プロローグ
「そっか、強くなりたいのか」
質問に答えると、男は屈託なく笑いかけてきた。馬鹿にされることを予想していたスティア・アリビートは、少し面食らった。
「なら肉をちゃんと食えよ。どんな環境にいてもガッツリな」
男は旅人らしい短髪と、無骨な肉体を有した偉丈夫だった。だが薄茶の瞳はいつでも柔和になごんでおり、人柄は気さくで大らかだった。懐かしいその姿と……子どもの頃はよく、そばで会話をしていたのだ。
彼は屈めていた膝を伸ばして立ち上がった。腰に携えた大振りのナイフを取り出し、構えた。切れ味を誇るように、冷たい光沢が刃をひらめいた。
ナイフを握る掌は厚く、筋張っていてたくましい。見つめながらスティア・アリビートはその時、自分の手をひどく意識した。十歳。幼さを脱しえないのは仕方がない。いつもそう言い聞かせていた。
「体は食いものでできてる。だからなんでも食え。こういう場所なら……ほら」
男は目線を遠くの一点に向けた。スティアも、彼が見る場所の全てを見つめようと、目を凝らす。風景はどこにも見えず真っ白だった。だが遠くから、草のこすれるような音が聞こえる気がした。雲の流れや、虫の声……記憶の奥底に刻まれた小さなひっかかりがゆるやかに浮かびあがり、目の前にある情報をわずかに彩って、また霧散していく。……そうだ。森だった。曖昧な情報。奇妙に遠い視点。近づいたり遠ざかったりする感覚に身を委ねる。
「怖ぇかもな。だが、目をそらすな」
男は気取った風に、携えたナイフの刃を舌で舐めた。にやりとしながら、半身を突き出すように構えた。
(ああ、そうだ)
この後に彼は、罠にかけた野兎を殺し、夕食のメニューをひとつ増やした。思い出して、スティアは目を閉じる。
おぼろげな感覚が、急速に収束していった。水底に沈んでいた体が浮上するような圧迫感と共に――感覚が覚醒する。
目を開けた。
スティア・アリビートが眠っていたのは、白い空間ではなかった。
天井と壁はくすんだ灰色のコンクリート。窓のない地下室に固有の湿った空気。電球の鈍い輝き。全てがぼんやりと視界に馴染んでくる。見慣れたいつもの病室だと認識するまで、ひどく時間がかかった。
気だるい腕で瞼をこする。時間をかけて半身を起こすと、視界の隅にずらりと並んだ機械が見えた。ベッドの周囲を謎の医療機器が包囲している。いつも通りのうんざりする光景だ。
邪魔な前髪を掻き揚げる。甲斐なく、絡みついた銀の直毛は、すぐに額に滑り落ちた。
「起きたのか」
聞き慣れた声が飛んできた。返事は特にしないまま、スティアはぼんやりと半眼のままで振り返る。
病室に入ってきた医者は、いつも通りに薄汚れたツナギを着ていた。ペタペタと特徴的な靴音を響かせて、ベッドのそばに近づいてくる。視界の端に彼の足元をとらえると、これもいつも通り、変なサンダルを履いていた。
「こんな時間に起きるなんて、珍しいな。調子は?」
「……変わらない」
うめく。医者はマイペースに、ベッド脇の回転椅子に腰掛けた。スティアは活動を始めようとしない顔全体に手を翳す。ぼうっとしながら、緩慢に言葉を付け足していた。
「……たぶん」
苦笑の吐息が聞こえた。医者の操作に呼応して、ベッドの傍らに置かれている巨大な機械の電源ランプが灯った。指先が器具をコードで機械に接続している。検査が始まる。
スティアは眉間を軽くつねりながら、己の体を見下ろした。十七歳。夢の中よりは成長してしかるべきだろうに、見事に弱体化の一途をたどった痩躯がそこにあった。
「……夢を見たんだ。すっげー久しぶり」
「へえ」
「ガイルさんの夢」
医者は器具を拭く手をほんの一瞬だけ止めて、ぱちりと瞬きをした。スティアはかすかな満足感を覚えた。
「そりゃまあ、運命的なタイミングだな」
「……かもね」
「ロールも待ちくたびれてるみたいだし、結果が良ければすぐにでも始めるさ。頑張れよ」
スティアは医者が構えた器具を見とめ、診察内容を察して上着を脱いだ。少し汗ばんだ寝起きの背中に、生ぬるい空気が絡みつく感触がした。