3.トン、チン、カン。
それから何日か小雨が降り続いていた。その間、漁に出られないため、太郎はいつもよりも念入りに古くなった網を補修していた。そこへ、笠と蓑をつけたどっしりが声をかけた。「おーい、太郎!」
太郎は、声のした方を見上げると、ため息をつく。「なんだよ、トン」と、嫌そうに出入り口に立つどっしりに向かって不満を吐いた。「頼むから仕事をさせてくれ、近づかないでくれ、一人してくれ」
「待ってくれよ」と、トンと呼ばれたどっしりとした子供が、笠と蓑を順に取りながら太郎の横に座る。
「そんな冷えこと、言わねえでくれよ」
太郎は、その言葉を無視して黙々と作業をしていたが、トンが座ってすぐに、雨音に混ざって声が聞こえてきた。
「トン、兄貴の所に行ってるのかなー」
「……」
「うん、うん、そう、あれから毎日だもんなー」
「……」
太郎は、やれやれとため息をつき、手を止めると顔を上げた。
トンが来た、ということは、その後に、チン、カン、も来るということだ。
出入り口の向こう、雨に混じる話し声と足音がだんだんと大きくなった。
「兄貴ー!」と、太郎に向かって親しみを込めた挨拶をしたかのようにガリガリの子供が笑顔で出入り口から飛び込んできた。
「……」続いて、ぺこりとしながら無言でがっしりとした子供がガリガリに続く。
「チン、に、カン、お前らはよっぽど暇なんだな」と太郎はぼやいた。ガリガリを、チン。がっしりを、カン、と太郎は呼んでいた。
二人は、何か言うでもなく、トンの横の板の間に座る。太郎が頭を上げ横の三人を軽く見た。
「兄貴ー、この雨はいつまで続くんですかねー」とチンが脱いだ蓑を置く場所を探しながら太郎に言った。カンは、網の掛けてある壁へちゃっかり掛けて、すでにチンの横に座っていた。トンは何も気にさず板の間に蓑と笠を置き、豪快な水たまりを作っている。太郎は、水たまりに負けないくらい盛大なため息とともに、服かなにかのボロ切れを探そうと、重い腰を持ち上げた。
三人は、興味深そうに太郎を見上げる。太郎は、三人の顔を一瞥、頭を横に振りながら、作業場から部屋へと歩いた。
「トン、チン、カン」というのは、もちろん本当の名前ではない。太郎が適当に呼んで以来、通している。
あの石を投げてきた日以来、太郎に何かと近づいてくるこの三人。その子供が嫌がるように太郎がわざとあだ名を付けたのが、トンチンカンだった。それなのに、三人のうち二人はあだ名が気に入ったようで、唯一、チンと呼ばれたガリガリだけは、「俺は、やだよー! そんなはずかしい呼び名は!」とかなり嫌がっていたものの、それを聞いたトンがチンを家の裏に連れていき、静寂。少ししてから戻ってきたチンは、「俺、実は最初からチンっていう響き、かっこいいと思っていたんだよ」と、死んだ魚の目で笑顔をつくり、太郎に言ってきた。
そのときの太郎は、すまん、と心の中でチンに謝り、目をそらすことしかできなかった。これで、近づかなくなれば、そう思っていたのだ。
毎日のようにトン、チン、カンは、嫌がる太郎に付いて回った。
雨の日も風の日も、集まるのは太郎の家だった。そんなある日、いつもバラバラに集まる三人がめずらしく揃って太郎の家へ向かう道を歩いていた。
と言っても、とくにこれと言って話すことはなく、三人は各々空を見たり、道端に転がる石を見ていたりした。村から続く道の半分ほどに差し掛かったところで、チンが口を開く。
兄貴、俺たちのこと、あんまりよく思って無いみたいだなー。
空を見ていたカンは何も言わなかった。トンも、何も言って来ないだろうとチンが道端の石に目を戻した時、当たり前だろ。と、声がした。
俺たちが勝手に行って、散らかしたり、汚したりしてるだけなんだから、誰だって嫌がるだろ。
トンがまっすぐ前を見ながら歩いている。
じゃあ、と、チンはトンを見る。
片付けたり、綺麗にしたりすれば、仲良くなってくれるかな。
馬鹿野郎、俺たちの目的を忘れたのか! と、トンが怒鳴る。
あいつは人間なんだぞ、今は猫の皮を被っていい子のふりをしているけどな、こうやって毎日ついて回れば、いつか化けの皮が剥がれる。そしたら、その瞬間に、あいつを倒せば、俺たちは村の英雄だ!
トンがガハハハと笑った。
その横で、地面の方を見たままのチンが小さな声で言った。
俺さ、太郎が村の人たちのような目で俺たちを見ないところ、嬉しかったんだよなー。
トンの笑いが止まる。
3人とも、少しの間、無言で歩いた。
そして、太郎の家が遠くに見えそうなところで、カンが口を開く。
困らせたり、迷惑をかけなければ、いい。
それを聞いたチンが嬉しそうに、そうだな! と、石を蹴っ飛ばした。
トンはつまらなそうに、道端に唾を吐いた。
カンは、相変わらず、空を見上げていた。
太郎が手を止めた。仕事が終わったのか、広げていた網をまとめ、壁に掛ける。
外の太陽の位置を確認して、いつもより早く仕事が終わったと、つぶやいた太郎は、苦笑した。
毎日のようにくる3人で作業が遅れているだけで、それまではいつもこのくらいで仕事は終わっていたのだ。
あんなに嫌がっているのに、いつのまにか3人が来るのが当たり前になっている。
太郎は、家の外に目を移す。まだ、人が近づいてくる気配はない。
そっと、家の中の気配を探る。かあちゃんは、食事に支度をしていて、とうちゃんは、船に乗って沖にいったはずだ。
太郎は、考えるそぶりの後、静かに家から出ようと足音を殺しながら、出入り口をくぐる。
「太郎、どこ行くんだい。」
かあちゃんの声が背中に届く。
「ちょっと、あいつらと待ち合わせしていて、遊んでくるよ!」
太郎は逃げ出すように走った。
「ちゃんと夕ご飯には帰ってくるのよ」
「わかった」
飛び出る太郎を照らす日の光は強い。
どのくらい走ったのだろうか、太郎は息を切らし、立ち止まった。
肩で息をしながら、特に行く場所もない、と太郎は汗を拭う。松のところで昼寝をするのも考えた。でも、それだとあの3人がくるかもしれない。息が整うまで、どうするのか太郎は考えていた。いつもと、違う何かはできないのか、と。
ふと、太郎が顔を上げる。自然と、足が家の方に向かった。どうせ今日も3人は家にくるのだ。あの3人にばれないようについていこう。いつもいろんなことを聞かれ、仕事を邪魔したり、作業を遅らせたりしているんだ。
歩く太郎の足が速まる。太郎は、自然と声が出ていた。
「いつも迷惑ばかりかけられているのだから、今度は、こっちが何かを探って、迷惑の1つでもかけてやろうじゃあないか」
かあちゃんと何か話しているようだった3人は、家から遠のいて行く。松の方へ向かうと思っていた太郎は、いつもの図々しさが見えない行動に拍子抜けしながらも、3人を追って行いった。
村へと向かう道を歩く3人に近づき過ぎない距離を保って太郎は歩く。
いつもと違って、言葉数の少ないようにみえる3人は村へ近づき、ふと立ち止まる。物陰に隠れながら進んでいた太郎は様子を伺った。
3人にいつもの元気はない。太郎は、あいつら、なんなんだ、と思わず思ったことを小声でこぼしていた。ふと、カンが太郎の隠れた茂みの方を振り返る。太郎は、驚きながらも息を殺して、じっと隠れた。姿はみえるけれど、声は一切届かないだけの距離を保っている、これだけの距離があれば、まず見ただけならばれないはずだ。カンはしばらく太郎の方を見ていたがなにかの思いちがいかな、という顔をして村の方に体を向き直った。と、なにか言葉を交わして、3人は別々の方向へと分かれて歩き始めた。一瞬、ここまでか、と太郎は思い、諦めた。村の中に入られたら、追うことはできないどころか、村人たちから指をさされ、口々に叫ばれ、石を投げられるだろうから。トンとチンが村の中に入って行く中、カンが村の外縁を歩き始めたので、太郎は帰ろうとしていた足をとどめた。太郎は、じっとカンをみて、村の中に入らない様子のカンにそっとついて行った。
あんなに高かった陽は、だいぶ降りてきて、少しづつ空を赤みがけていく。
村の外を歩いていたカンは、しばらくすると村から外れていった。それでも歩き続けるカンを太郎は不審に思いながらも、ついて行った。
と、太郎は、カンの向かう先の森の中に隠れるようにひっそりと建てられた家々を見つけた。といっても、そっと近づくごとに、小屋や物置のような建物の外に洗濯物が干されているのや、畑を耕すクワ壁に立てかけてあったり、そこの抜けた桶が乱暴に投げ捨てられてあったりと、生活のにおいが見えてくる。
太郎は足を止めた。
「やっぱり、やめだ。こんなこと」と、太郎は言葉を吐き捨てる。
そっと立ち去ろう。こんな風に、こそこそついて来て、まるで俺がなにか悪いことをしているみたいじゃないか。
太郎はため息をつき、こんなの俺の柄じゃないな、と言うと、物陰から来た道を振り返る。また今度、カンに一言いってから堂々とついてくればいいのだ。来た道を戻ろう体を持ち上げた。草の茂みから体が出るかで無いかの瞬間、「お前、そこでなにをしている。」と誰かが叫んだ。
太郎は思わず振り返る。こんな茂みに向かって声を掛けるような人は、普通はいない。見つけられたのだ、声の主に。太郎の振り返った先、声の方向に確かに人が立っていた。背丈は俺と同じくらい。体格は太郎よりもがっしりとしていて、……。
顔を見て、太郎は、ハッとした。太郎の前には、カンが立っていたのだ。
思わず、立ちすくむ太郎。カンはじっと見た後に、ため息のような息を吐いた後、目を伏せた。
小鳥の声や木々のざわめきの中、小さく「ついて来い。」とだけ、カンが言ったのを太郎はしっかりと聞いていた。
カンの向かう先は、村でも森でもない小さな小川の流れる河原だった。ちょうどこの島の真ん中から流れている小さな川にそって歩いていく。太郎もカンも無言だった。開けていた河原は、島の中心に向けて歩いて行くごとに景色は変わって行った。木々が川を覆い、両脇を高くそびえる岩の壁が現れ、だんだんと歩ける場所が限られて行く。気がつくと、太郎と川を挟んだ向こう側をカンは歩いている。苔むし、いたるところにヒビがはいり、岩の壁から滴るしずくに太郎が上を見上げた時、カンが口を開いた。
「お前、あそこで何をしていた」
太郎がカンを見た。先を歩いていたカンは足を止め、川の真ん中に落ちている大きな石の上に立っていた。カンの言葉を待っていたようだ。二人の目が合う。太郎は、表情を変えず、何も言わなかった。沈黙の中を水が流れていた。
「俺の後を、ついて来たのか?」そう言って太郎の目を見ていたカンは、太郎が何も答える気配がないのを見届けたあとに、太郎から目を伏せ言葉を続けた。
「俺は、みんなとは違う。」
カンが歩き出す。太郎がそのあとに続く。カンが言葉を細々と綴っていく。太郎が先細りして行く川の石の上を、カンの背中を追っていった。
「みんなとは、違う。村に住んでるあの2人も、他の村の民、それにお前とも、俺は違う」
一段と高い石の段を、岩の間を、超えていくと、二人の視界は一気に開けた。辺りは木々の葉に覆われていながら、葉や、その隙間を通して陽の光に満ちていた。その開けた視界の真ん中からは、今まで登って来た川の水が小さな池の中で湧きでている。その景色に太郎が驚いている間に、カンは池の反対側まで歩いていた。
「俺のうちは、汚ないものや重いもの、誰も触りたがらないようなものを運んだりしてる。俺も毎日、それを手伝っている。ずっと、ずっと、小さな時からずっと。何も疑わずに、迷わずに手伝って来た。」
太郎とカンは、池を挟んで向き合うように立っていた。
「朝は誰も起きていない時間に村に行き水を届ける。厠に溜った物を海に流しに行く。真っ暗なうちから、明るくなる前に。」
目を伏せながらカンは続ける。
「ある日、俺は村に行った。明るい時間に、ダメだと言われていた掟を破って。」
太郎は、過去の自分を思い出した。無意識にこぶしを作っていたのに気がついたのは、手がしびれて来たからだった。カンは、目を伏せたまま、しばらく口を固く結んでいた。と思ったら、今まで伏せていた目を上げ、カンがキッと太郎を睨む。
「お前も、同じように、軽蔑するのか。卑しいとか、穢らわしいと言うのか。」カンは叫んでいた。握りこぶしを振り上げ、宙を叩くように感情をぶつける。
半分以上、太郎にはカンが何を叫んでいるのかはわからなかった。それでも、その言葉には、太郎と重なるところが多くあった。
一通り叫んだ後、息を上げるカンは、弱々しくつぶやいた。
「俺が何をしたと言うんだ」それは、カンが太郎に向けた言葉なのではなく、自身の思い出の何かへの問いかけのようだったと、太郎は受け取った。
カンは再び目を伏せ、足元の池の中を覗き込み、水に映る景色に目を落としながら、言葉をこぼした。
「言いたいことは言った。去るなら去れ。俺も、お前の前には二度と現れないから」
カンがしゃがみ、池の中に手を伸ばした。
太郎は自然と言い返していた。
「俺も同じだ。」
カンの手が止まる。池の中に手を入れたまま、カンはじっと太郎を見た。
「俺も同じ思いをしたことがある。」そう続ける太郎へのカン視線は、太郎の言葉の真偽を見極めているようだった。きっと結んだカンの口元は、何を言われても動じそうにはないな、と太郎は感じた。カンが口を開いた。
「何が同じなんだ」
「俺も、何回か村に行ったことがある。」
太郎は、カンが手を伸ばす先の池へと視線を落とした。
「遊び相手が欲しかった。ずっと遊ぶのは一人だったから、寂しかったんだ。」
「それで、どうだった」
「石を投げられた。」
「他には」
「鬼の子と言われた。」
カンが入れていた手を持ち上げた。水をすくい上げるような形でそっとあげた手のひらからは、少しづつ水がこぼれ落ちる。二人して、そのこぼれ落ちる水滴に目を移していた。
「鬼の子か」と、カンがつぶやく。それは、ひどいね、と。
「ああ、ひどいよ。その日は泣いていた。俺が何をしたんだって……」
太郎は、それ以上は言わなかった。両親の前はおろか誰かいる前では決して泣かなかったこと原因が両親にあると思っていることなど、その言葉は、心の中に押し込んだ。あの時の遣る瀬無さが太郎の胸をいっぱいにした。
ぐっとこみ上げてくる気持ちから耐えるように、太郎が奥歯を噛み締めた時、カンが立ち上がった。しゃがんだままの太郎は、カンを見上げた。
「穢れた子に、鬼の子か」そう言って、カンが鼻で笑った。ロクでもないな、おれたち、と。
太郎は、そこで初めてカンがぎこちなくも、笑ったのをみた。だけど太郎はすぐに目を伏せ、池の水に目を落とした。カンが笑った、そんなことなどどうでもいいことだった。おれたちという括りに入っていることに、嬉しさのあまり涙が出そうになり、それを必死に堪えていたのだから。
二人はしばらく無言でその場に居た。静かな水の流れに合わせるように、木々の葉を揺らしながら、そよ風が吹き抜けて行った。
二人の無言の時間を終わらせた、「帰るか」という言葉は、二人して顔を洗ったあとに、カンから太郎に向けられた言葉だった。太郎はこの時涙を隠すために顔を洗っていた。洗い終えた太郎がカンを見ると、先に洗い終えて、やけに顔をしつこく拭いていた。あまりにしつこく拭くものだから、服の汚れがまた顔について、洗う前よりも汚くなっていることに気がついた太郎は、久しぶりに心から笑っていた。