10.小川
「暑い」太郎は汗を拭いながら、空を見上げる。空には雲は見えず、青一色の真ん中、日の光が白色に染まっていた。
「ちくしょう!」と、川から何度か往復したチンが空になった桶を地面に置き、地面に座って根を上げていた。
太郎は、木陰を見た。木陰の下、カンもぐったりとしている。尋常じゃない今日は暑さだ。
陽の昇り方を見ていると、もう休憩の時間だと分かった。
「休憩にするぞ!」太郎がチンとカンに向かって声をかける。今日は行く場所をもう決めていた。
「兄貴ー今日は、いつもの場所じゃないんですか」と、チンが前を歩く太郎の背中に声を掛けていた。
「今日は、長めに休もう」
「やったあ!」
畑からしばらく歩いてバテていたチンだったが、まだ元気そうな声に太郎は安心した。
相変わらず、カンは話さず、無言だったので、時々振り返っている自分に、太郎はカンを心配しているのだな、と気がついた。
カンは、黙々とついてきていた。あまりにも涼しそうな顔に、太郎はなんだと、心配して損したと振り返るたびに思いながら、むしろその隣をあるくチンがどんどん疲れてきている方が心配になって、歩く早さを緩めたりもしていた。
「兄貴!」川が遠いなら、と、上がる息の合間にチンが言った。
「竹を使って、水を引いたらどうですか」
太郎は振り返った。
「無理だ。川のあるところの方が畑よりも下にある。水は上ってこない。それに、山の上から引いてくるにしても、距離がありすぎる。」
チンの家の裏に広がる、岩だらけの森を歩いていくと、かなり急な岩肌に突き当たる。それさえ、越えられれば、と思うのだが、今は無理な話だった。
森の中を歩きつづけ、チンが黙り、太郎の息があがったとき、やっと3人は森を抜けた。
目の前に広がる小さな河原の中に、小川が流れていた。下にはかすかに畑が見える。上は森の木々でよく見えなかった。
「水だぁ」と、よろけながら、チンが走り出す。カンは相変わらず涼しげな顔でいた。太郎も、水を飲もうと、近づき、しゃがんで水をすくった。のどから体に染みた水は、暑さを忘れさせてくれた。
しばらくすると、のどが潤ったのか、チンがはしゃいで、上衣を脱いだ。
それをみた太郎も、同じく上衣を河原に放って、チンと一緒に小川に入った。
体の汗や泥が瞬く間に落ちていく。疲れすら流れていくような、水の冷たさだった。
ふと、太郎は違和感を覚え、浅い小川の水から顔を出す。カンがいつまでたっても入ってこないのだ。
カンは、水を呑み終えたのか、河原に転がる大きな石に座り、口元を拭っていた。
「おい、カンも水に入れよ。気持ちいいぞ」
太郎が、カンに声をかけるが、カンは、頭を横に振り、遠慮する、とだけ答えた。
水の中から頭を出す太郎とチンは、お互いに顔を見合わせ、ニヤッとした。
二人はすぐに水から上がり、カンに近づいた。
カンは、すっと、近くに転がる棒を手に取った。
「やめろ、俺にかまうな」
「まあまあ」と太郎はカンに言いながら近づき、太郎とチンはカンを挟むように距離を取った。
いつの間にか、蝉の声は聞こえなくなっていた。風が通る。
「誰にも、苦手なことはあるさ」と太郎は、手を広げカンに一歩近づく。カンはゆっくりと棒を太郎に向かって構えた。
「いつも顔が土で汚れているし、それを洗うくらい、いいだろ? それにこの際だから、苦手を克服して……」と言ったところで太郎は、カンの後ろにいたチンに目を移した。
チンはうなずく。待ってました、と言わんばかりに、カンに飛びかかった。
チンに両腕を捕まえられたカン。そこへ近づこうと思っていた太郎は、思わず立ち止まる。目の前の出来ごとは一瞬だった。
カンに近づこうと一歩踏み出す、チンのかすかな足音にカンは、一歩足を引き、くるりと一瞬で向きを変えた。チンの二歩目が踏み込まれる。残りは三歩か四歩の距離。棒の先が河原の地面に触れる。チンが一歩近づく。カンが一歩踏み出す。風を切る音と、棒が何かに触れたような音も混じっていた。あまりにも美しい身のこなしに、太郎は立ち尽くす。振り上げた棒を太郎に構え直すカン。足下でうずくまるチン。
太郎はカンの振り上げる棒の先が描いた弧を見ていた。チンの体すれすれで振り上げられた弧は見事にチンの体の中心を通っていた。
「俺にかまうなと言っただろ」
「分かった、悪かった」と太郎はため息をつく
チンは、もだき苦しみながら、河原の砂利の上をごろごろと転がっていた。
握った枝の先を下ろしながらカン。
「安心しろ、軽く当てただけだ」
体の中心を通る棒が、一番始めに触れる場所は、股間だ。
鬼だ、太郎は心の中で言葉を吐いた。無意識にふんどしを抑えているのに気がついた。それほど、痛そうな風切り音だったのだ。
カンは、ふと足下に転がるチンの顔を見る。無言で涙を流すチンに、焦ったような声を出した。
「おい、男が泣くんじゃない」
チンは、何も返事をしなかった。
河原を風がすぎた。
しばらく悶え苦しみ転がっていたチンが震えながら起き上がった。
「うぅ、なんで俺だけいつもこんな目に……」
チンは涙目でふんどしだけの股間を両手で抑え、太郎を恨めしそうに見てくる。
太郎は、その視線と気まずさにそそくさと脱ぎ捨てた上衣を着て、帯も締めていた。
いつの間にか戻っていた蝉時雨のした、さくさく歩く太郎と、よろよろ歩くチンにカンは謝った。
「ごめんな」
そして、ぽつりとつぶやいた。
「そんなに、痛かったのか?」
カンのつぶやきに、二人は答えなかった。