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Equ8/7/21 7:23
From: 父さん
Title: おはよう
少し久しぶりだね。ここの所、ちょっと仕事が忙しかった。変わりなく元気でやっていますか? 父さんの方は元気です。でもすっげぇ疲れています。疲れてると、お前にメールをしたくなります。もうウザいって言われちまう年頃なのかな。
俺の仕事の話なんかどうでもいいよね。でも、リリィが就職したら、似たフィールドに立つことになるんだよなぁ。もうそんなに時間が経ったんだと思うと、不思議な気持ちです。
お前、そろそろ試験があるんじゃないのか? 真面目に頑張ってるだろうから心配はしていないけど、一応エールは送っておきます。ここでまさかの成績低迷といったら、今までの努力がパーだしな。全力で挑め。な。
それでは、今回はこの辺で。ちょっと今大きな任務に関わっているのでどうなるか分からねぇけど、できれば近いうちにまた連絡したい。
吉報を伝えたいんだ。
もしかしたら一つ、いい事があるかもしれない。まだ不確定だけど…。待っててくれると嬉しい。
それでは、学校頑張ってください。
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街道は森を貫いて一直線に伸びていた。だがその道路の端々すらも、異常な速度で成長を続ける植物に侵食されている。どれほど人が整備しても追いつかない、生き物の濃密な気配が絡みつく深い森。目の前に広がるのはそういったものだ。人里とは別世界であり、訓練場とももちろん違う。
これは実戦だ。リリィ・ブルーノは己に言い聞かせ、指定された位置についてライフルを構えた。
スコープ越しに見る視界に動くものはなく、装甲車の上で身をかがめたリリィは標的が現れるのをひたすら待つ。――車の周りで順番待ちの学生が身を潜めて待機していることも、リリィのフォームを今この瞬間もチェックする試験官の目があることも、意識から消えていく。リリィは実技試験の段取りだけをくり返し確認していた。準備をする。構えて待つ。標的が現れた後、近づかせる前に銃で仕留める。
立地の設定や標的の数など、すべての条件はプロフェッショナルである教官たちが事前に整えている。この試験において、個人やチームとしての戦術や戦略の概念は存在しない。試されるのは心構えそのものだった。机上の存在でしかなかった〈ビースト〉を前に、定められた手順を遵守して、冷静に道具を扱えるか。
グローブの中で、手に汗がにじむのを感じた、その瞬間。
鳴き声が聞こえた。うなるその気配を察知した瞬間、心臓がどくんと鳴って感覚が飛んだ。圧倒的な緊張が全身を支配して、ぶわっと鳥肌が立った。
森から一匹の獣が放たれた。それはいかにも獰猛な肉食獣然とした、しなやかな筋肉を誇らしげにしならせる生き物だった。狼に似た強靭なフォルムは間違いなく美しい。だが顔面の一点に限って、ぞっとする不気味さを貼りつけている。――それは瞳だ。マーブル状の濃淡がぼやけたグレイの眼球は、どこを見ているのかはっきりせずに濁りきっている。生に執着する意志そのものが見えず、生き物としての健全さがまったく感じられない一方で、無機物にはありえないような生々しさがあった。タールのような粘つく気配が、リリィのいる方角に視線を定める。まだかなり距離がある。だが装甲車と獣のちょうど真ん中ほどの位置に、その生物を引きつけるために蒔いた餌がある。
獣は疾駆した。
早い。リリィはひたすらに目を凝らし、訓練で繰り返した動きをイメージする。射程距離と移動速度と、両者の到達点が重なる瞬間を見極める。この瞬間だけは、感覚が精密に分割される錯覚がある。どこまでも、何もかもが見える気がする。自分に対する信頼が、迷わずその一瞬に引き金を引いた。
(眉間!)
掌の中で衝撃が爆発した。獣の四肢が宙を泳ぐ。横倒しにバランスを崩し、そして倒れた。
横転したその体から、赤い粘液と強い生臭さがつんと広がる。それでもリリィは銃を下ろさない。数秒、待った。獣は動かない。
永遠のような沈黙。
パン、パン、と。突然、手を鳴らす音がして我に返った。車の陰から姿を現した教官が、リリィに向けて拍手を送ったようだった。
「オッケーだ。採点終了。今のはかなり良い出来だったから、各自ちゃんと分析して参考にするように」
教官のシモンは珍しく顔をほころばせて、優しい声でそう言った。プロのガードとしてその優秀さが名高く、怪我を理由に引退して間もない彼は、採点基準が厳しいことで有名な教員だった。褒められることはめったにない。
緊張が霧散して力が抜けた。銃を置いたリリィは思わず、ぺたんと装甲車に貼りついてしまった。
「次の順番の奴、すぐにスタンバイ。俺は準備班に開始の合図を伝えてくるから、それまで各自休憩しておくよう。あ。死骸はリック、お前、引渡しのトラックに持ってっとけ」
「げ。さっきも俺がやったんっすけど」
シモンに名前を呼ばれたのは、待機している学生のひとりだった。リリィと同じように武装したクラスメイトで、顔面にうんざりと疲労の色を貼りつけていた。
「挽回のチャンスをやろうって親切心だよ。逃げ腰だし外しまくるし、追試は覚悟しとけよ、ホントに」
軽い口調で言い放つ。リックと仲のいい数人が、ははっと笑いながら彼の肩を叩いた。ぶすっと不機嫌なリックをなだめながら、数人がかりでリリィが撃った〈ビースト〉の死骸を丁重に運んだ。
「お疲れ、リリィ」
やがて全員が試験を終え、休息と撤収準備にいそしむ最中。
学生たちが思い思いに気を抜く中で、リリィは声をかけられて振り返った。学友のジャンが水筒を差し出していた。教官からの差し入れだろう。こんな時に振る舞われるのはいつも、砂糖水にレモンを絞ったドリンクだ。リリィは思わず満面の笑みを浮かべた。
「ありがと!」
「見事だったぜ。ますます置いていかれちゃうなぁ」
爽やかな酸味のする液体を喉に通して、体が生き返るのを感じる。リリィは機嫌よく笑ってみせた。食べ物を与えるだけで、ここまでいい笑顔を見せるのだからまるで子供だと、昔からよく言われるが、まあ、気にしないでおく。
「まあね。自分でも驚いた。ずっと越えられなかった感覚があったんだけど、最近ちょっとだけ分かったんだ」
「努力の勝利かな。お前を見てると文句も言えないわ」
ジャンはあまり成績がよくなかった。先ほどのリックと並んで、このクラスでは最下の位置にいたような覚えがある。
だが二人とも、その成績に甘んじて、たいして悔しがっている様子もなかった。口では不平や不満を零しながら、今の立ち位置に満足しているようだった。
女生徒のエミリが、リリィを探してうろうろしているのが見えた。手を挙げて居場所を示すと、彼女は足取りも軽く合流する。みんなでレモンドリンクを飲んで談笑しつつ、リリィは結んでいた髪を解いた。栗色のロングヘアが戦闘を終えて少し乱れていたので結び直す。基本的には下ろしている方が落ち着くのだが、長い髪は戦闘には邪魔なのだ。帰り道に本当の襲撃を受ける可能性もゼロではない。
試験で使ったライフルは回収されたが、太ももと腰に装着したホルスターには自前のリボルバーが収まっている。リリィはそれらを一つずつ取り出して動作を確かめた。いざという時は、いつでも抜き放てる状態だった。
「出発するぞー!」
リックの声が聞こえて、リリィたちは談笑を打ち切った。休息をとっていたクラスメイト十数人が、装甲車と輸送トラックの二台それぞれに散った。
リリィたち三人が割り当てられていたのは、トラックの荷台だった。数名の学生と、少し離れた場所にさきほど積み上げた〈ビースト〉の死骸を載せたまま、石だらけの荒れた街道をガタガタと進んでゆく。
車体には安全制御装置である〈シールド〉のスイッチが緑色に輝いている。深い森の中、無力な人間を守るための、ちっぽけな守護神であるように。
リリィは車の上から周囲の景色を見渡した。人類が力ずくで貫いた街道。それ以外には見事に森しかない、死者と生者の気配に満ちた芳醇な空気。
街のゲートから外に一歩踏み出せば、そこには森が広がるのみだとは知っていた。だが、実感としては新鮮だった。人の手が入りきっていない、中途半端に整備されただけの道も、狂った獣がはびこる、視界のきかない深い緑も。
(この世界は、閉ざされてる)
街と街の間に森が広がっているから、情報は遮断される。電波がそれを飛び越えるのだとしても、身体はついていくことが出来ない。
全ては、森が呑み込んでしまう。
「リリィ」
横から声をかけられて、リリィは我に返った。どうやらビーストの死骸を検分していたらしいシモン教官が、同じ荷台上にいた。
「はい」
「話していいか」
シモンは遠慮なくリリィの隣に腰掛ける。ジャンとエミリも、彼の挙動に注目してきょとんとしていた。
「まず、褒めておくよ。今回の討伐試験で一番良い動きをしたのはお前だった。お前はとにかく目がいいし、空間把握の勘には天性の才覚がある。成績から予想はついていたとは言え、女性の筋力であれだけの射撃はなかなか出来ることじゃない」
「ありがとうございます」
「基礎クラスで学んだ事も、忠実に再現していた。けどね。ちょっと惜しかった」
リリィが瞬きをすると、シモンは苦笑した。
「色気を出しすぎたのさ。お前は実力を過信してワンステップ飛ばした。それは確実に敵を倒すこと」
「一撃で仕留めたのに、満点じゃないんっすか?」
不思議そうに、ジャンが口を挟んだ。シモンはこの場にいる全員に説明をするように、首を振った。
「一撃必殺を狙うならたしかに眉間が正解だ。〈ビースト〉は目と目の間を撃ち抜かれると問答無用で死ぬ。そういう生き物だからだ。……だが、今くらいのサイズの個体なら、いきなり額を狙うのは現実的な判断じゃない。走り方いかんで外れてしまう確率があまりに高すぎる。リリィは確かに希有な腕前だけど、どんなに腕がよくても過信したら終わりなのが銃って武器だよ。より確実に銃弾を当てるには、他の部位を狙って動きを封じてからの方が確実だ。今回うまくいったのは、ただ単にたまたま当たったからだ」
大きな石でも踏んだのだろうか。トラック全体がガタンと揺れた。だけど、リリィはシモンから目を離すことが出来なかった。
「リリィ、お前は腕前のアピールを優先してしまったんじゃないかな。試験の点数を少しでもあげたい。実力を評価させたい。そういう気持ちがとっさの一撃必殺に繋がった。違う?」
心の裏側を見透かされた気がして、思わずリリィは固まっていた。――無我夢中だったのだから、決して意識していたわけではない。だが無意識だったからこそ、違うと断言することはできなかった。シモンは真面目な顔になる。
「〈ビースト〉を相手にする時の基本は、近寄らせない事と、正確性を極めること。評価を高くすることを狙ったせいで、そのへんは減点。ちょっとしたことに聞こえるかもしれないが、今のだって失敗していたら死んでいたかもしれない。以後、よくよく注意するように」
「はい……」
「お前は優等生で終わるにはもったいない器なんだ。自分の目指す仕事の本質を、もっと考えてみることだな」
シモンは立ち上がって、ひらりと軽く手を挙げて荷台の後ろの方に歩いていった。ビーストの死骸をおそるおそる突いていた学生たちと、会話を始める。
リリィは教官に告げられた言葉を反芻して、はぁっと溜息をついた。レモンドリンクで全快したはずの元気がしぼんでゆく。圧倒的な正論と、己の未熟さを前にして、ぐうの音も出なかった。
「そーんなヘコまなくても」
こちらの表情の変化を見つめて、ジャンが快活に笑った。
「ほんっと分かりやすいよな、リリィって」
「うっさいなー」
「でも、負けん気が強いのはいい事じゃない」
ドリンクを飲みながら、エミリが笑う。リリィは曖昧に笑ったが、少し違うなと思った。
別に、負けず嫌いというわけではないのだと自分では思う。習った事はきちんと身に着けたいとは思うが、誰かと比べて一番でいたいわけではない。試験で感じる競争意識は、他の生徒と同程度のレベルだと思っているし、プライドが高いというわけでも、自分に厳しいというわけでもないのだと、そう思っている。
焦っていたのだ。結論を言葉にしてリリィは納得した。きちんと単位を取ればこの一年で資格が取れる。卒業すれば一人の〈ガード〉として認められる。そのチャンスを確実にものにしたくて、焦っていた。
今朝方、あんなメールをもらったからだ。――そう思って、リリィはすぐに自分を恥じた。己の慢心を、一瞬でも父のせいにした意識が許せなかった。




