第二話 解決
周船寺と唯子の二人は今、本校舎一階の下駄箱の隅の方に、息を潜めて隠れていた。二人が注目しているのは、四人目の被害者の下駄箱の部分だ。
「確かに、四人目の被害者、三島ももの財布はまだ返されてないんだったね」
「ええ、そのはずです。先ほど、本人に確認しましたから」
「ほんとにくるんですか?」
「ああ。間違いない。今日返すとしたら、昨日の被害者である三島ももが戻ってくるまでに下駄箱に入れておくしか方法がないからね。さっき中を調べたけど、何もなかったろ。ということは、これから返しにくる可能性が高い」
周船寺の言葉には、妙に説得力がある。彼がそういうからにはきっとそうなんだろう。唯子は無意識のうちに彼の発言を信頼していることに、未だ気付いていなかった。
しばらくの間、二人は息を殺し、その機会をうかがっていた。その間、帰宅に向かう生徒が何人か通り過ぎ、二人を怪訝そうに見つめ、唯子はその度に、いったい彼らにどういう風に思われているのかと、恥ずかしくて仕方がなかったが、周船寺はまるで気にする様子もなかった。
ガラス越しの戸から見える外の景色はもう暗く、部活動を行っていない生徒はほとんどが帰宅しただろう。
下駄箱の隅で、周船寺と密着して隠れていると、彼の息遣いがよく聞こえる。特別相談室で受けたセクハラのようなことをされないかと唯子は最初警戒していたが、一度もそのようなことは無かった。彼の顔をこっそり窺うと、これ以上なく真剣な顔つきで、犯人の登場を窺っていた。その凛々しい瞳を横から見るだけで、唯子は何故か胸が高鳴り、自分の鼓動が彼に聞こえていないか、心配になるのだった。
そんな思いを抱えながら、唯子は周船寺と共に、犯人が訪れるのを待っていた。
……周船寺は先ほど、この下駄箱に財布を返しにくるであろう。犯人の名を告げた。
それは突拍子もなく、意外性に富み、とても信じがたいものであった。唯子は未だに、それを信じられないでいる。
しかし、それを告げるときの周船寺の顔つきから、唯子は絶対の自信を感じ取った。
あれは、あれは自分の推理が絶対であると確信、いや、それが当然だという顔だった。それ故、唯子はなんの反論もせず、ここで周船寺と共に、犯人の登場を待っているのである。
しばらくして、静寂に満ちていた下駄箱に、ピタリと足音が響いた。廊下の方からだ。
自然と心臓の鼓動が高まる。なるべく音をたてぬよう細心の注意を払いながら、犯人の登場を待つ。
廊下の陰から、その足音の主がついに姿を現した。
それを目にした瞬間、唯子は、驚きと、それと同時に、衝撃に似た落胆、そして、周船寺に対する敗北感を味わった。
それは……周船寺が犯人として告げた人物に他ならなかった。
その人物は、ゆっくりと下駄箱に近づきながら、周囲を何度も伺い、ポケットから固形物を取り出し、昨日の被害者である、山田ももの下駄箱を開いた。
「はい! そこまで!」
途端、下駄箱の陰から勢いよく周船寺が飛び出し、大きく声を出した。密着していた唯子はそれについていくように、顔を出す。
二人の姿を見ると同時に、男は驚愕し、思わず手に持っていた固形物、昨日盗まれた財布を背中の後ろに隠した。
「隠してもダメですよ。やはりあなただったんですね……田中先生」
バレー部顧問にして、一年の体育担当、田中の顔がみるみる絶望に染まっていった。
「そんな……なんで、あなたが……」
唯子は思わず、悲し気に声を漏らした。
「お、お前らは今日体育館にいた……ど、どうしたんだこんなところで……」
田中は動揺しながらも、平静を装って応対した。
「あなたを待っていたんですよ田中先生。そっちこそ、こんなところで何をしてるんですか?」
「あ、ああ。ちょっと、そとの様子を見ようと思ってな」
「ではその背中に隠しているものはなんですか?」
そこでぐっと田中の表情が曇り、返答に窮した。
「山田さんの財布ですよね」
「な、なんで……」
唯子と周船寺は、あの下駄箱から去り、特別相談室へと戻った。
「本当に、学校には告発しないんですか?」
「ああ。だがその分あの教師には借りを作れたからね。そっちの方が僕にとっては大きい」
そう。先ほど、田中の反抗を見破った周船寺だったが、彼と話をつけ、学校側には告発しないという約束を交わした。その際の田中の様子はあまりにもみじめで、普段の活発で揚々とした面影は完全に消えていた。もう彼は周船寺には頭が上がらないであろう。
「……さてと」
ガチャリと、特別相談室の鍵が閉まる音が二人っきりの部屋の中に響いた。それと同時に唯子は、全身がぞくりとする寒気を感じた。
「さあ、約束通り、煮るなり焼くなり、好きにさせてもうらおうか」
「ちょ、ちょちょちょっと待ってください! そそそその前に、どういうことだか。私にも説明して下さい!」
「どういうことって?」
「ど、どうして田中先生があんなことをしたのか、それと……どうやってあなたはそれを見破ったんですか?」
周船寺は顎に手を当ててわざとらしく唸った。
「それを僕に教えろと?」
「は、はい」
「あれだけ解決できるわけがないと馬鹿にしていた僕に?」
ぐっと唯子は詰まったが、真相を知りたいという好奇心には敵わなかった。
「う……そ、それは、すいませんでした……」
周船寺は勝ち誇ったような顔で、ドサッとソファに腰かけて足を組んだ。
「うーん、まあ、君の態度次第では、教えてあげないこともないんだけどね。君にも分かるように教えるってのはなかなか難しそうだがねえ」
唯子は怒りに顔を真っ赤にし、震える拳を握りしめた。その様子を楽しむように悠々と眺める周船寺にさらに腹が立ったが、なんとかこらえ、屈辱をなめ、頭を下げた。
「わ、私にも、わかるように……お、教えてください」
「……まあいいだろう。まず今回の事件の狙いのポイントだが、それは間違いなく、犯人の狙いだ。金目当てでないのは明白だろう?」
「ええ。何も取らずに返しているわけですから。でもそれゆえに、犯人、つまり田中先生の狙いはわからなかったわけです」
「うん。だがね。僕は最初この事件のことを聞いたとき、正直がっかりしたんだ。なんだ、ただのスリかって、でも、何も取られずに返却される、それも五件も連続して、と聞いたとき、この事件は解けるなと思った」
唯子は確かに、最初にこの事件を周船寺に説明した時、彼が落胆したような顔をし、詳細を聞いたのちに興味がわいたように表情を一変させたのを思いだした。
「な、なぜ。それだけで解けると思ったんです。普通に考えれば、何も取らずに返される事件の方が、難解そうに見える気がするんですけど……」
「いや、そんなことはない。いいかい、警察なんかが捜査する殺人事件でもね、一番難しいのは、物取り目的の犯行なんだ。特に人間関係のつながりや怨恨もない、ただ、ちょうど金をとるに都合のいい人間を殺した事件。これが一番難しい。目撃者でもいればそこから探れるが、そうでなければ、犯行現場に残ったものから犯人を捜すしかない。それほど、事件というものにおいて、人間関係は重要なんだ」
周船寺の説明は論理的でわかりやすかった。つまり、彼が言いたいことは……。
「つまり、今回の財布の事件は、金目的でなく、人間関係が起因していると?」
「そういうことだ!」
唯子は顎に手を当てて思案を巡らせた。
……人間関係が原因である、そして犯人は一年の数学担当の田中先生。被害にあったのは、全員一年の女子生徒、盗まれたのは財布……ここで、ハッと唯子の頭に一つの解答がよぎった。
「ま、まさか……田中先生はそ、その変態だったんですか?」
あなたのように、と付け加えようか迷ったが、寸前でやめておいた。
「……どうしてそうなる?」
周船寺はガクッと肩を下し、呆れた声をかけた。
「だ、だから、その、みんな田中先生が授業を受け持つ生徒じゃないですか。だからあの人はその時に……その、何人かの生徒に不埒な思いを起こして、その生徒の財布を盗んで、中にある保険証とかから、住所を調べようとしたんじゃ……」
意外にも周船寺はいつものように小ばかするような態度はせずに、感心したかのような面持ちになった。
「……なるほどね。思ったよりは悪くないし筋も通ってる。でも、教師だったら別にそんなことをしなくても生徒の住所は学校の資料とかで調べられるはずだ。そんな面倒なことをする必要はない。」
「あ、それもそうか……」
唯子は慌ててうつむき、顔を隠す。周船寺に褒めてもらったことで、密かに嬉しかったことなど、探られたくはなかった。
しかし、これでますますわからなくなった。それ以外に、金目的でなく財布を盗む理由など、見当もつかない。
それを見かねてか、周船寺が説明を続ける。
「もう一つのポイントは、五人連続して起こったということだ。しかも、その五人は、先月一緒に遊んでいたメンバーだった。これが偶然だと思うか?」
「いいえ。たまたまそのメンバーが選ばれるなんて、出来過ぎてます。だから私も、その中の誰かが犯人だと思ったんですけど」
「うん、そう考えるのが自然だ。そしてそれは間違ってないよ」
「え? で、でも、犯人は田中先生なんじゃ?」
「うん。だが、誰が犯人は一人だと言った?」
周船寺の自信のこもった瞳に、唯子は戸惑い、同時に驚いた。
「え、まさか犯人は田中先生だけじゃないんですか?」
「そうだ。あのメンバーの中には共犯者がいる。というかむしろ、そっちの方が主犯かもね」
「そ、そんな……いったい、誰なんですか?」
周船寺は間髪入れずに聞き返す。
「誰だと思う?」
……あのメンバーの中に共犯者がいる。唯子は懸命に思索した。さすがにここらで挽回しなければ、自分の立つ瀬がない。
「手芸部員の鈴木さん……ですか? 彼女だけ被害にあっていないし、あなたが先ほど話した時、明らかに動揺していましたし」
唯子は窺うように、恐る恐る尋ねる。
「残念ながら違うね。彼女ではない。しかし彼女こそ、キーパーソン。この事件が起きることになった原因だ」
彼女が原因? 全くもって理解不能だった。
「も、もう、降参です。私には、何が何だか」
「ここまで聞いといてまだ降参してないつもりだったのか君は……まあいい。僕の思考の過程全てを説明しよう。座りたまえ」
言われるがまま、唯子は周船寺の正面のソファに行儀よく座った。周船寺は一度窓の外を見つめると、ごほんと咳払いをして、説明を始める。
「まず、財布を盗まれ、翌日にこれが返ってくる。しかし何も盗まれない。これが五回続いた。これを聞いたとき、僕は真っ先にこう思った。犯人は、何かを探しているとね」
唯子は周船寺の口から出る一言一句に必死に耳を傾けながら頷く。
「何かを探す……ですか。でも一体何を?」
「そう、それが分からなかった。だから僕はまずその犯人の目的から探った。それが分かれば、大きく犯人に繋がると思ったからね。そしてその最中、というよりも初っ端に大きな発見があった。あれはかなりラッキーだったね。その時君も一緒にいたはずだが、気付かなかったのかな?」
周船寺はわざとらしく肩をすかす。
「き……気づきませんでした」
「はあ。まあいいだろう。最初、バレー部の安藤紀香に話しを聞くために体育館に行ったろ?」
「ええ」
「彼女から話を聞き終わった後、偶然、顧問である田中が訪れた」
「はい」
周船寺は言葉と瞬きを止めて、何か言いたげな顔でじっと唯子の目を見つめていた。
「な、なんですか?」
「もしかして、まだ思い当たらないのかい?」
「え、この時になんかありましたか?」
唯子が素で聞き返すと、周船寺はもう呆れる気力もないとでも言うように目を閉じ、口を開いた。
「あの時、あの田中は安藤氏のことを‘紀香’と呼んでいた」
今までのとは異なる、しっかりした厚みのある声で周船寺は言い放った。彼にとってはきっと、答えを言ったに等しいのだろう。
「……え? そうでしたっけ? でもそれが何か大事な意味を持つんですか?」
「いや、生徒のことを下の名前で呼ぶなれなれしい教師は、別に珍しくはない。しかしあの時、僕らがいると気付いた時の田中の反応はおかしかった。明らかに、不意を突かれたといった様子で動揺していた」
言われてみれば確かに少し挙動不審だったかもしれない……、と唯子もあの時のことを思い出していた。
「その後、僕らは体育館の外に出て、その後のバレー部様子を見守っていた。そしてミーティングを行っている時、田中が何人かの部員に声をかけた。そしてその時、安藤氏にも声をかけていたが、その時の呼び方は普通に苗字だったし、他の部員に対してもそうだった」
「じゃ……つまり……」
「そう! 田名と安藤紀香はできてるんだよ!」
「そんなまさか!」
唯子は思わず立ち上がって、気色ばんだ。それでも周船寺は落ち着き払った顔をしている。
「それが事実なんだよ。彼の犯行がそれを物語っている。ということは必然的に、共犯者は安藤紀香氏だ」
「そんな、まさか……犯行がって……彼女だって財布を盗まれてるんですよ」
「それはフェイクのつもりだったんだろう。ほんとは盗まれてなんかいない。自分も盗まれたことにしておくことによって、自分に疑いの目を向けさせないためにね」
さも涼しい顔で淡々と周船寺は語るが、唯子は未だそれを信じられないでいた。
「じゃ、じゃあ仮に、先生と安藤さんが、あなたという通り、その……男女の関係だったとします」
「どうでもいいが、君は言葉の選びが古臭いな」
「ど、どうでもいいことです。それより、その二人の関係と、事件の動機とに、何の関係があるんですか?」
「先月、彼女たちが遊びにいったと言っていただろう? そしてカラオケに行った際の会計の時に、とある輩とぶつかって何人かが財布を落としたって。その時だ。安藤氏が財布にいれていた大事なものを落としてしまった。物を落としたのは彼女だけでなく、複数の人間がレシートやらなんやらを落としたらしいから、皆でそれを拾っている最中に、安藤氏でない人間がそれを拾って、自分の財布にいれてしまった。後日、安藤氏がそれに気づいて、田中と共謀して、それを取り返す策を講じたわけさ。それは田中にとっても、他の生徒に見られたらまずいものだったからね」
「それはいったい……」
「なんだと思う?」
唯子が聞き終わる前に、周船寺はきき返した。ここで答えられなければまたバカにされる。そう思った唯子は必死に頭を絞って答えを導き出そうとしたが、全くもって何も浮かばない。
しかし意外なことに答えを見つけられない唯子を見ても、周船寺は先ほどのようにからかったりはせず、至って真剣なまなざしで子供に物事を教えるような声音をかけた。
「論理的に考えるんだ。それは財布の中に入る大きさで、財布の中に入れるのにそこまで不自然でない物。そして安藤紀香と恋愛関係にある田中教諭にとっても見られたくない物。こういう風に突き詰めて考えて行けば、おのずと答えは見えてくるはずだ」
そのゆっくりとした優しい声に、唯子はなぜか落ち着きと安心感を覚えた。まるで彼の放つ言葉がそのまますうっと頭の中に入ってくるように。
それにより、唯子は集中して推理に入ることが出来たのだった。
田中先生にとっても見られたくない物……。財布の中にある……。そして、田中先生は、安藤さんと……。
はっと、唯子の中に閃きが通った。
「分かりました! プリクラ! プリクラの写真です!」
「そのとおり! 正解だ!」
周船寺にそういわれると、唯子は思わず、大声を上げ、手を叩いてはしゃいでしまった。今まで何も解けなかった分、周船寺からのヒントがあったとはいえ、自分の力で解けたことに達成感に近い快感を覚えたのだ。
幼い少女のような満面の笑みでしばらくはしゃいでいると、突然ハッと我に返り、顔を真っ赤にして恥じらいながら、こほんと咳払いをして、静かにソファに座わりなおした。
「……し、失礼しました」
対する周船寺は嫌味のように口角を上げて、わざとらしく薄気味悪い笑みを浮かべる。
「ふっふっふ。中々かわいいところあるじゃないか。いつもそうしてればいいのに」
「よ、余計なお世話です!」
唯子は首元まで赤くしながら、大声を上げて、そっぽを向いた。
その時突然、特別相談室のドアを叩く控えめな音が、二人の耳に聞こえた。
こんなわけのわからない部に相談者が来たというのだろうか。しかも、ほとんどの生徒が帰宅を終えたであろう時間に……と、唯子が思っていた矢先。
「お、どうやら今日の犯人が来てくれたようだね。どうぞ!」
同時に、ゆっくりと控えめに扉が開き、訪問者が顔を見せた。周船寺の言った通り、連続財布盗難事件の犯人である、一年数学担当にしてバレー部顧問の、田中だった。そしてもう一人、その田中の背中に隠れるようにして、ひっそりとこちらの様子を窺っている安藤紀香の姿も見えた。
「どういったご用件で?」
「い、いやあ。さっきの礼を言おうと思って」
周船寺は手で部屋の中央に通すと、田中と、その後ろにいた安藤もぎこちない足取りで、進んだ。二人とも、少なからずこの部屋の異様な豪華さに驚いているようだった。
「それで、目当てのものは見つかったんですか?」
「ああ。君が言っていた通り、鈴木がもっていた。恐れ入ったよ。そこまで分かっていたなんて」
「ということは、返してもらったんですか?」
「はい」
と、今度は田中の後ろからちょこんと出て来た安藤が代わりに答えた。
「先ほどは、嘘をついて申し訳ありませんでした」
ぺこりと安藤は頭を下げる。それに反応したのは唯子だった。
「あ、あの……やはりその、お二人は、お付き合いを……されているんですか?」
二人は遠慮がちに顔を見合わせ、気まずそうに首を縦に振った。
唯子は心底衝撃だった。教師と生徒の禁断の恋。ドラマや漫画なんかではよくある話だが、現実でもそんなことが起こり得るとは……分からない物である。
田中が不自然に髪をかきじゃくりながら、教師が生徒に対して言うには低い物腰で、言いにくそうに言った。
「で、そのことについてもなんだが……なんだ。学校の方には黙っていてもらえないだろうか?」
そのことについても、ということは、田中が鈴木と付き合っていることに関してだろう。もう一つは、財布の窃盗の事に違いない。そっちは先ほど、周船寺と話をつけていたはずだ。恐らくあの時は、交際の事を黙っておくように頼むのも、動揺のあまり忘れていたのだろう。
「かまいませんよ。そのかわり、先ほども言いましたが、この借りはでかいですからね。そのことをお忘れなく」
「うっ」
ぞっと、田中の顔が青白くなっていった。そんなにも周船寺に借りを作るのが嫌なのだろうか。と唯子は少し怪訝に思った。
「と、とりあえず、そういうわけだからよろしく!」
慌てた田中は鈴木を連れて、逃げるようにこの部屋を去って行った。そしてこの部屋は、また、唯子と周船寺だけの空間になる。
「まったく、あんな腑抜けた教師を雇ってるようじゃ、この学校も先は暗いね。ま、それはそうと、これでいかに僕は素晴らしい才覚の持ち主で、自分がどんなに愚かだったか分かったろ?」
周船寺は眉を吊り上げ、偉そうに足を組んでソファの間のテーブルに置いた。だがすぐに、その顔つきは変わる。というのも、唯子があまりにも不似合いなポーズをしていたからだ。
唯子は胸の前で腕をくみ、眉間にしわを寄せては、目を閉じながら難しく考えるような顔をして、うーんと唸っていた。
「ど、どうしたんだ」
周船寺が不思議なものを見る目で問いかけると、唯子は急に、何十年も開いていなかったかのような目をぱあっと開き、音を立てて立ち上がったかと思うと、大きく拍手をした。
「お見事! お見事ですわ! わたくし、感服いたしました!」
突然大声を上げた唯子に周船寺は一瞬ぎょっとしたが、すぐに満足げな笑みを見せた。
「ふふっ、そうだろう」
「ええ。あなたのような聡明な方は生まれて初めて見ましたわ! その明晰な頭脳をもってすれば、かのエラリィクイーンを凌ぐことも可能でしょう!」
「うむ。そうだろう。そうだろう」
「ええ。今後もこの学校、いいえ、そんな低いレベルではありません。この国の発展にその英知を活かしてもらいたいですわ! おっともうこんな時間、それではわたくしは失礼いたします。これからもあなたの健闘を祈っております」
と言い残すと、サササと早足で唯子は出口のほうへ向かった。
そして扉の取っ手に手をかけようとした瞬間、取っ手の上に付随している機械のようなものが電子音を立てて動き出し、カチっとロックがかかる音が響いた。
「待ちたまえ」
その冷たい声に唯子は背筋が震え、鳥肌が立った。恐る恐る振り向くと、周船寺が目を細めて、逃げ出そうとする唯子をとらえていた。片手には小型のリモコンのようなものが握られている。どうやらあれでここの鍵を遠隔操作したようだ。
な、なんて無駄にハイテクな……。唯子の顔はみるみる青ざめて行った。
「急におだてだすからどうするかと思えば……そんな姑息な手に僕が引っかかると思ったかい?」
「い、いえ、そういうわけでは……ただ、今日は用がありまして……」
そう弁明する唯子の額からは焦りの汗が出ていた。視線は周船寺に合わせられず、ただ無意味に右往左往していた。
「んん。君は確か、今日用はないと言っていたはずだがね」
そう言うとソファから立ち上がって、唯子の方へゆっくりと迫り寄る。
「ええっと、ついさっき思い出して……」
周船寺と同じ歩調で、唯子も一歩ずつ後ろに下がるが、数歩のところで鍵のかかった扉に背中がぶつかる。
「そんな言い分が通用すると思っているのかい? 僕が買ったら煮るなり焼くなり好きにしていいと言ったよね? 約束通り、そうさせてもらうとしよう」
今までのように不気味な笑みを浮かべることなく、至って真剣な顔で迫ってくるため、よりいっそう恐怖感が増した。
ああ。男はやっぱり皆、オオカミなんだ。
周船寺はすでに、唯子の一歩手前まで迫っていた。
そして手をかけようとしたその時。
「きゃあ!」
唯子は迫りくる魔の手を間一髪でよけると、華麗な身のこなしで、軽快に周船寺の後ろに回り、すぐさまソファの横に置いてあった自分のスクールバッグを持ち、大きく振り下ろした。
周船寺は自分の目前から消えた唯子を追うため、さっと後ろを振り向いたが、もう既に遅かった。
唯子が渾身の力で振り払ったスクールバッグが、周船寺の頭頂部をとらえる。その時、ゴオンと金属物がぶつかるような生々しい音が響く。
反動で周船寺はのけぞり、反対側の側頭部を今度は扉の取っ手へとぶつける。
「ぐはっ」
まのぬけた抜けた叫び声と共に、今度はゴチンと鈍い音がし、周船寺は気を失い、そのまま床に崩れ落ちた。
しまった。と思い、唯子は慌てて鞄を探ると、周船寺の頭部を直撃した部分には、アルミ製の水筒が入っていた。
床で気を失っている周船寺は、全くもって動きそうにない。
唯子は、茫然とその場に立ち尽くした。




