今夜もラムの香りにのせて。
しゃんしゃんしゃん・・・
勢い良く飲んだラムコークが喉の奥で鳴る。
しかしここはクラヴでもライヴハウスでもなく、日下部ゆきの自宅マンションである。
ゆきは何でも気にいった味を生活に取り込む。それは表参道にあるカフェのパスタだったり、大手チェーン居酒屋のこじゃれたつまみだったりする。
バリキャリと呼ばれるのにふさわしい睫毛の先端まで隙のない化粧や、ブランド物のパンツスーツを見るかぎり、料理の上手さは一人で生きていく術だと思われがちだ。しかしその術のおかげもあってか、ゆきは男と長く続く。
今回の男、田口悠斗もそうだった。二十四歳。ゆきの四つ下のバンドマンだ。
バンドマンなんていうとゆきには似合わなそうな気が多いにするだろうが、真剣にベースに打ち込む悠斗がゆきは好きだった。年下ながら、聞き上手な所も。バーテンという彼のバイトがそうさせたのかもしれない、出会いもそのバーにゆきが一人訪れた時だった。
その日もかっちりとしたパンツスーツだったゆきに、
「お兄さん、私をイメージしたお酒ちょうだい」
と冗談ぽく微笑まれ、悠斗が差し出したのは意外にもラムコークだったのだ。
「すごく大人びていてラムみたいに香り高いけど、すれてない子供心がありそうな感じかな」
、と添えて。
あれから三年と少し。悠斗のバンドの小プロダクション契約を機に、ゆきは別れる事を視野に入れていた。そして今日、悠斗がいつものように部屋に来たら、別れを告げるつもりでいる。
ガラスのコップの底が覗いた時には、ゆきの決心は固まっていた。
「結婚かぁ」
ゆきの言葉がダイニングを舞う。
実は前々から、秋田に住む母にお見合いを迫られていた。
今時お見合いなんて、と受け流してはいたものの、結婚という言葉自体にはやはり反応してしまう。仕事は楽しいしやめたくはない。もちろん辛いときだって多々あるが、編集社という狭き門をくぐりここまで頑張ってきたことが何よりの支えでありプライドだ。しかしどうしても結婚に対する願望は、ゆきの体の奥深くにいつからか根付き、爆発する機会をうかがっているのだ。
もちろん悠斗との結婚もバスタイムに何度か思い浮べたりしたことがある。決まって、お気に入りのバスボムの甘い香りがゆきに甘い妄想をさせたが、寝室に戻って気になりだした小ジワに高級クリームをなじませる頃には甘くはない現実に引き戻されるのだった。
(悠斗だってもう少ししたら安定した職につくはず・・・でももう少しって?)
(もしかしたら地道に活躍していくかもしれない。そこそこ人気のあるバンドなんだし・・・でもデビューなんてなんだかピンと来ない)
ゆきは泡の様に増えていく期待と不安に、自問自答することに疲れてしまった。
そんな時悠斗にインディーズデビューのチャンスが舞い込んだのだ。
インディーズから有名になるバンドが多いのも知っている。心底嬉しくて、残業を切り上げてささやかなお祝いをしたのも事実だし、あの夜の想いに嘘はなかった。しかしあの夜で、悠斗がしばらく音楽の道から離れないことも確実になった。悠斗がある程度“固まった”ことは、ゆきにとって見極める時期なのだと思った。
そして今、ゆきは悠斗を待っている。お互い最近は都合が合わず、顔を合わせるのは二週間ぶり位だ。
緊張・・・していないわけではない。しかしひどく落ち着いた鼓動を保っていた。
なんて言おうかなんて考えていなかったが、悠斗とは綺麗に終われる自信があった。だからといって別れたその後に、結婚までの幸せなプランがあるわけでもなかったし、悠斗に二度と連絡しない自信もなかったけれど。
でも今しかない、今ひとりになって視野を広げなくては―――そんな想いだけがゆきを動かしていた。
悠斗ならきっとわかってくれる。悠斗は私の事本当によくわかっているもの―――考えてはっとした。そうだ、悠斗は一番の理解者だ。その理解者を、手放す時なんだと。
その瞬間悠斗に仕事の悩みを打ち明けている場面から始まり、左手の薬指に鈍く光っているティファニーのアトラスを買っている場面まで一気に思い出が頭を巡った。
たとえ綺麗に別れられても痛みがないわけないのにね、とゆきはキッチンのカウンターに薬指のアトラスを外して置いた。
〜♪
聞き慣れたチャイムが鳴る。
「悠斗」
熱くなりかけた目頭をおさえ、そっとドアのロックを外す。
「よ、紀国屋のパイ買ってきたよ」
「ふふ、記念日でもないのに。ありがとう、上がって」
予想どおり自然に振る舞えているゆきに、目の前にいる悠斗は、今までで一番かっこよく見えていた。濡れたような黒い髪はウェーブがかかり、切れ長の目を優しく包み、白い喉が震えるたびに発せられる声はかすれて甘さを帯び、ブーツの紐をほどく指は細く、骨張っている。
久しぶりの悠斗にどうしようもなくときめいてしまうのも、今夜が最後だからなのだろう。ゆきはパイを切り分ける手の力を抜いて、カウンターの指輪越しに、小さなダイニングテーブルに座りテレビのチャンネルを回す悠斗を見ていた。
「ねぇ、」
――RRRRR!
何か話しかけよう、と息を吸った直後、カウンターの上の電話が鳴った。
「仕事のファックスかな?」
「電話みたいだけど?」
急いで手を拭いて受話器を取ったゆきの顔が、みるみる強ばる。
「はい?えぇ・・・え!?あっはい。あの・・」
尋常ではないゆきの声音に加え、受話器を持つ手が震える。気付いた悠斗がゆきの背中を抱くのと、ゆきが悠斗に涙の揺れる瞳を向けたのはどちらが先だっただろうか。
「はい・・・わかりました。本当に大丈夫なんですね?・・えぇ、じゃあなるべく早く都合をつけてそちらに向かいますので」
受話器を置く頃には、だいぶ落ち着いたようだが、まだゆきの手の震えは止まらない。
「おふくろさん?」
「うん、血!血吐いて・・た、倒れたって。命に別状はないけど手術するからって・・っ」
ただの胃潰瘍だと聞いたはずなのに、ゆきの目からははじけたように涙がこぼれる。
「おふくろさん、あっちでひとりだもんな。ゆきが行ってやれば、大丈夫だって!」
「う・・・っ」
「ごめんね、悠斗。私って、本当にお母さん子。」
ゆきが落ち着いてからも、悠斗はずっとゆきの手を握っていた。
ゆきが会社に休みをもらう電話をするまで、ずっと。
電話を終えたゆきの前に、ラム酒がほのかに香るホットミルクが置かれる。
見上げた悠斗の目はやっぱり優しくて、ほっとしたらまた涙がこぼれそうになった。ミルクはびっくりする位丁度いい温度で喉に甘さを残していった。両手でカップを大切そうに持つゆきの左手の薬指に、悠斗は気付いていた。その視線に、ゆきもはっとする。
「ゆき、風呂ももうすぐわくから、それ飲んだらあったまって来いよ。明日すぐ向かうんだろ?俺、ゆかが寝る準備できたら帰るから。」
「ありがとう・・・悠斗、私」
言いかけてバスルームに向かう。
ゆきはこのまま悠斗に甘えてしまいたかった。やっぱりこの人がいなくてはだめだと思った。自分が風呂に入っている間に悠斗が帰ってしまうんじゃないかと、何度ボタンを外す手を止めかけただろう。シャンプーの泡をかきまぜている時に悠斗への想いはピークになり、やがて冷静さを取り戻してバスルームを出ていた。
さっきまで、今日は泊まっていってと甘えるつもりだったが、ぐっとこらえて悠斗を玄関まで送った。
送ってからまもなく、悠斗からメールが届いた。
寝室の小さなオレンジの光に照らされて、ベットの中でメールを開く。しぱしぱする目に、悠斗からの優しさが文字になって映し出される。
――おふくろさん、早くよくなるといいな。久々に、ゆきも甘えて来いよ。ついでに見合いの相手でも紹介されて来いよ。おふくろさんによろしくな。あ、土産忘れるなよ☆じゃあ、ゆっくり寝ろな。おやすみ。
悠斗!!
悠斗!!!
あぁ、自分は間違っていた。ゆきは思った。同時にこの人で間違っていないと、強く思った。
携帯を持つ手がさっきの秋田からの電話より震える。やっとの思いでメールを作る。
―――悠斗、今日はありがとう。明日、一緒に母のお見舞いに来てください。
送信ボタンが力強く光っていた。