さんわ
僕にとって世界は――
「どうしたの?」
「…………」
「とりあえず入って」
隣のゆかりねえさんは目を丸くしてズブぬれのぼくを家へとまねき入れた。
「顔が真っ赤にはれてる」
「うん」
「それに痣も」
「うん」
ぼくの顔をゆびさす。ぼくもおでこをいしきして見ようとするがマブタがずきりといたんだ。
ゆかりねえさんはぼくとは年はちがわないけどぼくよりもずっとかしこくて大人だ。
「検査のこと?」
「うん」
「話して」
「かなえが今回のテストで分からなかったとこがあって……。それにぼくががまんできなくて答えちゃった」
「……数字があったんだね」
「うん」
「仕方ないよ君は数字が大好きだし、香苗ちゃんは“普通の子”なんだもん。暗記はできても自分で思考する問題にはボロが出てしまうのはヒツゼンだわ」
ゆかりねえさんはタオルと白いゆげの立ったミルクをぼくにくれた。白いとうきが少しあつい。
「でもそれで全部がおしまいだ。ぼくらががんばった意味もかなえの願いも全てがゼロになる」
「何があったのか、もっと詳しいこと教えて」
「それは――――」
「それは――――全て素数だ」
ぼくはがまんできなくなって。そこにつぶやいた。しかしつぶやきというには少しその声は大きかった。おじさんはぼくにおどろいて聞いた。
「さっきの――――えっ、ああ、そうだね。確かに正解は素数だ。んん、しかし……どうして君が分かったんだい?」
ろうかで三人のだんしょうしているところにぼくは空気を読まずにこたえてしまった。気づいてからはおそかった。
「もう一度聞こう。君は何でこの答えがわかったんだい?」
「どうしたんです? 急に声を張り上げて」
「か、母さま。私ジュースが飲みたいです。検査も終わったし早く帰りましょう」
さんしゃさんよう。ぼくは他人にえいきょうを与えてしまった。おじさんはにこやかな顔から少し考えるような顔。母さんはおどろいた顔。ねえさんはいらだちとべそをかいた顔。
おじさんはなぜかうれしそうに笑って口早にこたえた。
「いいかい。君は先ほど彼女が答えられなかった問題を私がもう一度聞いているところに反応した。内容は“7、11、23、43、67、これらに共通するものは何か”という問にね。それを聞いた君は間を挟まず素数だといったんだ」
「…………」
「……そうだな。では質問を変えよう。七十二の二乗はいくつかな?」
「5184」
「……ほう。では五十一の三乗は?」
「132651」
「三十七の五乗はわかりますか?」
次はお母さんがしつもんした。
「69343957」
「で、では五三七二年の四月八日は何曜日かわかるかい?」
おじさんは今にもわらいだしそうな顔。
「……すいようび」
「素晴らしいっ! 博士も人が悪いです! ここにこんな天才がいるじゃないですか。これはサヴァン? いや精神的に問題があるとしたらそれはサヴァンというよりもアスペルガー症候群なのかな。見たところカナータイプでは無さそうだ。いやもとより天才の可能性がある。天才に数学的才能、カレンダー計算の能力は必須といってもいいですからね。博士、どのみち彼が異常な天才であることは確かですよ。彼の――――旦那さんの再来です、ははっ」
おじさんは目をみひらいて両手をぱちんとたたいた。
「私も、私も今知りました。もしかして……香苗? 二四七〇年十二月五日は何曜日かわかりますか?」
「あっ、えっと、えっと……」
「かなえはずっと答えれなかった」
「……だろうね」
ゆかりねえさんはとなりにすわってじっとぼくのことばに耳をかたむけていた。
「それから直ぐにぼくのけんさがはじまって」
「始まって?」
「テストでぜんぶれい点取ったら先生はぎゃくによろこんだ」
「もしかしてマークシート形式だった?」
「うん」
ゆかりねえさんは無言でぼくの頭をはたいた。ぽかん。
「それじゃ意図的に零点取りましたっていってるようなものでしょ。あんなのはカンで塗っとけば絶対に一問は当たるんだから」
「でもガマンして数学もれい点取ったのに……」
「はぁ……。で、立場がなくなっちゃった香苗ちゃんにぼこぼこにされたの?」
「うん」
ぼくを球に見立てた千本ノック。かなえはりく上ならずやきゅうのサイノウもあるのだ。うむ、実にすばらしい。
「それで本当のこといった? それともかなえちゃんは思い出したの?」
「ないない」
「それでもいいの? 殴られ蹴られ。それでも君はかなえちゃんのために頑張るの?」
「それが約束だしね」
「本当に君は報われないね」
大人びたひょうじょうでゆかりねえさんは笑った。
世界は――――優しくなかった。
「貴方、何をしてるんですか?」
「君は何をしてるのだ」
彼女は僕の落としたコンビニの袋を勝手に物色し、僕のティラミスに舌鼓を打っているようだった。目を丸くして驚いている彼女はコンクリートの上に座り込み、無色透明なスプーンを口に咥えて日和見としゃれ込んでいる。
「てめえらの血は何色だああああ!」
「“ら”といわれても私一人ですし、赤に決まってますよ。それよりも貴方」
スプーンを持ったまま僕をびしっと指差して言った。僕は少し驚いて動きが止まる。ぬぬ、相手は新手のスタンド使いか畜生。
「一体全体何をしてるんですか?」
「何って……戻ってきただけだけ?」
彼女は少し皮肉めいた表情で口を開いた。しかし、いちいち動きが上品な奴である。ここはいつの間に上流階級の社交場になったのだと自問自答。
「貴方本当にぶち壊れてますね。大丈夫ですか? 私は人殺しですよ。ヒートーゴーローシー。それなのに戻ってくるって殺されたいんですか? 自殺願望者ですか? 虚無症? コタール症候群? それとも殺された人に知り合いがいて僕が倒しちゃうぞーみたいな? 偽善者さんですか?」
小ばかにするような態度でスプーンを進める同級生。
「僕は正直者なのだ。有限実行という奴なのだよワトソン君。あとティラミス喰うな」
「……本物の馬鹿ですね」
まったくもって残念そうに僕を見つめる彼女は二つ目のティラミスのビニール蓋を外し、スプーンを差し込もうとしていた。僕の好物である金色のそれをだ。
僕は彼女に近づきそれを奪い取ってまるで流動食よろしく一気に口に流し込んだ。喉にチョコレートの粉が張り付いて一瞬咽そうになったが、大雑把に噛み砕き無理やりに飲み込む。
「ああーっ、私のティラミスですよ! 酷いです酷いですひどいです……」
そういって彼女は何故かナイフ片手にゆらりと立ち上がった。
ちょっと待てそれはそこに置こうじゃないかと平和的に解決しようと試みる優しさ溢れる僕。
「まぁ、落ち着きたまえ。そう、ナイフはしまって。見たまへ、ここにはまだほんの少し残っているのだ」
それを彼女に分かるように見せる。彼女はそれをみて些か不服そうな顔をしながらも真っ直ぐ僕のそれに対して手を差し出した。
「でもこれは最初から僕のものです」
ということで要請に従わないことタカ派で強硬派の僕は彼女が見ている前でそれを流し込んだ。決して自分の物のように手を差し出したことに起因する行動ではない。僕はそこまで悪人ではないのだ。うむ。
「あっ……貴方、最低ですね」
一瞬刺されることを危惧したが、それよりも彼女が呆れることの方が些か早かったようだった。実はそれが目的だったのだよふっふっふ、と調子に乗ってみる。
「ふふ、本当に最低です」
何故か彼女は僕を見て呆れ顔から少し微笑んだ。もしかして僕は嘲笑されているのだろうか。苛めはここから始まるのか。うむむ、このままでは姉弟揃っての引きこもり危機である。ただでさえ僕はご近所さんに家に女を囲ってるなどと誤解が風に乗って広まってしまっているというのに、それは実に笑えない冗談だ。
「んぐんぐ……ん?」
「予測不能、理解不能、おまけに間抜け面。でも最高にチャーミングですよ貴方」
柏原泉はそういってはにかんだ。そして自身の着ている衣服のシャツのボタンを――――
「ちょっと待って。君は何をしてるんだ?」
とりあえず掌を広げてそれを制する。
右手は痛いので今日は休んでもらおう。けして一部の中二年頃に表れるさもしい病気のそれではないのはきっとご理解いただけてると信じたい。
僕の制するポーズを見て彼女はポカンとした表情で固まった。もしかして使用する言語の違いだろうか。誠に残念ながら今の僕の理解できる言語は日本語に固定されているので、別の言語の方を話される方は自分の星や国に帰っていただきたい。
「何ってナニをする前に――――」
「そうじゃない。いや、そうじゃないことも無いのだが、それに至る原因を僕は聞いてるわけで」
何を言い出すのだコイツは? と流石の僕も驚きを隠せない。もしかしてアレか、私に敵意は無い、武器は勿論のこと敵意すら持っていないのだとどこぞの風の谷の姫ばりに体現してるのだろうか。
「え、だから私は貴方のことが好きだといったんですけど」
「いや、だから何で脱ぐ必要があるのかと問うているのだけど」
「――――そうですね。私、人を好きになった経験が殆どなくてどうすればいいかわからないんです。だから……」
「だからあんなことやこんなことをして、さっさと仲良くなってしまおうというのかね君は」
「端的に言えばそうですね」
「……なかなかイカレた脳細胞を有しているようですな」
そのまま死んでしまえ。そして肥料となって緑化に貢献しろ。そんな僕の皮肉に動じることなく彼女はしれっと嘯いた。
「まぁ、人殺しですし」
「さっきから気になってたけど、それを認めてしまってもいいのだろうか」
「いいんじゃないですか? 事実ですし」
そんなに簡単でいいのか。軽いなー。そしていうことは重いなー。
「で、さっきまで殺そうと思ってた人間にピンクなことをしてもらおうと?」
彼女はそれを聞いて不思議そうな顔を作った。気持ち的には僕もそんな表情であること察してもらいたいものだ。
しかし、何故こちらが頭悪いなぁと飽きられた顔をされねばならないのだろうかさんをつけろよこのデコスケ野郎。
「あら、何か勘違いしてるみたいですけど私は“してもらう”つもりなんて無いですよ。貴方にその意思が無かろうとどうだろうと私が“する”んです」
「ほほう、それはアレかな? 俗に言う強姦という奴ですかな」
ついでにいえば君は今お前をレイプしてやるぜ! とどこぞのメタルバンドのように言ったわけだが。
何を思ったか彼女は美しく微笑んで口を開く。薔薇と金の芳しい香りがしてきそうである。
「大丈夫ですよ」
「……んーと、何が?」
君の頭なら十分大丈夫じゃないから安心しろ。もしかしてそれを示唆しているのだろうか。だとしたらなかなかの状況判断能力である。
「日本では女性からの強姦は罪になりません」
「……ええっとごめん」
ぞっとした。彼女の惚けたような熱い目の奥にマジだと悟った僕は全力疾走で逃げ出していた。少しべそを掻いていたかもしれない。口の端からごめんなさいという言葉が溢れ出てくるが決して死亡フラグではないはずだ。……むう、首が痒い。
そんな僕を見つめながら彼女はじっとその場に佇み、ゆっくりと自身もまた確かめるように言った。
「私、絶対諦めませんから」
それが本当に美しい笑みで、とんでもない寒気と恐ろしさを伴っているのは何故だろうか。
しかし諦めないというのは果たして僕を愛することなのか、それとも性的な意味なのかで大きく話は変わる。できればどっちも一過性のものであって欲しいと願う気持ちはきっと杞憂でないはずである。
僕にとって世界は優しく――――
「随分と遅い帰りじゃないか」
「重役出勤ならぬ重役帰宅ですよ」
香苗姉さんは玄関でセミロングの髪をなびかせて不敵に素敵に微笑んだ。それが気に入ってるのか、いつも着る物は上下スェット。以前聞いた限りでは季節に縛られないからと述べていたが十分縛られるだろそれ。
「足寒くないの?」
「ああ、フローリングの床は些か堪えるよ」
「じゃあ靴下履けよとか思うんだけど」
「……いいか? 周りの環境がそうであるからといって自身もそれに合わせなければいけないというルールはない。勿論、それは節度を守り迷惑にならないことを前提とした意味だ。日本では麺類を啜るのは当然のように考えられている。しかし、外人から見たらそれは酷く下品に見えるだろう。日本人から見たら彼らの食べ方は些か不自然に見えることだろう。だからといって我々は彼らにそれを強要はしないし、また彼らも我々に強要はしない。しかしお前がしていることはその強要に当たるのだ」
「…………」
「元来、人間……いや、生物というものは他者や環境によって個が大きく左右されてきた。言葉を変えれば適応、とでもいうのか。しかし、進化が停滞した今はそれが当てはまらない。新しい試みを探らなければいけないのだ。例えば他者からの影響を拒絶してみるとか――――」
「……あー、ごめん。僕が悪かった」
「分かればいい」
酷く我がままで負けず嫌いの香苗姉さんは僕の帰りが遅いのを心配したのか玄関で壁に体を預けて待っていたようだった。たまにこういうことがあるので気が抜けない。
冷たいフローリングの上で待っていたためか、彼女の足は薄紅色に染まっている。案外僕が出て行ってからずっとここで待っていたのかもしれない、などと考えてしまうのはそうあってほしいからなのか。
取り合えず、僕は目だけでリビングに入ることを施したが香苗姉さんはそれを軽く無視してくれやがったので先に暖を取らせていただこう。寒い時期に温まりながらアイスを食べる心理とその旨さは何なのだろうと哲学的思考に挑戦することやぶさかではない僕であった。
しかし、僕がリビングのドアに手を掛けたところで、それはひんやりと冷えた右手に止められた。実は俺の手でしたーァなんてことはないと信じたい。
ふと顔を右にずらしてそれを見つめる。先ほどの不敵な笑みはどこかに消え、鋭い目つきは僕を逃しまいと見据えた。ここは僕は何も盗ってませんと嘯いてみようか。発生練習あーあーあーっと。
「――――それで何処をほっつき歩いていたんだ」
「どこかそこら辺」
「……馬鹿野郎!」
そういってかなえ姉さんは力任せに僕を廊下の白い壁に押し付ける。今日はいろいろと怪我の多い日だなぁと考えている傍から姉さんは僕の両手首を自身の両手で押さえつけた。まるでダンスを踊っているような形に内心微笑む。まあ気持ちの気持ち、だけど。
香苗姉さんは小さく開いた穴と臙脂色に染められた掌を見て苛立ちを隠さずにいった。カルシウム不足だねと茶化してみようかと思ったが僕の前歯がパイルダーオフされそうなので遠慮しておこう。
「これは誰にやられた? いやこれだけじゃない。体中に細かい傷、それに若干湿った服。局地的な雨に晒されたわけじゃなければ人為的なものだろ。どこのどいつにやられたんだ。私が――――」
「対人恐怖症な姉さんにはそれは無理だろ」
間入れれずに僕はいった。それに対して姉さんは酷く悲しそうに顔を歪ませる。
「……結局、それが私を制約し続け、私を、私の不可分な領域を守り続けるのか。ああ、それ以上は望むまい」
「どうしたの?」
そこはかとない自己言及に染まる姉さん。
「人は何かに制約し続けられるという話さ。確かに個を特定し続けるには自身の全てをつなぎとめ続けなければならない。しかしそれは事実上不可能だ。環境は常に外界の情報によって変質し続けているのだから、環境によって変質する個もまた同じように変容し続ける。死ななければその呪縛といえる連鎖から解放されない。死とは自由なのだ」
「ふーん、よくわからないけど僕は死には何にも期待してないし希望もないね。死んだら終わりでゼロだと思うのだ」
「それは当たり前だ。今のは第三者――――観測者の視点からの話だからだ。結局死とは終わりで無でしかない。私はそれに足りうる絶望の話をしたのだよ」
「何だか崇高で構想的な話だね。実にメタな感じが特に」
「常に変わり続け、いつかは破壊されるそれならば私はそれまで甘受し続けるさ。長く長くそれを楽しむ為にな」
――――できれば私が死ぬまでな。
そういって僕の肩に頭を預けた。僕としてはさっさとストーブに当たりながら手当てをしたいのだが、そうは問屋が卸さないようだ。
少しして姉さんは顔を起こしてはゆっくりと顔を近づける。互いの額はゼロ軸を表す距離になった。
ゆっくりと熱っぽく香苗姉さんは呟いた。どうせ僕は断らないとわかってる癖に。
「なあ、キスしてもいいか?」
「どうぞ」
「……んっ」
「ん」
姉さんはゆっくりと唇を傾けて僕の口腔に舌を這わした。
ぬめついた感覚とざらついた奇妙な感覚が僕を支配する。香苗姉さんの舌はそれを楽しむかのようにゆっくりと唇から始まり、歯茎から頬の肉をなぞり、僕の舌の上を踊り、絡める。そのまま口端から唾液を溢れさせ、ずるずると喉の音を立てながら飲み干してやっと一息つかせた。
姉さんの潤んだ目線が僕の乾いた瞳に交差する。僕の口と彼女の口には透明な頼りない線が一紡ぎ。
互いの体はここまで冷え切っているはずなのに、こうまでも熱っぽいのは何故だろうか。人体の知られざる神秘にご招待された気持ちだった。
姉さんはもう一度僕の肩に頭を預ける。今度は力強く。次第にそれは撫で合うように。馴れ合うように。傷を舐め合うようにして。
そして香苗姉さんはおもむろに僕のベルトを外そうとした。
「ねえ、さん……それは、ダメ」
「……ダメか?」
「ダメだ」
「ダメか?」
「ダメ」
それを聞いて僕の唇にがぶりと歯を立てて体を小突いた。
「ふん、飯作れ飯。今日は鍋がいい」
「今から手間のかかる鍋ですか」
姉さんの望む鍋は超絶手間が掛かる。
「遅くなったお前が悪いだろ」
そこで追従を許さない一睨み。
「…………はぁ」
――――僕にとって世界は優しくなかった。