7.気まずさと嘘と秘密と
そのあと空になった桶の前で太郎とカンは喧嘩をした。お互いに罵り合い、珍しく殴り合いの取っ組み合いにはならず、お互いに納得できないまま、喧嘩別れとなって、今日を迎えたのだ。太郎は、ため息をついた。カンが罰当たりなことをしてくれたおかげで、今までの苦労が水の泡になったかもしれない。今出来ることは、新しい畑を作って、広げ、少しでも収穫量を減らさないようにするだけだ。
太郎は、来る日も来る日も黙々とクワを振り続けた。その度、畑から離れた木陰の下で拗ねるカンに、困った素振りをするチン。雨が降り、晴れ、曇り、時には嵐が、時には何日にも続いて晴れ続けたりした。
はじめ耕し始めていた頃、遠くはなれた他の家の畑から伸びる若緑のたより無さげだった葉は、いつのまにか深緑の立派な葉へと変わり、実をつけたかと思うと、いつの間にか黄金色の野原へと変わっていた。
季節は、まだ夏だ。今まで気にも止めていなかった景色に、太郎は声をこぼしていた。
「まるで、秋みたいだ」と。カンの座る木陰の後ろも、秋に染まっていた。
太郎は、そよ風に揺れる穂を眺めていた。
「麦の秋と、わしらは言ってる」
いつの間にか隣にチンのとうちゃんが立っていた。
「麦の秋か」と、太郎が呟く。
「あの麦が、家の収穫だ」
チンのとうちゃんは、カンの方を見て指を指した。風に揺れる穂の一帯は、遠くに見える他の畑に比べて全然小さく、頼りなく、儚げだった。
太郎は風に揺れる穂の手前、木陰に座るカンに視線が移る。カンは木に寄りかかり、眠りに誘われているのか、頭を揺らし、うとうとしていた。
「カンのやつ……」手伝いもしないで、と口に出さずにカンが思った。
それを見透かしたようにチンのとうちゃんが笑顔で言った。
「今日も日が昇ってから、ずっと手を貸してくれてたんだ」
そよ風に麦がなびく。
「カンが手を貸して?」
驚いた太郎が聞き返す。
木陰に座るカンを目をすぼめて見たチンのとうちゃんは太郎に返した。
「ああ、ここ最近ずっとだ」
太郎はカンに視線を戻し、眉を寄せた。なにを企んでいるんだ、と。
チンのとうちゃんは、「あ、これは言わない約束だったな」と笑っていた。黙る太郎に、言葉を続けた。
「もう一つ、これも言わない約束だが」
太郎が振り向く。
「太郎が家の畑にくるようになって少ししてから、息子が初めて頭を下げて頼みをしてきた。仲間の太郎を、手伝わせてくれ、とな。詳しい話を教えてはくれなかったが、少しでも収穫を増やしたいのだろう。だからお前さんも毎日来るし、木の下で眠っている子も毎日のように、日が昇ってから手伝いにくる。」
チンのとうちゃんは鼻の頭を掻き、照れたように顔をうつむき隠してから、息子は良い友をもったな、とつぶやいた。
「息子と同じように、太郎、お前さんも良い友を持っている大切にしなさい」
そう言って、チンのとうちゃんは、太郎の背中を軽く一押しした。
太郎は横目でチンのとうちゃんを見た後、背中を向ける。
「どうせ、この話をしたことも誰かに話すのだろ」
「さあ、それは分からん」と、おどけた声が返ってきた。
「ただ分かることがあるなら、命は短い。わしらは、わしらが食べる木草や生き物となんら変わりない。いずれは病や時が満ちて、地面に埋められる。その土の中には、草木や動物の糞や死骸もある。死んだ後、どこかに行けるかもしれないし、行けないかもしれない。なら、思い残しはしたくないからな」
太郎の背中にチンのとうちゃんが言葉を投げた。
「後悔しないためなら、秘密の一つや二つ平気でばらすさ。嘘だってつく、それで後悔しないならな」
太郎が何か言おうとしたとき、チンが太郎を呼ぶ声に遮られた。適当に返事をしてチンの父親を捜したときには、チンのかあちゃんと一緒に、麦の収穫の準備かなにかをしているところだった。