人そろって職場で寝るから、夕飯いいや』)
――若い男?
リリィは思わず眉根を寄せた。送信者の顔を思い出しながら、胸中で首をかしげる。
レイバの客。
プライベートな付き合いのある友人と仮定するには年齢が合わない。とは言え、商売柄、顧客としても不自然な気がする。職場で雇ったアルバイトか何かだろうか? そんな話は今まで一度も聞いたことがない。
リリィはしばし考えたが、理解できそうにないので諦めた。
こんな学校に在籍していれば男子には慣れる。リリィは了解の意を示す文章を手早く返信した。時刻を確認する。夕方四時。
あまり時間があるわけではないが、簡単なものでごまかそう。リリィは今晩の献立と、ストックしてある材料の数々に想いを馳せた。
トラックが、学校に到着した。




