1.プラネタリウム
1.プラネタリウム
*
夜の街は優しい。世界はとてもきらびやかで、道行く人はみな笑っている……ように見えた。
金曜日の夜は、ちょっとした祭りのようだ。みな、明日を忘れて1週間の疲れを発散しているのだろう。
仕事帰りのサラリーマン。派手な格好をした女。道のすみで倒れている中年男性。腕を組んで歩くカップル。みな、笑っているように見えた。そんな景色をぼんやりと眺めながら考えた。俺も、笑って見えるだろうか。
「遠野さん」
俺を呼ぶ声が聞こえた。俺は、自分の名前が嫌いだった。「遠野透」。何となく韻を踏んでるようで鼻につくし、「透」という名前は、俺に最も似つかわしくないものだと感じていた。いつからか、どれだけ親しくなっても名前で呼ばれる事を拒否し続けてきた。
きらびやかに見えた街の色が変わった気がした。人工的な毒々しいネオン。見栄と嘘にまみれた、悲しい笑い。
「遠野さん、またぼーっとしてますね」
彼女は俺の肘のあたりをツンツンとつつく。
「ごめんごめん」
「私といても、楽しくないですか?」
唇をとがらせ、上目遣いに俺を見てくる。横に可愛い女の子がいるのに、放ったらかしにしていた。申し訳ない気持ちになる。
「ごめんね、翔子さん」
「別の女の子に見とれてたんですか?」
「違う違う」
慌てて手を振る。
「翔子さんが、一番可愛いよ」
これまで俺を見ていた目が少し大きく見開かれ、次に恥ずかしそうに目を逸らす。
「てへ、そうでしょ」
恥ずかしそうに言った。たまらなく愛おしい。誰かが言っていた。人は、人を愛するほど、孤独になっていく。
俺は孤独だ。きらびやかな世界。賑やかな笑い声。隣にいる、背の小さな女性。長い髪に、少し手を伸ばせば触れられそうだ。綺麗に切りそろえられている。きめ細やかな肌。丸みを帯びた体。髪の隙間から、キラリとピアスが光る。何となく、星のようだと思った。
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星には詳しくない。だけど、俺の地元は星が綺麗に見えたと思う。都会に出てきてから特にそう思う。ここにきてから見る夜空は、どうも記憶の中の夜空と違う。
「プラネタリウムを見に行きませんか?」
唐突に翔子さんが言った。
「都会じゃ、あまり星が見れませんから」
「そうだね」
時々、彼女は俺の心を読んでるじゃないかと思う。食事を済ませ、ほろ酔いで駅に歩く。この時間が、たまらなく愛しかった。駅まであとどれくらいだろう。
「俺の田舎だと、星空が綺麗だったんだけどな」
「そうなんですか」
目を輝かせる。都会の空に浮かぶ星よりもずっと綺麗だと思った。
「遠野さんの、地元かぁ。いつか行ってみたいな」
キラキラとした目を俺に向ける。
「そうだね、いつかおいでよ」
「わぁ、楽しみ!」
「とは言っても、何もない場所だけどね」
「遠野さんの運転で、小学校~大学まで見て回るのはどうですか?思い出振り返りツアー!そして夜は星空を眺める!」
「ははは、翔子さんはそんなので楽しいの?」
「楽しいですよ。遠野さんの昔の話とかたくさん聞きたいですし」
翔子さんの笑顔は、いつも眩しい。
「でも、結構な遠出だし、今度連休とれた時だね」
「忙しいですもんね」
「ブラック会社勤めも辛いよ」
「じゃあ、それまではプラネタリウムで我慢しましょう」
「それはそれで、綺麗だしね」
「きっと、癒されますよ」
そんな話をしながら駅へ向かう。プラネタリウムの星はきっと綺麗なんだろう。でもそれは作り物でニセモノでだからこそきっと、真実よりも綺麗なんだろう。
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駅。バタバタと過ぎていく人々の足音が空間を埋め尽くしている。翔子さんと向かい合う。この改札を抜けて、俺は左へ、彼女は右へ。
「ごちそうさまでした。とても楽しかったです」
翔子さんが笑う。彼女の笑顔が好きだった。
「いやいや、こちらこそ」
別れの時は痛い程寂しい。
「ねぇ、翔子さん」
「なんですか?」
「今日は、帰りたくないな」
翔子さんの顔から、笑顔が消えた。ささやかな沈黙。世界は、音に溢れている。翔子さんと向かいあう。その後ろに、酔っ払って寄り添う中年の男と20代前半に見える派手な女が見えた。
「今日は、帰りましょう」
翔子さんは、優しい目で言うのだ。
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都会の駅は巨大だ。駅のホームから街を見る。人は、眠らない街の中でどんな夢を見るんだろう。田舎にいた頃は、こんな世界があるなんて知らなかった。空を見上げてみる。そこに、星は無かった。
ニセモノであってもいい。何もないよりは、よっぽどいい。
夜の街は優しい。
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保険会社のようなカウンターの向こうに、エネルギッシュな初老の男性が座っている。俺の方を見ることなく、手元の書類に安物のボールペンを走らせている。
「来月も更新でいいの?」
中年はなおも、俺を見ること無く聞いた。
「はい、お願いします」
「プランも一緒で?」
「はい」
「じゃ、10万円だね」
「はい、カードで」
「はいはい」
男は面倒くさそうにカードを俺からひったくって機械に通して、領収書を渡す。単純な事務作業。いつか、人間の動作の多くは、機械に乗っ取られるんだろう。
「毎度」
中年は、やっと俺の目を見た。俺が今度が目をそらす。
「ありがとうございます」
俺は、それだけ言ってカウンターを立ち上がる。
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巨大なビルが立ち並ぶ。そのうちの一つの、4階。その中の小さなオフィスに、その店はあった。結局俺は、ここが何の店なのか分からない。
俺はここで、翔子さんを買っている。
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俺の人生はくだらない人生だった。誰からも愛される事もなく、一人で寂しく死んでいくんだろう。朝6時に家を出て、夜遅くまで仕事をする。
ボロアパートの、郵便受け。
胡散臭い宗教や、風俗、謎のハーブのチラシ。その中で、ひとつ興味深いものを見つけた。A4のコピー用紙に、「魂屋」というゴシック体が踊っている。
「あなたは幸せですか?」
「幸せを売ります」……といういかにも胡散臭いチラシだった。
30歳を目前にし、何に対するものなのかも分からない焦燥に駆られる毎日だった。冷かし半分、心の奥底で何となくすがるような期待を隠しながら、その番号へ電話してみることにした。電話に出たのは、意外な事に、若い可愛らしい女性の声だった。心の奥底に隠したはずのものが、大きくなるのを感じた。
きっと今日が、同期たちとの飲み会でなければ、こんな事にはならなかった。きっとこんな胡散臭いチラシは丸めて、いつものようにゴミ箱へ投げていた。
同期の出世の話、趣味で成功した話、結婚の話、家族の話……相槌を打ちながら、改めて俺には何もないんだな、と感じるのだ。
…俺は、その店へ向かう事にしたのだ。
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店にいたのは、若い可愛らしい女性ではなく、白髪をオールバック風にまとめた、いかにもいい飯を食ってます……と言いたげな男性だった。男性は、カウンター席に俺を促し、机に片肘を付いて、手元の書類に目を落としながら話し始める。
この店は、利用者との綿密なカウンセリングにより、その不幸を満たすサービスをしている。いかがわしい店ではない。
自分でいかがわしくない…という者は大体いかがわしい。
店の理念などを事務的に話した後、ぎょろっとした目で俺を見てきた。……苦手だ。
「なぁ、あんたは一体、何を期待してここに来たんだ?」
「え、あ、その」
突然問いかけられ返答に困る。
「何かに期待してなきゃ、うちになんて来ないだろ」
「……」
「そうか、最初に対応したのは翔子だったな」
男は、目を細めた。
「あんたには、翔子を売ってやろう」
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その店で俺に対して与えられたサービスは、翔子さんだった。何が綿密なカウンセリングだ。何も聞かずに勝手に決められる。
何かしたいことはあるかと彼女は聞いた。驚くほど、何も無かった。まさか、初対面で一戦交えてくださいなんて事も言えるはずもない。
翔子さんの買い物につきあって、洒落たカフェでお茶をして、ダイニングバーで晩飯を食べた。誰かとこうして過ごすのなんて、久しぶりだった。
……それ以来、かれこれ1年くらい継続して翔子さんを買い続けている。日々が、明るくなったような気がした。きっとこれは、何もなかった俺の承認欲求を満たしてくれる事による依存なんだろう。
今後俺は、ひょっとして翔子さんと結婚したりとか、別の誰かを好きになって、結婚したりはするのだろうか。
時々、そんな淡い夢を見る。
翔子さんのレンタル代、食事代、プレゼント代…
こういったもので、俺の安い月給はまたたく間に消えてゆく。空っぽの人生の中、唯一貯まっていった貯金も、毎月減り続けていく。時間も、金も何もない。それでも俺は、翔子さんが好きだった。
ポケットにいれた携帯が振動する。
俺は、ポケットから携帯を取り出し翔子さんからのメッセージを確認する。
『更新してくれたんですね、ありがとうございます』
昼休み。
スーツを着たビジネスマンがゴミゴミとした街を早足に行き交う。時々、自分の場所がわからなくなる。足を止めてみる。石を投じられた川の流れのように、人の流れが俺を選けて進む。
俺の人生は空っぽだった。
ニセモノだって、きっと何もないよりは、素晴らしい。
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