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第26話

「…………」

 この時間ほど僕が窮屈を感じた時間は無かった。



 クレアが部屋に居る僕を認めた上で、備え付けのシャワーを浴びている時間。


 部屋を取った後、直ぐに僕はシャワーを浴びた。


 やる事が無かった、と言うよりも気まずい雰囲気に耐えられなかったのだ。



 宿屋の手続きを済ませている間、主人から感じる生暖かい視線。

 部屋に入った瞬間、一人部屋であるにも関わらず二人、それもクレアと一緒に居るという色んな意味での閉塞感。



 そして珍しいどころか、今後一切お目にかかる事は無いだろう、と思える程しおらしい態度を見せるクレア。


 その全てが僕にとっては気まずくて、直ぐさまシャワーを浴びる事で気を紛らわせた。

 しかし、この行動が何の意味も為さない行為であった事を僕は直ぐに悟った。



 僕がシャワーを浴び終わった後、クレアが入れ替わりでシャワーを浴びたからだ。彼女のシャワーを浴びる音がこちらの部屋まで聞こえてくる。ドアを挟んで一糸纏わぬ姿の彼女がそこにいる――――気が気では無かった。浴衣を着た彼女をつい先刻見た所為で、女性らしさを意識していただけに余計だった。

 彼女は一体どういうつもりなのだろうか、僕は考える。



 今までのクレアなら例え僕が極寒の大地の中で眠る事になっても笑っていただろう。いや、もしかすれば氷を枕にするよう強要さえしたかも知れない。

 だから僕にはこの窮屈な時間が一層怖くさえ感じられた。


 普段優しくしない人間が優しくする時は何か裏がある。捻くれた性格を地でいく僕はそう思わずには居られない。



「……シャワー浴び終わりました」

 僕の思考を奪うように部屋にクレアの声が木霊する。


 僕はちらりと彼女の姿を見て、そしてギョッとした。

 クレアは身体を布一枚で覆っているだけで、艶めかしい肌が顕わになっていたからだ。



 浴衣の時に気になった鎖骨。上半分が露出された胸。健康的な太腿。どの肌も透き通るように白くて、柔らかそうで、そして――――綺麗に見えた。


 そんな彼女の顔はお湯によるものか火照っている。髪は渇いていないのか、まだ多分に水分を含んでいて、髪先から少しずつ水滴が垂れていた。


 彼女が近づいてくる。石鹸の良い香りが鼻腔を擽った。しかし何故かむせ返りそうな香りに思わず視界がグラついた。クレアはベッドの上に腰を下ろす。対して僕は彼女の対面に置かれている椅子に座って、心臓が喉奥から飛び出そうになるのを悟られまいと必死で平静を保っているように見せかけた。



 そこで僕は気付く――彼女の胸の辺りに何やら痣のようなものが浮かんでいる事に。



「…………」

 怪我の跡――にしては珍しい形だ。シンメトリーな形で、入れ墨でも掘っているのだろうか。それにしては見た事が無い形だ。


 ……いや。昔、何処かで目にした事が――――しかし昔過ぎて全く思い出せない。

 僕はそれ以上、思い出そうとする事は止めた。これだけ思い返してみても駄目ならば大した事でも無いのかも知れないし。



 それよりも……。今は眼前の女に対して言うべき事がある。


「…………。少し、露出が過ぎるんじゃないのか?」

 声が震えていないだろうか――僕はそれを気にしながら言い切る。


 伝わっただろうか。僕の心中まで悟られなければ良いが……。


「私、これでも暑がりなんですよ。だからお風呂を入った後はいつもこんなもんです」

「いつもって……。でも今日はいつもじゃないだろ」

「違うと言うんですか?」

「僕が居る」

「何を今更」

 彼女は足を組む。その仕草に僕は目線を外さずには居られない。



「私は貴方という虫が居たところで居なかったところで自分の生活リズムを崩したくないんですよ――――――それに」

「それに?」

「私がいつものように生活していただけで貴方はこんなにも動揺している。これが私にとって面白くない筈が無い。よって私が生活リズムを崩す理由が何処にもありません」

「…………」

「祭りでは少しばかり遅れを取りましたしね」

 喉を鳴らして笑うクレア。……外道め。



「そんな事を言っていて良いのか? 僕はそんなお前を見て襲いかかるかも知れないぞ」

 僕は鬱憤を晴らそうとばかりに、少しばかり踏み込んだ事を言った。

 だが彼女は妖艶に笑う。


「貴方に襲ってこられたところで私にとっては虫の羽音にしか聞こえません」

「…………。最もな事で……」

 頭が眼前の事象に戸惑い過ぎて冷静な判断力を忘れたのだろうか。


 どれだけ魅力的な格好をしていたところでクレアは悪魔染みた強さを持つ女だ。そんな事をすれば僕の身体は塵も残るまい。


「それに一年間一緒に居れば大体、分かります。貴方はそんな事をするタイプじゃありません」

「……ほう。偉く信頼されているな、僕は」

「違いますよ。貴方はリスク高めの賭けに出るような真似はしないんです。自己保身の塊ですからね。そんな貴方が女性を襲うなんて割の合わない真似をする筈がありませんよ」

「…………」

 僕はそれを聞いて押し黙る。確かに僕は女の子を襲うような真似はしないし、そもそも出来ない。その後の展開で起こり得る修羅場が余りにも怖すぎるからだ。手に入れるべきものは相応の手段で勝ち取る事こそがリスクの最も少ない手段である事に疑いは無い。だからこそ僕はそんな馬鹿げた手段を取り得ない。



 ……しかしながら。クレアの言葉は僕を信頼していると言うよりも男として不能と見られていると言った方が正しいだろう。……少しばかり複雑だ。


 僕にとって不得手な話題が続いているので、少しばかり話題をそらす。


 当然、彼女の姿は直視しない。彼女の身体は思春期の男子を殺せる魅力が有り過ぎる。しかも完全完璧でしかも致死率百パーセントの罠。何これ、初見殺し過ぎる。



「そう言えば……最近、気付いたんだけど。村で手に入れる情報って役立つ情報であればある程、村の中でも権力者が有している事が多いよな。……今日も今日とて、山の爆発に関する情報は村長から聞いたし。これって関係あるのか?」

「ようやく気付いたんですか? 察しの悪い虫ですね。虫の知らせって言葉はやはり信用なりませんねぇ。まあ貴方は虫は虫でも害虫なのかも知れませんが」

「…………」

 しおらしい態度を見せるクレアは気味が悪いと感じていた僕だったが、それがどうやら素晴らしいものであった事を悟る。手から零れ落ちた水はもう戻る事は無い。



 しかし何故だろう、彼女の暴言を聞いて少しだけほっとしてしまうのは。僕はマゾの気でもあったのだろうか。そうでは無いと思いたいが……。


「今まで得た情報を総合的に考えれば気付く事でしょう。村人が様々な経験を得て村人としての能力値が上がり、そして様々な事柄に気付く――――それが我々冒険者にとって有益な情報となる事には気付いていますよね?」

「多少はな……」

 ちなみに村人が得る経験という奴を僕はクレアと共に魔物を倒す事によって得ている。故に僕も『村人A』が得るべき様々な情報を得る事が許される。この職業の数少ない特権の一つだ。……ちなみに役立つ事は稀だ。稀過ぎて僕自身の存在が揶揄されているくらい。




「村人が得る経験と言うのは言い換えてみれば人生経験です。人生経験が深いもの程、社会では出世していくものです。故に村人としての能力値が高い者であればある程、高い地位に就いていて、尚且つ役立つ情報も持っている確率が高い。中には世襲という名の親の七光で高い地位に就いているものも居ますけどね」

 カルマ様とか、と彼女はぼそっと呟く。……いや、彼はそれ相応の能力は持っているよ。お前と比べるのはその……余りに酷と言うものだろう。


 そんな事より……。僕は少しばかり考えを巡らせる。


「あのさ、僕って結構『村人A』としての能力値が高いよな?」

「ええ、まあ。それなりに高い能力値である事は窺えますけど」

「なら何で僕は高い地位に就いてないんだよ」

 僕が当然として抱いた疑問をクレアは鼻で笑った。



「あの、アルミナ……。貴方は村人が様々な苦悩を以て得る経験を魔物を倒すという経験で代替しているんです。高い地位など持てる筈が無いじゃないですか」

「じゃあ……何か? 僕がもしもアルヒムの村でこの能力値を持ち合わせていたのなら中々に高い地位に就いていたという事なのか?」

「そうですねぇ……。少なく見積もっても村長の補佐役ぐらいにはなっているんじゃないですか?」

「なん……だと……ッ」

 僕はそれを聞いて愕然とする。


 村長の補佐役と言えば発言権もそれなりにある村での顔役だ。

 それに引き替え…………。僕は現状を確認するなり目を伏せる。



 そんな僕の考えを読み取ったのか、嘲る様子でクレアは口を開く。


「あ、気付いちゃいましたか? ちょっとばかり邪法を用いましたが、貴方の能力値でならば村長の補佐役になっていてもおかしくない。けれど現状は私の奴隷にさえ為りきれない虫のような雑魚。キングオブ雑魚。理想と現実の乖離に打ちのめされますよね、そうですよね?」

「楽しそうに語るな、ホント……」

 人を煽る言葉をこんなに楽しそうに吐く奴を僕は始めてみた。



 ……しかし、


「僕がお前の足手纏いとして魔物の陰に怯える生活も今日でお終いだ。明日には僕はアルヒムの村でまた『村人A』の本来の職に戻るつもりだからな。この一年間で身に付けたスキルを生かす……事は多分、出来ないだろうけれど、それなりの地位に就いて見せるさ。そうでなければ一々『村人A』になった意味が無いからな」

 僕とクレアのこんなやり取りも今日で最後だ。祭りに行くわ、彼女の珍しい様子を見るわ、果ては一緒に部屋に放り込まれるわで慌ただしい一日だったけど、それでも思い出深い一日になりそうだ。

 その点では名残惜しい気もしなくはない。



 この一年間は僕にとって分不相応な毎日だった。まるで八年前に見た夢の続きを見せられているような感覚。僕が諦め、そして無理だと悟った夢の続きを。


 しかし、そんな夢に溺れる日も今日で最後だ。


 現実は現実。理想は理想。人にはそれぞれ分相応である事が求められる。

 ――――『村人A』にとって魔王討伐の旅は過ぎた代物だ。



「それなんですが……」

 クレアはぽつり、と水を差すような一言を言う。


「本当に帰るおつもりですか?」

「…………」

 僕はこの一言によりクレアへと視線を戻した。彼女は相変わらず、男の欲情を誘うような魅力的な容姿を持っていて。

 そしてその表情は――――曇っていた。



「何を……。数日前にそう決めただろうが。僕は足手纏いだ。お前と並ぶに相応しくは無い。だから僕はお前と別れる。自然な運びじゃないか」

「自然、ですか……」

「…………」

「自然だからと言ってそれが一番良いとは限りませんよ」

「……結局、お前は何が言いたいんだよ」

「私と一緒に旅を続けてはいかがでしょうか――――そう私は言いたいんです」

「何で……」

 僕は渇いた音を言葉に乗せる。


 しかし心中はそれ以上に……さながら砂漠の大地のように渇き、飢えていた。



 …………お前は何でそんな事を言う?



 何でお前はそんな事を言えるんだ?



 僕はお前にとって邪魔で足手纏いで、そして気まぐれに連れてきたようなモルモット以上ペット以下の存在でしか無いだろう?

 そんな僕がこれから先、どうやってお前と対等な立場で居られるのだろう。仲間だと言い張れるのだろうか。



 どうしたって――――卑屈にならざるを得ないじゃないか。



 だから僕はクレアの元を離れる。

 これ以上、失望なんてされたくないから。


 しかし……何だって、何でだよ……。



 ――――何でお前はそんなにも悲痛な表情を浮かべているんだ?



「お前だって数日前は僕の提案に賛成していただろう」

「私は賛成なんて一切していません」

「……そうだっけ?」

 僕は数日前、焚き木を囲んで話した夜の事を思いだす。



 ――――そうだったかも知れない。彼女は一度足りとも僕の提案に賛成していなかった。


「でも反対しなかったじゃないか」

「それが賛成の意であると思う所が貴方の残念な所ですよ」

 淡々と僕への不満をクレアはぶつけた。



 今までに発した僕への罵詈雑言のどれよりも抑揚の無い、静かな言葉。

 でも何故だろうか。先の言葉はさながら矢で射られた如く、今までのどの言葉よりも僕の耳を突き刺し、血液と肉を破り、そして心臓へと届く。鼓動が動揺の声色を浮かべる。



「……ちょっとだけ私の思う所を語りましょう」

 クレアは落ち着いた声色でそう切り出した。


「このままだと私、場合によっては人類を滅ぼすかも知れませんよ?」

 その言葉にどうしたって動揺を隠せなかった。


「……え、ん……は、はあ? 一体何を……」

「私って善悪の概念って全く無いんです」

「いや……それは知っているけれども……」

 善悪どころか倫理観も背徳感も常識も――――彼女を阻む理由には足りない。



「こんな私が一人で魔王城へと行くとしましょう。そこで出会う魔王にこんな事を言われたら私は一体どうするのでしょう――――もしも魔王に『我の仲間になるのであれば世界の半分をやろう』とか言われたら」

「…………」

「私、条件によっては嬉々として人類、滅ぼしますよ? 今は魔王城で踏ん反り返っている魔王が気に喰わない、故に倒す。そう考えています。しかし、実の所それと同じくらい帝国、クリスタルグラントの王、アルマ=クリスタルグラント王や、その息子カルマ様も気に入りません。ぶっちゃけ殺して良いって言われたら笑いながら殺せる自信があります」

「自信を持つ場所が非常に人間を逸脱しているな、お前は……」

 だが多分、事実だろう。彼女は『勇者』カルマに対して当たりが強い。殺そうとした事さえある。僕が必死で止めていなければあの黒々とした魔法で今頃……。



 ならば――――彼女が魔王に『仲間にならないか?』と勧められたらどうする? 報酬に世界の半分を差し出されたら? もしくはそれ以上の対価を貰えば?


 その時、彼女は一体どっちに転がるのだろうか。


「私は人間です。故に人間の仲間です。けれど別に人間の仲間でなくたって良いのです。肩入れする程の義理をどなたにも感じていませんので」

「……いや。いきなりお前の壮絶そうな人間関係暴露されてもな……」

 アルヒムでの僕も大抵、似たようなものだけど似ているだけで彼女の持つ闇は多分、僕の何倍もそして、何層にも渡って深いのだろう。



「でも貴方は別です、アルミナ」

「……別? 僕が?」

 余りにもいきなりの衝撃的な言葉に僕は暫く思考力が低下する。


 しかしクレアは構う事無く、先を続ける。



「私にとって貴方は虫です」

「やっぱり虫なのかよ……」

「でも私は存外、虫を嫌っていないのやも知れません」

「……女にしては珍しくも貴重な意見だな」

 茶化すように僕は軽口を言う。


 彼女が言っている事を僕はマトモに受け止める事が出来るかどうか分からないから。

 だから僕は卑怯にも馬鹿を演じる。



 ……それこそ本当に馬鹿なのかも知れないけど。


「貴方は私にとって虫も同等です。弱くて、脆くて、性格悪くて、恰好悪くて、歪で、しかもシスコンとか……救えないにも程があります」

「お前の言葉こそ救えねえよ」

 無論、僕の暴言への耐久地が、である。足なんかガクガク震えているもん。何、それ新手の呪文? 魔力消費無しでここまでのダメージ与えるとかお前天才かよ。



「でも貴方は腐らないんです。そんなに弱い『村人A』であっても、貴方は正しくあろうとする。正しくあろうともがき続ける」

「……格好悪いだろう? それに理由は妹の為だ。非常につまらなくて気持ち悪い」

「確かに格好悪いですね。そして気持ち悪い。けれど――つまらなくは無い」

 彼女は力強い口調で以て言った。


 今まで淡々と述べていただけに耳がざわつく。

 まあ…………理由はそれだけじゃないだろうけど。



「私は強いです。最強にして、無敵。誰が相手だろうが、粉砕してみせる自信があります。更に言えば私はそれなりに映える美貌を持っている」

「本当、お前、自分褒めにはブレがないよね」

 それでいて他人に褒められると弱いってんだからおかしなものである。


「それでも――――そこまで持っていても私は――――正しくない」

「…………」

「正しく――――在れない」

「正しく在れない、か……」

 正しく存在出来ない。



 ――――人間にとってそれは恐らく何よりも大きな欠点だ。


 だって人間は他の人間に正しく在る事を強要するのだから。

 正しく在れない人間は一体何になれば良い?



 魔物にでもなれと言うのだろうか。


 答えは僕のような凡庸な人間にはさっぱり分からない。


「正しさなんて分かりませんよ。私にとって正しい事は万人にとって正しい事ではどうやら無いようですから。人や環境、文化によっても違います。ならば私にはお手上げです」

「まあお前はどう考えても正しくは無いよな」

 僕はクレアがやってきた数々の非道な行いを思い出す――――人を問答無用で殴りつけ、時には背中から斬りつける。人の悲痛な顔を見る為にはどれだけ非道な行いであっても手を染め、美しいよりもエグいものこそ好む。……間違い過ぎて、どれが間違いか分からないレベルだ。ヘドロにヘドロを重ねた毒々しい感性こそが彼女の持ち味である。




「正しく在れない私と正しく在りたい貴方――――お互いがお互いを支え合う良い仲間だと思いませんか? 確かに貴方は戦闘に置いて足手纏いかも知れません。けれど、貴方の価値はもっと別な所にあると私は思っています……」

「価値が別な所に?」

「一つの観点で見れば貴方の価値は虫にも劣ります。けれど他の観点では貴方は誰にさえ勝る……かも知れません」

「…………そうかな」

「え、あ、うん…………そうであると信じたい、ですね……」

「そこは言い切れよ!」

 説得する側だったら嘘でも戯言でも何でも駆使して僕を乗せろよ!


 下手な現実を見せるなよ! 現実見えたら倒れ込んでしまいそうなんだから!


「……ったく。『村人A』なんて現実を理解した上でよくもまあ、僕は魔王を倒すなんて選択肢を選ぶよなあ。本当、どうかしていると思うぜ」

「じゃあ――――」

 クレアの表情が晴れる。雨雲が蹴散らされ虹が掛かるかのような美しさは見惚れそうになるのを、どうにか踏みとどまり僕は二の句を告げる。



「もう少しお前について行ってみるよ。……人類を滅ぼされては敵わないからな」

 僕は皮肉交じりにそんな事を言う。……いや、半分くらいマジだけど。こいつが敵に回った瞬間の恐怖は多分、想像を絶するものがあるだろう。それに比べれば僕が犠牲になるくらい構わないさ。……僕がこいつの餌食になる事、前提かよ。



「良かった…………。もう貴方の苦しそうな悲鳴を聞けないと思うと、私は心苦しくて堪りませんでしたよ。思い留まってくれて嬉しいです」

「…………」

 ……これはこいつなりの照れ隠しだよな、そうだよな? 本気でこんな事、言っていると思うと正直、死にたいんだが……。あ、多分、こいつ本気で言ってやがる。だって今、ものすっごい嬉しそうな顔、したもん。人の苦痛で喜ぶな、サイコパスめ。




「では明日も出発は早いですから。もう寝ますよ」

「おう――――ん、ベッドは一つしか無いけどどうする?」

 僕は当初、床で寝るつもりだったが、この流れながら一緒のベッドで眠らせて貰えるかも知れない――――そんな希望を込めて彼女に訊いた。



 そんな彼女は笑顔で答える。真っ黒い光沢が見え隠れする笑顔で以て。


「そんなの貴方の居場所は床に決まっているじゃないですか。虫なのですから。良かったですね、喜んで地面を這い蹲ると良いですよ」

「…………」



 やっぱりこいつに付いていくのは再考した方が良いんじゃないだろうか。僕のこの脳内会議は夜が明ける直前まで床の冷たさを感じつつ、続いていた。


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