ヒトラーが政権を掌握するまで
神野正史『世界史劇場 ナチスはこうして政権を奪取した』より。
ヒトラーがドイツでどのような過程を経てファシズム体制を確立するに至ったか、その略歴のまとめ。
◆ ヒトラーの誕生とドイツへの移住
・1889年4月20日 アドルフ・ヒトラー誕生
・1913年(24歳) オーストリア=ハンガリー帝国からの兵役を逃れるためミュンヘンへ移住
・1914年(25歳) 第一次世界大戦が勃発。ヒトラーはドイツ帝国軍に資源兵として応募し、西部戦線で活躍。
1889年4月20日、アドルフ・ヒトラーはドイツとの国境に近いオーストリアのブラウナウの地で、オーストリア税関事務官の家の息子として誕生。
ヒトラーは幼い頃から絵を描くことが好きで画家を目指していたが、1913年、オーストリア政府からの「召集令状」が届くと、ヒトラーは、
「ハプスブルク家なんかのために命を賭けて戦えるか!」といって、オーストリアを出奔して南ドイツのミュンヘンへと移り住んだ。
ヒトラーは「ドイツ人の統一を阻む存在」として、ハプスブルク家を毛嫌いしていた。
そんな中、1914年に「第一次世界大戦」が勃発。
ドイツはオーストリアと組みイギリス・フランス・ロシアを相手に戦ったが、ヒトラーはこの大戦にオーストリアのときとは打って変わって、ただちにドイツ帝国の志願兵として応募し、
イギリス・フランス軍と塹壕線を挟んで激戦が繰り返された西部戦線へと配属される。
ヒトラーは志願兵で5年も軍に在籍し、勇敢な伝令兵として鉄十字勲章を二度ももらうほど前線で活躍したが、ヒトラーの愛する祖国ドイツは戦争に敗れ、戦後、巨額の賠償金を支払わされる結果となった。
◆ ドイツの敗戦と「ヴァイマール共和国」の誕生
・1918年11月(29歳) ドイツが降伏し第一次世界大戦が終結
・1919年1月(30歳) ヴァイマール憲法に基づいて第一回総選挙の実施
第一次世界大戦終結後、、敗れたドイツ帝国は解体されて、帝国から共和国(ドイツ国)となり、ドイツ国憲法(通称「ヴァイマール憲法)に基づく新体制へと移行した。
1919年1月、ヴァイマール憲法に基づいて実施された第一回総選挙では、社会民主党が第一党を獲得。
ただし、社会民主党は単独過半数を取れなかったため、民主党、中央党との三派連合内閣を形成することとなった。
初代大統領はF・エーベルト。初代首相はP・H・シャイデマンが就任。
当時、ヴァイマール憲法は、20歳以上の男女の普通選挙を実現するなど「世界でもっとも民主的な憲法」といわれたが、その一方で、大統領が有していた権限は、
・陸海空軍の統帥権を持つ
・意にそぐわぬ議会に対する解散権を持つ
・意にそぐわぬ首相に対する任免権を持つ
・いざとなれば、憲法すら停止する権限を持つ
など、きわめて絶大なものだった。
ヴァイマール共和国における大統領の地位は、ドイツ帝国における「皇帝」(カイザー)と変わらないほど強い権力を持ち、もし「悪意」を持つ者が大統領になれば、たちまち独裁国家に生まれ変わり得る、たいへん危うい憲法だった。
そしてその懸念は、後にヒトラーの登場によって現実のものとなった。
◆ ヒトラーが「ドイツ労働者党(Deutsche Arbeiterpartei:DAP)」へ入党
・1919年9月(30歳) ヒトラーは「ドイツ労働者党(DAP)」へ入党
・1920年2月(31歳) DAPから「ドイツ国家社会主義労働者党(NSDAP:ナチス)」へと改名
・1921年2月(32歳) 党内のクーデターにより、ヒトラーが第一議長に指名される。
ヒトラーは戦後も軍に属していたが、総選挙後、1919年9月、ヒトラーは直属の上司である国防軍第四軍団司令官カール・マイル大尉から、「ドイツ労働者党(Deutsche Arbeiterpartei:DAP)」のスパイを命じられる。
「ドイツ労働者党(DAP)」はA・ドレクスラーを党首とした右翼政党で、そのころはまだ党員40名程度の泡沫政党の一つにすぎなかったが、右派政党として、ヴェルサイユ体制を否定し、ユダヤ人の抹殺や、現政府の打倒を叫ぶなど過激な運動を展開していた。
ヒトラーはドイツ労働者党(DAP)の活動内容を、軍に報告する任務を与えられたが、ドレクスラーの反ユダヤ主義、反資本主義の演説に感銘を受け、正式にドイツ労働者党(DAP)に入党し、翌年の1920年には軍も除隊。
ドイツ労働者党(DAP)に入党したヒトラーは得意の演説の才能を発揮して、党の規模を飛躍的に急成長させていく。
ヒトラーは政党として党章も党旗も綱領も持たなかったドイツ労働者党(DAP)に、「ヴェルサイユ条約の破棄」「ユダヤ人の排除」「全体主義の主張」「強力な独裁政府の要求」などといったナチズムの基本が結集した「25ヶ条の綱領」を定め、
1920年2月24日には党名も「国家社会主義ドイツ労働者党」(NSDAP:いわゆるナチス」)と改称。
鉤十字の党章と党旗や党服、「ハイルヒトラー!」の掛け声で有名なナチス式敬礼をムッソリーニが採用していたローマ式敬礼を真似て導入した。
また、ナチスの集会を妨害してくる敵対勢力との抗争のために、殴り込みや宣伝活動、示威行進などを行う実行部隊として、退役軍人のエルンスト・レームを隊長に据えた「整理隊」を組織。
この整理隊が1921年に突撃隊(SA、エスアー)として成長していく。
そして1921年7月、党内抗争でドレクスラーを名誉議長にして、ヒトラーは党の第一議長(党首)に就任。
自らを唯一絶対の指導者とする独裁権を確立するに至ったヒトラーは党内で、指導者を意味する「Fuhrer」と呼ばれるようになる。
◆ フランスによる「ルール出兵」とドイツでのハイパーインフレの発生
・1923年1月(34歳) 「パリ会議」の開催
・1923年1月11日(34歳) フランス・ベルギー軍による「ルール出兵」
ドイツは第一次世界大戦時の賠償で、総額1320億マルク、年に60億マルクという莫大な賠償金を負っていた。
ドイツはその支払いの猶予を求めるが、1923年1月に開かれた「パリ会議」で、フランスの首相ポアンカレーは頑として猶予を認めず、賠償問題はすべてに優先し、現金徴収が不可能だというのなら、フランスは占領と征服を選ぶだけだといって、会議の決裂後、フランスは同じく第一次大戦でドイツに苦しめられたベルギーを誘い、1923年1月11日、当時のドイツにおける石炭採掘量の73%、鉄鋼生産量の83%を占めていた「ルール地方」への出兵を強行。(ルール出兵)
しかし、フランスの強引な占領に怒ったルールの労働者たちは、一斉にストライキやサボタージュで抵抗。
給与を止められたルールの労働者たちにドイツ政府は給与を保証し、造幣局の輪転機を回し続けて紙幣を発行し続けた結果、ドイツ国内で凄まじい「ハイパー・インフレーション」が発生。
フランスによるルール出兵が開始された1923年1月にはパン一斤の値段が250紙マルクだったものが、その年末の12月には約4000億紙マルクにまで高騰。
たった一年の間に16億倍にまで物価が跳ね上がった。
◆ 国内の経済不安を背景にナチスが党勢を拡大
ヒトラーはフランスによるルール出兵に対する国民の怨嗟を背景に、ナチスの党勢を伸ばし、ヒトラーが党首となった年の1921年1月には党員約3000名だったものが、1922年2月には約6000名、1923年3月には1万5000名に、
フランスのルール出兵の一年間の間に激増し、1923年の11月には党員5万6000名にまで膨れあがった。
※ナチ党の勢力拡大
1921年1月、党員約3000名
1922年2月、党員約6000名
1923年11月、党員5万6000名
◆ バエルン州政府とナチスの共闘によるバイエルン州独立運動の画策
・1923年9月 バイエルン州で右派のグスタフ・フォン・カールが独裁権を持った州総督に任命され、州警察長官のザイサー、州駐在陸軍司令官のロッソウら三名による「三頭政治」が成立し、ヴァイマール中央政府からの分離独立を窺う。
1923年いっぱいにかけてドイツ全土でハイパーインフレーションが猛威をふるい、労働者は怨嗟の声を上げ、クーノ内閣退陣要求運動が発生した結果、クーノ政権は崩壊し、1923年8月にシュトレーゼマン首相の新内閣が発足。
ヒトラーはこの混乱時に、一気にヴァイマール中央政府を倒すことを考える。
ナチスの拠点はバイエルン州の州都であるミュンヘンにあったが、そのころバイエルン州は中央から大幅な自治が認められ、
州総督のカール、州警察長官のザイサー、州駐在陸軍司令官のロッソウら三名による「三頭政治」が布かれていた。
そしてこの三人は、このときの中央政府の混乱に乗じて、バイエルン州を中央から独立させ、バイエルン王家による「王国」を復活させたいと画策しはじめた。
バイエルンはもともとドイツ統一前はプロイセンに次ぐ王国で、ドイツがヴィルヘルム1世、宰相ビスマルク率いるプロイセン王国によって統一された後も、バイエルンは王国のままドイツ帝国内に残され、大幅な自治権を認められるなど独立性の強いの領域だった。
ヴァイマール共和国成立後は、バイエルン州となったが、ヴァイマール共和国を構成する「州」もドイツ帝国時代の連邦諸国が元になっていて、それぞれが独自の警察・議会・内閣や軍を持ち、司法権も各州の管轄下に置かれるなど、 大きな自治権力を有していた。
バイエルンでは大戦末期からの一時期、左翼勢力が政権を握るが、もともとカトリック優勢の保守色の強い地域で、1920年に保守政党のバイエルン人民党によってドイツ社民党 (SPD)のヨハネス・ホフマン政権が打倒されると、このときにグスタフ・フォン・カールがバイエルン州の首相として選出されることとなる。
カールはバイエルン人民党の中でも右派に属し、
「マルクス主義とユダヤ主義に反対する世界観闘争のドイツ的な者の代表者は私である」と演説するような、自由主義者や社会主義者、共産主義者を嫌い、バイエルンのヴィッテルスバッハ王家の復活も視野に入れる君主制復古主義者の人物だったという。
バイエルン右翼の分離主義者に支えられたカールは、バイエルン州の独立を目指した。
彼らは、1923年1月にフランスとベルギーによって強行された「ルール占領」に、ドイツ共和国(ヴァイマル共和国)としてとっていた「受動的抵抗」路線を放棄したシュトレーゼマン首相を批判した。
カールは1921年9月、バイエルン分離主義者による過激な運動を警戒したフトレーゼマン首相によってバイエルン州首相の地位を追われるが、 それでもバイエルン州独立の機運がおさまらなかったため、カールを逆にバイエルン州の「州総督」に任じる。
これによりカールにはバイエルンの立法権と行政権が付与され、独裁権を握り、カールはミュンヘン駐在の第7軍司令官オットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー 大佐とともに三頭政治体勢をとることとなった。
◆ バイエルン州政府との対立とヒトラーの「ミュンヘン一揆」失敗
・1923年11月8日(34歳) ヒトラーはムッソリーニのローマ進軍に触発されバイエルン州で政府転覆を画策した一揆を起こすが失敗し、逮捕される。
バイエルン州政府と同じミュンヘンに拠点を置くナチスは、「中央政府は敵」という点において共闘することとなった。
バイエルン州政府の三人は、バイエルン独立の方策として、この前年に成功していたムッソリーニの「ローマ進軍」をマネて、「ベルリン進軍」を計画した。
この頃、ドイツの中央政府では、中央軍部の上級将軍ゼークトが力を持ち、ドイツの経済の混乱に乗じて、軍部独裁を狙っていたが、バイエルン州政府の三人は、このゼークト将軍の後ろ盾を得ていた。
ところがゼークト将軍は今回の彼らの企みに同意しなかったため、カール、ザイサー、ロッソウの三人はベルリン進行の強行に消極的になる。
が、ヒトラーは1923年11月8日、武装した突撃隊を動員してカールら三人が集会を開いていたビアホールを襲撃すると、そのままそこにカールらバイエルン州政府の幹部たちを軟禁状態にし、決断を迫った。
しかしカールらが考えていたベルリン行進は、ゼークト将軍の後ろ盾の下、自分たちが指導するベルリン行進であって、ヒトラーとナチスに指導されるベルリン行進ではなかった。
だが、ヒトラーが第一次世界大戦の英雄ルーデンドルフを連れてきて説得にあたらせると、カールら州政府の三人からようやく承諾を引き出す。
ヒトラーが予定していた「ベルリン行進」は、600人の突撃隊を中心にしたナチスのデモ隊で街頭デモを行いつつ、市民・軍部・官僚に広くナチスの志をアピールして支持を集め、集めた人数でさらにベルリン行進を行い、中央政府を圧迫してムッソリーニが国王から引き出したような政治的成功を中央政府からもぎ取ろうとするものだった。
ところが、ヒトラーが一揆側に抵抗の姿勢を示していた工兵隊を説得しにビアホールを離れた隙に、ルーデンドルフがカールらを解放してしまう。
解放されたカールたちは態度をひるがえしてただちに一揆の鎮圧へと乗り出した。
そのためヒトラーが計画していたベルリン行進は結局ミュンヘン州を出ることもなく、そのままミュンヘン州政府を改めて支配下に収めるためのミュンヘン行進へと変わったが、
ヒトラーのデモ隊は、待ち受けていた警官隊に銃撃され、メンバーは散り散りに追い立てられ、ヒトラーも2日後に州警察の手によって逮捕されるという結末に終わった。
◆ 裁判で大演説を行うと、ヒトラーは愛国者として評価を高め、短期間での出所を果たす
・1924年(35歳) 禁錮5年の判決を受けてランツベルク要塞刑務所に収監。獄中で『我が闘争』を口述筆記させ、12月20日に、仮釈放される。
ミュンヘン一揆に失敗して、逮捕されたヒトラー。
ヒトラーは裁判にかけられるが、その罪状は「国家叛逆罪」だった。
国家反逆罪は、どこの国でもたいてい「死刑」になるほどの重罪で、ヴァイマール憲法下でも最高で「終身刑」となる重罪だった。
しかしヒトラーは、この裁判が全ドイツに注目されていることを認識し、むしろこの裁判をナチスを宣伝する絶好のチャンスだと、得意の大演説で訴えた。
「先の大戦、前線では我が祖国が勝っていたにも関わらず、政府は祖国を裏切り、ヴェルサイユ条約などという卑劣きわまりない条約に調印した!
そして、我が高貴なるドイツ民族から栄誉も誇りも奪い、あまつさえユダヤ人と結託して、我々の生活を窮地に追いやったのが現政府である!
やつらこそ、祖国に対する反逆罪を問われるべきであろう!?
私はドイツ国民に、現政府によって奪われた栄誉と誇りを取り戻そうとしただけである!
したがって私が有罪だというのなら”ドイツ国民に栄誉と誇りを取り戻そうとした罪”によって有罪なのだ!」
ヒトラーの演説は、傍聴人はおろか、裁判長すらも魅了し、彼の裁判での発言がドイツの新聞各紙に一面で掲載されるや、ヒトラーこそ真の愛国者という評価が高まり、刑の減刑を求める声が多く寄せられる結果となった。
そして、首謀者のヒトラーは禁固5年、罰金200ゴルドマルクと、圧倒的に軽い判決が出されることとなった。
しかも、刑執行の9ヵ月後には仮釈放の資格が与えられるという、実質的には「禁固9ヶ月」のほとんど無罪に近い判決だった。
また、実際にヒトラーが収監されたミュンヘンのランツベルク要塞刑務所での生活も、二つの応接間が用意された日当たりの良い部屋が与えられ、秘書を付けることが許され、接見自由、差し入れ自由、中庭の散歩も自由という、破格のVIP待遇を認められた。
ヒトラーはここでの服役中に、有名な『我が闘争』を口述筆記させる。(1926年に出版)
◆ ナチスの再結成とヒトラー復帰後の党の不振
・1926年(37歳):『我が闘争』出版。党内左派の勢力を弾圧し、指導者原理による党内運営を確立(バンベルク会議)。
・1928年(39歳):ナチ党としての最初の国政選挙で12の国会議席を獲得。
1924年5月4日。ミュンヘン一揆で有罪となったヒトラーが不在のままで行われた総選挙で、ナチスは選挙初挑戦にして32もの議席を獲得。
ミュンヘン一揆によってナチ党と突撃隊は非合法化され解散となっていたが、残党の者たちで「国家社会主義自由運動」 (NSFP)という政党を組織してドイツ国会選挙に臨んだ。
国家社会主義自由党 (NSFP)とは、ヒトラーと一緒にミュンヘン一揆を起こしたルーデンドルフが無罪釈放後に率いた右翼政党のドイツ民族自由党と旧ナチ党の者たちが組んで立ち上げられた政党。
1924年の年の暮れの12月20日、ヒトラーは仮出所して党に復帰すると、ナチスの残党を統一し、再結成の許可が出ると1925年2月27日にナチ党は再結成を果たす。
ところが、その後続けて行われたドイツ国会選挙では、ナチスは総選挙のたびに議席を減らしていった。
「国家社会主義自由運動」 (NSFP)として参加した1924年12月7日の総選挙では14議席、
再結成した国家社会主義ドイツ労働者党 (NSDAP、ナチス) として参加した1928年5月20日の総選挙では12議席にまで議席を減らした。
ヒトラーに再結成されたナチスが議席を減らしていったのは、ドイツが外交交渉で巨額の賠償金の減額を勝ち取り、経済と社会が安定を取り戻してきたことが原因だった。
※ナチスの議席減少
1924年5月4日の総選挙で、32議席を獲得。
1924年12月7日の総選挙で、14議席。
1928年5月20日の総選挙で、12議席。
◆ ドイツの賠償金交渉「ドーズ案」と「ヤング案」
1924年7月~8月に開催された「ロンドン会議」では、アメリカ代表のドーズによって提案された「ドーズ案」により、ドイツは年間60億ゴルドマルクの返済から、初年度に10億ゴルドマルクを払い、
そして徐々にその返済金額を上げていって、5年目にはフランスが譲歩した年間25億ゴルドマルクを支払うという現実に可能な返済方法へと賠償金支払いが緩和された。
そしてそれからまた5年たった1929年8月中に開催された「ハーグ会議」で、今度はモルガン系企業の財政家ヤングから「ヤング案」が出され、
返済金額は年平均20億ゴルドマルクに抑えられ、賠償金総額も、59ヵ年ローンで、ドーズ案までの1320億ゴルドマルクから358億ゴルドマルクにまで軽減されることが決まった。
ドイツを追い詰めて返済不可能な賠償金の請求をするより、現実的に返済可能な方法が模索された結果だった。
◆ 「世界恐慌」の発生と「フーバー・モラトリアム」
ところが、ヤング案が実施されることになったその年の1929年10月24日。「世界恐慌」が発生。
ドイツはたちまち再び債務支払い不能に陥り、社会不安がどんどん広がっていった。
1930年には失業者300万人(失業率14%)
1931年には失業者450万人(失業率22%)
1932年には失業者600万人(失業率29%)
突如として垂れ込めてきた暗雲は、ヒトラーにとっては恵みの雨となった。
アメリカNYウォール街の株価大暴落から始まった世界恐慌だったが、米フーバー大統領は、「放って置けば治る」といって何の対処も取らなかった。
しかし状況はどんどん悪化の一途をたどるばかりだったため、1931年6月20日になって、フーバーは「フーバー・モラトリアム」を実施。
これは、ドイツに行っていたアメリカからドイツへの資本投下を一年間「凍結」(モラトリアム)するというものだった。
アメリカからドイツに流れる富の流出を防ぐことで国内の景気悪化を食い止めようとした政策だったが、これはまた、アメリカへもたらされる英仏からの戦費返済も滞る結果となり、さらなるアメリカの経済悪化を招いた。
1924年に開催された「ロンドン会議」で、アメリカ側から提案された「ドーズ案」は、アメリカがドイツに「ドーズ公債」を発行視して資本投下し、ドイツはそのアメリカからの資金援助で生産活動を行い、英仏に第一次世界大戦の賠償金を支払っていくことが決められた。
そして英仏もまた、ドイツから得た賠償金の利益で、第一次大戦時に彼らがアメリカから借りていた借金を返済していくこととなった。
こうしてアメリカはドイツに対する援助の利益と英仏から借金返済という二つの利益を得ることができる「資本のメリーゴーランド」を形成していたのだが、フーバー・モラトリアムによってその資金の流れを自ら遮断する結果となってしまった。
フーバー・モラトリアムによってドイツは再び賠償金支払い不能に陥ったため、1932年6月~7月にかけて、関係各国は「ローザンヌ会議」を開催。
この会議でヤング案は無効とされ、ドイツの賠償金総額も前回決められた358億ゴルドマルクから30ライヒスマルクにまで98%引きされて減額。
また現在のドイツの経済状態から、三年間は支払いが猶予されることが決まったが、フランス側からの要求として、フランスがアメリカから大戦時の借金返済を無効にしてくれるならばという条件付きだった。
しかしこの条件にアメリカ議会が反対して条約の批准を行わなかったため、条約は発行されず、結局翌1933年1月、政権を掌握したヒトラーによって一方的に破棄されるという結末に終わる。
◆ 世界恐慌後のドイツ国会選挙でナチスが議席を増加させ、ついに第一党にまで躍進を遂げる
・1930年3月 H・ミュラーのドイツ社会民主党(SPD)政権が倒壊。
・1930年3月30日 ヒンデンブルク大統領から中央党のハインリヒ・ブリューニングが首相に指名される。
・1930年9月14日(41歳) ドイツ国会選挙でヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)が第二党に躍進。
・1932年5月30日 中央党のブリューニング首相が辞任
・1932年6月1日 中央党のパーペンが首相に指名される
・1932年7月31日(43歳) ドイツ国会選挙でヒトラーの国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)が大躍進し、ついに第一党となる。
世界恐慌の猛威に襲われたドイツでは、国民の不満の矛先は政府へと向けられ、1930年3月、H・ミュラーの社会民主党政権が倒壊。
ヒンデンブルク大統領は、次の政権担当者として中央党のブリューニングを首相に指名するが、中央党はわずか62議席(第三党)にすぎなかったため、比較的政見の近い民主党、人民党、経済党などとの大連立政権を組むこととなった。
が、それでもこの連立与党は、社会主義インターナショナルに加盟するドイツ社会民主党の153議席に及ばなかったため、ヒンデンブルク大統領は、再びただちに議会に解散を命じ、総選挙が実施されることなった。
その結果、1930年9月14日のドイツ国会選挙では、ドイツ社会民主党(SPD)は153議席から143議席に10議席減らす結果となったが、連立与党のほうも132議席から118議席に14議席減少となり、代わって議席を増加させたのが、ヒトラー率いるナチスと共産党だった。
ナチスは前回の12議席から107議席の95席増でドイツ社会民主党(SPD)に次ぐ第二党となり、共産党も54議席から77議席の23議席増という躍進を遂げた。
しかしナチスは「ヴァイマール共和国を滅ぼせ!」と叫ぶような過激な連中の集まりだったため、ヒンデンブルク大統領は中央党のブリューニング首相に命じて、ドイツ社会民主党との連立でナチスと対抗させることにした。
ところが、ヒンデンブルク大統領は大の”アカ”(共産主義)嫌いで、左翼嫌いのくせに左翼との連立を組ませながら、ヒンデブンルクは中央党のブリューニング首相に左翼と手を切って右翼政治を行えなどと無理難題を要求した結果、ブリューニング首相は内閣を総辞職させて辞任してしまう。
代わって同じ中央党からパ-ペンが首相に指名されるが、パーペンは中央党との関係を悪化させ、党から除名されてしまう。
パーペンは「パーペンは人の上に立つ器ではない」と周囲から批判されるような当時は無名の小人物だったが、ヒンデンブルク大統領にとってはそのほうが、
「だからこそだ。人の上に立つような人物では困る。あいつは私の”帽子”ようなものだ」
「小者を意のままに操って実権を握り、失政でもすればすぐにこいつを脱ぎ捨てて、他の”帽子”にかぶりなおせばよい」
ということで、パーペンが首相に選ばれたのだった。
しかし中央党はパーペンの首相就任に反対で、パーペンに大統領からの首相要請を受けずに辞退するよう約束を取り交わしていたが、パーペンが首相の座欲しさに、党と交わした約束を反故にして勝手に首相に就任してしまったのだった。
パーペンは中央党から除名処分にされるが、するとパーペンはヒンデンブルク大統領に求めて議会を解散させてもらい、起死回生を狙い、7月30日の解散総選挙に打って出ることにしたのだった。
そしてその結果、1932年7月31日に、また解散総選挙が行われることとなったが、するとナチスが今度は前回の107議席からさらに議席を230議席と倍増させて大勝利を収める結果となった。
ナチスはこの選挙で、第二党に落ちた社会民主党133議席に100議席以上の差を付け、ついに全議席の38%を占める第一党に躍り出ることとなった。
◆ ヒトラーが首相に指名され、ヒトラー内閣が誕生する
・1932年11月6日(43歳) ナチスの議席を減らすべく、パーペン首相の企てで前回の選挙から三ヶ月しか経っていないにもかかわらず再び解散総選挙が実施され、ナチスは前回の230議席から196議席に大幅に議席を減少させる。
・1933年1月30日(44歳) 選挙のたびに共産党が躍進するという状況に、共産主義嫌いのヒンデンブルク大統領がとうとう折れてヒトラーを首相に指名。ついにヒトラー内閣が誕生する。
ナチスは1932年7月の選挙で大躍進を遂げたのだが、しかし過半数の304議席には遠く及ばなかった。
そこで、ナチスはナチスに次いで躍進した共産党と政権の奪取を狙って手を組むことを考える。
が、この動きに、ナチスを支援していた資本家たちが激怒してナチスへの資金援助をストップされてしまう。
自分たちの財産を守ることに命を賭ける資本家と、その資本家から財産を奪うことを社会の理想として掲げる共産党とは不倶戴天の敵同士だった。
この様子を見ていたパーペン首相は、今選挙を行えばナチスの議席を減らせると思い、まだ前回の総選挙から三ヶ月しか経っていない1932年11月6日、再び解散総選挙を断行。
その結果、ナチスは前回の230議席から196議席に大幅に議席を減少させることとなった。
1932年11月の選挙でナチスは議席を減らしたが、共産党は前回の89議席からさらに100議席へと議席を伸ばした。
しかし選挙を行うたびに共産党が勢力を伸ばしていることに危機感を抱いた資本家や軍部が改めてナチスの支援に回ることとなり、ヒンデンブルク大統領も遂に諦めて、ヒトラーを首相に任命して政権を担当させる結果となった。
1933年1月30日、ついにヒトラー内閣は誕生した。
◆ 「全権委任法(授権法)」の提出とナチスの一党独裁によるファシズム体制の確立
・1933年1月30日(43歳)ヒトラーが首相に就任し、ヒトラー内閣が発足。
・1933年2月1日(43歳)全議会の3分の2の議席確保を狙うヒトラーの思惑によって議会が解散され、3月5日に総選挙が実施されることが決定する。
・1933年2月27日(43歳)選挙期間中に「国会議事堂放火事件」が発生。
・1933年2月28日(43歳) ヒトラーはこれを共産党による組織的犯行を決めつけると、「民族と国家を防衛するための大統領緊急令」を出させて、憲法で保障された基本的人権を停止し、反政府活動を予防拘束できることにし、共産党に対する弾圧を始める。
・1933年3月5日(43歳) ドイツ国会選挙が実施されナチスは196から288へと大幅に増加させて第一党の地位も確保したが、ヒトラー念願の全議会の3分の2を獲得するまでには至らなかった。
・1933年3月24日(43歳) ヒトラーは議院運営規則を改正して野党の欠席戦術を防ぎ、共産党員は逮捕させるなどした上で、残った中央党を議場に入れた突撃隊で圧力をかけつつ協力させて議席の3分の2を確保し「全権委任法」を可決させる。
・1933年4月26日(43歳) ヘルマン・ゲーリングに「プロイセン秘密国家警察局」を創設させ、共産勢力の一掃に乗り出す。
・1933年6月22日(43歳) 「社会民主党 強制解散法」を制定し120議席も有してドイツ社会民主党を、共産党と同様、解散させて議会から消滅させる。
・1933年7月14日(43歳) ナチ党以外の政党を禁止
ナチスは選挙で第一党となり、ヒトラーも首相に任命されたが、議会全体におけるナチスの議席は過半数にも及ばず、その政権基盤は脆弱だった。
ナチスから入閣が許されたのは首相のヒトラーと内相のフリック、無任所相のゲーリングの三人のみで、
副首相にはヒンデンブルク大統領お気に入りのパーペンがお目付け役として付けられた。
こうした状況に、ヒトラーはなんと首相就任後、たった1ヶ月ほどで、またも解散総選挙を行うことを決断。
1932年の7月と11月と立てつづけて行われた総選挙からさらに3ヵ月後の1933年3月5日、今度はヒトラー首相の下で行われた総選挙では、ナチスが反対派集会への殴り込みや、対立候補の選挙ポスター剥がしなどの不法行為が行われたが、さらにこの選挙では、選挙期間中の2月27日の夜、国会議事堂が放火される事件が発生し、その犯行が共産党の仕業だと憶測された結果、共産党は前回の100議席から81議席にまで議席を急落させる結果となった。
ナチスは強引な選挙戦で議席を196から288へと大幅に急増させて第一党の地位も保ったが、単独では全体の45%で単独過半数には届かず、左派勢力である社会民主党を除いた他の中央党や国家人民党と連立を組んでも議会全体の64%でやはりわずかに3分の2に届かなかった。
与党で3分の2に達しさえすれば、どんな法律でも通すことができるようになる。
そこでヒトラーは、総選挙中に起こされた国会放火事件の黒幕を共産党だったと断定し、共産党の獲得した議席を選挙違反として無効化することを宣言した。
こうして全議席数が647から566へと減少し、そしてその結果、ヒトラーは連立で3分の2の議席を確保することとなった。
そして3分の2の議席を獲得したヒトラーがさっそくに議会に提出したのが、「国民と国家の窮状を除去するための法」、いわゆる「全権委任法(授権法)」という法案だった。
ヒトラーが共産党に濡れ衣を着せてまで押し通そうとした「全権委任法」とは、
第一条 立法権を政府(ヒトラー内閣)に認める
第二条 第一条で定められた政府立法は憲法に優越する
第三条 同じく政府立法は大統領権限に優越する
第四条 外国と条約を締結する際、議会の承認を必要としない
第五条 本法律は4年間の時限立法とする
というものだった。
「4年間の時限立法」とされたが、その間、ヒトラー政権は、議会も、大統領も、そして憲法すら無視して独裁政治を行うことが可能となる法律だった。
しかしその「時限立法」という建て前も、それはとりあえず立場を決めかねている浮動票を味方に取り込むための方便にすぎず、期限がくれば延長すればいいだけのことで、実際、彼らはそのようにした。
念願の「全権委任法」を手に入れたヒトラーは、いよいよ己の理想を現実に移すべく、動き始めた。
ヒトラーはこれまで、
「混血こそが死滅の原因である!
一つの民族は、一つの国家によって構成され、ひとりの指導者によって導かれ、
ひとつの政治理念・ひとつの体制・ひとつの思想を以て同質化・均一化・純血化されなければならない!」
と叫んでいたが、いよいよそれが「強制的同一化」政策として実現化することとなった。
1933年4月26日、ヘルマン・ゲーリングに「プロイセン秘密国家警察局」を創設させ、共産勢力の一掃に乗り出す。
当時のベルリンは「赤いベルリン」との異名がつくほど共産主義勢力の強い地域だった。
6月22日には「社会民主党 強制解散法」を作って、120議席も有してドイツ社会民主党を、何かと反発するからとの理由で共産党と同様、解散させて議会から消滅させてしまった。
だけでなく、ドイツではウァイマール憲法が存在した状態のまま、ナチ党以外の政党がすべて消滅し、
「政党新設禁止法」まで出され、こうしてドイツはヒトラー率いるナチスの一党独裁体制によるファシズム国家として変貌を遂げる結果となったのだった。
また付け足すかもしれないので連載形式にしておきます。
ヒトラー個人についての細かい考察や、ヴァイマル共和制時代のドイツの歴史についてのまとめについては、以下のまとめもご参照ください。
「セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』の読書まとめ」 https://ncode.syosetu.com/n4435es/
『ナチスの台頭に至るまでのドイツ(ヴァイマル)共和国の変遷』 https://ncode.syosetu.com/n6472fe/