12.提案
その日も、太郎は朝起きてから飯を掻き込み、すぐに網の補修にかかった。
日が高く昇るにつれて、じりじりと家の屋根を焦がした。風通しのいいはずの家も、日中に近づくにつれて、暑く生ぬるい風がよどむ居心地の悪い場所にかわる。
仕事をてきぱきと片付けた太郎は、昼飯を掻き込むと、外へと飛び出す。
山と海に沿うように砂利を蹴り、草を倒しながら道をそれていき、森に入ると葉を弾きながら進んでいった。
視界が開けたかと思うと、目の前にはチンの畑が広がっている。
咲いたばかりの花のにおいはしないが、風に乗って草の青いにおいがした。
早速、仕事を始めようとチンを探すが見当たらない。太郎は、小便にでも行ったのかと、いつもカンのいる木陰を見るが、カンの姿も見えなかった。
激しく降り注ぐ日差しの下、蝉の鳴き声で空気は満ちていた。
「あ、兄貴」
まだ水がまかれていないのか、太郎が水を汲みにいこうとすると、チンが家の裏から出てきた。
「チン、カンを見なかったか?」と近づくと、チンの表情が硬いことに太郎は気がつく。太郎は聞いた。
「どうかしたのか」
「なんでもないっす」あからさまに元気のないチン。その様子を太郎は不審に思ったが、今はとりあえず後回しにすることにした。
「そうか、ならいいんだ」と、チンの来た家の裏へ向かうおうとすると、チンが慌てた。
「そうだ、兄貴。確か、向こうでとうちゃんが呼んでいたような気が……」
太郎は振り返り、畑を見る。誰もいない中、風が緑の波を立てていた。
太郎は、チンに向き直り、口を開いた。
「後で、いいだろ。今は水汲みが先だ」
チンは、だめです、何か急いでいたようだったので、と慌てている。
怪しく感じた太郎は、チンを振り切り、家の森の中へと入ろうとした。
「ダメっす」
帯を引っ張るチンを振り切ろうとしたところに、目の前の森の中から誰か現れた。
「うるさいぞ、チン。もっと静……」
そこまで言い、カンは太郎と目が合うと黙った。驚きの表情から、困ったような表情に変わり、悲しそうな表情に変わったかと思うと、うつむいた。
「カンまでどうしたんだよ」
太郎は、足を止め聞いていた。
「何かあったのか」
「何も、ない」とカンがつぶやく。
太郎は、やれやれとため息をつき、二人を見てから、じゃあ、水汲みに行くぞ、と歩き始めた。
今度は、チンは止めなかった。カンが、行かない方がいい、と、元気無く言った。
岩ばかりの森を歩く時間にとても違和感を感じる。無言でついてくる二人。岩場のところに来て、どうして太郎を止めようとしていたのか、分かった。
「なんだよ、これ」太郎は立ち尽くした。壊されていたのだ、みんなで作った水を溜めるためのものが。
固定するためのひもは切られ、外された竹は散らばり、中には折られているものもあった。
太郎は、なぜだ、どうして、と頭のなかでぐるぐると言葉が繰り返していた。二人は太郎の様子をうかがっていた。太郎が言葉をうしなっているのを確かめたカンが、口を開く。
「光があるとこ、闇があり。いい人がいれば、悪い人がいる。みんながみんな、いい人なわけではないんだ」
太郎がカンを見る。横に立っていたカンは、折れた竹をまっすぐに見ていた。風がカンの横髪を揺らしていた。
「よくあることだ」と家の中で座るみんなにチンのとうちゃんが言った。
「畑を荒らされているわけではないし、壊されたものも、今日中に直る。ただのいたずらのようなものだ、気にするようなことでもない」
太郎は、ふざけるなと、言いそうになって、すんでの所でこらえる。喉まででかかっていたその言葉をなんとか飲み込んだ。
太郎の変わりに、横にいたチンが、どういうこと? と聞く。
しかし、その質問には答えず、チンのとうちゃんは黙った後に、ぽつりと呟いた。
「時には、どうしようもないことっていうのがあるってことだ。」
納得いかない、と太郎が竹をしばりながら言っていた。
「なんなんだよ、チンもなんか思わないのか。」
チンは何も言わなかった。カンも黙っている。
太郎だけが、ちくしょう、と悔しそうにしていた。
「一体どこの誰が、こんなことを」
「あいつだ」と、カンが答えていた。太郎が振り向く。カンは言ってから、しまったという顔をして、「やっぱり、知らない」と、そっぽを向いた。
それからしばらく、カンの言葉に太郎がしつこく食いついてくるので、意地を張って知らないと通していたカンは、観念したのか、言葉をこぼした。
「島一番の畑を持ったやつ。最近、良く見に来ていた。」
「そんなやつ俺は見たことないぞ」と太郎が言うと、チンが答える。
「朝の話っす。兄貴は朝のことは知らないと思いますけど、よく、見に来ている人が数人いたっす。俺が水汲みに行ったときに木の影に隠れているのを偶然見つけて。とくに気にしては入んなかったっすけど、それからも気がつくと、こそこそとこちらの様子をうかがっているみたいだったっす」
「その中に、俺の嫌いな奴もいた。たぶん、そいつ」と、カンは木に背中を預け立っていた。
太郎は、今すぐにでも、仕返しをしたい気持ちに駆られながらも、その場で竹を固定していた。
チンはチンで、あいつだったのか、と悔しさで奥歯を噛み締めているようだった。
事実は分からないが、その見に来た奴の中の誰かか、または数人、もしくは全員だろう。
「なにか、仕返しをしよう」と、太郎が竹を固定し終え、二人に言った。
チンは、仕返し、仕返し、とつぶやいていたが何もそれ以外には言ってこない。
カンは少し考えた後、太郎をまっすぐに見た。
「何か思いついたのか」
「うん」とカンがうなずく。いつになく、まじめな顔だった。
「これをやったやつら全員の家に」
カンの声が真剣だ。太郎は、生つばを飲み込む。
「火をつけよう」
「それはダメだ」
「見せしめだ」
「だから、ダメだって」
カンは、むっとした。
「見せしめだから、ちゃんと人が居ないときに火をつける。これは真剣だ」
「なお悪い」
かたくなにカンの提案を却下した太郎は、不機嫌になるカンを見ながら、たまに分からないところがあるな、と思った。手早く次々に壊されたものを直していくうちに、風は通り過ぎ、木々の葉が揺れ、高く昇っていた日は徐々に沈んでいった。