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「ロール・アリビートさん、ですね」
街の外の森で、ハンターともガードとも結びつかない、スーツ姿のビジネスマンに、挨拶をされる機会などほとんどない。ましてや、保護者であるガイルを飛ばして、妹ひとりの名前を呼ぶ相手に遭遇する機会などは、これまで絶無だった。
スティアが十四歳だったその日その時間、彼は、崖に沿った道に停めた、車の座席に座っていた。
前に発った街から、さほどの距離もない。だが道が険しいために、迂回せずに越えようとする人間は、ほとんどいない山肌の道。車を停めて、給水を兼ねて休憩をしているところに、その集団は唐突に現れた。
「誰だ?」
答えたのはロールではなかった。オープンカーの運転席の背もたれに腰掛けていたガイルが、率直に問う。
スティアもまた、胸中で繰り返した。本当に誰だ?
停車していたガイルの車の近くにやってきたのは、山道を走るのに相応しい、よく見るタイプの無骨な車が二台だった。だが、中から登場したのは、場違いなビジネススーツを着た男が三人ほどだ。都会から来たのだとは一目で分かった。長旅を歩いたわけではないことも。
「ああ……これは失礼いたしました」
ガイルの問いに、男がひとり、先頭に立って頭を下げた。年齢は、ガイルとそう離れてはいないだろう。子供のひとりやふたりは抱えていそうだ。
「ガイル・ブルーノさん」
自己紹介をしたわけでもないのにそう呼ばれて、ガイルは顔をしかめた。否定も肯定もせずに、黙ってじっと、その男を見つめた。
山道を迂回せずにこんな場所にいるのは、ガイルのいつもの気まぐれだ。自分たちの居場所を調べた人間がいたとしても、こんな場所まで追跡できるはずがない。正面から車を走らせて、スーツや靴にほとんど汚れをつけないほどの短時間で、偶然に出会えるはずはない。
そして。
「う……」
隣の座席にいる妹が、ほんの小さな声で低くうめくのを、スティアは聞いた。
ロールはもともと日焼けも火傷も知らないような白い肌をしていたが、今ははっきりと血の気が引いている。どんな時にでも体調を崩さなかった妹が、だ。
どうした、と小声で問うが、彼女はこちらを見ることすらしなかった。うつむいて、自らの体を抱く。天気は快晴だった。あたりの空気は、暖かいくらいだった。だけど、彼女は確かに、震えていた。
「突然お伺いして申し訳ないです。まず、自己紹介をさせてください」
ロールの異常をよそに、大人の会話が進んでいく。
「あなたに、まるきり無関係な人間というわけでもありませんから」
スーツの男は、内ポケットから取り出した名刺入れを開きながら近づいてきた。車に接近される前に、ガイルは地面に降りて、車体から少し離れた場所まで歩いて男を迎えた。差し出された名刺を、つまらなそうに見る。
「レアリスカンパニー、な」
ガイルは顔をあげて、男たちをざっと観察した後に、すたすたと車の方に戻ってきた。後部座席についたスティアのもとに、その名刺を持ってきて、渡す。子供を蚊帳の外にしないのは、ガイルの美点のひとつだ。
名刺には、誰かの名前と役職名、そして所属組織が書かれていた。スティアにも分かったのは最後のひとつ。ガイルが言っていた言葉と同じ。――レアリス・カンパニー。
ガイルは名刺をこちらに渡した際に、ロールの異常に気づいた。スーツの男の声に、見透かしたような余裕の色が覗いた。
「苦しんでおられますか」
スティアは顔をあげる。
男は、訳知り顔で涼やかに続けた。
「私どもは、ロール・アリビートさんを保護するために来たんです」
「は?」
ガイルが鼻の穴を広げて顔をゆがめる。ロールが話を聞いているかは分からなかったが、冷や汗を流して震えている。スティアはほとんど意識せず、妹の肩を片手で抱いた。肌が冷えていた。
「何だか知らんが、こんな場所まで俺たちを追いかけてきたってことか?」
ガイルの口調が苛立っている。普段の彼は、ビジネスの相手や目上の人間には礼儀が正しい方だった。挨拶と敬語は客商売の基本だと、旅の中で何度も教えられてきた。
「用事があるならギルドを通じてどっかの街に呼び出せば文句も言わない。こっちの予定は丸無視で、あまりにも無礼じゃないか」
「話が終わるまで街には帰せません。声をひそめた内緒話で、済むような事ではないのでね」
無礼を堂々と肯定しながら、三人連れのカンパニー社員は、誰一人笑ってなどいなかった。
「せめて早く終わらせましょう。彼女も苦しんでいる。……もう一度お願いします。ロール・アリビートさんの身柄を我々に預けて欲しい」
「意味が分からん」
「彼女の身体は特異でしょう? 我々はその正体も対処法も知っています」
誰にも話していなかったはずのことを、この無礼な男は正確に看破した。
「彼女は〈グランドクロス〉の爆心地にいて、生き延びた唯一の人間です。その素養は、人類を生かす糧になりますが、殺す刃にもなりかねない。我々は、彼女のこともこの世界のことも守ることができる。そのノウハウがある」
「唯一?」
ガイルが、言葉に織り交ぜられた違和感を抽出する。
「あの事件で生き延びた難民を、俺は他にも山ほど知ってる。スティアだってその一人だろう」
「ハウアー・タウンの元住人、というくくりならその通りです。ですが、爆心地のユゴー地区、第三区画にいて、生き延びたのは彼女ひとりのはずです」
スティアは直感的に、故郷の光景を思い出していた。瓦礫の山と化した街。瓦礫すら消し飛ばされ、蜃気楼になってしまった自分の家。そこに、無傷で転がっていた妹。
思わずロールの肩にぎゅっと力を込めた。妹は何も反応を返さなかった。
「神話だと思わないで聞いて下さい。かつて、この大陸には、壊れない爆弾が存在していました」
「は?」
ガイルが、思い切り間の抜けた声を出す。
「大陸を二分するほどの、強大な威力を誇りながら、決してそれ自身は、砕けず、壊れない。膨大な破壊エネルギーを、内側から外側へまき散らし、周囲のすべてを破壊し尽くしながら、それ自体は決して燃え尽きることなく、無傷で残される。そして何度でも同じ規模の惨劇を繰り返せる。――永遠に失われない」
「何言ってんだ」
「かつてこの大陸を支配していたのが〈森人〉であり、彼らが築いた文明が、この大陸を支えているのはご存じでしょう。その最高傑作にして死神。制御手段のない絶対的なエネルギーの塊が、かつて存在していたんです。……もちろん、発明してしまった後に、森人はそれを制御しようとしました。ですが、無限に再生するアニマを抑える手段は、どこにもなかった。壊さずに封印するしか、暴走を止める方法はありませんでした」
男は一瞬だけ、ガイルから視線をそらして、うつむいているロールの方をちらりと見た。
「森人はアニマと共存していた。だが、人間はアニマを感じられない……。だから森人は、人間の体を、封印する場所として選びました」
ロールが、その言葉を聞いているか聞いていないのかは、分からなかった。
「マターのような絶縁体で閉じこめると、それこそ本当の爆弾のように破裂しかねない。だから森人は、アニマに極端に鈍感でありながら、アニマを体に通すことができる種族……人間の中に封印して、その存在を少しずつ、忘れさせることを選んだ。封印はうまくいきました。森人の最後の魔法で、結晶体である〈ブラック〉と〈ホワイト〉に、人間の体に寄生するようにと、マジックプログラムを植え付けることに成功したんです。寄生者が死ねば、次の寄生者へ……完全に忘れ去られるまで、永遠に」
そこまで語って、男はゆっくりと息をついた。
「ですが上手くはいきませんでした。なぜなら、我々が思い出してしまったから」
男は、今度は堂々と、ロールの方をじっと見た。
「だからロール・アリビートさんを保護しにきました」
「なに?」
「彼女は森人が残した遺産、〈ブラック〉を体内に宿している。五年前に〈グランドクロス〉を引き起こしたのは、彼女です」
スティアは完全に思考を止めて、男の顔をただ見た。
冗談を言っている様子はなかった。周りの全員も、みな。
「獣の凶暴化の兆候が見られたのは十一年前だという調査結果が出てます。ハウアー・タウンの住民票と照らしあわせた、彼女の生年月日と非常に近い。我々は感覚的にアニマをとらえることが出来ないので分かりにくいですが、動物は実感していたんでしょう。新たな〈ブラック〉の誕生と、その封印の弱体化を」
ガイルも、何も言わない。
ロールは相変わらず、震えて俯いている。
「〈グランドクロス〉の爆心地は彼女の住所と同じ。加えて、爆心地に居ながらにして生き延びたのは彼女ひとり。あの日を境に、大陸の含有アニマが激増して、獣が凶暴化をたどり始めてる。そして、これは我が社の研究データからの推測ですが」
男はロールに、責めるような質問を投げた。
「あなたの身体には、すでに異常が出ている。そうじゃないですか?」
ロールは何も言わず、聞いているのか聞いていないのかも、分からなかった。彼女を横から抱いていたスティアは、自分が責められているような気がして、胸の奥が冷えるのを感じていた。
妹は、どんな怪我でもけろりと治す。絶対に風邪なんか引かない。何があってもすぐに、健康な状態にリセットされる。
――アニマは決して砕けない。
「……ロール」
何も言わない妹にそっと声をかけた。絞り出した声が震えていたことには、自分で驚いた。だめだ、鵜呑みにするな、と、理性が警戒を投げているのと同時に、頭がどうしても思い出してしまう。〈グランドクロス〉の惨状を。無傷で眠っていた妹の姿を。
何も言わないでうずくまる妹の身体を、開かせた。抵抗する力は彼女にはなく、腕はあっさりとほどける。そのまま妹の体重のほとんどが、自立しきれずに、もたれかかってきた。
顔をのぞき込んだ。蒼白な肌が、涙と汗でひどく濡れていた。
ロールはぎゅっと目を閉じて、声をこぼした。
「痛い……」
「ロール?」
「頭痛い。死んじゃう」
それ以外なにも考えられないとでも言うような、かすれ声。力なく、スティアの手を払って、頭を抱えた。
スーツの男は、彼女のそんな姿をみとめて、冷静につぶやいた。
「発眼はまだみたいですね。だから力が不安定なんでしょう」
「ハツガン?」
聞き慣れない単語をガイルが拾い上げる。それに適当な愛想笑いを返しながら、スーツの男は、自らが乗ってきた方の車を振り返った。
「ロールさん。我々がここに来たのは、あなたを保護するためです。そしてもう一つ。あなたに会わせたかった人間を、連れてくるため」
後ろに控えていた男のひとりが、車の扉を外から開いた。
「あなたはひとりじゃない。取り急ぎそれだけを、お伝えするために」
地面を踏む、靴の音が聞こえた。
その瞬間、今まで大きな動きを見せなかったロールの肩が、びくりと跳ねた。
スーツ姿のカンパニー社員三人の後ろから、前に進み出る、すらりとした人間がいた。
年齢は二十に届くか届かないか。自分自身よりはだいぶ年上だが、この場にいる人間としては若く見えた。彼が着用しているのはスーツではなく、ビジネスマン以上に場違いな、明らかに金のかかった、洒落た私服だった。黒のレザージャケットの襟の間で、ダイヤの指輪とおぼしきネックレスがきらりと輝いている。
服装以上に特徴的なのは、明るい金髪と、まるで顔を隠すように大仰なサングラスだった。ファッションモデルのような男だが、顔が見えないせいで、あまり印象は良いとは言えなかった。
「あ……」
ロールが、いつのまにか顔をあげていた。
スティアは妹の方を見た。真っ白な顔面を、はっきりと恐怖の形で固めている。指先が、いよいよ顕著に震えていた。
こんなに怖がっている妹を見たのは初めてだった。いや、そもそもここまで恐怖に呑まれた人間というものを見たことがない。
金髪の男を、もう一度見る。どこが危険だとも思わなかった。芸能人のような派手さはあれど、それだけだ。
その男が、歩み寄る。唇が開く。
「セイ・ホワイトです」
明朗な声だった。
「あなたにずっと、お会いしたかった」
微笑みを作ろうとしながら、彼はサングラスをゆっくりと外した。
穏やかな顔に湛えられた、色の違う双眸。
青い目の右にある、どこまでも白い眼球。
間違いなく、驚くべき瞬間だったに違いない。だが、スティアはセイと名乗った若者の瞳の色など、その時は気にしていられなかった。――その素顔を見た瞬間に、ロールが悲鳴をあげたのだ。顔面を両手で覆って、激痛に苛まれた、かすれ声を。
「ああぁ……!」
顔面を押さえたまま、ロールがのけぞる。手はすぐに、顔全体ではなく、瞼に移動した。両目を押させていたが、すぐに左目に。両の手で左目を押さえながら、身をよじって叫ぶ。
「ああぁあ!」
「どうしたんだ」
「来ないで!」
心配して伸ばした手は、思い切り振り払われた。左目を潰す勢いで押さえ込みながら、涙声で叫ぶ。
「嫌だ、近づかないで! 痛い、痛い痛い痛い!」
激痛に身をよじりながら、それでも左の瞼から目を離さない。
「目が痛い……!」
なにがなんだか分からず、スティアは動けなかった。そして。
突然、ガイルがスティアとロールの襟首をまとめてつかんだ。視界と重心が回転する。
小動物でも扱うように抱き上げられて、そのまま猛烈に風を切る。兄妹を両の小脇に抱えて、ガイルは思い切りよくダッシュしていた。カンパニーの一行に背を向けて、車を置いたままで。
突然の逃亡に、カンパニーの人間が目を丸くするのが一瞬だけ見えた。そしてスティアは、我に返る。
「ちょっと!」
「よく分かんねーけど、尋常じゃない! 逃げる! あとでロッジに戻れば別の車が――」
銃声が、森の静寂を裂いた。
全速力で駆けていたガイルの腕から放り出されて、スティアは勢いよく空中を飛んだ。激突した地べたの上をがりがりと滑った皮膚が削れて、肘から血が滲むのを意識しながら、必死に起き上がる。そして、目を剥いた。
倒れたガイルの足から吹き出た血の量は、擦り傷のそれとは比べものにならず、何かの冗談としか思えなかった。
「言ったでしょう。話が終わるまでは街に帰せないと」
声が近づいてくる。セイ・ホワイトではなく、最初に話した男だった。手に握った拳銃からは、煙が立ちこめていた。
「危害を加えることは我々の本意ではありませんが、そうして困るわけでもないんです」
ガイルの足から、蛇口でもひねったかのように、赤い粘液が後から後から噴き出ていた。どんな時でも傲慢不遜な笑顔を絶やさなかったその男の表情が、見たこともないほどにひきつっている。
「ちょっと、乱暴なことはしないでください」
スーツの男のさらに向こうから、セイ・ホワイトの焦ったような声がした。追いかけてきたらしい。
「〈ブラック〉への影響もあります」
「刺激を与えた方がいいじゃないか。発眼を促すなら」
スティアには、カンパニーの人間の言い争いを気にするだけの余裕はなかった。ハンターの旅に同行していたので、銃がどれほど危険な武器だかはよく知っていた。体が、凍り付いたように動かない。
でも、動かないと、ガイルは、物理的に動けない。
壇上に崖が切り立った山道の一角。ガイルが倒れたのは道の真ん中。幸か不幸か、通路は狭い。とはいえ、車を置いてきたのなら、塞げるほどじゃない。ロールとスティアが放り出されたのは前方だったので、移動が必要だ。囲まれたら、逃げられなくなる。
スティアはなんとか立ち上がって、ガイルの隣に飛び出した。ロールと、男たちの間に、立ちふさがるように。
十四歳の少年のそういった勇ましさは、カンパニーの人間にしてみれば、予想外だったらしい。きょとん、とした後に、失笑が聞こえてきた。
「なんのつもりだい?」
スティアは、いっぱいいっぱいの頭を、なんとか回転させようと思考した。足下のガイルは足を撃たれた。動けそうにない。ならば、俺が守らなくては。……どうやって?
ちらりと視線を投げる。ロールはまだ消耗しているのだろう。ガイルの腕から投げ出された時から、顔をあげることすらできずに、地面に倒れ伏している。
敵の狙いがロールならば、自分はここを動けない。砂でもぶつけて時間を稼ぐ? ……だが、その後はどうやって切り抜けられる? 切り抜けて、一刻も早くガイルの怪我を医者に診せなければならないのに?
思考の混乱の終止符を打ったのは、男の笑みだった。
「しばらく寝ててくれるかな。大丈夫。あとで治せるから」
パン、と乾いた音が響いたと同時に、右腕に何かが貫通した。
嘘みたいに一瞬だった。
耳で音を感じてから、身体が吹っ飛ばされるまでの間、何がなんだか分からなかった。振動のような衝撃を受けた右腕の一点が、灼けるように熱い。やがて膨大な痛みを知覚すると、声が割れた。人生で一番の絶叫をした。
倒れる一瞬前に、ロールの姿が見えた。彼女は、顔をあげていた。足を撃たれて血塗れのガードと、腕を撃たれて飛ばされる兄を見て、その瞬間に彼女が何を思ったかは、分からない。今でも、分からない。
覚えているのは、彼女の瞳が異常に見開かれたこと。
倒れてロールが視界から消えた瞬間に、静電気の波が空気を振動させたこと。視界に閃く、黒のプラズマ。
ガイルは渾身の力をこめてスティアを抱きさらった。崖から飛び降りた瞬間に大爆発が起きた。壁にしていた崖が崩れて、大量の岩が雨になる。轟音と灼熱が世界を覆い、振動と激痛が共鳴して、意識が闇に急転落した。
それが、覚えている〈セカンド・グランドクロス〉の全てだった。




