アサギ色
あくまで、小説であり歴史書ではありません。
宜しくお願いします。
竹刀のしなる音がした。南向きのこの道場では、まっすぐ射し込んでくる朝日で、竹刀の剣筋まではっきり見える。
紙袋がはじけたような音が辺りに響いた。
試衛館道場。
門下生もそれほど多くはなく、世間一般で言う『田舎道場』というやつだ。入口の門に入ってしまった罅をどうしようかと、つい最近頭を悩ませたばかりだった。
「おうトシ! いるか?」
この声を聞いて、歳三はげんなりとした。道場の入り口からズカズカと派手な足音を響いかせて、体格のいい青年がヒョッコリ顔をのぞかせた。
大きな口がスピーカー代わりになっているようで、奥の壁に寄り掛かっていた土方歳三にも十分届くほどの音量がとんでくる。
「・・・・・・」
トシと呼ばれた青年は細い眉をひそめると、声のする方を向いた。誰に呼ばれたかなんて、確認しなくてもすぐにわかる。
歳三は、持っていた竹刀でそのまま自分の肩を軽くたたきながら立ち上がると、稽古をしている門下生をよけて入口にむかった。
「なんだ近藤さん」歳三は頭をぼりぼり掻きながら言い寄った。「稽古中はトシと呼ぶなと何度言ったらわかるんだ」
「なんだトシ。そんな顔で朝っぱらからにらまれてはとてもかなわんと、何度言ったらわかる」
歳三は首元をポリポリ掻きながら目をそらすと、ため息をついた。
――――こいつだけには、とてもかないそうにないな。
近藤は、してやったりといわんばかりに、快活に笑いだした。つられて他の門下生たちも笑っている。
歳三は竹刀を地面にたたきつけた。
「誰からくるんだ? ん?
・・・・・あんたかい、近藤さん」
「いやいや、御免こうむるさ。はは、悪かったなトシ」
一瞬シンとした。が、またすぐにざわつき始めたので、近藤は急いで稽古を再開するよう指示して、いそいそと道場の奥へ入っていった。
近藤でも、土方の剣気には一目置いている。
これがのち、京都を震撼させる『鬼の副長』になる男、土方歳三だった。
「土方さん、そりゃアいくらなんでもかわいそうですよ」
稽古の後、歳三がその事を愚痴ると、目の前であぐらをかいていた沖田総司が、茶菓子をほおばりながらなだめた。
口元に餡子が付いている。「今日ぐらい、朗らかにしてたらどうです」総司は口元をぺろっとなめた。
「今日だからこそ、俺はあいつらにはピシッとしてほしいんだよ。わかるか総司」
そう言いながら、目の前で茶菓子をほおばっている沖田を眺めて、肩を落とした。
「・・・・・・おまえもわかってなさそうだな」
「わかってますって。ひどいなァ」
明るく笑って、総司は茶をすすった。
『今日だからこそ』食べる事のできる玉茶と茶菓子だ。
これを逃したら、次に食べられるのはいつになるのか、わからない。
歳三はため息をつきながら、頭を抱えた。「ったく、どいつもこいつも」
「本当ですよ。私だって緊張してます、ほら」
総司はそう言うと、湯呑を持っている方の手を土方の方へ差し出した。湯呑がかすかに揺れて、玉茶に波紋がたっている。
「・・・・・・」
「でしょう?」
総司は歳三の目を見て反応を待った。
底抜けの明るい笑顔でこっちを見ている。緊張してはいるが、怖がっているわけではなさそうだ。
若いわりに、肝が据わっているのだろう。
歳三はそれにしぶしぶ納得すると、障子の外を見た。雪がちらついている。
出発までには、できればやんでいてほしい。
総司も外を見た。
外には田んぼが広がっていて、今はもう茶色い土がむき出しになっている。近くの桜の木の枝にはまだ、蕾すら付いていない。
「おまえには、覚悟があるようだな。
まぁ・・・・・・安心した」
総司はそれを聞くと、首をすくめて恥ずかしそうに笑った。
「もちろんですとも、私も土方さんについていきますよ。将軍警護のためにも、ね」
そう言うと、少年のように目を輝かせてのりだした。
端正な顔が火照っている。
「ひとまず、江戸に行くんでしょう?」
「ああ。そこに集まった浪士で組を結成して、それぞれの任に就くんだそうだ。
支度はできてるな、総司」
総司は背筋を伸ばして、きちんと座りなおした。
「ええ、姉上にも挨拶はすませましたし。
林太郎さん(総司の姉である光の夫)がいれば、まぁ大丈夫でしょう」
歳三は満足そうにうなずくと、冷めかかった玉茶を、さもおいしそうに飲みきって立ち上がった。
威風堂々、今の歳三をよく表している言葉だった。
総司も急いで残りの玉茶を飲みきると、置きっぱなしの湯のみを重ねて盆の上に置いた。
「土方さ―――――」立ち上がろうとして、総司ははっとした。
というよりは一瞬、総司はこの目の前の青年に、見とれてしまったと言った方がいいのかもしれない。こんな不敵の笑みを浮かべた歳三を、総司は見たことがなかったのだ。
外から吹き込んだ風で羽織の袖が翻った。
遠くを見据えていた歳三の眼が、つっと、総司を見下ろして笑った。
――――この人ならきっと、何か凄い事をしでかすんだろうな。
総司は歳三の方を向いて笑いかけると、寒さで透き通った蒼い空を、白い息を吐きながら見上げた。
ちらついていた雪が、やんでいる。
―――――時は流れ、元治元年(1864年)―――――――――――
浅葱色の羽織がはためいた。
辺りは暗く、目の前の旅館だけが明るくともっている。
総司の隣にいるのは、近藤勇、長倉新八と藤堂平助の三人。
そのほか、六人の隊士が後ろにつづいていた。総司たちは旅館の近くの物陰で待機しているところだった。
目の前にある旅館、料亭池田屋。
総司は改めて刀の滑りを確認しながら、横にいる長倉新八に目配せした。
「今、亥の刻(およそ22時)ごろでしょう」
(永倉)新八はそう言うと、空を見上げた。星が瞬いている。
こんなきれいな夜空の日ぐらい、総司はのんびりと星を眺めていたかった。
祇園際の日ぐらいはゆっくりしたいものだ。今朝巡察で見回りをしていると、店のそばには立派な提灯が垂れ下がっていた。
祭りの準備は着々とすすんでいるようだ。
つうっと、総司の頬に汗がつたった。
「・・・・・・総司、暑いのか?」総司の前にいた近藤は何となく訊ねた。
近藤の洞察力は、なかなかのものだと総司は思っている。
ひやっとした。
「――――――『暑い』? なぜです?」
「すごい汗だぞ総司」
近藤は首をかしげた。
七月の夜中、たまに吹く風が心地よかったが、なぜか総司の汗は止まらなかった。この頃『額当て』が手放せなくなってきている。
夏風でもひいたのだろうか。
――――あるいは・・・・・・
そこまで思うと、総司は首を振って、その事を頭から追い出した。考えても仕方のないことだ。
「・・・・・・大丈夫ですよ。近藤さんは心配性だなァ」
そんな事を心配し始めたのはつい最近になってからのことだった。土方さんたちはまだ気づいてはいない。
――――こんなときまで、俺はなにを考えているんだ。
総司は右手で自分の頬をたたくと、鞘をしっかり持ち直して新八と(藤堂)平助のほうを向いた。
「いつでもいいですよ」
その平助の応答に、新八はうなずいた。
近藤もそれに答えた。
「おれもいいぞ」総司もそれとおなじ意見だった。
後ろにつづいている隊士達もうなずいた。
近藤は総司を見て「それじゃあ、行くとするか」
「おう」
その声とほぼ同時に、総司らを含む十人は暗闇から抜けだして、料亭へ押しかけていった。
歳三はそれを確認すると、ひきつれていた隊士を池田屋の周りに配置し、屋外を固めた。これで攘夷浪士は袋の鼠だ。
歳三は池田屋の二階を見た。障子にはのんきに酒を飲み交わしている。
歳三は、嘲笑混じりの笑みを浮かべた。
この有名な池田屋事件の少し前、諸子調役兼監察の山崎丞・島田魁らによって、計画の存在が浮き彫りになった。
その時に捕らえた古高俊太郎を、『鬼の副長』と名高い歳三が拷問で無理やり訊きだしたらしい。
「古高がやっと自白した。計画は祇園際前に行われる予定だそうだ」
新撰組の中で、この情報を聞いていきり立つ者は少なくなかった。
「祇園際の前の、風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて孔明天皇を長州に連れ去る。
その時、一橋慶喜(徳川慶喜)、俺らの恩人である松平容保を・・・・・・これだ」近藤は親指を立てて、首を掻っ切る真似をした。
大きな骨ばった手が、近藤の心境を更に表現している。
「とんでもねえ奴らだ」
憤りを隠せないでいる近藤勇を、歳三は横で涼しげな眼をして見ていた。
物事を冷静に見ていないと、あとで必ず足元をすくわれる。歳三はその事をよくわかっていた。
「むしろ土方さんは、よく落ち着いて聞いてられますね」
横から、総司がにこにこしながら話しかけてきた。
さっきまで自室にこもっていたが、近藤の招集がかかった際、ひょっこり出てきたらしい。
刀の手入れでもしていたのだろうか。
「そういう総司、おまえもなかなか落ち着いてるじゃねえか。
立派なもんだ」
「そうほめて頂けるとありがたい。でも、土方さんには負けますよ」
総司がはにかむと、歳三の緊張もそれなりにほぐれた。
総司はどこか、物事を悟っているように感じる。
近藤の声がひときわ大きくなった。
「そういうわけで、これから探索に出る。名前を呼ばれた者は、ここに残るように」
その探索の結果、この池田屋で謀議中の尊攘過激派志士を発見したのだった。
「主人はおるか、ご用改めであるぞ!!」
近藤が先陣をきった。
総司たちが一気に料亭に押し入ると、目の前に池田屋の主人が立っていた。
彼は突如、奇声とも取れない声を上げると、とっさに裏階段を登り二階へ駆け上がった。
「あの狼狽ぶり、きっと何かあるぞ。皆、奴の後を追え!!」
近藤が刀を抜き、渡り廊下を走り抜けようとすると目の前を歩いていた二人の浪士が、こちらの存在に気付いた。
二人とも、なかなかいい刀を差している。
彼らは一瞬茫然としていたが、総司たちの新撰組の羽織を見るなり、血相を変えて斬りかかってきた。
攘夷浪士だ。
総司は攘夷浪士の懐に踏み込むと、鯉口を切って『右切り上げ』で相手を斬り伏せた。
その音を聞きつけて、奥の間から四・五人の浪士たちが飛び出してきた。
どの浪士も目が血走っている。
「藤堂君、これはなかなか多そうですよ」
総司は目の前の浪士を肩から斬り伏せて言った。後ろにいた藤堂平助も、相手の額を横一文字に斬りこんで、
「二階もありますからね。さすがに三桁はいかないと思いますが」階段の方を盗み見た。上の浪士たちはまだ自分たちに気付いていないようだ。早いうちに片付けてしまいたい。
新撰組を前に、目の前の浪士は次々と倒れていった。
「おそらく、二階で会合でもしているのでしょう。この階は私たちだけで十分です!
局長、沖田隊長、先に行ってください!」
平助の提案に、近藤は一瞬ためらった。まだどこかに敵が隠れているかも知れない。
ここで離れても大丈夫なのだろうか。
総司は近藤の肩をおもむろにつかんだ。
「近藤さん、私は藤堂君の言う通りだと思います。
ここは藤堂君たちに任せて、私たちは上へ行きましょう。
こんな狭いところでこの人数は、かえって戦況不利です」
近藤は少し考えている風だったが、顔を上げると足早に二階へと向かっていった。総司はそのあとについていった。
「宜しくお願いします、藤堂君、永倉君」
「任せといて下さい!」
総司たちは、振り返ることなく上へと駆け上がった。
二階の会合部屋の前で、近藤は立ち止まると大きく息を吸いこんで、勢いよく襖を開け放った。
「ご用改めである。手向かいいたすと容赦なく斬り捨てる」
大声を発した近藤を見て、その場に居合わせた約二十人の浪士たちは驚愕した。
横にいた総司も、その迫力に少し驚いた。
その大きな声に恐縮し、二階は一瞬にして緊迫した空気になると、鍔鳴りが辺りに響いた。
「馬鹿がっ!!」
その緊張感を破って、一人の浪士が総司に斬りかかってきた。
かなり腕に自信があるのだろう。
総司は刀をすらっと抜くと、一刀でその浪士を斬り捨てた。即死だった。浅葱色の羽織が、ぱっと深紅に染まり、総司はゆっくりと顔を上げた。
それを皮切りに、他の浪士も近藤たちに斬りかかってきた。
近藤と総司は、隊士を引き連れて戦場に飛び込んだ。
――――たいしたことない。
総司は自分に言い聞かせた。
池田屋の壁が真っ赤に染まり始めたころ、次第に二階から中庭へ飛び降りて脱出しようとする浪士が現われ始めた。
新撰組からすれば、それは士道不覚悟に値する。
許せなかった。
近藤はすぐに沖田に指示をだした。
「総司、下に逃げていく不逞浪士が多すぎる。
主戦場を一旦、一階に移そう」
「なら近藤さん、私はここに残ります」
自分も下に行きたいのは山々だった。だが、総司の目の前には十人ほど、刀を構えてこちらを睨んでいる浪士がいる。ここで自分も下に移動すれば、それこそ敵前逃亡になるのではないかと不安になったのだ。
近藤もその気持ちを察したらしい。
「・・・・・・わかった。この階はおまえに任せる。
くれぐれも、負けるなよ」
「わかってますって」
総司は唇をなめた。鉄の味がする。
近藤はうなずくと、急いで下に降りていった。近藤が総司の腕に絶対の信頼を置いている、確かな証拠だった。
総司はそれを確認すると、刀を構えなおして浪士の方へ向き直った。
「さァ、新撰組一番隊組長、沖田総司。
だれから来る、お相手いたす」
総司がそう言うと、目の前の浪士は一斉に斬りかかってきた。
飛びかかってくる浪士を斬り伏せながら、刀の切れ味がどんどん鈍くなっていくのを感じた。
おそらく、新撰組隊士の中で、総司が一番多くの敵を斬っている。次第に身体がほてってきた。
突如、斬りかかってきた浪士の中で一人、腕に自信のありそうな者が、総司の前に立ちはだかった。
総司よりも一回り大きな浪士だ。首筋に血管が浮き出ている。
その浪士は果敢にも、総司の真正面から刀を突き出してきた。いや、刀ではない。
槍だった。
浪士は余裕そうな表情で総司を見下ろしている。
息の上がっている小僧ひとり、どうってことない、そう顔に書いてあった。
総司は足元の死体に躓いて前のめりになった。
急いで起きあがると槍が真上から降ってきて、総司のすぐ横をかすめて畳に突き刺さった。
寒気がする。
目の前の浪士は槍を引き抜くと、身体をねじったまま総司の方を向いて動きを止めた。
「――――――・・・・・・」
総司自身、『槍に刀で勝つには、相手の三倍もの実力がいる』と、土方から聞いたことがあった。
――――勝てるか?
総司は背すじを伸ばし、相手のすきをうかがった。
相手も様子をみて、動こうとしない。
思ったより、思慮深い男なようだった。
緊迫した空気の中、突如何かがはじけたように浪士が槍を突き出してきた。総司はそれをギリギリのところでよけると、刀を突き出された槍にあて、そのまま相手の方へ滑らせた。
――――なるほど。
よく見ると、浪士の左肩に切り傷がある。
総司は更に確信した。
この浪士、近藤さんとは違っていっぱしなのは気迫だけか。
――――右半分がガラ空きだ!
総司の右足が、間合いに踏み込むと同時に、浪士の頭が割れた。血とともに、脳水が噴き出て辺りに散った。
――――!
総司の胸元に更に返り血がとび、総司はそのまま手を口にあてがった。
妙だ。
息をするごとに何かが溢れてくる。
総司はばっと後ろに飛びさがった。
返り血―――?
その矢先、総司は激しくせき込んだ。胸の奥を、何か生温かいものが逆のぼってきて、思わず膝をついた畳が、総司の口から溢れた血で赤く染まった。
―――――――・・・・・・っ!!
目の前の光景が信じられなかった。
怪我はしていないないのに、この出血量。いったいどこからの血なんだ。
そう思った途端、呼吸がしづらくなってきた。息をするごとに、命が削られていくような気がする。
口の中がまた、生温かい液体に染まった。
――――死ぬ!
総司は大きく息を吸って、口の中にたまった大量の血を吐いた。
他の浪士たちは、その総司にとどめを刺すどころか、幸いと言わんばかりに、二階からぞろぞろと逃げ出した。
武士道なんて、あったものじゃない。
「まっ、まだ、目の前に敵がいるんだぞ・・・・・・!
そこで逃げるのか・・・・・・」
かろうじての支えだった腕の力が急に抜け、総司の視界が暗転した。
歳三はその時、外に逃げ出してきた浪士を斬り伏せているところだった。
とにかく、数が多い。
もう我慢の限界だった。歳三は中に突入しようとした。
「いいか、新撰隊士以外は、斬って斬って斬りまくれ!!
それが怖い奴らはここに集まれ、俺が介錯してやる!!」
もちろん誰も介錯を求めるものはいなかった。
歳三はそれを確認すると、武田観柳斎、島田魁らを連れて、池田屋の玄関をくぐった。
そこで歳三たちが見たものは、生き地獄以外の何物でもなかった。周りは赤い血に染まり、床には人の死骸、肉片、何なのか判別すら付かないものまで散らばっている。
「・・・・・・」
――――先が血煙りで見えんな。
歳三は奥の間へ駆け込んだ。血生臭い台所の横を通り過ぎると、そこでは一人の隊士が複数の敵と、しのぎを削っていた。
「近藤さん!!」
「おお、トシか」
歳三は、横から刀を振り下ろしてきた浪士の脇腹を一突きすると、すぐさま横なぎに切り替えて、吹っ飛ばした。
近藤の後ろで背中を合わせると、近藤は虎鉄のつばを鳴らした。
「ずいぶんやったなぁ、近藤さん」
歳三は改めて周りを見渡した。足元には浪士の死体が四・五体、転がっている。「風通しが良くなったじゃねえか」
「冗談を言っている場合ではないぞ、トシ」
「総司は?」
歳三は前を見据えたまま、後ろの近藤に訊ねた。どこにも姿が見当たらない。
「二階で応戦中だ。上は任せてる」
「総司一人で!?」
驚いた。いくらなんでもそれは・・・・!
歳三は目の前の浪士を右袈裟で斬り倒すと、階段の方を見上げた。その奥の中庭ちかくで、一人の新撰組隊士が倒れている。
藤堂平助だった。
眉間を割られている。生きているかどうか怪しいところだった。
「もうすぐ片付け終わる。そうしたらいち早くけがをした隊士たちの救助だ」
「ああ」
深呼吸をすると、歳三の刀が闇に鋭く光った。
――――――――――――――――――――――――――――――
「だから、あれは返り血ですってば」
屯所の総司の自室、総司は笑いながら歳三にたてついた。
「私、けっこう斬りましたから」
この数日間、総司はその一点張りだ。例の事件後、あまり体調がすぐれないらしい。
今も自室の布団の上で、猛反論している。 「だから、血なんか決して吐いてません」
「嘘をつけ、嘘を!」
歳三は起きあがろうとする総司を押し倒した。総司の微熱が気になった。
そのことを言ったとしても、そっぽを向いて布団にもぐってしまう。
歳三は布団を引っぺがした。
「寒い」
「おまえ、・・・・・・まさか労咳(結核)なんじゃねえだろな」
総司の表情が一瞬消えた。が、またすぐ元の笑顔に戻って、
「土方さんは近藤さんと同じで、本当に心配性だなァ」と、はにかんで、歳三ははぐらかされてしまった。
総司は今や、新撰組に無くてはならない人材だ。それ以上に、自分の義兄弟を無くしたりなんかしたくはない。
歳三は目を細めて、目の前の弱々しく横たわっている青年を見た。本気で殴りたくなってくる。
「馬鹿が」
「馬鹿なのは、土方さんのほうです。私が大丈夫と言ったら、信じてくれてもいいじゃないですか。私の身体の事ですよ!?」
総司は精一杯、歳三を睨んだ。
歳三も睨み返した。だがなぜか競り負けてしまったような気がして、歳三の方が思わず目をそらしてしまった。
「土方さんは・・・・・・」総司は続けた。「・・・・・・私より、よっぽど覚悟ができていなかったようですね」
歳三は目を見開いた。
胸の奥を何かでえぐられたような、ぽっかりとした喪失感が歳三をおそった。その空いた空間に、冷たい空気が流れ込んでくる。
「何、言ってんだおまえ・・・・・・」
「だってそうでしょう?」
総司の眼は歳三を見ていなかった。自分の中で、自分自身に一つ一つ言い聞かせているようで、歳三にはそれが悲しかった。
総司の顔がふっと歪んだ。
「ほら、もうおどおどしてる」
歳三は手を口にあてると、無意識に息をのんだ。
「総司・・・・・・」
「本当に、土方さんは面白いなァ」
総司は、いつもの子供っぽい笑顔でうなずいた。「土方さんはね、結構甘いんですよ」
歳三は手を口にあてたまま、キョトンとした。「甘い? ・・・・・・この俺が?」
「ええ」総司は布団の上で首を縦に振った。「まァ、そのおかげで、今の私があると言ってもいいでしょうね。信じられないでしょうけど。
・・・・・・自分のどこが甘いのか、是非考えてみて下さい」
――――おちょくってやがる。
歳三の中の怒りは、いつのまにかおさまっていた。
にこにこしながら話している総司を見て、歳三は安堵した。こんな風に冗談が言えるのなら、本当に労咳ではないのかもしれない。
二人はしばらくの間、他愛のない話をした。故郷の事、今京都で流行の歌舞伎役者の事、本当に他愛のない話だった。
しばらくして、歳三は、溜まっている仕事を理由に立ちあがった。仕事ついでに、けがをした永倉の見舞いに行くつもりだろう。
総司の方を見下ろして、襖に手をかけた。「また来る。しっかり休めよ」
「起きてぬけだしたら? 切腹ですかィ?」
「ん、考えとく」
歳三が珍しく、笑った。
その時の襖をあけて外を眺める歳三の影が、総司には妙に懐かしく感じられたのだ。
試衛館での歳三の姿と重なって見えた。
――――土方さんは、昔から本当に変わらないなァ。
歳三の後姿を眺めながらそんな事を思っていると、急に自分のこの変わり果てた姿が妬ましく思えた。今の自分は見ていたくない。
外の若葉が揺らいでいた。
木漏れ日が部屋に射しこんで、遠のいた。
雲が空に、ぽっかりできて、流れていった。
変わっていくものもあれば、ずっと変わらずにそこにあり続けるものもある。総司は思った。
なんとなく、でも、はっきりと。
「・・・・・・土方さんはいつまでたっても土方さんだなァ、道場にいた時と何も変わらない」
「は?」
歳三は少し狼狽して、総司を見下ろした。
「何言ってんだ、おまえ」
「なんでもありませんよ、ほめてるんです」
「・・・・・・馬鹿が」
歳三は特に何もない方角に目をやった。
総司の真意を読みとれてしまう自分が、妙に腹立たしかった。
歳三はわざとらしくため息をついて目を細めると、やけに明るい声で、
「んなこと言ってないで、とっとと治しやがれ総司。
おまえが治らないと隊の方にも迷惑がかかる」
心の底から叱咤した。だが、そんなふうに見せかけて、実は自分に言い聞かせていたのかもしれない。
――――『鬼の副長』にも弱いところがあるもんなんだなァ。
総司はふっと、この新撰組副長ではなく、元試衛館門下生の土方歳三の温かさを感じた。
京都に来て多忙になってから、あまりこういった土方歳三『本人』と語り合う時間が少なくなった。なので総司にとってこの歳三の一挙手一投足はとてもうれしく感じられたのだろう。
――――命のある限り、この変わることのない新撰組に、変わることのない『この人』に、ついていこう。
それが、これから先長いにしろ短いにしろ、自分にできる小さな事だと、総司は思った。
襖の横でしきりに外を眺めていた歳三は、急に目を見張ると井戸の横に生えている木を指さして、
「おいあれ見ろ総司」総司の目の高さまでしゃがんだ。「セミだ、もうそんな季節なのか」
「ほんとですね、今年はいつもより早いなァ」
総司はうなづいて相槌を打った。
歳三が示した木の枝で、一匹のセミが繰り返し鳴いている。
これからの短い余生を、精一杯生きようとしている、総司はそれに見入った。
とてもシンプルで、とても美しかった。
「日本の夏って、感じがしますよね」
歳三は、『何をあたりまえなことを』といった顔で総司を見て笑った。
光を含んだあたたかい風が、二人の横を通り過ぎていく。それはとても生命に満ちた風だった。
京都の夏が、もうすぐ訪れようとしている。