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「お前、アリビートさんちの子だよな?」
初対面の時は警戒した。巨体をかがめ、目線を合わせて、心配げに顔を覗き込んできた無骨な旅人は、どれだけ優しい表情をしていても、突然現れた見ず知らずの他人だった。
「名前、言えるか」
「……スティア」
絞り出した声は、子供らしい甲高さを保ったまま枯れ果てて、潰れていた。乾燥地帯を全力で逃げ延びた直後だった。酷使した小さな体は限界を訴えて、全身のいたるところからきしんだ悲鳴をあげていた。
だが目の前の男は、意志を持った回答があったことをまず喜び、微笑んだ。ぼろぼろになった服をまとって、ぼろぼろの声を絞り出した子供を目前にして、平然と、明るく笑いかけて、肩にポンと叩く。
「スティアか。よし。女みたいな名前だな」
よく言われることだった。
この状況下でそう感じたことは今思えば驚きだが、この時スティアは、出し抜けにそう言われてムカついた気がする。だが、男は気にするそぶりどころか、気づいた様子も見せなかった。
「ま、似合ってるからいいよな。顔も女の子みたいだし」
それもよく言われた。というよりも、当時九歳だった自分にとっては、世界の全てに近しいコンプレックスであり、自尊心が必殺される地雷だったのだが。
目の前の男は、見たままのことを、見たままに言っただけとでも言うように、気持ちよく笑っていた。馬鹿馬鹿しくなって怒気もしぼんだ。ポンと、岩石じみた手がスティアの頭に載った。
「でも立派な兄貴だな。妹のこと、ちゃんと守ったじゃねえか」
その言葉がスイッチとなり、現実が急に、身体中に染み渡った。
――フラッシュバックする。目の前で起きてしまったすべて。鼓膜に違和感を残した巨大な振動と爆音。灼けた大地の焦げた臭い。粉塵を交えた、すべてを干上がらせる死の熱風。
乾いた空気の中で、あっという間に広がった炎の色が、網膜に焼きついて消えない。包まれた街から、わずかに聞こえた人々の悲鳴も、耳に残って離れない。
ぐっと、目を閉じる。そして開いた。――ここは、街じゃなくて森の中だった。街から逃げて、たどり着いた場所……
妹は、スティアが立つすぐ横の地面の上に、寝かしつけられていた。命の別状なく寝息を立てている。六歳になったばかりの、柔らかで小さな手足。大きな怪我は何もない。
血臭が鼻腔を刺激する。それは妹でも自分でもなく、近くを転がる獣の死骸から漂っていた。街から逃げた自分たち兄妹を、突然襲ってきた野犬だった。銃撃で絶命してピクリともしない。
街には戻れない。
きっと二度と、戻れない。
戻った所でどうにもならない。自分の家はもう、吹き飛ばされてどこにもなかった。妹しかいなかった。妹しか見つけられなかった。
――妹ひとりしか守ることができなかったのだ! この無力な自分は。
一度にたくさんの顔を思い出した。学校の友人や教師。街の人。家で雇っていた家政婦。
のんきに笑う父。勝気に微笑む母。
瓜二つの顔立ちの母親を恨みながら、鏡をにらんでいた日々。――馬鹿だ。そんなどうでもいいことを気にしている間に、どうしてもっと傍にいなかったのだろう。どうして今の俺は、お母さんがどこにいってしまったかすらも、分からないのだろう。
涙が溢れた。止まらなかった。その感情を言葉にすることなど、当時の自分には出来なかった。いや、今でもきっと、出来やしない。何年経っても、どんな言葉を覚えても、あの時に胸を苛んだ圧倒的な感情を、説明できる気なんかしない。
男は、泣き始めたスティアを、ぐいと引き寄せて、抱きしめた。これまで見たこともないような、大きな胸板と、たくましい腕だった。その温もりにくるまれて、スティアは歯を食いしばった。とめどなくあふれる涙が枯れるまで、ずっとそうして、泣いていた。
その男に甘えながら、なぜ目の前にある温もりが、父でも母でもないのだろうと、失礼なことばかり考えていた事を、妙にはっきりと覚えていた。
開いた瞼の隙間から、景色が滲んでくる。
天井と壁は、くすんだ灰色のコンクリート。窓のない地下室に固有の湿った空気。電球の鈍い輝き。
スティアは目を瞬かせて、それらの景色を頭に馴染ませた。ゆっくりと半身を起こす。奇跡的に意識はしっかりとしていた。
(……薬、飲み過ぎた)
ベッドの周囲に謎の医療機器がずらりと並ぶ、うんざりする光景を見とめながら、それらをハッキリと見ている自分に違和感を覚える。寝起きに特有の、死にたくなるような虚脱感が、今はない。
(たぶん、後がキツいな)
憂鬱な心持ちでベッドから足を滑らせた。靴を捜し当てて足だけで履くと、すぐに立ち上がる。
見慣れたいつもの病室だが、朝の診察を受ける必要はもうない。先日の検査で合格をもらって、今は勝手に動くことを許可されている。
とはいえ、この施設にいる限り、自分が寝る部屋は他に空いていないのだ。
スティアは、部屋着の袖の上から、右肩から右腕にかけての自らの体に、なぞるように触れてみた。特に異常もなければ、違和感もない。
その右手で、乱れていた前髪を、軽くかき揚げてみた。まったく不具合なく動く。
機械仕掛けの手の甲を、額に当てた。消えていたランプの光が点る。鮮やかなイエローに。
「……言わなきゃ」
夢の中で見た栗色の髪を、思い返した。
****
本来、リリィは早起きだった。
二人分の朝食を準備する時間と、二人分の弁当を詰める時間。身だしなみを整える時間、歩いて通学する時間、朝の訓練場で軽い運動に取り組む時間。それら全てに手を抜かず、遅刻しないようにするには、どうしたところで早く起きることが必要だった。続けているうちに、自然と習慣になってしまった。
だが今は、どうしても起きる気がしなかった。
借りたベッドの上で、布団をかぶったまま、リリィは寝転がりながら窓を見ていた。カーテンは閉めたままだが、そのベージュの布地を越してなお、日の光の明るさがよく分かる。時計を持ってきていないので感覚だが、もう昼に届くだろう。
レイバが客室と呼んだこの部屋は、昨晩、地下からたどり着いた場所の、二階の端にあった。三階建てのこの建造物は、デカルト・シティの基準で言えばかなり広く、個人が所有する家屋ではなさそうだと見当がついた。だが、追求を深める前に、通された部屋でリリィは眠ってしまった。
客室には、ベッドとサイドテーブルと鏡台しか置いてなかった。殺風景ではあるが、ベッドはきちんと整えられており、一晩、身体を休めるには十分な場所だった。
だが、まだ気だるかった。昨日の戦闘の疲労もあるだろうが、もっと単純に、起きるのが億劫な気持ちだった。もう何時間も、ぼうっとしている気がする。
色々なことが頭を回っていた。通信機。届いた電子メール。偽物の父親。病弱な少年。魔法。レアリス・カンパニー。得体の知れない獣。知らない施設にいたレイバ。
考えなきゃいけない。だけど、考えたくない。
気づいたら通信機が手元になかった。父はもういないのだ。ずっと昔から、いなかった。
ノックの音がした。
リリィは視線を上げる。
この部屋は、広いこの建物の中でも、端の方に位置している。わざわざ、起こしに来させてしまったのだろうか。誰が?
「リリィ、寝てる?」
ドアの外から聞こえたのは、知っている人間の声だった。
リリィは予想外の来客に驚いて、半身を起こした。昨日あれだけの疲労を見せた、ただでさえ寝起きの悪い彼が、もう活動を開始しているとは、思ってもみなかった。
「寝てたり、気が進まないんなら、無視してくれていい」
ドアを隔てて、スティアは淡々とそう言った。
「だけどそうじゃないなら、入れてほしい。今日は事情の説明とかそういうの含めて、レイバ達と一緒に、話すことがたくさんあるんだけど……その前に」
言葉を切って、続く一言を、はっきりと発音した。
「俺が個人的に、君と二人で話したいことがあるんだ」
断ることは簡単だった。彼が自ら、そのチャンスをくれている。
だけど、かたくなに拒否するような、意地があるわけでもない。
リリィは自らの髪に触れた。寝ていたのだから当然、ぐしゃぐしゃだ。テッドの銃で切られてしまった部分も含めて、ひどく不格好だった。顔も洗っていないし、借りた寝間着のままだし、身体の半分は布団に潜り込んだままである。
だが、身だしなみを意識することすらも、今は面倒だった。
「……どうぞ」
髪だけを指で軽く整えながら、自分でない自分が声を発するのを、リリィは他人事のように聞いていた。
扉はすぐに開いた。姿を見せたスティアは、昨日と違う上着を羽織って、再び体格を隠すような格好に戻っていた。先日着ていたジャケットは、学校に脱ぎ捨てていたはずなので、違う服を着ているのは当然だが、どうやって着替えを用意していたのだろう。リリィのベッドのサイドテーブルには、昨日着ていた服が畳んである。
スティアは、ベッドに座ったままのこちらを見て一瞬だけ驚いたようだが、その驚きの表情は、すぐに隠した。後ろ手に扉を閉めて、遠慮なく歩いてくる。
無造作に窓辺に寄って、閉まっていたカーテンを開けた。
「これじゃ、見舞いみたいだね」
リリィが日差しの眩しさに目を閉じていると、彼は苦笑した。
「寝てたなら、無理に通してくれなくても良かったのに」
「ううん。目は覚めてたから。ただ、ちょっと……だるかった、て言えばいいのかな」
なるたけ印象が悪くならないように言葉を探すが、自分勝手はどう言い繕っても自分勝手にしかならなかった。だがスティアは、気を悪くした様子もなく笑った。
「いいんじゃない? あんたみたいな性格の人には特にさ、だらける時間だって必要だと思うよ」
「……でも確かに、いくらなんでもちょっとひどいね。ごめんね。こんな格好で」
寛大に受け止められると逆に居心地が悪く、ようやく恥ずかしくなってきて、リリィはつぶやいていた。
「君が嫌じゃないなら、別に。それよりさ、外、見た?」
開いたばかりのカーテンの向こう側を、スティアが指し示す。
昨日の夜にこの部屋に通された時にも見たが、近辺にはまるで人気がなかった。ひどく静かで、音がない。自宅付近のように、ごみごみと建物が詰められているわけでもなく、ガランとしている。小さな古いビルなどがいくつか見えるが、誰かが出入りしている様子はない。外から見た所で、どんなフロアが展開されているかは分からない。ならば、店舗の類ではないのだろう。
そのビルを越えた奥の方には、区画を分けるような石垣があった。奥から、石造りの神殿街の頭が見える。ひっそりと静謐で、チェス盤のように整備された、立ち入り禁止地区だ。
「〈教区〉の近くなの?」
問うと、スティアは首を振った。
「惜しいけど、厳密には違う。詳しくは後で説明するけど、君の学校や自宅からはちょっと離れた場所にある」
リリィは頷いた。景色に見覚えはない。
「だから、君が自分のやりたいことを、個人的に行うには、ちょっと不向きな場所だよね」
「…………」
「でさ。俺が勝手に調べたことがあるんだ。聞いてほしい」
スティアは、いたずらっぽく笑った。
「キツいこと言って泣かせたり、後ろから頭に銃を突きつけたり、抱きついたり、七階から突き落としたりした、お詫びにといったら図々しいけど。せめてもの罪滅ぼしに」
「……改めて並べると、ひどいね」
リリィがつぶやくと、スティアは悪びれるでもなく頷いた。だが、すぐにそのふざけたリアクションを止めて、リリィの目を見る。
「最初に謝っておく。君の通信機はまだレイバが持ってる。それ、勝手に使わせてもらった。ごめん」
出し抜けにまた、とんでもないことを言うが、もう驚けなかった。リリィが無言で続きを促すと、スティアは続けた。
「エミリさん、だっけ」
スティアの口から、面識がないはずの級友の名前が出て、どきりとした。
「彼女は、何の事情も知らないようだったよ。学校が破壊されていたことにも、君と連絡が取れなくなったことにも、心底驚いていた。演技ではなかったと思う。実際に話してきたけど」
あっさり言いながら、スティアは窓枠に肘を置いた。
「ケイトに――ああ、ケイトってのは、昨日ここまで運んでくれた女の人ね。彼女に頼んで、車で学校に行ってみたんだ。どういう事件として処理されているのか、キメラはちゃんと退散したのかどうか、いろいろ気になってたから。そのついでと言ってはなんだけど、レイバが認識してる程度に君と親しそうな人と、話してきた。通信機で連絡がつく範囲だけだけど」
「昨日の今日で、学校に行ったの?」
信じられない思いで聞くが、スティアはあっさりと頷いた。
「昨日は決戦に備えて定着剤を飲み過ぎたみたいでさ。めっちゃ早く目が覚めたし、体調も良かったから。まあ、こういう時はあとで三日分くらいまとめて疲労がきて、動けなくなるんだけど……それはどうでもいい。とにかく気になってたから。変装してったし、そうバレるようなもんでもないって」
「そ、そうなのかな……」
「実際、見つからなかったんだし、そのへんは気にしないでいいよ。学校は大騒ぎだった。試験の採点期間で休校だったみたいだけど、生徒たちが噂をきいて野次馬になってた。エミリさんもそこにいたよ。あんたのことを心配してた」
名前を反復されて、胸がざわついた。
「テリー・シモンだっけ。あんたの先生。エミリさんを通じて、その人にもいろいろ聞いたよ。彼はあんたの事を、すごく褒めてた。本社に特別視されている生徒だってことは、知らないわけじゃなかったみたいだけど、実力以外の成績は、一度だって書いたことがないって言ってた。将来を期待してた、ともね」
教官の顔が頭に浮かんだ。実地演習の時の、穏やかな笑顔と厳しい指摘。シモンは決して、リリィを甘やかしたりしなかった。厳しい課題を投げて、厳しい成績をつけてくれた。
「昨日、俺が侵入する直前に小火騒ぎがあったのを覚えてる? あれを起こしたのは、ジャンなんだ」
リリィは目を丸くした。
「外部の警備が厳しかったから。隙が生まれるような派手な陽動が欲しかったし、セイ・ホワイトを外におびき寄せたかった。生徒をひとり拉致している状態だったら、カンパニーは非常事態にあっても外部に助けを呼べない。消防団を呼ばずにいち早く消火するには、セイ・ホワイトの特殊能力を使うしかない。そのための協力者として警備で外に突っ立ってたジャンを、俺が利用したんだよ。はじめは銃で脅したんだ。ちょっとでも罪悪感があるなら、入り口の植木に火を放て、てね」
スティアは左肘を窓枠についたまま、右手で首筋に手を当てた。手袋はもう、両手ともにつけていない。
「あえて彼に頼んだのは、話してみてそれがいいかなって判断できたからさ。あいつら二人とも、スパイではあったけど、そう派手な仕事もしてなかったみたいだし、事情もよく知らなかったみたいだよ。少なくとも、あんたの行動を逐一監視して、あざ笑っていたっていうレベルではない。普通に日常を過ごす中で、リリィ・ブルーノの身に変わった事があるたびにカンパニーに報告すると、小遣いがもらえるって程度のバイトだったって言ってた。強攻策に協力させられたのは、昨日が最初で最後だったから、すごく驚いたって。今まで小銭をもらっていたのは事実だし、それを許すか許さないかはあんたが決めればいい。でも後悔してた。ジャンも。たぶんリックとか言うもう一人も、同じようなもんだと思う。セイがいる限り絶対に火事にならないって俺が断言しただけで、学校に火を放つ協力をしてくれたくらいだからね。わりと乗り気で、こっちがびっくりした」
リリィは何も言えなかった。スティアはどんどん続けていく。
「二十番地区で会った時のジャンとリックは、あんたが誰と会っているのかを確かめるために遣わされたらしい。会っていた相手が俺だったことが、カンパニーにとって最悪の結果だったんだ。それはとにかく、あの時すぐに彼らが去っていったのは、雇い主であるテッドに報告に行くため。『待ち合わせ』をしてるってのは、そっちの意味。嘘の待ち合わせ相手を伝えたのは、リリィの追求を確実に撒くための、とっさの言い訳だったんだってさ」
リリィは、二十番街地区で会った時の、ジャンとリックの様子を思い出していた。
――お前らが来られないから、別の奴呼んだの。リリィは来ない方がいいよ。
「ラルフ、で合ってる? ジャンとリックの友達」
スティアがどこまでもあっさりと、リリィにとっては、口にすることすらも躊躇してしまうような、その名前を呼んだ。
「彼はまったく関係がない。あんたとレアリス・カンパニーの事情を何も知らないし、例のバイトにも参加しちゃいない。ジャンからの情報と、エミリさんの話からの推測」
唇が乾いていた。いつしか、開いていたまま、塞がっていなかった。
「ジャンとリックとは、彼を通じて知り合ったんだってね。ラルフさんが仲介して、あんたの周りにスパイを引き寄せたって思ってるといけないから伝えとくけど、そうじゃないよ。それだと順番が違う。ジャンに聞いた話だと、彼はカンパニーから仕事を受けた後に、リリィ・ブルーノという生徒に近づく口実を探して、初めにターゲットと近い人間と仲良くなってから、自然に接近することを選んだって言ってた。ラルフさん本人が、監視のためにあんたを誘惑したわけじゃない。他人が勝手に、あんた達の関係を利用しただけだ。彼は、まったく関係がない」
そこまで言って、スティアは肩をすくめてみせた。
「こうしてざっと調べただけで、テッドが言ってたことが、どれだけ大袈裟に盛り上げた大ボラだったかが分かるでしょ」
リリィが呆然と見つめると、スティアは少しだけ照れくさそうに笑った。
「俺みたいな他人にプライベートな人間関係を調べ尽くされるのは、あんたにしてみれば気分のいいことじゃないよね。でも、悪い。どうしても伝えたかった。あんたは、何を信じればいいのか分からないって言ってたからさ」
スティアは続けた。
「嘘を本当だと証明することは難しいけど、本当のことを嘘だと言い張ることは簡単なんだ。本当のことを本当だと証明するよりも、きっとずっと簡単。なんでこんな実感たっぷりに言えるかって言えば、まあ、俺も嘘つきだからなんだけど」
リリィは、テッドの言葉を思い出していた。
――すべてが嘘だったお前の日常で、本物だったのは俺との会話だけだ。
その言葉が、嘘ならば。
「どこまでが嘘で、どこまでが本当かよく分からない現実でさ、あんたなら、いきなり現れた不気味な男のわめきと、心配してくれているクラスメイトと、どっちが信じられる?」
比べるまでもなかった。
だが、答えることも出来なかった。理屈はどうあれ、現実がどうであれ、リリィは先日、セイやテッドに逆らえず、リリィを追いつめる協力をしたジャンとリックの姿を見てしまっていた。その時の失望と絶望は、まだ忘れられそうにない。
スティアの声は、妙に穏やかだった。
「別に、全部を許せって言ってるわけじゃない。ただ、あんたがこれまで感じてきたことは、間違いだけじゃないと思う」
彼は右手を指し示すように前に出して、機械で出来た指先を開く動作をした。
「テッドに向かって言っていたよね。嘘も本当もひっくるめて、自分を育てたって。その考え方は好きだしけど、あんたが嘘だと疑っている部分にも、本当のことや、誰かの誠意はあったんだよ。間違いじゃなかったことが、たくさんあった。たぶん、あんたの世界は、今あんたが思っているより、ずっと優しかったはずだよ。……で、ここからが、一番言いたかったことなんだけど」
開いたばかりの指を、軽く握るように丸めた。
「今まで言ったことは、全部が伝聞だけど、俺の目から見て、あんたの信じていたものを一つ、正しいと言えるよ」
「え?」
「ガイルさんは、かっこいい人だった」
リリィは、スティアの顔をじっと見返した。
スティアは初めて、視線から逃れるように、横顔で笑んだ。どんな時でも、堂々としていた彼には、珍しい動作だった。
「世界で一番、かっこいい人だった。何年経っても忘れられなくて、尊敬の気持ちを捨てられなかったのなら、俺にしてみれば立派な慧眼だって断言できる」
「私は、別に……」
「父さんのことなんか好きじゃなかった? それでも上等だよ。嫌いではなかったでしょ」
彼は、なんだかとても悲しそうに笑った。
「俺にしてみればそれだけで、あんたの信念は、圧倒的に正しかったって言えるよ」
「あなたは、父さんの何なの?」
質問に、スティアは黙った。
リリィのベッド脇にあるサイドテーブルには、昨日着ていた服が、たたんで置いてある。中身をなくしてしまった拳銃のホルスターも、その近くに置いてある。
お守りを入れていた箇所に、一つのライセンスがしまってある事を、忘れていたわけではなかった。ずっと、気になっていた。
スティアは、窓枠から肘を外して、重心を両足に戻して立ち上がった。
「心の準備が出来たら、身支度をして、一階に下りてきて欲しい」
ポケットに手を入れながら、そんなことを言う。
「食堂があるから。昨日の夜から何も食べてないでしょ? まあ、ケイトの料理じゃたぶん、あんたが自分で作るより、味は劣ると思うけど」
突然の話題転換に乗り切れず、リリィが黙っていると、スティアは淡々と続けた。
「飯でも食って、本当に落ち着いたら、その時に話すよ。全部話す。君の父さんのことや、俺たちのこと。今度こそ、俺に言えるだけの本当のことを」
そこまで言って、スティアは苦笑した。
「なんて、当事者が『本当』なんて断言するのは、今の君には皮肉か。判断をするのは君だからね」
「…………」
「今は情報量が多すぎて、パンクしそうでしょ。時間はあるから、ゆっくり気持ちを整理して欲しい。申し訳ないけど、俺もレイバも、混乱している人にうまく説明ができるほどには、気が利かないから」
スティアはそう言って、右手を上げた。
「……それじゃ、また後で」
軽くそれだけ言い残して、彼は部屋を出て行った。その足取りは出会った時と変わらず、体重を感じさせなくて頼りなかった。
扉が閉められてから、リリィは自分の格好を見下ろした。そして、エミリのことを思い出した。シモンのことを、ジャンのことを、リックのことを……ラルフのことを。
楽しかった。
学校生活は楽しかった。それだけのシンプルな現実が身に染みた。胸の奥が潰されたように痛くて苦しくて、瞼と鼻の奥が、じんと痺れた。
父に送るメールを考えることも、楽しかった。画面の向こうにある、裏表のない笑顔を想像するだけで、どんな悩みもバカバカしく思えた。父に会う日を想像して、一人前になった自分を想像して、訓練に励むのは、時々とても辛かった。でも、嬉しかった。
――もう、二度と戻ることはできない。
これからどのような道を選ぼうと、あの日常とまったく同じものは、二度と作り上げることができない。
そう確信すると、嗚咽が溢れた。抑えようとするが、しゃっくりが止まらない。熱い雫が、頬の上を滑って流れ落ちた。
窓の外すらも殺風景な、借り物の客室。誰もいない。
スティアがさっさと出て行ってくれた理由を察しながら、リリィはしばらく泣いていた。泣きすぎて、わけが分からなくなるくらいに、思い切り泣いた。
他人の目がある場所では泣けない性格だった。ひとりきりの時でも、どこかで見ていそうな父の姿を勝手に意識して、うまく泣けない性格だった。けど、今は、父の視線なんてない。世界中のどこにも、想像の中にすらも、存在しない。
これっきりにしよう、と、心の中の冷静な部分が、そんなことを考えていた。ここで思いきり泣いて、落ち着くまでひたすら泣いて、それから現実を見よう。顔を上げよう。
泣いているリリィの脳裏に浮かんでいたのは、五年前に見た父の背中だった。




