わたしの怪獣よろしくね
今でも鮮明に覚えてる。
中学一年の、夏休みを目前にしたあの日。クラスメイトのミヤチと一緒の、いつもの通学路。
ミヤチは私に、唐突に言った。
「こんど引っ越すんだ。東京に」
私は自分の耳をうたがった。
思いっきり「は?」って聞き返した。
まさか、そんな重大告知を受けるとは思わなかった。「こんど旅行にいくんだ」みたいな気軽さで。
私はミヤチのまじめな顔を見た。
それで別に冗談じゃないんだと理解した。
即座に半泣きになった。
私はミヤチの綺麗な細い腕をつかんで
「なんで」「いかないでよ」「おねがい」
って何度も何度も何度も言った。
面倒くさい彼女みたいだな、と自分で思った。
ミヤチはミヤチで
「別に会いに来れる距離じゃん」
「毎日連絡するから」
とか、薄っぺらい彼氏みたいなことを言う。
私は「そういう問題じゃない」とつぶやいた。
ミヤチが毎日近くにいてくれることが大事だった。同じ学校に、同じ街に、同じ空間に。そこに親友がいてくれることが救いだった。なのに。
しばらく沈黙したまま二人で歩いた。
そのうち私はだんだん我に返る。
ミヤチの家には、わりと複雑な事情があるのを思い出す。
急に恥ずかしくなって、物わかりのいい口調をつくって「それで何日に引っ越すの?」みたいな会話をした。
内心は、ミヤチのいない学校を想像して、ただ絶望してた。
ミヤチはふいに立ち止まった。
くりっとした大きな瞳で私をじっと見た。
言いづらそうに「あのさ」と切りだす。
「メイ、ひとつお願いしてもいい?」
私はなにげなく「え、なに?」って答えた。
けど、その瞬間もう使命感で心をたぎらせてた。親友の頼み事なら何だって叶えてやる。人殺しだろうが何だって来い。
ミヤチは言った。
「怪獣の面倒みてほしいんだ。
あたしの代わりに」
#
怪獣がなにか、私は知らなかった。
中1の女子は、みんな知らない気もする。
ミヤチの説明を聞いてもよくわからない。
ていうかミヤチ自身わかってなさそう。
怪獣ってなんだよ。
「じっさい見てもらったほうが早いかも」
そういうわけで、私はミヤチと怪獣に会いに行く約束をした。その日の夜9時に、ミヤチの家に向かった。
母はミヤチが娘のほぼ唯一の友人であると知っていた。「ちょっとミヤチの家に呼ばれたから」と言うと、「こんな時間に迷惑じゃないの?」と言いながらも止めはしない。
ミヤチは家の前で私を待っていた。
左手にはマクドナルドの袋を持っていた。
「一緒に食べよ。向こうに着いてから」
「どこにいくの?」
ミヤチは「クジラ池」と答えた。
私の地元のにはあちこちに溜め池がある。
クジラ池はその中でも一番大きい。
湖っていってもいいくらいの大きさ。
池の形が鯨に似てるから「クジラ池」。
むかし水難事故があって、子どもは立ち入り禁止になってた。そうじゃなくても誰も近寄りはしない。あの辺りは何もないから。
ふたりで自転車を走らせて、夜のクジラ池にたどりいた。人の気配は皆無。あとは鬱蒼とした藪、藪、藪。
近くの高速道路の照明がじんわり届いて、すこし明るい。あと、めちゃくちゃ虫が鳴いてる、ジーーーーーって。
虫よけスプレーをたっぷりかけ、ミヤチの後ろに続く。ミヤチは手際よく藪かき分けて、ひらけた水辺に近づいた。
ミヤチは水面に乗り出すみたいな姿勢で
「メイ、見ててね」
と言い、勢いよく手をたたいた。
三三七拍子だった。
そしたらすぐに水面がざばざば波立った。
一瞬クジラのヒレみたいなのが見えて、ぎょっとする。つぎに黒光りする胴体が、ぐらりと水面に浮きあがった。
私は悲鳴をあげてミヤチにしがみついた。
想像以上にでかい。尋常じゃない恐怖感。
最後に、細長い尻尾みたいなのが、ニュッと現れた。と思ったらそれは尻尾じゃなくて細長い首。
首の先には小ぶりでシャープな頭。
なんか爬虫類っぽい。意外に大きい目がきょろり。ミヤチと私をまじまじと見つめてる。
ミヤチはそいつに「おはよ」と声をかけた。
そいつは嬉しそうに水面でヒレをバシャバシャした。水しぶきがすごい勢いで私たちの顔にかかった。
ミヤチが私に「夜行性なんだよ、怪獣は」と説明した。怪獣は夜行性、だから会いに行くときは、いつも夜じゃないといけない。
そのあと、私たちは水辺で一緒にマクドナルドを食べた。ミヤチはフィレオフィッシュを包みから取り出すと、怪獣に向かってポンと放り投げる。
怪獣は器用に首を動かして、パクリと噛みついた。口を開いた瞬間、びっしりと並ぶギザギザの歯が見えた。
怪獣はずいぶんミヤチに懐いてる。
ミヤチは怪獣の首に手をまわし、ゆっくり頭を撫でた。怪獣は目を閉じて、クウウウと鳴いた。
「かわいいでしょ」
とミヤチが自慢げに言う。
鳴き声はかわいいけど、存在感が重すぎる。慣れるまでに時間かかりそうだなって思った。
「怪獣の世話って、なにするの?」
ミヤチは「え、これだけだよ」と言う。
週に1回くらい、夜中に池に来る。
三三七拍子で怪獣を呼び出す。
好物のフィレオフィッシュをあげる。
しばらく一緒にたわむれる。
「それだけ。
ふだんは自分で魚たべてると思うし」
まめに会いに来るのが大事とミヤチは言う。
「こう見えてさびしがり屋だから。
怪獣は寂しすぎると死んじゃうから」
メイも触ってみて、と言われ、恐る恐る怪獣にふれた。
撥水コートみたいな肌ざわり。ひんやりして、おすと弾力がある。怪獣は目を閉じて、クウウウと鳴いた。
「メイ、あたしの怪獣をよろしくね。
あたし、そのうち必ず戻ってくるから」
ミヤチはそう言って笑った。
私の大好きな優しい笑顔。
#
あれから5年たった。
私は高2になった。
今も、毎週、怪獣に会いに出かけている。
ひとりだけの夜のピクニック。
怪獣は何もかわらない。
大きくもならないけど、相変わらず元気。三三七拍子で呼ぶと、すぐに水面に出てくる。飽きもせずにバシャバシャしてくる。
近くのマクドナルドは2年前に撤退した。
フィレオフィッシュは代わりにコンビニで買っていく。自分の分は買わない。お金がもったいないから。
私はあまり変わらない。
相変わらず友達は少ない。
でも高校にはとりあえず通ってる。
もちろん高校にミヤチはいない。
この街にはミヤチはいない。
ミヤチは二度と帰ってこない。
東京にも、ミヤチはいない。
ミヤチはこの世にいない。
東京に引っ越して半年後に死んだ。
今でも嘘だとおもう。
でも嘘じゃないらしい。
転落事故だって聞いた。
口の悪い人が、自殺かもしれないと噂を流していた。
そんなわけないです、と私は怒鳴りつけた。ミヤチは戻ってくるって私に約束したので。
きっと怪獣はミヤチが死んだことに気づいてない。たぶんだけど、私とミヤチの区別もついてない。遊んでくれるなら誰でもいいや、ていう大雑把な性格がこいつの強み。
怪獣は人を選ばない。
イケてるとかイケてないとかも関係ない。
ただ自分を構ってくれるかだけみてる。
ひとりで怪獣と遊びながら、ミヤチのことを考える。
もしかしたら、怪獣と会わせてくれたのは、私のためだったのかも、と思う。友達作らないくせに異常に寂しがり屋の私が、ひとりぼっちにならないように。
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私は高校で美術部に入った。
なぜならミヤチが絵をかくのが好きだったから。勝手に影響をうけた。ミヤチは、美大行きたいなって言ってた。ミヤチならどこでも行けたと思う。
私はミヤチと違って何でも器用にこなせない。でも下手なりに毎日描けば、それっぽく描ける。
というか描けてる気になる。
それでもわりと楽しい。
美術部に入って何人か友達もできた。
仲良しと言えるかは微妙だけど。
そういえば、春に入部してきた後輩がひとり、なぜか私を慕っていた。
「先輩の絵、素敵です」
1年生のシイナは、私の描く葉桜の絵を見て言った。自分が他の人より下手なのは分かってたので、もしかして馬鹿にされてんのかな、と思った。
そう思ってシイナのキャンバスをのぞくと、めちゃくちゃうまかった。
「上手すぎてムカつく」と素直な感想を告げた。シイナは嬉しそうに「やったあ」と笑い、はにかんだ。
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先週から、私は怪獣の絵を描き始めた。
本当はいつか絵が上手くなってから、と思ってた。でも、「いつか」なんて永遠に来ないな、と考え直した。
夏休みに入る前に描きだした。
どこかに出展する予定もない。うまく描けたら、ミヤチのお墓に見せにいこうか。
具体的な構図も詰めないまま描きだした。
巨大化した怪獣が陸に上がり、大きなヒレで東京都心を破壊する、特撮マニアみたいな絵になりつつある。
でもこうなるのも仕方ない。
ミヤチを奪った東京は私の敵だから。
美術部の友達が私の絵を見て、
「メイちゃんって、わりと鬼才だね......」
と言う。
その顔は明らかに引いている。
私はこうやって友達を減らしてく。
シイナが遅れて美術室に入ってきた。
「おはようございます」と言ってそばに座る。私の描く怪獣の絵を、無言で見つめてる。
笑ったら怒鳴りつけてやろうと思った。でもシイナは結局なにも言わなかった。
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部活を終え、ひとりで帰ろうと学校前のバス停に並んだ。高校は自転車通学禁止。シイナが小走りで追いかけてきて一緒に乗った。
「先輩が描いてたの、何の絵ですか」
シイナが吊り革に手を伸ばしながら訊く。
「あれ、怪獣」
私はそっけなくこたえる。
「怪獣?」
「知らないの?怪獣」
ふつう知ってて当然じゃないの、っていう感じで言った。先輩の威厳を示そうと思った。
シイナは素直に
「すみません。知らないです」
と言った。
ふと思いついて、私はシイナに聞いた。
「じゃあ見せてあげよっか。
あんた、怪獣に会いたい?」
シイナはきょとんとして
「はい、会えるなら」
と言った。
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その日、シイナを連れて、クジラ池へ向かった。歩いて行ったら、ちょうど日が暮れる時間になった。
フィレオフィッシュが入ったコンビニの袋を片手に、私は手際よく藪をかき分けて水際へ向かう。
私は「みてな」と言って、威勢よく手をたたいた。三三七拍子で。
いつものように、元気よく怪獣が姿を現した。シイナは呆然としている。怪獣はいつも以上に激しくバシャバシャした。
遊び相手が二人も来たからかな。
シイナは悲鳴をあげたりしない。
怪獣の水しぶきに濡れながら、ただ「すごい」とつぶやいた。
私はこれみよがしに怪獣に近づいた。
シイナに見せつけるように、ゆっくり怪獣を撫でた。何度も何度も頭を撫でた。
怪獣は面倒くさそうに目を閉じて、グウウウと鳴いた。
「この子、先輩が飼ってるんですか」
とシイナが言う。
「まあね」と答えてから
「実は友達に頼まれたんだ」と言った。
それで私は、シイナにミヤチの話をした。
誰よりも大切だった親友の話をした。
彼女に怪獣の世話を頼まれた話をした。
彼女が死んでしまった話をした。
気づけば話しながら泣いていた。
後輩の前で、私は号泣していた。
シイナが私につられて泣いていた。
「先輩、そのひと大好きだったんだ」
怪獣だけが不思議そうに私たちを見ていた。シイナがそれに気づいて、やさしく怪獣に触れた。怪獣は目を閉じて、クウウウと鳴いた。