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〈シェルター〉は街を壁状に囲っているため、上空が開けている。
ビーストの侵攻防止策として有効な、現段階では唯一とされる装置だが、猛禽類の侵入は完全は防げない。よって街中での襲撃もごくまれに発生する。
デカルト・シティの北部の地区においては、そのような事態が発生した場合、標的をガード・アカデミーのグラウンドに誘導する取り決めがある。誘導手順や避難訓練が定期的にとり行われるような、想定されうる災害として自治体に登録されている事項なのだ。
だが、もちろん頻繁に起こることではなかった。少なくともリリィは、スピノザにいた頃もデカルトに来てからも、街中でのビースト戦になど一度も遭遇したことはない。最悪の最悪を想定した、理論上はなくはない――という程度の発生率しかないはずだ。
だが、今。
リリィは伏せていた顔を、おそるおそる上げた。
床に伏せていたのは自分だけではなく、隣にいるスティアも、気絶したテッドから銃口を離して防御の姿勢をとっていた。エルクも。警備員たちも。
立っているのはセイだけだった。彼とエルクがいる二階ロビーから、リリィがいる一階のフロア全体までが、淡い光のようなものできらきらと輝いていた。リリィはそのきらめきの正体を察して、驚いた。――光を反射したガラスの粒だった。
砕けた天窓の破片は、雨のように降っていたはずだが、床に届かず、リリィ達やエルクらを誰一人傷つけず、斥力でも発生したかのように、宙に浮いたままで積もっていた。
立ち尽くすセイ・ホワイトが見つめる先は、割れた天窓。
そこから、厳かに降り立つ生物がいた。あまりにも巨大な鳥であり――そして、狼だった。
馬のような巨体を持つ、漆黒の毛並みの狼。それだけでも奇妙であるというのに、さらに鷲のような巨大な翼が生えている。そして、あり得ないはずのバランスで巨体を支え、ゆっくりと空から降りてきている。
一匹ではなかった。ぞろぞろと同じ生き物が数匹、天窓に開いた穴から降りてくる。決して野生にはありえないフォルムの、異形の生物が数を増やしてゆく。なにがなんだか分からなかった。
(ビースト……?)
では、ない。おそらく。
狼に翼が生えているなんて聞いたことがない。ビーストは狂暴性を著しく増すだけで、肉体の基礎そのものは持って生まれた種族と変わらない。だからこそ危険なのだ。野生を生きる強靭な獣が、縄張りを広げ、捕食対象を広げ、活動限界を極めて増大させるが、根本的な性質は変わらない。つまり極めて攻撃的でありながら肉体そのものは安定しており、決して無駄なことをしないという隙のなさに守られている。そういう生き物である。
だが、この生物は違う。おかしい。重量のある狼が空を飛ぶなどまず不可能だし、何を突き詰めた進化なのかも分からず必然がない。無駄なものがありすぎるのに、なぜか不自由なく飛行をしている。
そもそもビーストは動物であり、理性はない。この建物を、この天窓だけを、意図的に狙って襲撃するなど、人間側が誘導しない限りは、ありえるはずがない。
……ないない尽くしの思考を不意に止めたのは、狼の背中にちょこんと載っていた予想外の人影だった。乗馬するようなポーズでそこにいたのは、かなり小柄で、とても華奢な影。
ふわり、降り立つ狼の動きに合わせて、少女の銀の髪が揺れた。
粉々に砕けた窓ガラスや、血塗れになって倒れた人影、舞い降りてきた異形の生物……少女は、そういった現状の全てから決定的に浮いていた。得体の知れない生き物に腰かけながら、白馬に導かれた姫君のように、場違いに汚れがない。そして。
あどけない無垢さと、彫像のような美しさとを、完璧に備えた顔かたち。
その顔には見覚えがあった。はっきりと。
だがリリィには、どうしても彼女の名前を呼ぶことができなかった。間違い探しのようだが、簡単すぎる。簡単すぎて、信じられない。
ロール・アリビートの顔からは、ずっと左目に装着して離さなかった、眼帯が取り払われていた。
隠されていた左目は、右目と同じくぱっちりと大きいが、それ以外の特徴は全て、違っていた。
眼球が、真っ黒だった。
白目と瞳の区別もなく、瞼の内側の全てが、黒く塗りつぶされたようだった。遠くから見ればまるで空洞だ。リリィが瞬時に連想したのは、骸骨だった。
完璧な美貌を持つ少女の中で、その一点だけが決定的に浮いている。いや、これはむしろ神々しいのだろうか? リリィは気の迷いのようにそんなことを思った。神などという概念を信じたことはない。それでも、目の前に存在する圧倒的な何かに、ただ平伏してしまいたくなるほどの畏怖を覚えた。びりびりと、体の奥底が震えた。理解を超えた迫力があった。
ロール・アリビートを乗せた異形の生物が、ふわりと床に降り立った。
その黒い首筋をそっと撫でながら、ロールは身体を滑らせ、自らの足で床を踏んだ。乗っていた一匹以外の数匹も、彼女を護ろうとでもするように、周りに散るように降り立った。
「救援……ね」
近くにいたスティアが、顔をしかめて、小声で毒づく。
「これが救援かよ、レイバの奴……ふざけやがって」
ロールが、ゆっくりと前に歩み出た。
その挙動に、何かおかしな所があったわけではない。昨日から顔を合わせていた普通の少女が、普通にする身のこなしと、何が違うわけではない。
それでも、身体が動かない。ただ動物的直感が告げるのだ。動いてはいけない。
彼女はこちらを――というよりは、兄のスティアを?――ちらりと確認した後に、別の場所に視線を定めた。この場にいる全員が床に伏せる中で、立ち尽くしているセイ・ホワイトへ。
セイの真っ白な右目と、ロールの真っ黒な左目が、向き合う。
鏡に映されるよりも正反対の瞳と瞳が、交錯する。
口を開いたのは、ロールの方だった
「この獣は、わたしの力を恐れて、わたしの意志に従っています」
澄みきった幼い声は、どこか辿々しかった。台本を読まされる、学芸会の子供のように。
「わたしが命じれば、どんなものでも破壊します。わたしが意識を失ったり気持ちを乱したりすれば、制御を失って暴走します。獰猛な肉食獣ですから、制御を失えばこの場にいる全員がただでは済みません。でも、わたしが自分の願いを叶えた上で無傷で帰ることができれば、何もせずに退却するように命じることもできます」
「……キメラか」
セイがつぶやく。
ロールは明らかに緊張している様子であったが、横から手をさしのべようにも、事態が異常すぎた。エルクも、警備員も、何も言えないまま、立ち上がることさえも忘れたように彼女を見ている。身内であるスティアもまた、動かない。
「兄と、リリィさんを、解放してください。そして、これから逃げるわたしたちを、決して追跡しないでください」
ロールの要求を聞いて、セイは気むずかしく眉根を寄せた。
「わたしは戦いに慣れていません。危害を加えられたら、平静でいられません。兄や、リリィさんが、怪我をしたり、殺されたりすれば、きっとその瞬間に」
中途半端な箇所で言葉を切って、ロールは息をのんだ。にらむように、セイ・ホワイトを見やる。
「……〈グランドクロス〉の現場が、この街になったって、わたしは構わないんです。わたしに選択権なんてないから。あなた達の行動次第で、わたしは自分の意志とは関係なく、この学校もろとも」
やはり言葉を途中で切って、ロールはぎゅっと唇を噛んだ。震える声を、絞り出す。
「決めるのは、あなたたちです」
「…………」
セイ・ホワイトは沈黙した。そして。
コートの中に手を入れて、隠していたハンドガンを取り出した。それをすぐに、床に置く。
「武器を捨ててください」
その言葉が、エルクや警備員に向けられた発言であるということを理解するまで、時間がかかった。
もっとも顕著な驚きを顔に浮かべたのはエルクだったが、特に逆らわず、着ていた古着のジャケットを脱いでまるごと床に置いた。腰に携えていた警棒も外す。拳銃はもう持っていないようだった。
警備員もまた、警棒をあわてて置く。
「グラウンドから、外に出ます」
ロールは言いながら、セイ・ホワイトの方だけを見つめていた。
「外にいた警備の人間を、解散させてください。決してわたし達を追わせないでください。今すぐに」
セイは黙ったまま、通信機を取り出した。
彼は受話器に向けていくばくか言葉を発すると、すぐにスイッチを切る。まもなく警備が引くと、簡潔に述べた。ロールはうなずく。
「あなた達は、今置いた武器から離れて。そして、離れた場所から、決して動かないで。わたし達は、ここにキメラを置いたままで脱出します」
念を押すような言葉が、震える声で続いていく。
「脱出の間に、わたしや二人に何かがあれば、この子たちが暴れ回ります。わたしが、無事に目的地まで帰ることができたら、この子たちもまた、窓から飛び立って、あなた達を解放します。そのようにプログラムをされています」
「我々全員が人質、そして最悪の事態なら、この街の全てが人質、ということですね」
セイが要約すると、ロールは頷く。
「ええ。だから、決して動かないで」
その命令で、会話は終わった。
ロールは三匹の獣を残したままで、ここに来たときに乗っていた一匹だけを護衛に、移動を始める。ごく普通の少女が、ごく普通に歩くようなぱたぱたと軽い足取りで、こちらに――スティアの方に、やってきた。
妹と顔を合わせて、スティアは何も言わなかった。だが、呆れたような苦笑を、ほんの一瞬だけ、唇に浮かべた。
ロールはその笑みを見てほっとしたのか、ほんの少しだけ笑った。そして、深く息をつく。
スティアが立ち上がり、ロールよりも早く歩き出す。彼は、迷っているリリィを手招きしてから、すたすたと行ってしまった。呆然としつつも、リリィは追いかける。しんがりをつとめるのはロールだった。セイらに注意を向けながら、気絶したテッドを置き去りにして、三人は学校から脱出する扉をくぐった。
外の空気が、ずいぶんと久しぶりに感じられた。変な感じだった。あれだけ出口が遠かったこの建物が、こんなにも静かになってしまった。
選んだ扉は正面玄関ではなかったので、ロールが指差す方向に進んだ。グラウンドを横断して外壁の所までたどり着けば、スティアが壁の上部に手をかざした。塀に張られた、赤く錆びた有刺鉄線がブツンと切れた。そのまま額に手を当てる。緑色に輝く手の甲から、風が生まれる。跳んで、と、彼は言った。
タイミングを合わせると、リリィは、嘘みたいに高く軽く跳躍する自分を見下ろして呆然とした。足に絡みつく不思議な風。鉄線がなくなった壁の上に立って、そして同じ術をもう一度使って、三人で壁を越えた。
外の道路に出ると、そこには一台、自動車が止まっていた。
内側から、助手席の扉が開く。運転席に座っていたひとりの女性が、身を乗り出した。年齢は二十代の後半といった所だろうか。知らない人間だった。うしろに一つで縛った髪と、飾り気のない服装、大柄な体格、そしてこの場にそぐわない強気な笑みなどといった全てが、非常にパワフルだった。
「さ、早く乗って!」
ロールが助手席に身を滑らすと同時に、スティアが後部座席の扉を勝手に開ける。そのまま乗車した彼を追って、リリィも慌てて飛び込んだ。扉を閉めると、その瞬間に発進した。予想外のタイミングとスピードに、リリィは体勢を崩して腰を滑らせてしまう。だがスティアもロールも、この乱暴な運転には慣れている様子だった。
景色がめまぐるしく変わる。車道から離れた歩道を好き勝手に通り抜け、すぐに現在地が分からなくなってしまった。やがて住所も分からない場所で下ろされた。レイバの家に勝るとも劣らないボロ屋だった。
車を運転してくれた女性は、リリィたち三人だけを残して、別の場所にまた走っていってしまった。訳知り顔のスティアに背中を押されて、リリィはその家の中に入った。中は外観よりもさらに意味不明だった。玄関から伸びる廊下にはひたすら段ボールが積まれていて、その手前には、いきなり地下へ続く階段があった。
スティアとロールの案内で、その地下道に降りた。コンクリート製の壁や床が、つけっぱなしの小さな明かりに照らされた、入り組んだ道だった。何度も曲がり、いい加減に帰り方が分からなくなってきたあたりで、スティアが指した梯子を登った。そして。
人家のあたたかい明かりが、目を刺激する。
たどりついたのは、どこかの家の内部だった。床に開いた蓋が開けられて、それがそのまま、この地下通路に通じていたようだった。
知らない人間が大勢いた。こちらの到着を待っていたとでも言うように梯子を囲んだ、歓喜の表情が並んでいる。男性が多いが、女性もいる。白衣や作業着を着た人間が多く、全員が同じ組織の人間であることを、一瞬で意識した。そして。
その人影の中で、ひときわ目立つ人間がいた。脱色した明るい茶髪に、耳を浸食するシルバーピアス。
「リリィ!」
レイバは、這いあがったばかりのリリィが事態を理解するより早く、他の人間をかき分けて、思い切り抱きついてきた。
「お疲れさん! ごめんね! 愛してるから許して!!」
ひたすらに軽い謝罪を受け止めながら。
リリィは先ほどまでの恐怖や緊張を一瞬だけ忘れた。まったく変わらないレイバの声が、重い疲労と呆れになって、ずんと肩にのしかかるようだった。




