SNOW
まだ子供の頃は、この自動販売機で買えるものは皆、110円だった。
僕らよりもずっと上の世代は100円。もしかしたら、それよりも安かったんだろうか。
そもそも、自動販売機自体がなかったんだろうか。
解らないけれど、確かなことは、今は130円になっている、ということ。
――あれ? 消費税3%で10円値上げ、5%で10円値上げ。8%で更に10円――おかしくね?
「…いや、まぁ、そこまでせこいこと言うつもりはないけど」
硬貨を四枚投入して、あったか~い微糖のコーヒーを一本選ぶ。
それをしゃがみ込んでいる吉原さんに差し出す。
彼女は、サンキュ、と低い声でまるで男の子のように低い声で答えると、すぐさまプルタブを開いた。――これも昔は取り外すタイプだったんだよなぁ――。
自販機の前でしゃがみ込むというのは、社会通念上、いかがなものか、とは思うものの、時刻は既に丑三つ時。小学校近くの自販機にわざわざ買い物をしに来る人間などいるのであろうか――いるかもしれない。もしも人の姿が見えたら、さっさと退散することにしよう。僕は彼女の隣に腰を下ろした。購入したのは、つめたいつぶつぶみかん。子供の頃は、これか、みすておだった。
「…私も、それが良かったな」
恨めし気に見つめる吉原さんは、大変かわいらしい顔をしていらっしゃる。
多分、喧嘩になったら二秒で俺がマウントを取られることになるだろうけれど、それは起こりえないことだろう――僕は素直に、手つかずのつぶつぶみかんを差し出した。彼女は、うむ、と大仰に頷くと、僕に自分の手にしていた微糖のコーヒーを差し出した。
完全に口をつけていると思われるのだけれども、構わないのでしょうか。
と、尋ねようと思ったのだけど、やめた。尋ねることで面倒なことになるのは嫌だし、彼女が気にしていないことを、いちいち突っ込むのも、面倒だ。
――とは言え、意識しないわけでは、ないのだが。
「子供の頃は、良くここで、飲んだよね」
そうだね。――コーヒーを啜る。微糖なのに、酷く甘く感じた。
「炭酸、好きだったね。君」
「今はもう駄目になっちゃったよ。炭酸飲むと、苦しくなるんだ」
「へぇ」
寂しそうな顔をして、彼女はみかんを啜る。
「寒いのに、冷たいもの飲んで、大丈夫?」
「大丈夫。…」
くすくす。
何かおかしいのか、彼女が笑みを零す。
「どうかした?」
「昔は、そんなに優しく無かったよね」
「そうかな」
そうだよ。
そうかな。
思い返してみる。
隣に座る彼女の頬は、真っ赤に染まっていて。
それをからかった記憶が蘇った。
からかうと、すぐに泣いた。
泣かれるのは、ちょっと困ってしまうのだけど。
それでも、からかうことを、止めることが出来なかった。
彼女とのコミュニケーションの取り方が解らなかったからなのか。
それとも、彼女のリアクションが面白かったからなのか。
解らないけれど、今の彼女をからかうことは出来そうにもない。
真っ白な肌が薄く赤くなっている。
「泣かれると、困るしな」
「嘘泣きだよ、あれ」
「嘘ばっか」
「ほんとだよ」
――何となく、あの頃の自分の気持ちが、解る気がする。
ずっと、この会話を続けていたいような、そんな気分がする。
「まぁ、いいさ。本当、本当」
「本当なのに。信じてないでしょ?」
「信じてますよ。信じました」
「…本当なのに」
軽く頬を膨らませて、はっとしたように、すぐさま、元に戻す。
そして、困ったような笑みを作って、抱え込んだジュースの缶に視線を落とした。
「子供みたい」
「だね」
頬を膨らませるのが、彼女の癖だった。
ずっと、好きだった。
そうか、それが、見たかったのか。僕は。
苦笑を浮かべる。もう一度見たかった。
「吉原さんは」
「…」
「どうして、僕を呼んだの?」
「…どうしてだと、思う?」
彼女の顔を見る。
柔らかな笑顔からは、内面を想像することは出来ない。
ただ、何となく。
僕の抱いている憧れ、その感情を受け止めてくれるような…。
そんな、甘い話ではないような気がした。
ゆらゆらと雪が降り始めた。
そっと手を伸ばす。肌の上に雪が触れた瞬間、すぐさま水滴に変わってしまった。
「積もってほしい」
「通勤に困るなぁ…」
「職場、遠いの?」
「車で30分。近道を使えばもっと早いけど、雪が降ると、逆に近道の方が遅いね」
「積もっちゃうと、駄目よね」
――でも、積もってほしい。
彼女もそれなりに困るに違いないのだけど。
空を仰いだ。視界の中で、夜闇よりも雪の白の方が余程多く見える。
「積もるかもね」
ぼんやりと呟く。
「積もっても、良いや」
きっと、道路が混むだろう。
けれど、早く家を出れば済む話だった。
それよりも、雪が積もったところが、見たい。
そして、彼女が喜ぶなら、それで、良い。
落ちていく雪を眺めていた。
降雪の勢いは良いのに、積もる気配は見えない。
気が付いた頃に積もっている、そういうものなのかもしれない。
と、彼女が僕のコートの肘の辺りを摘んで引いた。
彼女は泣き笑いの表情のまま、唇を引き結んでいる。
「どうしたの?」
彼女は、口を開こうとしたようだった。
けれども、出来ないようだった。
「…」
こんな時どうすればいいのか。
それなりに長いこと男として生きてきたというのに、まるで為す術もない。
いや、答えは、解っているのだ。
けれど、それは、正解じゃない。
彼女は押し黙ったまま、僕を見つめ続けた。
僕も同じだった。
雪が降る。
――降り続けろ。頼むから。
立ち上がる。
あったかいレモンティーを一本購入して。
彼女に差し出した。
彼女は、困ったような顔をして、それでも受け取って。
プルタブの開く軽い音が響いて、音が消えた。
「君と幼馴染で良かった」
彼女はぼそり、とただ、それだけ口にした。
「僕もだよ」
僕も、それだけ、応えた。
雪は、積もらなかった。
それからしばらくして、彼女が遠方の病院で亡くなったことを知らされた。
幼馴染と言っても、家の距離がそこまで近いわけじゃない。
普段から交流があったわけじゃない。
幼いころ、週末、同じスポーツクラブに入っていただけの縁だった。
年を経ていく毎に、距離は遠のいていくばかりだった。
憧れていた、と言う思いさえ、憧れになるほど、長い時間が経っていた。
彼女が求めた答えが、僕の導き出したそれと符合するとしても。
きっと、それは、正解じゃない。
「君と幼馴染で本当に良かった」
僕は何となく、そんな言葉を呟いていた。