第1話
『村人A』の朝は早い。
朝。日の出と共に起床すると、太陽の光と朝の透き通った空気を肌で感じながら井戸水を使って顔を洗い、歯を磨いて身支度を済ませていく。その頃には眠気もすっかり吹き飛び、小鳥の鳴き声なんかを聞いて「小鳥さんおはよう」なんて口にしてしまいそうな余裕が生まれる。キャラじゃないので、そんな事は絶対にしないけれども。
着替えを済ましたタイミングでお袋が作る朝食の匂いが鼻腔をくすぐり、それに引き寄せられるが如く食卓に着き、あっという間にお袋お手製の朝食を平らげ、申し訳程度に「美味しかった」と言っては「心にも無い事を口にするな」とお袋に罵られ、柳に風とばかりに気にするでも無く僕は家を出る。後ろから「しっかり働くのよ、愚息」と聞こえたのも特に気にしない。
僕は家を出た後、足早に家々の間隙をすり抜けて村の入り口辺りで止まる。
この場所こそが『村人A』足る僕の職場だ。そして僕がここですべき仕事はただ一つ。
村を訪れる者に「ようこそ、アルヒムの村へ!」と言うだけ。
誰でも出来る簡単なお仕事! ……それが僕の『村人A』の職務だ。
「ようこそ、アルヒムの村へ!」
早速、村の門を越えて旅人らしき一団がやって来たので元気良く口を開く。一団は僕の声が聞こえたのか、はたまたそうで無いのか定かでは無いが、こちらをチラリとも見ずに通り過ぎていく。…………これで良い。この仕事で大事なのは主張せず、なのだ。
僕が村人Aの職に就いたのはおよそ三ヶ月前の事になる。
三ヶ月前、十六回目の誕生日を迎えた僕は晴れて勤労の義務が課せられた。
ここアルヒムの村では男女関係無く十六で職に就くのが慣わしだ。それまでにも何かにつけて村のお使いだったり、畑の収穫の手伝いだったり、母親のパシリだったりと仕事を押しつけられてはいたが、十六を過ぎるとガキの使いから仕事へとランクが上がる。
十六になった次の日、村長宅へと呼ばれ、種々の仕事の内から選んだのがこの『村人A』という職業だ。選ぶ際、仕事紹介として羊皮紙に記されていたのは、
職業その六『村人A』
仕事内容――――村の入り口付近に立ち、村に訪れた者に対し挨拶をする。
資格――――不問。
備考――――挨拶の内容は『ようこそ、アルヒムの村へ!』のみ。一字一句変える事は許さません。研修期間有り。昇級制度有り。スキルに合わせて君自身もステップアップ! さあ、文字通り村の看板を目指しましょう!
……などと書かれており、キャッチ―な宣伝文句が非常に腹立たしかったのだけれども、資格不問という言葉に惹かれて、うっかり職に就いてしまった。
僕のような凡庸な人間がまともに熟せる職と言えばこの程度だろうという諦観もそこそこに研修期間みっちりと扱かれた僕は晴れて『村人A』として職に就けたのだった。
「ようこそ、アルヒムの村へ!」またも門を通して人が訪れたのを見計らい、僕は元気よく挨拶をする。しかしながら先程と違い、僕の挨拶を流さずにしっかりと耳にした男性がこちらへと寄ってくる。
……しまった。僕は内心、冷や汗を流しながらも覚悟を決めて男性にニコニコと営業スマイルを送る。男性は僕へとものを訊く構えだ。
「……ええと、すいません。ちょっと良いですか? 宿屋を探して――――」
「ようこそ、アルヒムの村へ!」
研修期間の内、前任の人間から「くれぐれも!」というお達しの上で言われていた。
「何を尋ねられても『ようこそ、アルヒムの村へ!』以外は口にするな」と。
僕は張り付けたような笑顔のまま、男性へと相対する。男性は訝しみつつも、もう一度口を開く構えだった。
「……あの、」
「ようこそ、アルヒムの村へ!」
男性は馬鹿にしたような光を目に灯しながら舌打ちし、村の奥へと去っていった。
僕は前任の人間の愚痴を思い出す。
「……なあ。仕事ってのはどうしてこうも理不尽なのかね? 俺は人間であるのに、常識的な判断が出来る人間なのに仕事によって道具へと変えられる。そして仕方無く道具になった俺に対して世間は冷たく当たる。こっちは仕事でやっているなんて事を奴らはてんで汲み取ってくれねぇ…………。生きるって何だろうな」
『村人A』歴二年の男は憔悴し切った顔でそんな事を言っていた。……胃に穴が空いていないと良いが。
またも村を訪れる人間に対し僕は挨拶をする。今度は僕の事を気に留めるでも無く去っていく。僕は胸を撫で下ろした。
この仕事のポイントは村の看板として恥ずかしくない程度に元気よく挨拶をし、そして誰にも気に留まらないよう注意しながら、そして誰に何を訊かれても同じ言葉のみを返しながら一日をここで過ごす。どうして同じ言葉しか口にしてはいけないかを問えば「職業とは分担作業であるから」らしい。スキルアップしていけば違う言葉もどうやら喋れるようで前任の男は、
「ようやく! ようやく『宿屋はすぐそこですよ』が言える!」
と小躍りせんとばかりにガッツポーズをしていた。
…………彼は彼で思うところがままあるのだろう。
この『村人A』という職業について知った物事の中で最も大きな物事は恐らくこれであろう。
――――誰でも出来る、は楽という意味では無い。である。
どうでも良いかも知れないが自分を慰める上では大切な人生の教訓を思い出しつつ、僕は太陽が天高く昇るまでの間、挨拶を口にし続ける。
村を訪れた屈強な旅人の背中を見送った後、僕は一息吐いた。
もうすぐお昼だ。今までにどのくらいの人数に声を掛けただろうか――――20から30人くらいだろうか。
この人数は小さな村の規模にしては多分、多い方だろうと思う。
僕が住んでいるこの村――アルヒムは例外的に訪れる人間が多い。
大きな理由は幾つかあるが――――そんな事を考えている内にまたもアルヒムを訪れる一団が居た。
「ようこそ、アルヒムの村へ!」
一団の内、爽やかな外見の青年が「やあ、お疲れ様」と柔和な笑みを浮かべながら通り過ぎる。
彼らこそがここ、アルヒムの村を訪れる人間が多い原因の一端を担っている。
一団はそれぞれが特徴的な外見を有しているが、その中でも一番華やいだ姿をしているのが先程、僕に声を掛けた青年だ。
獅子を想起させるような金色の短髪に整った中性的な顔立ち。身長は高く、細身でありながらも決して弱弱しい印象を与えない鍛えられた体躯。その身体を鉄の鎧で覆い、さぞや名のある建匠が打ったであろう剣と煌びやかな紋様が施された盾を背中に背負い、颯爽と風を切りながら歩く様はまるで違う世界の住人のように感じられた。
それは相当魅力的に映るのだろう、彼の仲間であろう他の女性三名が彼に送る視線は何処か熱を帯びているように感じる。
それもその筈だ。彼こそがこの世で最も高貴な職業である『勇者』その人なのだから。
大よそで言って百年前の話になる。
百年前――この世は混沌と言って差し支えは無かった。
魔界と呼ばれる世界の蛮族――魔物とそれを統べる凶悪なる魔王が人類の住まう人間界をも手中に収めんと侵略を開始し、人類は為す術無く魔物の脅威に呑まれていった。
――――しかしながら。魔王が人間界を征服せんとする後一歩のところでとある青年と三人の仲間達が魔王の野望を打ち砕き、そして滅ぼしたと伝えられている。
その青年こそが後の世で勇者と呼ばれる存在だ。
その働きあって何十年もの間、人間界は平和そのものだったのだが――十年前、突如として魔王が復活を果たし暗黒大陸と呼ばれる人類未開の地に魔王城を構え、再度人類を滅ぼさんと進行を開始した。
だがかつて魔王の野望を打ち砕いた勇者と呼ばれし青年はもうこの世には居なかった。魔王ももしかすれば勇者の没後を狙って再び進行を開始したのかも知れない。ただそうは言ったところで人類とて何の対策も打たず魔王に滅ぼされる訳にはいかない。
そこで人類は魔王と闘える人間――つまり『勇者』という存在を募集した。
それが功を奏し、魔王の侵略は数多くの『勇者』に阻まれる事となった。
だが魔王を再び滅ぼす迄には至らず拮抗状態が続き結果、現在に至っている。
その職業『勇者』を募集した国こそが僕の住んでいるアルヒムの村より南西に約十キロ、帝国クリスタルグラントである。百年前、かの英雄、勇者と呼ばれた青年もクリスタルグラントの出身であったと言われている。そんなクリスタルグラントで勇者認可証を受け取った勇者が最初に訪れる村こそが帝国からそう遠くない場所に位置しているこの村、通称『始まりの村』――アルヒムの村なのである。
従ってこの村は規模が小さいにも関わらず訪ねてくる人間が非常に多い。多い時では日に百人もの人間が村を訪れる。勇者認可証を受け取った『勇者』の他にも商売目的でこの村に訪れた者、勇者のファン、もしくは旅立ちを祝福する為、物見遊山に訪れた者、その他諸々と土地も小さく、これと言った特産品が無いアルヒムにとってそれはこれ以上無い幸運な事に違いなかった――――それはさて置き。
僕は既に人だかりが出来ている方に目を向ける。その大半がうっとり顔を浮かべている女性や目をキラキラと輝かせている子供だ。
人だかりの中心に位置しているのは先程の青年――『勇者』カルマだ。カルマは手が擦り減るんじゃないか、という勢いで揉み手をして歓迎の意を示す村長へと笑みを浮かべている。
まあ村長が委縮するのも無理からぬ話だ。『勇者』カルマ。カルマ=クリスタルグラント。帝国、クリスタルグラントが第三代国王、アルマ=クリスタルグラント王が息子、第一正当後継者、カルマ=クリスタルグラント。正に『勇者』の中の『勇者』と言われる存在。
最も魔王討伐に近いとされる人間こそが『勇者』カルマその人なのだから。
その実力も折り紙付きで名高る剣の達人より伝授を授かったと言われている。
実際、昨日の事だ。華々しい出迎えで勇者、カルマの来訪を祝福したアルヒムの面々は皆が皆、直ぐに魔王討伐に向けて村を出発するとばかり思っていた。ところがカルマは度々、来襲しては村を困らせていた北の山に巣食っている魔物を放って置けないとばかりに退治しに向かって、今日の昼、無事帰還してあちらで皆に向かって魔物の討伐報告を行っている。村の用心棒が一週間かかっても討伐出来なかった魔物を経った一日で、だ。
それから考えても余程の実力者なのだろう。王を父に持ち、剣技に優れ、品行方正であり、そして顔立ちも抜群――――これが別世界の人間で無くて何だと言うのだ。
僕は少しばかり昔を思い出す。勇者に憧れを抱いていたあの頃だ。そしてそれが全て間違いであって、僕が村人Aをやっている理由にも当然頷けた。
憧れだけで夢は叶わないのだ。夢を叶えるにはそれ相応の才能が必要で、それを持っている人間は限られている。その最たる例があの『勇者』カルマだ。
それに引き替え自分は何も持っていない。
家柄も、容姿も、才の一つとて――――持ち合わせてはいない。
何も持っていない人間が夢を見るなんて事は許されない。
凡人は凡人らしく凡庸なる人生に身を落とす方がよっぽど幸せだ。
妥協は楽だ。むなしい温かみで以て全身を包み隠してくれる。
つまらない現実が最高の人生であると、そう言い聞かせてくれる。
それが本当のところどうであるか――――そんな事は最早どうでも良い。
どうせ叶わない夢ならば考えるだけ無駄なのだから。
――――また。こうも、思うのだ。
『勇者』カルマ。絶対的な超越者。皆が認めるカリスマ的存在。
その期待は一体どれほどのものなのだろうか。
恐らくは期待され、求められ、そして重圧が重石のように圧しかかっている事だろう。
常に求められる事は苦痛だ。ハードルを上に掲げながらも常に最良の結果を出し続けなければならない。一種の拷問、言わば地獄、だ。
更に言えば彼は『勇者』。常日頃、命を危険に晒し続けているはずだ。
それは――――本当に幸せな事なのだろうか。
そう考えても見れば才能なんて下らない。
『村人A』と『勇者』。その違いは明らかにして絶対。
月を見上げて溜息を吐くスッポン以上の差がそこには広がっているのだろう。
しかし求められない人生こそが『村人A』には約束されている。
誰も見向きさえしてくれない。むしろ見向きされれば困る人生。
それこそが『村人A』。――――――果てしなく楽だ。
だからこれで良い。このままで。
僕はそう思った。
「勇者様! キャー! こっち、こっちを向いて下さい!」「結婚して下さい!」「格好良い! 抱いて!」「むしろ抱かせて!」「魔王なんかじゃなくて私に猛々しいアレを突きつけてぇ!」「イケメンこそ正義、至高! 万物はイケメンを中心に廻っているのよぉ!」
「…………」
僕は横目で『勇者』カルマに群がった女性達が狂喜乱舞する様を目の当たりにする。彼くらいになるとそれはもう選びたい放題なのだろう。モテモテですな、カルマ様よぉ。
…………ん、いや。別に羨ましくなんかねぇけど。ホントダヨ?
その後、一時間にも渡って熱烈な祝福を受けながら『勇者』カルマはアルヒムの村を後にした。これからも彼は行く先々でこうした熱烈なる歓迎を受けるのだろう。
ご苦労様。そう言ったところだろうか。
彼が居なくなった後、アルヒムの村はまるで過ぎ去った嵐を見送ったかのような有様だった。皆が日常に回帰していく。女性達もカルマに向けていた視線は何処へやらと冷めた目を浮かべつつ、それぞれの家やら宿やらへ帰って行った。
僕も――――まあ僕は元から『勇者』などに興味も無いので、ずっと「ようこそ、アルヒムの村へ!」と言い続けていたけれど。いやはや、僕ぐらいになると『勇者』が来たくらいじゃ動じず仕事を放っぽりだしたりなんかはしないのである。僕って職人気質!
……そしてまた同じ言葉を繰り返す。僕の声を代わりに再生し続けてくれる便利道具なんかは何処かに無いものだろうか。多分、代わったところで誰も気付かないだろうし。
楽、そう楽だ。誰に認められる事も無い、これ以上無いくらいのぬるま湯。
これが僕の求めた幸せだ。そうであるに違いない。
――――こうして。
こうして今日もまた、何事も無く終わると思った。そして明日も、その次の日も。
永遠に『村人A』としてつまらなく、幸せな毎日を送れると僕は信じていた。
だが。
誰がそんな事を保障してくれたのだろう。
それは僕が勝手に思っていた――――ただただ、それだけの事だった。
日常は簡単に瓦解する。思い一つで物事は自分を中心として回す事が可能なのだ。
そんな当然の事を――――『彼女』は教えてくれた。
唐突だった。空に一閃、光が瞬いた。それを皮切りとして僕の世界は変わる。
村の入り口付近、つまり僕の目の前が突然、凄まじい衝撃で爆ぜた。土煙が轟々と僕の視界を覆い隠す。僕はあまりの事に腰を抜かし、倒れた。
最初は魔物がいきなり村を強襲しに来たのかとそう思った。この土煙の中から今にも魔物が現れて僕を八つ裂きにしてしまうのではないか、そう思って心臓が締め上げられたように苦しかったが、いつまで経っても魔物の鋭い鍵爪が僕の喉元を抉る事は無かった。
やがて視界が晴れた。三ヶ月前から何度と無く見慣れた風景が広がっていく。村の入り口付近に申し訳程度に建てられた門、何も無い簡素な村の様子が目に飛び込んでくる。
一つだけ違ったのは土煙が広がっていた中心辺り、そこには膝を曲げてしゃがむ鎧姿の人影があった。
息を呑む僕をよそにして人影はおもむろに立ち上がった。
立ち上がった姿は案外、小ぢんまりとしていた。鎧姿も先程、ここに居た『勇者』カルマとは違い、安っぽい様の鎧を身に纏っていて所々が窪んでいた。
唯一、特筆すべき点があるとすれば背中に背負った身の丈を軽々と超している馬鹿でかい長剣。ひょっとしたら道化師なのだろうか、そう思うくらいに鎧姿の人影が持つには不似合いな剣だった。
鎧姿は二三、首を左右に動かして辺りを確認した後に頭を覆った兜をそっと脱いだ。
僕は兜の中を見てぎょっとした。
最初は兜の中から黒々とした水が流れ出たのかと思った。しかし、それは瑞々しく綺麗な長い黒髪で、それが鎧姿の膝元辺りに垂れ下がる。冷たく吊り上った切れ長の目はまるで獲物を追う猛禽のように猛々しく、かと思えば艶のある唇、薄く赤らんだ頬が気品のある表情を形作っている。有体に言ってしまえば鎧姿の中身は女の子だった。
それもそこらで滅多にお目にかかれない綺麗で見目麗しい少女。
僕は時間が止まったように見惚れてしまい、絵画に描かれた女神のように美しい少女を眺めたまま、立ち尽くしていた。
挨拶なんて……。『村人A』の職務などとっくのとうに頭の中から吹き飛んでいた。