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階段を駆けあがる足音がした。下の階から登ってきたエルクは、そのまま足を止めずにこちら、渡り廊下の方向まで走ってくる。
立ち尽くすセイ・ホワイトの後ろから、何も言わずにその横をすり抜けた。リリィが対応をとるより早く、エルクは走りながらジャケットの胸ポケットから何かを取り出し、指先で床に滑らせた。
くるくると回るそれはネズミのように見えた。小型の体からちょろりとはみ出た糸状のものが、尻尾ではなく導火線だと気付いたが、エルクがためらいなく突っ込んでくるのでリリィは混乱した。火がついていないはずの導火線に光が点る。セイ・ホワイトの左目が大きく見開かれたその瞬間に空気が揺らいだ。そして。
熱がネズミのしっぽに収束し、一瞬後に光が爆発がした。膨大な熱の波動が豪風の如く迫る。
衝撃が渡り廊下の床を揺らす。爆煙が広がり視界が遮られる。
死んだかと思ったが、いつまでも痛みはやってこなかった。煙幕の類だと理解して、リリィは反射的に閉じていた目をなんとか開いた。涙がにじむほどの煙の規模に戸惑っていると、エルクは何の迷いもなく飛び込んでくる姿がかすかに見えた。しゃがんでいたスティアの腹を、微塵の容赦もなく思いきり蹴りあげた。彼の体が転がる。悲鳴もあげられず、力なく。
頑健な大男が受けたのだとしても、ただですむ一撃じゃなかった。投げ出された華奢な肢体を見て、リリィはぞっとする。爆煙の中で、濡れた咳のような音がした。
エルクは警棒を構えながら吹っ飛んだスティアを追った。リリィは妨害すべく、同じく警棒を突き出した。転げたスティアの頭の上で、棒を用いた鍔迫り合いが二、三打続く。そして。
突然、リリィの顔のすぐ横を、光線が走り抜けた。
煙幕を引き裂いた鮮烈な光が、一本の線になってから消える。ほとんど同時に、はるか後方にある壁が、爆砕する。
――なにが起きたかを、理解する暇もなかった。
ぱらぱらと、砕けた壁のカケラが床に落ちる音が聞こえる。床と壁が揺れている。
呆れたような表情のエルクの向こうで、セイ・ホワイトがこちらを見ている。リリィと、リリィを越えた向こう側で、爆砕した壁とを。
「……無傷でお迎えしたい気持ちに変わりはないが、あいにく加減は得意でありません」
セイはどこかやりきれない声色で、だが真面目な顔で、言った。エルクは呆れた顔をしていたが。
「これが最後です。どうか、抵抗をやめて欲しい」
セイの譲歩は、少なくともリリィにとっては逆効果だった。決して事態を理解することはできなかったが、ぞわりと鳥肌が全身を駆け抜けた。それは原始的な恐怖であり反射だった。危険信号。異常な力。逃げろ、と。
傷ついたスティアの手を引いて、走りだそうとした。だが、攻撃を食らって伸びていたスティアが、それをはっきりと振り払う。
驚いて、見やる。
スティアは目をすがめて、明らかなダメージを全身で訴えるように呼吸していた。顔をあげることで精一杯で、立ち上がることすらできないようだ。
だが彼は、確かに唇の端を釣り上げた。
「……来た」
息が上がっていることを隠す余裕もないらしく、その声はひどく掠れている。だが、近くにいるリリィには聞き取ることができた。
スティアは立ち上がろうとしたようだが、力が入らないのか、まったくできずによろける。リリィが手を伸ばすと、彼は遠慮なく手がかりにして立ち上がった。
「まだ、走れる?」
「え? ……うん」
「ちょっと、俺のこと、運んでくれない」
「は?」
思わず大声で聞き返すと、スティアは早口で囁く。
「この渡り廊下の、真ん中まで。一瞬だけでいい。俺もう走るの無理だけど、ジャケットの男を、越えたいんだよ」
意味が分からず、リリィは瞬くが、スティアはそれ以上の説明をしなかった。
現在、自分たち二人が立つ位置を確認する。はじめに銃撃を受けた時には、ほぼ真ん中にいたような気がするが、スティアが殴られたくだりから、徐々に奥側に位置がずれていた。今では、「ちょうど真ん中」までは五歩くらいの距離がある。そしてその間あたり――ここから三歩目に、エルクが立っている。
一瞬だけでいいと言われても、エルクの横を越えられる気などしない。
そう思ったことが表情で伝わったのか、スティアは小さく笑った。
「ためしに、やってみればいいよ。たぶん、上手くいく」
その言葉に、返事をする暇もなく。
スティアは突然後ろに回って、その細腕に残されていたらしい、思っていたよりは強い力をすべてこめた。了承もなくリリィの肩に手を置き、ひょいと体を縮めて、足を宙に放る。まったく意味は分からなかったが、ほとんど反射的にリリィは投げ出された脚を受け止めていた。要するに、おんぶである。
どれだけ間の抜けた絵面だかは、ぽかんとしたエルクとセイの表情を見れば分かった。そして同時に、理解した。スティアが言っていた言葉の意味。
「今だ!」
めちゃくちゃだ。
そう思った気持ちは嘘ではないが、リリィはそれでも走り出していた。彼の突拍子のなさに、慣れてしまったのかもしれない。
エルクの横を通り過ぎることには、あっさりと成功した。びっくりした人間というのは、こうまで隙だらけなのかと、感心すら覚えた。
スティアの体は見た目通りに軽かった。目を回したエミリを運んだ時の方がよっぽどきつかったと言ってもいい。とはいえ、人間ひとりを長時間運べるほどに、リリィ自身にも体力があるわけではない。廊下の真ん中に付いた五歩目で、すぐに彼を下ろした。そして。
飛び降りながら、スティアは、リリィから警棒を勝手に奪い、流れるような動作で振るった。標的はセイではない。エルクでもない。リリィが立ちつくしているすぐ後ろの、渡り廊下を覆っていたガラス壁だった。
腕力というよりは遠心力に負けて、派手な音を立ててガラスが砕けた。スティアは警棒を投げ捨てながら右手を翳し、強い風の一撃を放つ。脆くなっていた面が空中に吹き飛ばされて、そのままフレームごと、一階の床まで落ちていった。壁に開いた穴が大きくなる。
スティアは、ふらふらとした足取りで、それでもなんとか、穴のあいた壁から少し離れた。リリィを挟んで、通路側に移動する。
「あんた達と」
セイらに向けて顔を上げて、はっきりと声を上げた。そして。
「まともに戦う気はないんだよ」
スティアは思いきり体重を乗せて、呆然としていたリリィの身体を突き飛ばした。
(え?)
自分の身になにが起きたのか、理解が出来なかった。
足場が消えた。重力から解放された自由な感覚。髪が、一方向に引っ張られるように流れて、そして。
「――き」
内臓がふわりと浮き上がる。頭の重さに負けて、身体の向きが逆さまになる。
「きゃああああああ!」
空気を切る感触だけにひたすらもてあそばれながら――リリィはまったく冷静さを保つことができずに金切り声をあげていた。
ロビーや渡り廊下が絡み合うこの高層建築の中で、リリィが落ちた箇所だけは一階に直結しているらしい。ぐんぐん流れる景色と、ひたすら重力に忠実な落下速度。全身の血液が沸騰する。死ぬ。
膨大な風が、体を押し上げた。
圧力が拮抗して呼吸が詰まる。もみくちゃにされたのは一瞬で、すぐに辺りの空気が穏やかなものになってゆく。いつのまにか、恐怖に閉じていた目を開いた。リリィの体は、パラシュートでもつけたように、ゆっくりと下降していた。
なにがなんだか分からず、ただ、弛緩した目や鼻や口から、液体がこぼれないようにするので精一杯だった。ふわりと、リリィの体は一階の床に着地する。無様な体勢ではあったが、ひとつの怪我もない。髪の毛は絶望的に乱れていたが。
次いで背後で、トン、と軽やかな音がした。
涙ぐみながらゆっくりと振り返る。スティアがやたら優雅に着地している。リリィを突き落とした直後に自分も飛び降りたのだろう。となれば、風で落下速度を軽減したのも彼なのだろうが……
はるか上空の七階で、セイやエルクの影が、小さく見えた。
言いたいことは色々とあったが、リリィが文句を整理するより早くスティアは動いていた。緑色の手の甲を、額に当てる。すぐに離して、赤を宿して振り回した。指先が指したのは――昇降機。
火花がショートして派手な音がする。機体を支えていた太いワイヤーが、煙を立てて切れていた。
「医務室!」
「へ?」
「俺より、君の方が足が速い。テッドは、たぶん医務室にいる!」
こちらの様子など構わずに、スティアはめいっぱいに叫んだ。
「今しかチャンスはない! 早く」
――むちゃくちゃだ。
二度目の言葉を胸中で放ちながら、リリィは膝が笑うのをなんとか押さえ込んで、ゆらりと立ち上がる。
髪をかきあげて、今の自分に出来るだけの速さで、走り出した。無人の受付を越えて、校舎の奥へ。
(なんなのもう!)
胸中で悲鳴をあげながらも、頭のどこかで冷静な思考が回る。人数で負けていた状況から、包囲を派手に突破した。チャンスは確かに、今しかない。
テッドは火傷を負って戦線から引いた。医務室は一階にある。確認できる敵のすべて、特に強力なエルクとセイは七階で立ち往生している。昇降機が壊れた今なら、階段で下りてくるのに多少は時間がかかるだろう。稼いだこの時に、無防備でいるであろうテッドに襲撃をかけて……
(〈イエロー〉を奪う)
のが、スティアが思い描いている策なのだろうが。
まだなお、落下のショックが抜けきらず、どこかふわふわと曖昧なままの思考が、もどかしかった。
腰に携えていた拳銃は七階に置き去りだが、腿に携えた残りひとつには、弾丸がまだ残っている。
(私は……)
医務室の扉が見えてきた。リリィはそのままの勢いで扉を開けた。そして。
銃声が高く響いて、リリィの髪の一房が爆ぜた。
医務室の中には誰もいなかった。保険医も、病人も、けが人も、誰一人。
今の攻撃は別の場所から届いた。恐怖が追いつくより早く、笑い声が耳に届く。
視線を向けた。二階のロビーに通ずる、階段の途中に、テッドが立っていた。医務室に駆け込んでくるリリィの姿を予想していたように、はっきりと顔が見える場所にいる。
赤毛の下にのぞく顔面に、ぞっとするような火傷があったが、観察する余裕はない。彼の手には、硝煙をたなびかせた拳銃が握られていた。
まじまじと機体を確認できたわけではないが、それでも見覚えのあるモデルだった。学校支給の、リボルバー。
「一階からは武器庫が近いってことを、忘れてたんだ」
テッドは、くつくつと笑った。
「ケアレスミスでばかり、テストの点を落とす癖は、治ってないみたいだな。俺に愚痴ってくれてから、ずいぶん経ってるのに」




