信じる者は、救われる
誰もが祈るだろう、目に見えない神に。
誰もが救いを求め、存在を確かなものにしようとする。
誰かが言った。信じる者は救われる
ここはどこかわからない。特徴的な建物もなければ、地名を指す物もない。人は? 人はいないのだろうか。いない。いるはずもない。…………ここは地獄だ。
火薬の臭いと血の臭いがこの町を覆う。そこにはコンクリートの山がたくさんある。家だった建物は、上半分を巨大な怪物に喰われてしまったように、削げている。町の運営をしていた建物は、爆発で支柱を失い、隣の建物を巻き込みながら、倒れている。さらに建物の中には、人と言われなければわからないような死体が、死んだ理由もわからずに眠っている。
また、夜になるとどこから来たのか、狼や野犬が町を訪れる。それらは死んだ人間の肉を食い、己の腹を満たしていた。そして朝日が昇ると共にこの町を去っていく。
道なんてものはない。人が歩く場所がないのだ。爆発の影響で四散したコンクリート、男か女かもわからないような死体がこの町を埋め尽くしている。
少し、町から外れたところに教会がある。その教会も爆弾によって破壊されていた。中にいた多くの人が爆弾の餌食となり、命を失った。しかし、祭壇にいる少年と少女はまだ命を失ってはいなかった。
少年は唐突に目が覚めた。何かに覆いかぶさられ、周りは見えず息苦しい。何かないだろうかと、手で回りを探ると温かいものが当たった。
なんだろう。
見ると少年の背丈より少し小さい赤毛の少女だった。
とりあえず、目の前にあるものを退かそうと手に力を込めた。覆いかぶさっていたものはなんの抵抗もなく少年の体から外れ横に重たい音を立てながら転がった。
体を起こした時、祭壇から見える光景は少年が見たこともない世界だった。爆弾で手足が飛んだ人、爆風で飛ばされ壁に顔を潰されている人、ハリネズミのように体中からガラスやコンクリートの刺が生えている人。
叫び声さえ上がらないほどの衝撃を少年は受けていた。
少年は母から自分たちの国は戦争をしていると聞かされていた。父は少年が生まれてすぐに戦地へ赴いた。
しかし実感がなかった。戦争をしているというのに町の人はいつも笑顔で活気づいていたからだ。
そして祭壇手前から見えるものに目を止めた。少年は這い蹲るようにしてそれに近づき血の叫びを上げた。
「神様! もし僕の声が聴こえるのなら聞いて下さい。どうして僕のママはこのような無残な死に方をしたのですか。目を瞑る事を許されず、下半身を失い、残った体を焦がしながら僕のいる祭壇へ手を伸ばしているママになんの罪があったのでしょうか。神様、神様!! ママを返して下さい。僕からパパを奪い、最後の家族であるママまで奪わないで下さい!」
少年の叫びは半壊した教会に響き渡った。その声に答える者はない。しかし反応する者がいた。
*
赤毛の少女は少年の声で目を覚ました。
誰かが泣いている。それに……なにか…!!
思考はその場を占める死の臭いで止められ少女は急いで体を起こした。
血が自分の周りに流れていることに気づき急いで体を確認する。
傷は無い。じゃあ誰が!?
血の海の先に一人の人間が倒れていた。その人はガラスの破片、コンクリートの棘が無数に刺さっており皮膚は黒く焦げている。
少女は服を見てそれが誰であるか理解した。
「神父……様」
優しく接してくれた神父様、親のように愛情を注いでくれた神父様が死んでしまった。また、まただ……
少女は目に涙を浮かべるもそれを流すことなく、首に下げられているロザリオを手に祈りを捧げた。
神父様が神の下へ行ける様に、この苦しみから解放されるように……
*
少女の動く音に少年は反応した。目から流れる涙を服で拭い少女の身を案じた。
「目が覚めたんだね。…体は大丈夫?」
「ええ。あなたは……大丈夫じゃないわよね?」
「君はどうして冷静なの? この光景を見て何も思わない?」
「思うわ。だけど慣れてしまったの」
少女の瞳は哀しみを帯びていた。
しかし少女は少年のように絶望していなかった。いや、既に絶望していた。少女には父と母、それに慕っていた兄がいた。国境近くに住んでいたため攻め込んだ軍に父と兄を殺された。それが原因で生き残った母は精神が崩壊し少女が看病をするも最期は自分で命を絶った。
そして家族を失った少女は教会に保護され、町が焼かれるごとに各町の教会を転々としていた。
「その人は?」
「神父様よ。教会に来ているのだから顔は見ている筈でしょ?」
「え……」
その言葉に少年は驚きの声を上げた。
これは正常な反応なのかもしれない。少女も最初は神父だとわからなかった。神父の服を見て判断したのだ。戦争によって被害を被った人の顔や姿を見ても判断できない。
銃弾で顔がなくなっているもの、爆弾で体が四散しただの肉塊となったもの。それを見て個人を特定するなど無理な話だ。
爆撃された今日、教会には少年の知り合いも来ていた。しかし少年が祭壇からみんなが座っていた方向を見た時誰一人としてわからなかった。奇跡的に母親の顔が何の損傷も負わなかっただけだ。
少年は神父の死体を見て思う。幼い時から神父様とは、よく顔を合わせていた。ママと教会に行き祈りをしていると、微笑みながら「僕は偉いね」と褒めてくれていた。学校が休みの日は教会に行って神父様と遊んでいた。
神父との思い出が少年に、哀しみという形で襲ってくる。涙が自然と流れ出る。
「あなたも神父様にお世話になったのね」
「うん。とてもやさしい人だった。僕にとっておじいちゃんみたいな存在だった」
「ええ。とても良い人だった……」
会話が途切れ二人は気持ちの整理をした。少女は一人の戦争被害者として、少年は一人のやさしいおじいさんとして。その違いは二人の過去が影響していた。
話は現実問題へと移った。それを口にしたのは少女だった。
「どうするの?」
「どうするって?」
「……この町は爆撃されたのよ。大人のいない町でどうやって生きるの?」
少女の言葉で少年はようやく自分の置かれている立場に気づいた。
少年は少女のような体験はない。父を失うも母や周りの人に育てられ、不自由というものを知らない生活を送ってきた。
「何も考えてないのね」
少女は祭壇の後ろにある扉へ歩いて行く。
「どこに行くの?」
少女は反応しなかった。生き残った者が近しい人の死体を見た時、その人はそこから動こうとしない。それを少女は様々な町で学んできた。
「ま、待ってよ!」
少年は少女に追いつこうと体を向けた。でも、それ以上動けなかった。自分のすぐ後ろには自分の母がいる。死んでいても母であることには変わりない。
愛する母を残して行っていいのだろうか。もし、あの少女を見失えば自分は一人になる。少女が言ったように、自分一人で生きられるはずがない。少女の背中と母の顔を何度も見る。
そして何度か母親の顔を見た時、少年は思い出した。母は言っていた。
もしママが怪我をして動けなかった時や死んだ時は、ママを置いていきなさい。あなたには生きてほしいの。だから、もしこういう事が起きたらママの言葉を思い出して。
言われた当時は意味がわからなかった。戦争は遠くのことで自分たちは平和に暮らせる。少年はそう思っていた。そしてそれが現実となり、母の言葉の意味を少年は理解した。
母は自分が生きることを望んでいた。最後まで自分を心配してくれた母。
少年は首から下げているロザリオを取り母の首にかけた。
「ママ、ありがとう。僕は生きるよ。……さようなら」
少年はそう言って少女の元へ向かった。母にかけられたロザリオは数滴の雫によって濡れていた。その雫に映る母の顔は目を瞑って安心した表情で眠っていた。
少女と少年は教会の奥部屋にいた。窓がなく真っ暗な部屋。ドアを開け明かりを入れる。奥部屋には簡易なベッドと少量のパン、水。他には一人用の机があった。 パンは一つ一つ紙に包まれており、水は片手で持てるくらいの瓶が数本だけあった。
「あなた、お母さんはいいの?」
少女が少年に問う。少年は少女を見ることなく、
「思い出したんだ。ママが僕に生きて欲しいって言ったことを」
「そう。……なら生きなきゃね」
そう言って少女は二人分のパンと水を取り出しロザリオを手で包みながら食事前の祈りをする。
主よ、私たちに食事を与えてくださってありがとうございます。主の導きが私たちの糧であり幸せです。
少年も同様に祈った。
小麦粉を捏ねただけのパンに味はなく、二人は水をちょっとずつ口に含みながら黙々と食べた。
食べ終わると、少女の提案で夜の準備に取り掛かった。爆弾で死んだ人が座っていた木製の椅子やまだ燃えていない布を集め終わったころ、陽は沈みかけていた。
「火はどうするの?」
少年は自分の腕くらいの長さの木を縦に二本、横に二本重ねその上に布を数枚重ねながら少女に聞く。
「あるわ」
少女は服のポケットからマッチ箱を取り出した。
「どこにあったの?」
少年の問いに少女は当たり前のように答えた。
「死んだ人の服のポケットにあったわ。ちょっと血で汚れているけど、使える」
少年は信じられないと思った。自分は死んだ人間を見るだけで、気持ち悪くなり吐きそうになる。だが、この少女は触ることもできる……
「どうして平気なの?」
少年は恐る恐る聞いた。
「私ね……」
*
火をつけ終わった後、少女は自分の十二年間の人生を語った。町が爆撃された時、少女はいつも誰かに守られて一人で生き残った。知り合いは炭となり住んでいた教会は炎に包まれ、どこにも行く宛はなくまだ崩壊していない家にある食料を盗み、死体からも食料を見つけてはそれを食べていた。
その話を少年は黙って聞いていた。何も言えなかった。ただ、火に照らされる少女の顔は祭壇で見た時の瞳と同じで哀しみを帯びていた。
「でも、盗むだけじゃなかった。最初の頃の町にいた時。神父様が私に言ったの。死んだ人に対して祈りなさい。彼らが神の下へ行けるように……。それから祈るようになった。あなたが死んだ人を見ないように燃えるものを探している中、私は死んだ人に祈りを捧げた」
少年は思った。幼い時から教会で育てられた少女は本気で神を信じ、祈りを捧げている。親の真似事をしている自分とは違う。もしかしたら、神という存在が彼女を支えているのだろうか。
「あなたはどうしてしないの?」
「僕は……」
答えられない少年に少女は言った。
「神様を信じていないのね。ママが寝る前によく話してくれたわ。私たちのずっとずっと前の先祖は、神様に嘘をついて罰を受けたの。それから人間は神様の導きを得られないまま、罪人として生きてきた。そこにある時、一人の救世主が現れたの。彼は悪魔に取り付かれた人を次々と救っていった。また、食べ物に困っている人に自分の食べ物であるにもかかわらず彼は笑って差し出した。
人々は彼を支持したわ。彼が何かをする時、それは正しいものとして民衆に認められていた。でも、悪い役人が彼を嫌って捕まえてしまった。民衆は何度も解放してほしいと役人に頼んだ。けれど、相手にしてくれなかった。そして救世主は、民衆を惑わす罪人として処刑された」
「救世主は報われないね」
「いいえ、この話には続きがあるの。救世主は処刑される前に民衆に言ったの。『皆さん、神は見ています。私たち罪人は神と向き合い、信仰しなければならない。私を信じなさい。されば救われる。私を、神を…信じるのです』
民衆は彼の言葉を信じ、実行した。すると悪魔に取り付かれるものはいなくなって神様の導きを得られるようになったの」
「だから祈っているの?」
「そう。……たぶん私はまだ罪人なのだわ。だって、神様は私に一度も微笑んではくれないもの。だから神様に導いてもらえるように毎日祈りを捧げ、日々神様に感謝をしている」
「じゃあ、僕も祈るよ」
「誰のために?」
「神様に導いてほしい人のために」
少女はクスッと笑い、
「ありがとう」
*
この町の夜は冷える。太陽の余熱は北から来る風が奪い去り代わりに冷気を置いていく。
奥部屋にもその冷気は襲い掛かってくる。扉の隙間から冷気を含んだ風が少年と少女の体温を、火を奪おうとする。風から火を守ろうと、机を縦にして扉と火の間に置く。
時折火が風に煽られるが消えないことを確認すると、
「君はベッドで休んでいいよ。火は僕が見てるから」
少年が少女に言う。少女は少し戸惑い、
「そう、ありがとう」
そう言って一人ベッドに入った。
少年は火で体を暖める。しかし風がそれを許さない。机越しから来る風は少年の体温を奪っていく。
少年は燃え移りそうなほど火に近づき暖を取ろうとするが、風は少年を嫌っているのか強さを増し、火を揺らす。
ああ、寒い。手の先から感覚が無くなっていく。少女は大丈夫なのだろうか。きっと彼女も寒い思いをしているに違いない。我慢しよう。
少年は自分のことを省みず、少女の心配をしていた。恋愛感情ではない。少女の過去を知り少年は思ったのだ。自分が彼女を守ろう。今まで過酷な体験をしているのだ。自分が少しでも支えてあげなければ。
*
風が死んだ人の叫び声を再現しているかのように、音を鳴らしながら少年を襲う。
それをベッドの上から少女は見ていた。毛布があるとはいえ、寒さを感じていた。それでも少年のように体を震えさせるほどではなかった。少女は少年がいつ音を上げるか待っていた。そうしたらベッドに入れるつもりでいた。
しかし少年は火元から離れようとしない。ずっと様子を見ていると、疲れで眠いのだろうか、さっきから頭が下がっては上がり下がっては上がりと船をこいでいる。
彼は無理をしている。このままではいずれ倒れてしまう。だから、
「ねえ」
少年に声をかける。少年はこちらに振り向き、
「どうしたの?」
「寒くない?」
「ちょっとね……僕のことは気にしないでよ。疲れてるだろうから、寝たほうがいいよ」
「無理しないでよ。まだ余裕があるから、ベッドに入ったら?」
少女の提案に少年は首を横に振り、
「悪いよ。二人じゃ狭いだろうし僕は男だから……それに君も嫌だろう」
少女は思った。彼は自分の事を考えず、私の事を第一に考えている。それは男の子だからだろうか? 男は女を守るものと教わっているのだろうか? だとしても見捨てるわけにはいかない。
「私寒いんだけどベッドに入ってくれない?」
「でも」
少年はこちらを見ようとしない。それでも少女は、
「あなた私に気を遣ってくれてるんでしょ? だったらベッドに入ってよ。二人だったら暖かくなるから」
「……わかったよ」
少年は恥ずかしそうにベッドに入る。お互いの背中を合わせて温もりを確かめ合う。
「ありがとう」
少年は小さくつぶやいた。それに対し少女は、
「お互い様」
それ以降会話はなかった。一定の暖かさを得た二人は、精神的疲労と肉体的疲労ですぐに寝てしまった。その二人を火は、風に揺られながら見守っていた。
朝。先に目を覚ましたのは少女だった。奥部屋に電気はなく、太陽の光も入ってこない。揺れる火だけが、この部屋に明かりを灯していた。
少女は祈る。
主よ、今ある生に感謝します。主の導きで今日の糧、今日の安息が得られますように。
祈りを終え、少女は少年が起きるのを待っていた。少年の寝息が規則的に聞こえる。当分起きないだろう。
火を見つめながら少女は思い返していた。自分の過去を。
この町に来る前の神父は死ぬ前に私に言った。
この世界は罪人で溢れている。神を忘れ自分の欲のために他人の血を啜っている。今も誰かが死んでいる。
わかるかい? これは神が私たちに与えた罰なのだよ。神を忘れた私たちの……罰だ。いいかい。神を信じなさい。そして祈り、感謝しなさい。そうすれば、神はあなたを導いてくれます。あなたは今まで、悲惨な人生を歩んできました。きっと神は許してくれるはずです。
そう言って神父は死んでしまった。それからずっと祈りを捧げている。感謝もしている。神様を…信仰している。きっと導いていてくれる。
少女はロザリオを手にして祈る。
主よ、私を見てください。私をお救いください。
「……ママ」
少年が寝言を言った。それに対して少女は、
この人も家族を失った罪人。神様を信じないから今こうしているのだろう。だったら私が彼を神の下に導こう。
少女は少年の顔を見ながら祈る。
主よ、この罪人をお許しください。このものに神の慈悲を、神のお導きを。
*
少年は目を覚ましたのは少女が祈りを終えて直ぐのことだった。
「おはよう」
「おはよう」
お互い朝の挨拶をする。
「いつ起きたの?」
少年の質問に少女は、
「わからない。時計がないもの。でも、お腹が減る時間だってことはわかる」
少年は顔に笑顔を作り、
「じゃあ、食べようか」
食事前の祈りを終えパンを食べる。少年は黙々と食べる少女を見た。
肩まである特徴的な赤毛は、血の様に赤く怖くもあり美しいと惹かれるものでもあった。自分と同じように服には汚れが付いている。それは血だったり、焦げた跡だったり、と生々しいものだった。
「どうかした?」
少女は少年の視線に気づいた。
「綺麗な赤毛だね」
少年の言った言葉に少女は苦笑し、
「この髪ね、血でできてるの」
少年は理解できなかった。だから何も答えることができなかった。そして少女は、
「元は黒だったの。…爆撃された町にいた時上から大量の血が落ちて来たわ。それこそ滝のように。わたしはそれを頭から浴びた。髪を洗う手段なんてなかったから仕方なくそのままにしていたらこうなったの」
「でも、どうして上から血が……?」
「たぶんだけど、その時大きな建物の中にいたの。だからその建物の中にいた人たちの血が落ちてきたんだと思う」
怖くて、でも綺麗な赤毛。少女は罪人の血を浴びたと思っている。だから少女を保護する教会やその町は爆撃された。そう思わなければ納得できないでいた。
「僕たち……これからどうなるのかな?」
「わからない。ただ神様に祈るしかない。真面目に祈れば神様が救ってくださるわ」
冗談や冷やかしのない言葉。神様を心から信じている言葉。それを少年は理解できなかった。
奥部屋の生活は退屈だった。食べる事と寝る事以外やることがない。少女と少年は時間を持て余し、一日中寝ている日もあれば、じっと火を見つめ続けるだけの日もある。
互いのことはあまり聞けなかった。聞けばその時のことを思い出さなければならない。人が死ぬ瞬間、幸せだった時、飢えていた時、初めての町に来た時。それらは今、苦痛でしかなかった。
それでも、自発的にしゃべることはあった。退屈が苦痛となりしゃべらずにはいられなくなる。そのような時間が二、三日経った時パンと水が 底を尽きかけていた。
「どうしよう?」
少年の嘆きに少女は答える。
「町に行きましょう」
「でも町は」
「諦めちゃダメよ。神様が見守ってくださるわ。私たちは信じることで救われるのだから」
そう言って少女は祈る。
主よ、私たちを悪魔からお守りください。導きを、救いを…慈悲を私たちにお与えください。
少年も祈った。
この少女が救われるように。
*
教会から町までは近く、子供の足でも十分あれば着く距離だ。
少年と少女は残りのパンと水を持って町に入った。
教会より強い臭い。血の臭い、死体が腐った臭い、火薬の臭いなど全てが、鼻腔から脳を刺激する。
当然耐えられるものではない。二人は自分の口と鼻に服をあて、少しでも臭いを防ごうと試みる。
臭いだけではない。そこら中に生々しい光景が広がっていた。
木端微塵となった死体、血や人のからだの一部が張り付いている壁、コンクリートの下から手だけを出して死んでいる人。語り尽くせないほど残酷であった。
ほぼ初めて見る少年は言うまでもなく、このような光景を何度も見てきた少女までも、吐き気に襲われていた。
二人はいったん町の外に出て呼吸を整える。
少年は荷物を置き地面に倒れるように座る。少女も少年ほどではないが、同じ様に座る。
「大丈夫?」
先に落ち着きを取り戻した少女が少年を心配する。
「はぁ……はぁ…」
「水でも飲む?」
「……ありがとう」
差し出された水を少年は、半分も飲んでしまった。残り少ない水。助けが来るかもわからない中でこれは致命的だった。
「ごめん。つい……」
少年は申し訳なさそうに言う。
「仕方がないわ。あんなものを見て冷静さを保てるわけないもの。…私も初めて見た時あなたと同じくらい動揺したわ」
「ありがとう…」
「少し休んでて」
そう言って少女は町の方へ体を向ける。
「また祈りに?」
「ええ」
少女は町に入った。先ほどのような吐き気はない。
少女はロザリオを手に祈る。
主よ、彼らをお救いください。彼らの罪を主の寛大な御心でお許しください。彼らを神の下へお導きください。
その祈りに答えるものも、反応するものもなく、灰色の町は死者その者のようであった。祈りを捧げた後、少女は町の外に残した少年の下へ向かった。
*
少女が戻った時、少年は落ち着きを取り戻していた。
「落ち着いた?」
「うん」
「祈りのほうは?」
「特に、何の問題もなく」
「なら良かった」
「そろそろ行く?」
少女の提案に少年は、
「その前にご飯にしよう」
少年はお腹を擦りながらそう言った。少年はまだ実感できてないのかもしれない。この町で食べ物と水が底を尽きる意味を。
*
パン一つを二人で食べた後町に入った。
食べ物と水がありそうな場所を探す。
現実は甘くなく、目的の物はすぐに見つからず二人は町の中を考えなしに進んでいた。
「ねえ、どこだかわかる?」
「わからないよ。目印になるようなものさえないんだから」
「しっかりしてよ。あなたここで育ったんでしょ?」
「わからないものはわからないよ! ここはもう、僕の知ってる町じゃないんだから……」
灰色の町は同じような光景で方向感覚を鈍らす。同じところをぐるぐると回っている感覚に、二人は平常心を奪われていた。
また二人は足場のない道を歩いていた。死体の上を歩いたり、デコボコのコンクリートの上を歩いたり、と疲労は蓄積していた。
「はあ、じゃあせめて最初の場所に戻りましょうよ」
「最初……? 戻れないよ」
「どうして?」
「だってここがどこかもわからないんだよ。 それなのにどうやって最初の場所に戻るの?」
「はあ……」
少女は二度目のため息をつく。二人とも事態が進行しないことに、苛立ちを覚えていた。
子供ゆえに体力もなく、休みながら食べ物と水を探す。しかしそれらしき建物はなく、死んだ人が何か持ってはいないかと探すも血がついていたり、真っ黒に焦げていたりと口に入れることができないものばかりだった。
そして時間は残酷にも過ぎていく。灰色の町は朱色に染められていた。
「暗くなってきたね」
「とにかく、休めそうな場所を探しましょう」
明かりがないこの町で夜になることに二人は怯えていた。それでも、弱音を吐くことはなかった。少年は少女を守るために、少女は神を信じるがゆえに。
一日中歩き回り疲労している二人は体に鞭を入れて必死に建物を探す。
「見つかった?」
「いや、もうちょっと奥の方行ってみるよ」
「私はもう少しこの辺を探してみるわ」
少女は焦っていた。太陽はほとんど見えない。もうすぐ夜がやってくる。そうなれば、寒さの中動くこともできない。
「ここも……だめ」
もう駄目なのではないか。そう諦めかけていた時、
「見つかったよ!」
少年の声が遠くから聞こえた。
「早くこっちだよ」
少年の声は、自分がいる位置から真っ直ぐ行った所から聞こえた。少女は急ぎ足でその方向に向かう。
「はあ……はあ」
疲れて息も上がっている。足は鉄でも張り付いているかのように重く、体は何かが圧し掛かっているかのようにだるい。
それでも少女は歩く。生きるために、神様に導いてもらうために。
「あ……」
少年の姿見えた。もう少し、もう少し。と自分に勇気を与える。
ゴロっと、何かが転がる音が、後ろから聞こえた。もしかしたら生き残っている人がいるのでは、と少女は足を止め振り返る。
人であればよかった。なぜ神様は私にこのような試練を与えるのだろう。私は…全てを失った。何もない。私を知る人間は誰もいない。どうしてなの……神様。
少女が見たのは狼だった。貪欲に肉を求め、獲物を見つけた瞬間襲い掛かるぞ、といった顔をしている。
だがまだこちらに気づいていない。狼は崩れかけている建物の中にいる。
狼から目を離さず、少女は音を立てないように、ゆっくりと少年の方へ歩を進める。
一歩、また一歩と徐々に進んでいく。狼との距離もそこそこ取れた。これなら気づかれないだろうと安心した時、
ガタっと小さいコンクリートの破片を蹴ってしまった。その音に狼が反応し目が合う。
獲物を見つけたその目は、ハンターそのものであった。
狼は少女に向かって駆け出した。建物の中から外へジャンプし、着地と同時にまた駆け出す。
少女も走る。だが、足場が悪く何度も転びそうになる。
後ろを見た時、狼との差はあまりなかった。もう一度振り向いた時、きっと真後ろにいるだろう。
神様! 神様、助けてください!!
少女は走りながら祈る。狼の息遣いが聞こえる。足音はどんどん近づいてくる。狼の足音が聞こえるたびに恐怖が体に絡みつく。
もう、駄目かもしれない。そう思った時、狼の足音が鳴り止んだ。
*
少年は残り少ないパンを、狼に向かって投げた。そうしないと少女が危なかったからだ。狼はパンに興味を示している。
少女も事態を把握し、急いで少年の方へ走る。だが、危機は去らなかった。パンを食べた狼はまた少女に狙いを定めた。
それを察知してまた少年がパンを投げる。
「早く!」
少年の叫びで足の回転を上げる。後もうちょっとで、少年のいる位置に着く。そう思った時、狼はパンを食べ終わっていた。
そして少年は最後のパンを遠くに投げた。狼はパンを追って少女と逆方向に走る。
「さあ早く!」
少年に手を取られ、建物の中に入る。当然だが明かりはなく、真っ暗で何も見えない。だが、少年は見えているかのようにどんどん進んでいく。
後ろからは狼の足音が聞こえる。狼まだ少女を諦めてはいなかった。
少年の走る速度が段々と落ちる。少女は心配になり、
「大丈夫?」
そう聞いた時、二人は完全に止まっていた。
「どうしたの?」
少女は再度尋ねると同時に、目の前にドアがあった。鉄製の扉はまるで二人の進行を妨げるようにそこにあった。
少年は何も言わずその扉を開ける。その間も狼の足音は、どんどん大きくなっている。
「入って」
少年の言葉に従って急いで入る。少年も入り急いでドアを閉める。
「やっと……逃げられた」
緊張が切れたのだろう。少女は膝から崩れ落ちる。
「あれ…? 力が入らない」
「疲れてるんだよ。ここは安全だから休むといいよ」
「ここは?」
「隠れ家だよ。友達と遊んでたんだ」
少年はそう言って汚れたクッションを二枚持って来た。真っ暗な状況で少年は全て見えているように動いていた。
「これに座って」
「ありがとう」
「まだクッションがあるから横になりたくなったら言ってよ」
それ以降、会話はなくなった。二人とも疲れ、しゃべることすらもできなかった。
安心し目蓋が重くなってきたと少女は感じていた。それは少年も同じで頭は舟を漕いでいる。
「寒い……」
風はないが寒さを感じる。教会でもそうだったがこの町の夜は寒い。
少年が気を利かせて、毛布と追加のクッションを持ってきてくれた。言葉でのやり取りはない。お互い疲れていることを知っているからだ。沈黙の中二人は眠りに着いた。空腹に耐えながら……。
*
朝。少年はひどい空腹感で目が覚めた。今すぐ何かを口に入れたかった。
だが、ここには食べ物はない。辛うじて水だけがある。このままでは餓死してしまう。
まだ寝ている少女を起こさないように少年は静かに隠れ家を出た。
隠れ家のある建物の外に狼はいなかった。諦めて他の獲物を探しているのだろうと少年は思う。
少年は迷わないように探索場所を隠れ家に近い場所に限定した。
昨日同様食べ物や水がありそうな建物はなかった。半壊した建物の中に入って調べても見つかるのは灰と血だけだった。
もうこの町には人が絶対的に必要とするものさえなかった。
だが少年は諦めずに探し続けた。空腹と疲労で体は限界だった。それでも少年は動く。それは自分のためではなく、神を盲信している哀しい少女のためであった。
*
少年が探索を始めたころ、少女は目を覚ました。
周りを見ても少年はいない。外に出ているのだろうと思い手で探りながら建物の外に出る。見渡しても少年の姿は見えない。
もしかして、どこかへ行ってしまったのだろうか。根拠のない想像が頭をよぎる。
また、独りになるのかな……。
自然と涙が瞳から零れる。
町が爆撃されるたびに知り合いを全て殺された。もうこの世の中で私という存在を知る人間はいない。いつ死のうが、誰も私のために涙を流してくれない。
そのような思考が頭を支配する。動く気になれない。そもそも動けるほど体力が残っていない。少女はまた、手で探りながら隠れ家の中に戻った。
少女はロザリオを手で強く握り締め、祈った。
主よ、今日生きていることに感謝します。主よ、私の罪はどれほどのものなのでしょうか。私は家族を失い、住む町を次々と奪われました。その度に主に祈りを捧げています。主は私の声を聞いておられますか? どうか聞いてください。私を、この哀れな子羊を主の御手でお救いください。
それは。死を前にした齢十二歳の少女の祈りだった。いつか神に救われる。そのことを決して疑うことなく少女は祈り続けた。
*
灰色の町が朱に染まる頃少年は探索をやめ、隠れ家の前にいた。
一生懸命探したけれど、結局食べ物や水を探し出すことはできなかった。少女に何と言おう。きっとお腹を空かしているだろう。そう思うと隠れ家に入るのに抵抗を感じる。
それでも入らないという選択は選べなかった。他に行く場所がないからだ。
少年はそっと扉を開けた。
隠れ家の奥で少女は祈りを捧げている。普段は立って祈りを捧げているが、今は座っている。立つのも辛いのだろう。と少年は心を痛める。
「ただいま」
少女は少年の声に振り返り、
「戻って来たの?」
「戻るも何も他に行く場所がないよ」
少年の答えを聞き少女は小さい声で、
「朝……いなかったから」
「ごめん。食べ物を探してたんだ。それに水だって残り少ないから……」
「わかってたわ。ただ…不安だったの」
「もう無断で外に出ないよ」
「…ありがとう」
空腹を少しでも和らげるために二人は少しずつ水を飲んだ。それでも水はどんどん減っていき寝る前にはそ底を尽きていた。
激しい空腹感をなんとかしようと何回も何回も水を飲んだため普段では考えられないほどの速度で水が減ったからだ。
「もう、空になっちゃったね」
少女の小さい声が隠れ家に響く。座ることさえできなくなり力なく横たわっている。
「明日、見つけるよ」
「ねえ、私…寒いわ」
少女の言葉に少年は答えた。横たわっている少女の下へ行き同じように隣に横たわる。
「もっと、近づいて」
「うん」
体を密着させお互いの体温を感じ合う。
少女は、
「暖かい」
少年は、
「冷たいね」
「すごく寒いの。何度も祈ったわ。神様お願いします。この寒さから私をお守りくださいって、でも寒さはどんどん強くなってるの」
「大丈夫だよ。きっと神様はお願いを聞いてくれるよ。明日になったら、きっと……大丈夫、大丈夫」
弱気になっている少女に励ましの言葉を送る。
「ありがとう」
「もう寝よう」
「待って、さいごに祈りを」
そう言って少女は祈る。
主よ、私を包むものに導きを。主の寛大な御心でこの少年をお救いください。私の死でこの少年の罪をお許しください。
少女は初めて他人のために祈った。今まで自分が神に導かれるために祈っていた。だが、自分の最期を悟って、自分に尽くしてくれた少年に、最期の祈りを捧げたのだ。
「終わった?」
少年の問いに首を縦に動かした。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
そう言って少年は直ぐに寝てしまった。
疲れてたんだよね。
汚れている少年の顔を撫でる。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
何度も感謝の言葉を唱える。
私を最期まで守ってくれて、支えてくれて……ありがとう
瞳から一筋の涙を流しながら少、女はそっと少年にキスをした。
それ以降、少女が動くことはなかった。家族を失い、友達を失い、住む町を失った少女は最期まで神を信じ祈り続けた。
*
灰色の町、爆撃されてから、何一つ変わらない町の一角に、ある隠れ家で少年は目を覚ました。
少女はまだ寝ているのか。
最初はそう思った。だけど、触れている部分が冷たい。それに息遣いが聞こえない。
「ねえ、起きてよ。朝だよ?」
少年の呼び掛けに反応しない。
「そんな……独りにしないでよ。君がいなくなったら寂しくなるじゃないか」
瞳からは大量の涙が溢れ、少女を抱きしめる。その時何か硬いものが当たった。それはロザリオだった。
それを見た少年は、少女を背負って太陽が正確に見える場所まで移動した。
動かない少女を地面にそっと置く。神様はいったい何をしていたんだろう。その疑問が神に対する怒りへと変わっていく。
少女のロザリオを外し、少年はそれを天に掲げながら、
「神様! どうしてこの少女を救ってくださらなかったのですか。どうして! 少女の祈りに答えてくださらなかったのですか。少女は最期まであなたを信じていました。あなたの救いを望んでいました。なぜ答えないのです! なぜ導いてくださらなかったのですか!!」
少年は涙を流しながら叫んだ。ロザリオを強く握り締めた手から血が流れている。それは今亡き少女の涙にも見えた。
少年の叫びに誰も答えない。少女が信じた神すらも答えてはくれない。
ただ灰色の町で泣く少年の泣き声が街全体に響き渡っていた。
次の日、灰色の町で動くものは一切いなかった。血の臭いと火薬の臭いがこの町を覆っている。町にはコンクリートの山がたくさんある。家だった建物は、上半分を巨大な怪物に喰われてしまったように、削げている。町の運営をしていた建物は、爆発で支柱を失い、隣の建物を巻き込みながら倒れている。さらに建物の中には、人と言われなければわからないような死者が、死んだ理由もわからずに眠っている。
また、夜になるとどこから来たのか、狼や野犬が町を訪れる。それらは死んだ人間の肉を食い、己の腹を満たしていた。そして朝日が昇るとともにこの町を去っていく。
道なんてものはない。人が歩く場所がないのだ。爆発の影響で四散したコンクリート、男か女かもわからないような死体がこの町を埋め尽くしている。
町の一角に狼や野犬は決して近づかない場所がある。そこでは幼い少女と少年が抱き合っていた。二人は決して動くことはなかった。
抗いようもない現実に誰かが祈った。救いを乞い、最期までその存在を信じ続けた。
誰かが言った。神様はどうして救ってくださらないのですか?