第18話
一歩、二歩と自分の足が前に進んでいる事を確認しながら前へと進む。
不安で視界が霞むようだった。頭が痛くて胃液が何度と無く喉へと競り合がる。しかし吐いてしまえばその匂いで魔物が寄ってくる可能性があるので、どうにか我慢する。
道の先にある曲がり角の手前に燭台の炎に当てられて揺らめく魔物の陰を見た時などは恐怖で肺の中の空気が一瞬にして飛び出てしまった。直ぐに物陰に隠れた為、発見されるには至らなかったが…………惨めなものだった。
そう――――僕は惨めだった。こんな所に来てまで魔物の陰に怯えながら、そして自分の恐怖心に追いつめられながら通路を進んでいく事は氷の槍で足先を串刺しにされているように、足元が冷えて仕方が無かった。
こんな事だったら母親のパシリにされている方がよっぽどマシだし、村でいつまでも「ようこそ、アルヒムの村へ!」と言っては頭がイカレていると思われる方が、幸せだった。
――――死への恐怖はこれ程までに陰を落とすものだったのか。
憧憬など文字通り子供が浮かべる幻想でしか無いのだ。やはり夢などは早くに捨て去った方が良い。何人もの旅人が、そして『勇者』が――――こんな事を思いながら命を落としたのだろう事を考えると、立ち竦んでしまいそうだった。
それでも涙を浮かべながら僕は足を前へと向ける。
いっその事、暗闇からの魔物による一突きで恐怖を感じる事無く絶命出来たらそれはどれだけ幸せなのだろうか。この恐怖から解放されるなら…………ッ。
暫く立ち止まっていればそれも叶うかも知れない。何度と無く、魔物の陰を感じているのだ。ならばここで目を瞑っていれば必ずや魔物は僕の心臓を穿つだろう。
しかし出来なかった。心臓の鼓動を感じていられる間はそんな事は出来なかった。
生きたいから――――生き汚いのだ、この僕は。
足手纏いになっても、自分の弱さをひけらかしても。それでも生きていたい。
――――息をするのを自ら止める事は出来ない。
「…………」
自らの呼吸音で我に返ると、僕は前を見据えて歩き出した。
目は濁っている気がしたが、それでも視界は閉じない。閉じれない。
――――その時だった。空気を切り裂いて何かが目の前から飛んできた。
僕は間一髪、その何かを短剣で叩き落とす。
足元に転がるのは所々がくすんでいる白っぽくも丸いモノだった。
僕は気付いた――――恐らくはここで力尽きた旅人のものだろう――――人間の首が年月を経て腐り、風化し、肉を削ぎ落としたなれの果てである事を。
ふと悲鳴を上げている自分が居る事を知る。心臓の鼓動が早鐘のように為り続ける。耳鳴りがうるさい。それでも短剣を構えて、僕は眼前を見据える。
そこに居たのはフォロースルーを取る包帯を雑に巻かれた大男だ。白い布の上からでも分かる筋骨隆々の様は少しでも触れられればただでは済まない事を否が応にも分からされた。包帯で隠れていない肌の部分が黒く、腐っている。こちらを覗いている目は何処までも虚ろで、そして何処までも狂気に染まっていた。
魔物は一体……ッ。仲間を呼ばれる前に何とか出来れば僕でも生き残る可能性はある。そして相手はこれまた幸運な事に素手。間合いを取り間違わなければ早々、死にはしない。
気合いを入れ、僕は魔物へと接敵する。狙うは首――と見せかけた右足。脚を傷つける事に成功すれば、僕を追う事は出来なくなり、逃げる事も難しくはないだろう。
何も馬鹿正直に殺す事は無い。クレアの横にいる所為か魔物は殺さなければならない、という固定観念に囚われがちだが、しかし冷静に判断すれば方法など幾らでもある。
魔物の動きは緩慢で素早い動きでは無かった。故に企みも成功し、脚へと短剣を突き立てる。
ただ狙い通りにいったのはそこまでだった。突き立てた短剣はイメージ通りに魔物の脚を切り裂く事は出来ず、足を鈍く斬り付けたまま一向に動かなくなった。
焦り短剣を抜こうとしたが、魔物の脚は短剣を捉えて離そうとしない。
その内、耳が空気の奔流を捉えた。慌てて視線を向けるが間に合わず、僕は魔物が振り被った一撃をまともに喰らってしまう。
「う……が……ハァッ!」
地面を転がってのたうちまわる。一撃を喰らった左肩が焼かれたように熱く傷んだ。左肩を動かす度に激痛で思考がプツン、と途切れてしまいそうになる。
…………暫くは左腕を使えそうには無いな。
僕はそう判断し、尚も魔物へ立ち向かおうとして短剣を構えようとする――――が、短剣は右手に収まっておらず、握った掌は固い感触を探して空を切った。
一体何処へ消えたのか、と辺りを見渡すと短剣は魔物の傍らに落ちていた。
……どうやら魔物の一撃を喰らった際、衝撃で手放してしまったらしい。
「…………」
絶望的な状況に思わず苦笑いしてしまった。
どうしろ、と言うのだこの状況を。『村人A』足る僕には武器無しで魔物に挑む程の能力は皆無だし、魔物は先程傷ついたであろう脚など気にも留めていない。
……逃げる? 逃げるか? 不幸中の幸いにも魔物の動きはそう早く無い。逃げようと思えばこの場は逃げ切れるだろう。
――――しかし、だ。
僕は魔物に追われながらも、行く先で魔物に見つからないという器用な真似が出来るのか?
もし逃げた先でもう一度魔物に見つかれば今度こそ逃げようがない。それどころか挟み撃ちになってより一層状況は悪くなるだろう。
そもそも僕は魔物に追われている、という恐怖に耐える事が出来るのか?
「……情けねえなあ、ホント」
僕は魔物を前にして力無い弱音を吐く。
どれだけ僕は自分の無力を呪わなければならないのだろうか。
魔物は着実にこちらへと近づいている。ただし僕にはもう逃げるという選択肢があるようにさえ思えなかった。魔物の振りかぶった右腕を見ても僕は何も感じなかった。
「伏せろ!」
唐突に背後から誰かの叫び声が聞こえた。僕は訳も分からず無我夢中でその場に伏せる。
頭上を灼熱の風が通り過ぎていく。風は魔物に当たって弾けるとたちまち轟々と燃え盛る炎でその姿を覆い尽くした。見る間にその身体は闇へと熔けて消えていく。
「君、無事だったかい?」
「ええ、助かりました。ありがとうございま――――」
僕は御礼を言おうと振り向いた途端に言葉を失くした。
「…………君は」
振り向いた先に居た金髪の青年も目を剥いた。互いに少なからず見知った仲だったからだ。
僕の眼前に居たのは『勇者』――カルマ=クリスタルグラントとその仲間達だった。




