婦人A
第四の欲求
私は不正が大嫌いだった。小学生の頃から不正の「ふ」の字ですら見るのも嫌で、不倫をするなんて事、想像するだけで鳥肌が立つし、細やかな不正だからこそ嫌だった。だから今夜私はおかしくなったのだと思い込む他に、この状況を乗り切る術はなかった。
私が神保町のバーで一人飲んでいると、(注文するのはいつも同じ、バーのママがアメリカから輸入しているツナ缶と、安いビールだけだったが)その日は何故か、他の席が空いているにも関わらず私の隣に座り込む、一人の女性がいた。仮にその人物を「婦人A」としよう。その婦人Aは何を思ったか、私と同じメニューを注文した。ツナ缶とビールだ。私以外にこんな組み合わせを選ぶのは呑兵衛のダメ親父か、流行り物好きな若者だけだと思っていたが、初めて見るのが妖艶で人妻風な婦人だとは思わなかった。私はそれに驚いて、思わず二度見をしてしまった。そして、その二回とも、婦人と目が合ったのだ。私は顔が赤くなるのを感じ、足早に居酒屋を後にしようと、立ち上がった。ちょうど酒を飲んでいて、顔の赤さを誤魔化せたのが幸いだった。
すると「お会計ですか。」とママが聞いてくる。私は、はい、いくらですか?と聞き返そうとしたが、すぐに、腰の右辺りから横槍を入れられる。そもそも、いつも同じメニューしか頼まないのだから、会計がいくらなのか聞こうとする必要もなかったのにと、未だに反省をする。
「いえ、まだ飲みます。」と私の会話を遮った婦人は、流暢な日本語を操る蛇のように、声は艶やかで、熱かった。そして蛇腹のように、私の胸を締め付けた。こんな感情が湧き上がってきたのは幼少期に、初めて人の不正を正した時以来だった。あえて形容しようとするのなら、この胸の高鳴りは、何かに対する期待感だった。そう、彼女からは、濃密な不正の香りが漂って来ていたのだ。
私は何も言わずに、もう一度座り直した。ママは勿論、少し不思議そうな顔をして、他の客の世話をしに戻った。
「あなたは、誰なんですか?」と私は問う。しかし婦人は笑うばかりで、何も答えない。ビールには一度も口を付けず、ただ笑っている。
「ジンを、奢ってくださらない?」何も答えないまま、逆に彼女の方から話を振ってくる。今思えば、私はこの時完全に、彼女のペースに乗せられてしまっていたのだ。
「ジンを?なぜ?」私は再び問う。しかし、彼女も再び沈黙した。そしてただただ微笑を浮かべながら、私を見つめていた。その瞳のエロさ、東洋風な斜視を以て目の奥を覗いてこられているのに、不正な情動の湧かない男は果たしてこの世にいるのだろうか、と私は苦し紛れに、自分の心の内で言い訳をした。
そして私は、とりあえずジンを注文した。嘘偽りなく正直に告白すれば、これは性欲からの行動だった。
「ありがとう。」たおやかな黒髪を左耳にかけながら、婦人は礼を言って笑った。私はもはや、婦人が誰なのか、何の目的があるのか、など一切どうでも良くなっていた。私は婦人と不正を犯したくて堪らなかった。おそらく、いや、婦人は隠そうともしていなかったが、彼女には夫がいる。そして実は私にも、愛すべき妻子がいるのだ。下の子はまだ幼稚園にも通えていない。それなのに私は、そもそもこんな夜更けにバーで飲んでいる。それも週に一度や二度ではない。そもそも、それが不正に当たるのではないか、と私は飲む度に自分を責めていたのだ。普通の酒飲みとは違い、私は責任から解放されるために飲むのではない。責任を思い出し、自責の念に駆られ、自分自身に苦しみを与えることを目的に、妻子を置いてバーにいるのだ。
私たち二人は、そう考えると、互いに相反する性質を持っていた。私は自分を苦しめるために飲んでいたのに対し、婦人は明らかに、悦楽を貪るためだけに、私の隣に座ったのだ。私はあえて、婦人にこれで何人目なのですか?とは聞かなかった。しかし、婦人の瞳から溢れる自信、蛇が蛙を追い詰めた時に溢すような、確かな勝利の確信が、その経験の深さを物語っていた。
「あなたは、なんでこんな所で飲んでいるの?」婦人は、ジンには口を付けずに、質問を繰り出す。私は結婚指輪をはめた自らの薬指を眺めながら、どう答えようか迷った。暇だから?家に帰りたくないから?気分的に?どの回答もしっくりとこない。私は結局、正直に話すことにした。
「自分に、罰を与えるためです。」それは突拍子もない答えだった。婦人も一瞬だけ驚いたように目を見開いて、その後すぐに、この夜で最も歪んだ、そして最も良い笑顔を見せた。
「あなた、最高ね。」首を傾けながら、スリットの入った黒いドレス風のシースルーから、白い太腿を覗かせる。その様子はまさに、夜に駆ける未亡人だった。
私は、貴女こそなんでこんな所にいるのですか?と問いたくなったが、どうせ答えてはくれないと思い、次の質問を待った。婦人はいつまで経ってもジンに口を付けない。そしてそれは、私にも飲み進めることは許さない、という意思表示でもあった。
「自分に罰を与えるために飲むって言ったけど、どう?十分な罰は与えられそう?一口も飲んでないみたいだけど。」婦人は何もかも分かっていながら、意地の悪い声色で話す。今夜なにがあろうとも、それは全て自己責任だと思っていた私は、苦笑するしかなかった。
「十分、とは言い切れないですね。もしかしたら、今夜は罰を与えられずに帰る事になるかもしれません。」私は指輪を摩りながら、家で待つ妻を思い浮かべた。彼女は私の性格を知っているから、私が不正など犯すはずもないと考えて、信じて待ってくれている。その信頼こそが、私に罰を与えてくれるのだ。罪があるから、私は初めて罰を知ることが出来る。妻自身も知らない、不可視の罪が、私を不正から遠ざける為の罰となり得るのだ。
今夜は、そんな罰も遠ざけられてしまった。これが何を意味するのか、私にはよく分かった。今まで遠ざけてきた不正の匂いが、婦人からは立ち込めていた。
「罰が欲しい?」顔面蒼白、いや、紅潮ともとれるが、どちらにせよ、奴隷のような顔をしていた私を見て、婦人は囁いた。
「欲しいです。」私はこの一言で、初めて、心の底を曝け出せた気がした。罰、それを欲することは、人間としての本能なのかもしれない。キリストですら、それが必然であると知り、原罪を説いたのだから、人間にとって得意なのは、罰を与える事ではなく、罰を与えられる事なのだろう。私はそう考えると、最も人間らしい選択をしたのかもしれない。罰を求める心、これはまさに、食欲、睡眠欲、性欲に次ぐ、第四の欲求だったのだ。
私たちは、ゆっくりとした、表面上落ち着いた雰囲気でバーを出た。ジンは一口分も減っていなかった。会計の時に見たママの訝しげな目と、薬指の締め付けは、一層私の中の、第四欲求を昂らせた。
私は今夜だけおかしくなってしまっているのだ、という理性と、鏡合わせにある本能が、互いに笑っているのが、いとも容易く想像できた。
冷たい夜風を浴びながら、私たちは街をふらふらと歩いた。酔っ払ってもいないのに、酔っ払った風にふらふらと。道中何を話すわけでもなく、ただ延々と続く夜の道を、なるべくゆっくりと歩いた。
私はなぜこんな寒い夜に、婦人はスリットの入ったドレスなど着ているのだ?と疑問を持った。もちろん疑問を持ったが、問うことはしなかった。私は薄々、婦人について知ることが、罰を和らげてしまうことに繋がるのだろうという、運命の意図に気付いていた。婦人の未亡人らしき雰囲気が、例え夫が生きていたとしても、上手くいってはいないという事を物語っていたが、それすら、私の欲求の解放を妨げるのだとしたらどうでも良い些末な事だった。婦人は私に罰を与えるためだけに、その人格から乖離した存在になったのだと、その時の私には危うげなく認識できた。
「どの部屋でも良いですよね。」ラブホテルのエントランスに入り、私は確認する。もちろん返事はないが、沈黙のYESという言葉が頭を過ぎる前に、私は部屋をとるために歩き出していた。
私は簡素な部屋を選んだ。罰を与えるからと言って、SM部屋を選ぶわけでは無い。これはSMではないのだ。プレイよりもむしろ、一種の神聖な儀式、供物を捧げる為の生贄に近いものだった。だからこそ、簡素で、まるでそこに部屋なんかないような、無個性な部屋を選ばなければならなかった。
そして私たちは部屋に入り、無言のまま、一瞬見つめあった。その瞳で覗かれるだけで、私は欲求を抑えきれなくなる。そして迷わず、立ったままキスをした。婦人の背骨が折れるのではと思うほどに強く抱き締めながら、最初から舌も入れ込むような、激しいキスだった。婦人も、私の背中に爪を立てるくらい力強く抱きしめてくる。少し痛いが、それはむしろ、儀式には必要な痛みだった。二人の息は徐々に荒くなってゆく。私が婦人をベッドに押し倒そうとすると、彼女はそれを止めてくる。
「どうしたんですか。」私が聞くと、婦人は結婚指輪を外した。いかに婦人といえども、指輪を付けながら行為に及ぶのは避けるのか、と思い、私は内心少し幻滅した。
しかし婦人は、私のそうした雰囲気を察しながら微笑むと、私の薬指からも指輪を取り外した。
そして「こうするのが、丁度いいでしょ?」と言いながら、自分の結婚指輪を私の指に嵌めさせたのだ。もちろん、私の指輪を、婦人が嵌めた。
私はゾッとした。目の前にいる、あまり派手とは言えない婦人が、楽しそうに罪を貪る様を見て、人生で初とも言える、起きながらの夢精を味わった気分になった。つまり私の精神は絶頂したのだ。一介のサラリーマンが味わってしまえば、二度と抜け出すことは出来ない禁断の果実の味はこうであろうと、容易に想像が出来た。
「さあ、始めましょ。」婦人は夕飯の支度でも始めるのかというくらいに軽い物言いで、私を誘った。私の意識はもはや混濁し、朦朧とし、分裂していた。襲いかかるように、私は婦人と交わった。
その道中では、お互いに嵌めさせた結婚指輪を舐め回しながら、狂ったように笑った。もしかしたら、本当に狂っていたのかもしれない。とにかく、私は今まで飲んできたどの酒よりも深い酔いに浸った。女という、悪魔が作った酒、その中でも婦人は、蛇の悪魔が作った林檎酒なのだと、私は気づかされた。甘い。甘い。あまりにも甘美で、嫋やかな肢体を貪る快楽と、熱くなった薬指から昇る、微かな死臭。それらが全て合わさって、巨大な不正を、罪を演出する事が出来ていた。あとはただ、罪を罰するだけ、不正を正すだけなのだ。
私はそのまま、婦人と目を合わせて、耳を齧りながら、夜が明けるまで重なり合った。何回絶頂したかも覚えていないほどにした。SNSが発達した今世では、こんな体験談が溢れているが、間違いなく、私の体験が最も不埒であるという確信があった。
行為が終わり、私が余韻に浸りながら眠りにつこうとすると、婦人は「おやすみなさい。」と歪んだ笑みを浮かべた。瞼がどうしようもなく重く、婦人の横顔がぼやけていく。まだ夢を見ていたい時のように、私は起き続けようとしたが、睡魔は抗えないほどに強く、ついには眠り込んでしまった。
私は眠っている間に、ある夢を見た。それは私の家で、私と家族がテーブルを囲んで夕飯を食べているという夢だった。私の席の向かい側には、少年サッカーの話をする息子と、その隣に、そんな息子を褒める妻がいる。彼女は褒めながら、赤ちゃん用の座席に座る娘に離乳食を食べさせていた。
息子の話をよくよく聞いてみると、彼のポジションはキーパーだが、今日初めてゴールを決めたらしい。満面の笑顔を見せて、とても嬉しそうだ。そして娘を見てみると、今日も相変わらず口周りを汚していて、妻がティッシュでそれを拭いている。私の家庭では、いつもと同じ、いや、息子のゴールがあったから、いつもより少し幸せな日の光景だった。
私は微笑みながら、右隣を見た。そこには当たり前のように、婦人Aがいた。妻の作った肉じゃがを箸で突きながら、「美味しい」と呟く婦人。私は驚いて、椅子から転げ落ちる。
それを見た妻が「大丈夫?!」と駆け寄ってくる。私はなぜ彼女がいるんだ、と妻に聞くも、妻は不思議そうな顔をして首を傾げる。
「何故って、貴方が連れてきたんでしょう。恩人だって。」怪訝そうな顔をしながら、妻は椅子を戻す。婦人は私を見下ろしながら、不敵な笑みを浮かべていた。
「あなたの不正を正してあげたのは私でしょ?その代わりに、もっと大きな不正を犯すことになったのかもしれないけど。」と婦人は言い、それから、いきなり巨大な蛇に変化して、娘を頭から呑み込んだ!
「なにをやってるんだ!」私は叫び、立ち上がろうとするも、力が入らない。蛇は皮膚をぬめりと光らせて、脚をバタバタと動かす娘を丸呑みにした。
蛇は「美味しい。」と、刃物を研ぐ時に出るような奇怪な音を鳴らしながら呟くと、今度は息子の頭部を喰いちぎった。息子の胴体はビクンビクンと跳ね動き回りながら床に転げた。奇しくもその動きはキーパーが相手を威嚇する時の動きに似ていた。
私は言葉を失った。妻を見ると、同じように放心状態で、床を見てみると、失禁しているようだった。目も虚で、もし仮にこの状況から抜け出せたとしても、まともに戻る事はないだろうと思えた。
「な、何をしてるんだ!返せ!返せよ!家族を返せよおおお!」私は怒り狂いながら、床を叩いて叫んだ。
蛇は、そんな私を見てますます悦に浸っているようだった。息子の血があたり一面を濡らし、蛇がその上を這う。そして妻の元へと辿り着くと、「指輪を外して。」と言う。妻は、微動だにせず、目からは涙が、口からは涎が垂れていた。蛇はそんな様子を見て、笑いながら鎌首をもたげた。バクリ、と音がして、妻は左手を失った。彼女は叫ぶこともなく、ただへたり込んで、そのまま絶命した。
蛇は左手をもぐもぐと噛み砕いた後、私の前に何かを吐き捨てた。目を擦り、涙でぼやける視界を鮮明にする。そこにはやはり、妻の結婚指輪が血塗れで横たわっていた。
「どうして、どうしてこんな事を?」私は、婦人が問いには答えないということを忘れて、無意識に質問してしまっていた。蛇はそんな私を見て、にたりと笑った。そしてシィシィシィと鼻息を鳴らしながら、「最初で最後の答えよ。」と言った。
私は顔を上げた。蛇は大きく口を開け、最初で最後の答えを出した。
「あなたが望んでいたから。」がっと音がした。その瞬間、私は蛇の牙が眼前に迫るのを見て、暗闇の中へと落ちていった。
そして、私は夢から覚めた。時計を見ると、まだ朝の6時だった。横を見ると、当然婦人の姿は無い。私は夢でも見たのかと思い、笑った。
着替えてスマホを見てみると、妻からの着信がある。私は安堵して、『連絡が遅れてすまない。仕事が残っていて、近くのホテルで夜通しで作業をしていた。もう終わったので、すぐに帰る。』とラインを送った。
その文面を見て、我ながら不正を隠すのも上手くなった、と思うも、やはり罪悪感に駆られて、部屋を出ようとした。すると、ドアの横の靴棚に、なにかが置かれているのに気がついた。私は近寄って、手に取る。それは蛇皮の財布だった。黒い光沢を帯びた財布を見ると、心臓の鼓動が早くなり、額からは汗が流れる。私は恐る恐るその中を見た。中には、一枚の紙が入っていた。名刺のようだった。
名刺には達筆で、『黒蛇組 組長 黒田 武雄』と書いてある。これはヤクザの名刺だと察した私は手を震わせながら、裏面を見た。
そこには『あなたが望んだのよ。』という流麗な文字と、電話番号が書かれていた。私は急いでスマホを取り出して、黒蛇組を調べる。すると最近の新聞記事が出てきて、『黒蛇組 組長 何者かに刺殺される。』という一文が目に入った。次いで、『警察は現在行方不明の夫人Aを捜索中。』と書かれている。
私は全てを悟った。彼女の背中には入れ墨など無かったが、あの妖艶な瞳や、蛇を彷彿とさせるような佇まいは一般人には到底生み出せない。婦人は、いや夫人は所謂、極妻で、夫を殺して逃走中だったのだ。夫人から濃密な不正の香りが漂っていたのは、夫殺しが原因だったのだと腑に落ちた。夫を殺し、逃げているにも関わらず、見ず知らずのサラリーマンと一夜を共にするなんて、なんて、なんて最高の不正なんだ。私は思わず興奮していた。そう、私は夫人に気付かされたのだ。私は不正が大嫌いなのではない。不正を正すのが大好きなのだ。
それに気が付いたからと言って、どうということはないが、私の根底にあった靄が、これで晴れたような気がした。私はこの時、初めて自分自身に納得がいった。夢に出てきた夫人が家族を喰い殺し、私の望みだと言ったのも、ようやく理解する事が出来た。私は不正を欲している。そして、不正を犯したという事実を抱えながら、生きていくのが堪らなく好きなのだ。罪を犯したと知りながら、生きていく。それ自体が罰であり、不正を正すことに他ならないのだ。私はこの日、夫人という大きな不正と交わり、その一部となった。それがどれだけ幸せな事だろうか。
私は名刺を財布に仕舞い、ドアを開けた。そしてもう明るい空の下へと歩み出し、あまりの清々しさに大きく深呼吸をした。これが私の人生の、新たな出発点なのだ。家に帰って支度をしてから、通勤ラッシュに紛れて、今日も私は電車に乗る。
蛇はまた、ただの日常に戻っていくのだった。
その後、夫人と連絡が取れることはなく、見つかったというニュースが流れることもなかった。
そして、今日もまた息子がゴールを決めたらしい。娘は初めてママと言ったそうだ。私はこんな家族に囲まれて、本当に幸せ者だ。