店主は二人です
大型の四輪荷馬車《銀匙号》の右側板を跳ね上げると、蝶番が軋む音とともに乾いた土埃の匂いが抜け、香草と脂の混じった湯気が街道沿いの草地へと広がった。
跳ね上げた板はそのまま日除けの庇になり、胴体から引き出した頑丈な厚板が販売台になる。幌のすぐ下、使い込まれた木の横板には《銀匙号 エステル・ノアール》と焼き付けた古い看板が掛かっていた。車体の内側には耐火煉瓦を組んだ移動用の小型炉が据え付けられ、炭の熱を吸った鉄鍋がすでに低く煮え立っている。
「干し茸、買いすぎ」
木箱の蓋を閉めたヴァンサンが、仕入れ台帳に炭筆を走らせながら言った。
「安かったの!」
「安くても三十袋は三十袋だ。どこに積む気だ。車軸の右側に偏る」
「使うから平気。刻んで戻せばスープのとろみにもなるし、粉にすればソースの底味になるんだから」
「いつ使い切る」
「……冬までには」
「今は春だ。湿気で傷んだら丸ごと損になる。帳簿の上では、お前が干し茸の山を背負って走る計算だぞ」
「カビさせないわよ。毎朝風を通すから」
エステルは言い返しながら、木杓で大鍋の底を撫でた。
牛肉の端肉と割れ大麦、冬越しの根菜をじっくり炒めてから、薄い麦酒と塩漬け豚の皮を入れて煮含めたものだ。脂の甘い匂いに混じって、香味草のすがすがしい香りが立ち上る。
味見用に木匙ですくい、舌先へ落とした。塩気は足りているが、風が少し冷たい。街道を渡ってくる風が東からの湿った空気を含んでいた。
「ヴァンサン、予定の冷たい豆煮、半分だけにして温かい麦粥をもう一鍋回していい? 東の尾根から冷たい風が下りてきてる。今日の旅人は手足が冷えてるはず」
「今日の仕込み豆は昨日の夕方から戻してある。残せば明日には酸味が回るぞ」
「残さない。半分は麦粥にそのまま放り込んで、煮崩してとろみにする。麦は予備の樽から二升借りるわ」
「借りるって誰からだ。店の在庫だ。……麦を二升追加する分、今日の材料代は上がる。煮込みの肉を一皿ぶん少し減らせ」
「それはやだ。じゃあ肉はほんの少しだけ減らして、小さめに刻んで全体に行き渡らせる。見た目は崩さない」
「手間を増やすな」
「美味しいほうが売れるもん」
ヴァンサンはため息をついて台帳に追記したが、それ以上は止めなかった。
彼が止めるのは、計算が破綻するときだけだ。エステルが味と手間の帳尻を合わせられると踏んでいるときは、数字の辻褄が合う範囲で文句を言いながら通す。
四年この馬車を転がしていれば、そのあたりの呼吸は嫌でも揃う。
エステルが二十二歳、ヴァンサンが二十五歳のときに、中古の輸送馬車を買い取って二人で改装したのが《銀匙号》だった。元は商隊の補給係として帳簿と荷割りを仕切っていたヴァンサンと、宿場町の定食屋の厨房で鍋を振っていたエステル。長距離街道の宿場と宿場の間、まる一日馬を走らせても水場しかない荒野の真ん中に、温かい飯を出す場所があれば商売になる――そう言い出したのはエステルで、必要な改装費と馬の維持費を弾き出して「現実的に可能だ」と首を縦に振ったのがヴァンサンだった。
正午を回る少し前、北の尾根から最初の商隊が下りてきた。
荷馬車が三台と、護衛の傭兵が四人。徒歩の旅人が二人、少し離れた後ろをついてきている。砂埃にまみれた馬の鼻息が荒く、御者の肩は縮こまっていた。
「いらっしゃい! 熱い煮込みと麦パンありますよ。今日のは肉がしっかり入ってる!」
エステルが声を張ると、先頭の馬車の男が手綱を引いた。
「助かった、飯屋か。風が冷たくて腹が鳴りっぱなしだったんだ」
「すぐ出せます。煮込みは大麦入りで腹持ちいいですよ。冷たい豆煮もあるけど、今日は温かい麦粥も出してます」
「煮込みをくれ、四人分だ。パンもつけてくれ」
「はいよ!」
注文が入ると同時に、ヴァンサンが素早く木皿を並べ、硬いパンを小刀で手際よく切り分ける。エステルが湯気を立てる鍋から肉と麦をたっぷりと掬い上げ、皿へ落とした。
立ち上る湯気を吸い込んだ傭兵が、皿を受け取るなり縁に口をつけてスープを啜る。喉が鳴り、強張っていた頬の筋肉が緩んだ。
「うまいな……塩がちゃんときいてる」
「汗かいたあとの風は体温を奪うからね。少し塩気強めにしてあるよ。冷めないうちにパンを浸して食べて」
エステルが笑いかけると、傭兵は嬉しそうに頷いてパンをちぎった。
その横で、ヴァンサンが商隊の親方と短く言葉を交わしている。
「親方、馬の水ならあそこの湧水が使えるが、塩粉はあるか? うちでも一袋銅貨八枚で小分けできる」
「助かる、二袋くれ。この先の峠道で馬の脚が攣っちゃ困るからな」
「まいど。奥の草地、一時間なら荷車を寄せて休ませていい。次の宿場までは下り坂で三時間半だ」
銀貨と銅貨が擦れ合う音を立てながら、次々と革袋へ収まっていく。
エステルは鍋の火加減を調節しながら、次々と来る客に皿を渡していった。客の顔を見れば、喉が渇いているのか、腹に溜まるものが欲しいのか、噛む気力もないほど疲れているのかがだいたい分かる。少し疲労の色が濃い歩きの旅人には、大麦のスープを多めに注ぎ、上に散らす干しハーブをつまんで香りを立ててやった。
鼻歌交じりに手を動かすエステルの背後で、ヴァンサンが正確に木皿の数を数え、鍋の底に残った分量を把握していく。
仕入れた食材が温かい食事になって客の腹へ収まり、その代金が革袋へ戻ってくる時間。二人の間には無駄な言葉がほとんどない。喧嘩はするが、営業中の動きに澱みはなかった。
*
商隊が去り、遅れてやってきた二組の旅人を送り出したころには、陽が西の山並みに傾きかけていた。
大鍋の底には、きれいに平らげられた煮込みの跡がわずかに残るだけ。急遽仕込んだ麦粥も、豆を煮崩して入れたおかげで、客に出した分はきれいに売り切れた。
「ほらね。言った通り全部出たでしょ」
洗い桶に木皿を浸けながらエステルが言うと、木箱の横で帳簿を締めていたヴァンサンが炭筆を置いた。
「豆の残りはなし、麦の消費は予定の二割増し。売上は想定より銀貨三枚上だが、明日の朝仕込む分の麦が足りない。次の宿場で追加購入が必要だ」
「買えばいいじゃない」
「宿場価格は高い。街道の集積所で買うより一割五分増しだ。手元に残る儲けは薄くなる」
「でも客のお腹は満杯になったよ」
「俺は腹の話をしてるんじゃない。儲けの話をしている」
いつものやり取りだった。エステルが肩をすくめて布巾を絞ったとき、街道の向こうから一台の軽快な二頭立て馬車が近づいてくるのが見えた。
荷を山積みにした商隊の荷馬車ではない。車輪には頑丈な鉄輪が嵌められ、幌には見覚えのある紋章が白く染め抜かれている。
白梟――大陸西部の幹線街道を押さえている大手運送組織、《白梟商会》の紋章だった。
馬車が《銀匙号》の脇に滑り込むように止まり、御者台から仕立てのいい上着を着た男が降りてきた。三十代半ばほどの、手入れされた髭と穏やかな目元をした男だ。無駄のない足取りで販売台の前まで歩いてくると、軽く帽子に手を当てて一礼した。
「こんにちは。営業はもうおしまいですか? 鍋の匂いからすると、大盛況だったようですが」
「ごめんなさい、ちょうど片付けに入っちゃったところで。冷たいエールと、固焼きのビスケットくらいなら出せるけど」
「いえ、食事は先ほど別の宿場で済ませてきましたのでお構いなく。私は白梟商会、街道運行管理部のロベールと申します。エステル・ノアールさんと、ヴァンサン・ベルクさんですね」
ロベールと名乗った男は、上等な羊皮紙を巻いた書状を取り出し、台の上に丁寧に置いた。
「以前からお二人の《銀匙号》の評判は耳にしておりました。この過酷な峠越えの街道で、一度も食あたりを出さず、悪天候による休業も最小限に抑え、旅人や護衛の傭兵たちから確かな支持を得ている移動食堂。素晴らしい運営です」
「どうも。で、運行管理部が何の用だ」
ヴァンサンが前に出て、乾いた声で言った。帳簿を抱え込み、商売人特有の警戒を隠さない。
ロベールは嫌な顔一つせず、穏やかに微笑んだ。
「単刀直入に申し上げましょう。白梟商会は、貴店《銀匙号》を買い取りたいと考えております」
エステルは布巾を持ったまま動きを止めた。
ヴァンサンは眉一つ動かさず、ただ台の上の羊皮紙に視線を落とした。
「……買い取り?」
エステルが聞き返すと、ロベールは頷いた。
「はい。正確には店を丸ごと引き取り、お二人を商会付きの責任者として迎える話です。商会では現在、主要三路線における定期商隊の補給方法を見直しております。街道沿いに固定の宿舎を建てるのは維持費がかかりすぎる。しかし、お二人のような移動食堂が適切な補給地点に展開していれば、荷駄の運行速度は格段に上がります。そこで、《銀匙号》のやり方と調理技術を我が商会の傘下に迎え入れたいのです」
ロベールが羊皮紙を広げた。そこには整然とした文字で条件が記されていた。
「現在の一台から、同じ造りの移動食堂車を五台へ増やします。車両を仕立てる費用、牽引用の良質な馬の調達、消耗品費はすべて白梟商会が負担します。エステルさんには全五台の調理責任者として、献立の管理と調理人の指導をお任せしたい。ヴァンサンさんには五台すべての運行計画、仕入れ網の統括、資材管理の責任者となっていただきます」
エステルは思わず羊皮紙を覗き込んだ。そこに書かれた報酬の数字を見て、小さく口を開けた。
「……これ、今のうちの取り分より、ずっと多い」
「ええ。責任者としての定額の報酬に加え、各車両の売上に応じた加算もつきます。万が一、悪天候で街道が封鎖されたり、車軸が折れるような重大な事故が起きたりしても、定額の支払いは保証されます。赤字や修繕の持ち出しは商会が背負いますから」
エステルの胸の中で、熱いものが跳ねた。
五台。
同じ馬車が五台になり、自分が考えた料理が、自分が直接行けない別の峠や南の街道でも食べられるようになる。寒さに震えている旅人や、何日も乾パンをかじり続けて顎を痛めている若い荷運びたちに、温かいスープと柔らかい麦パンを届けることができる。
しかも、馬が病気になったらどうしようとか、次の冬を越すための薪代が足りるだろうかとか、そういう心配も減る。
「五台……すごいわね。あっちの東部街道にも出せるってこと?」
「ええ、可能です。東部街道は整備が遅れていて補給地点が少ないですから、移動食堂の需要は非常に高い」
ロベールの言葉に、エステルは顔を輝かせた。
しかし、横で羊皮紙の条文を指でなぞっていたヴァンサンは、感情を動かさずに言った。
「条件の裏があるはずだ。白梟商会が慈善事業をやっているわけがない。馬車はどうなる」
「《銀匙号》の車体、および今後増備する四台は、すべて白梟商会の持ち物となります」
ロベールは平然と答えた。隠す気も、誤魔化す気もないようだった。
「お二人は店主ではなく、商会に雇われる身となっていただきます。当然、路線計画の最終決定、食材の仕入れ先、一食あたりに使える材料代、基本の献立を決める権利は、商会の運行管理本部にあります」
「……献立を決める権利が、本部?」
エステルが首を傾げた。
「私が決めるんじゃないの? 料理の責任者なんでしょ?」
「責任者として、基本献立の提案をしていただきます。ただし、五台で均一な味と儲けの幅を保つため、使用する食材は商会が一括購入する指定品に限られます。また、現場で勝手に献立を変えることは認められません」
「勝手な変更って……例えば、今日みたいに急に冷たい風が下りてきたら? 冷たい料理をやめて、温かい煮込みを倍に増やしたりするのもダメなの?」
「五台の運営は、前日までの仕入れ計画に基づいて行われます。各車両が現場判断で食材を別用途に回せば、全体の在庫が狂いますからね。変更する場合は、次の営業分から商会側へ届け出て承認を得る規則になります」
「エステルさん、悪気があって縛るわけではないのです。五台を破綻なく回し、確実に利を出し続けるためには、例外を減らして仕組みを揃えるのが最も安全なのです。味のばらつきを防ぎ、どこの《銀匙号》に行っても同じ代金で同じ食事が出る。それが商隊の信用になります」
エステルは言葉を詰まらせた。
言っている意味は分かる。理屈としては正しい。けれど、想像してみると胸のあたりが妙に息苦しかった。
目の前にいる客の震える指先を見て、「今日は予定外だけど麦を多めに入れよう」と決めることができない。
「それから」
ロベールはもう一枚、別の羊皮紙を取り出した。
「これは仮の提案ですが、もしお二人が『五台の移動食堂』という形にこだわらないのであれば、個別の道もご用意しております」
「個別?」
「はい。エステルさんには、王都の商業区に商会が所有している空き店舗がございます。そこで腰を据えた定食屋を開くための費用と改装費を、全額商会が出します。あなたの腕があれば、王都の宿屋街で繁盛店を作れる。馬車の上で泥にまみれて鍋を振る必要はありません」
エステルは瞬きをした。
王都の、自分の店。
料理人なら誰もが一度は思い描く話だ。天候に左右されず、立派な石造りの厨房で、好きなだけ香辛料や新鮮な肉を使って料理を作る。
「そしてヴァンサンさん」
ロベールはヴァンサンに向き直った。
「あなたの補給管理の腕は、移動食堂一台に留めておくには惜しい。商会直営の第三物資集積所で、副総括の席を用意します。帳簿の管理、輸送手順の策定、街道筋の価格交渉。あなたの能力なら、三年で総括まで上がれるでしょう」
ヴァンサンの視線が、わずかに動いたのをエステルは見逃さなかった。
補給係として商隊を渡り歩いてきたヴァンサンにとって、大手商会の集積所を統括する地位がどれほど魅力的なものか、エステルにも想像がついた。
どちらを選んでも、破格の待遇だった。
「返事は急ぎません。五日後、商会の巡回便が再びこの街道を通ります。その時に返事をいただければ結構です。……ご検討を」
ロベールは丁寧に頭を下げ、軽快な馬車に戻っていった。
街道に再び静けさが戻り、夕暮れの乾いた風が《銀匙号》の幌を小さく揺らした。
*
夜になり、冷え込みが厳しくなった。
馬車の周囲に焚き火を熾し、二頭の馬に飼料袋を掛けたあと、二人は販売台を畳んだ車内の狭い作業台を挟んで腰を下ろした。
夕食は、昼に自分たちの分だけ取り分けておいた麦粥に湯を足し、少しの塩と干し肉の切れ端を入れて温め直したものだ。
「……五台かあ」
木匙を動かしながら、エステルがぼんやりと呟いた。
「すごい話よね。馬車も馬も商会持ちで、決まった報酬もあんなに出て」
「ああ。条件としては破格だ。商会側の数字も見たが、かなり堅実だった。買い叩く気はないらしい」
「ヴァンサン、あれ……受けたい?」
率直に尋ねると、ヴァンサンは匙を止め、エステルをまっすぐに見た。
「受けるべき話だ」
「受けるべき?」
「お前は今の営業がうまく回っていると思っているだろうが、綱渡りだぞ」
ヴァンサンの口調は淡々としていた。
「去年、西の悪路で右の後輪軸が折れたのを覚えているか」
「……うん。大きな音がして傾いたやつ」
「鍛冶屋を呼んで、予備の車軸を宿場から取り寄せて、修理が終わるまでに丸四日かかった。あの四日間で、うちの修繕のための蓄えはほぼ底をついた。売上はなく、宿泊費と馬の飼料代だけが出ていったからだ。もしあの時、馬が一頭でも脚を痛めていたら、俺たちは馬車を売り払って借金を背負っていた」
エステルは自分の匙を見つめた。
車軸が折れた四日間、自分が考えていたのは、使えなくなった食材をどうするかばかりだった。宿場の片隅で残った野菜を干し、傷みやすい肉を塩漬けにし直すことだけに追われて、修理代をどこから出したのか、ヴァンサンに聞いたことすらなかった。
「半年前にお前が高熱を出して三日間寝込んだ時も営業を止めた。俺一人じゃ煮込みの味は出せないし、客を捌ききれない。逆に俺が倒れたら、仕入れが止まって馬車の整備ができなくなる。この店は、どちらか一人が一週間動けなくなるだけで立ち行かなくなるんだ」
「でも、なんとか持ち直したじゃない」
「運が良かっただけだ。手伝いを一人雇っても、車軸が折れた月にそいつの給金を払える保証がない。だから固定では抱えられない。お前はよく『もう一台増やしたい』と言うが、二台目を買うための金は今の儲けじゃあと五年かかる。その五年間に重大な事故が一度も起きない保証がどこにある?」
数字を突きつけられて、エステルは唇を噛んだ。
反論したかったが、言葉が出てこなかった。
エステルは毎日の料理のことしか考えていなかった。今日の客が美味しかったと言ってくれたか、明日はどんなスープを作ろうか。そればかりを考えて、修理代がいくら残っているのか、馬の蹄鉄の替えが何組あるのかは、すべてヴァンサン任せだった。
「……ヴァンサンが全部管理してくれてたから、私は平気だと思ってた」
「俺だって限界はある。白梟商会の傘下に入れば、その危険をすべて商会が肩代わりしてくれる。壊れたら代車が出るし、病気になっても代わりの人間が手配される。……これ以上安全な道はない」
「でもね、ヴァンサン」
エステルは顔を上げた。
「私、今日の客の顔を見てスープの濃さを変えられないのは嫌だ」
「それは我儘だ」
「我儘じゃないよ。あそこを通る旅人は、みんな同じじゃない。南から来た人は塩気に弱くて酸味を欲しがるし、峠を越えてきた人は脂と濃い味を求めてる。風が冷たくなったら温かいものを出したいし、日差しが照りつけたら冷たい水と果物のシロップ煮を出したい。それを『承認がないからダメ』なんて言って、冷え切った人に冷たい豆を出せっていうの?」
「冷たい豆でも腹は満たせる。商隊の補給としてはそれで足りるんだ」
「私は補給物資を作ってるんじゃない。ご飯を作ってるの」
怒鳴り合う喧嘩なら、これまでにも数え切れないほどしてきた。干し茸の量で、塩の銘柄で、進むべき路線の選択で。
ヴァンサンが小さく息を吐いた。
「……じゃあ、もう一つの提案はどうする。お前は王都に店を持てる。白梟が出資してくれるなら、立派な厨房で、お前の好きなように日替わりの献立を作ればいい。現場の判断で塩加減を変えても、誰も文句は言わない」
王都の店。天候に怯えることもなく、車輪の心配をすることもなく、自分の料理を思う存分振る舞える場所。
「……ヴァンサンはどうするの? 集積所の副総括になるの?」
「悪くない話だ。商会の物資網を扱えるなら、動かす規模は今の百倍になる」
作業台の上に置かれた小さなランプの灯りが、ヴァンサンの横顔を照らしていた。
白梟商会の提案を受け入れれば、二人とも今よりずっと豊かになれる。立場も暮らしも安定する。
二人でこの窮屈な馬車にすがりついて、車軸の軋みに怯えながら泥道を這い回る必要など、どこにもないのだ。
ヴァンサンが視線を戻した。
「お前、一人で王都の店をやれるか?」
「やれるよ」
エステルは迷わず答えた。
厨房の切り盛りも、仕込みの配分も、客とのやり取りも、自分一人で十分に回せる。帳簿付けだって、勉強すれば店一軒分くらいなら管理できるようになる。誰かに頼らなければ生きていけないほど、自分の腕を安く見積もってはいなかった。
少しの間を置いてから、エステルは言った。
「あなたもでしょ? 一人で集積所を回せる?」
「……できる」
ヴァンサンもまた、淀みなく答えた。
「そうよね」
エステルは膝の上で両手を組んだ。
「じゃあ、できないから一緒にいるわけじゃないでしょ」
ヴァンサンは何も言わなかった。
「私、あなたがいないとご飯が作れないわけじゃない。あなたも、私がいないと帳簿がつけられないわけじゃない。お互い、一人でもちゃんと飯を食っていける。……なのに、どうして今まで一緒にやってきたの?」
「…………」
「私、王都の立派な厨房よりも、この馬車で『豆を使いすぎ』ってあなたと喧嘩してる方が好きなの。荒野の真ん中で煙突から煙を出して、遠くから歩いてきた旅人が小走りで駆けてくるのを見るのが好きなの」
エステルの言葉に、ヴァンサンは天井の梁を見上げた。
木目の傷を数えるような沈黙のあと、彼はぽつりと言った。
「……楽しいだけでは、店は続かない」
「分かってる」
「干し茸を三十袋買うのは勝手だが、その分の金が寝る。車軸が折れたら直さなきゃならない。お前が『美味しくしたいから』と肉の量を増やせば、俺が次の仕入れで別の何かを削って辻褄を合わせるんだ。お前は料理と客の顔だけを見ていればいいが、俺は常に『明日この店が潰れるかもしれない』と思いながら帳簿をつけてきた」
「……うん」
「お前がその面倒を俺に丸投げしている限り、俺は白梟の提案に乗る方が合理的だと判断せざるを得ない。俺はお前の保護者じゃない。共同店主だ」
言い訳の余地がなかった。
エステルは「良いものを作れば店は続く」と信じていた。美味しくて、客が喜んでくれれば、お金は自然と回るのだと。
「……ごめんなさい」
エステルは頭を下げた。
「私、甘えてた。店を続けるって、美味しいものを作るだけじゃダメだったんだね。ヴァンサンに全部押しつけてた」
「……分かればいい」
「でもね、ヴァンサン。私、やっぱりこの馬車で、あなたと一緒に商売がしたい」
「堂々巡りだ。じゃあ危険はどうする」
「私も一緒に背負う」
「口で言うのは簡単だ」
「数字、覚える。次の仕入れから、材料代の計算も私がやる。今日の麦粥だって、高くなった分、別のどこで帳尻を合わせるか私が考える。干し茸も、本当に使い切れる分しか買わない。二台目を出すための貯金だって、毎月いくら残すかちゃんと計画立てて、私も削れるところは削る」
エステルは作業台の上に身を乗り出した。
「面倒なことも半分ずつ背負うから、もう一回一緒にやってよ」
ヴァンサンはしばらく黙っていた。
やがて口元をわずかに緩める。
「……計算を教えるのは骨が折れるぞ」
「覚悟の上よ。暗算だって練習する」
「干し茸は十五袋、次の宿場で売る。多少安くなっても抱えて傷ませるよりましだ」
「……十袋じゃダメ?」
「十五袋だ」
「……はい」
ヴァンサンはランプの芯を少し下げ、腕を組んだ。
「で、白梟には何て断る。ただ『嫌です』じゃ、角が立つぞ」
「ただ断るんじゃないわ」
エステルは答えた。
「商売の話をするのよ。向こうにとっても、うちにとっても実のある話をね」
*
五日後、約束の正午にロベールの馬車が再びやってきた。
前回と同じように、ロベールは穏やかな足取りで《銀匙号》の販売台へと歩み寄ってきた。台の上には、温かい麦茶の入った木製のカップが一つ用意されていた。
「どうぞ。朝摘んだ野草を少し混ぜて香りを立ててあります」
「おや、恐れ入ります」
ロベールは一口啜った。
「染み渡るようです。……さて、お二人。よいお返事はいただけそうでしょうか」
エステルとヴァンサンは並んで立っていた。
前に進み出たのはヴァンサンだった。彼は羊皮紙を一枚、台の上に置いた。白梟商会が出してきたものとは別の、ヴァンサン自身が書いた箇条書きの紙だった。
「ロベールさん。《銀匙号》の売却、および商会へ雇われる話はお断りします。個別提案も同様です」
ロベールは声の調子を変えず、わずかに眉を寄せた。
「……そうですか。残念です。移動食堂を五台に増やす計画も、白紙に戻さざるを得ませんね」
「いいえ、すべてを無しにする必要はありません」
今度はエステルが口を開いた。
「白梟商会が欲しかったのは、うちの移動食堂が提供する確実な食事ですよね。それなら、店ごと買い取らなくてもやりようがあります」
「ほう?」
「うちを商会の持ち物にする代わりに、取引契約を結びましょう」
ヴァンサンが紙を指先で示した。
「まず、白梟商会が運行する西部の峠越え路線、この一路線で試験的に提携したいと考えています。その路線を通る商隊について、定宿で人数をまとめ、商会の伝令で前日までに食数の書付をこちらへ回していただく。その人数分の食事を、通常価格より一割引きで提供します」
「……一割引き、ですか」
「ええ。数が前日までに分かれば、集積所で必要量をまとめて仕入れられる。宿場で一割五分高い麦を買い足すことも減ります。一割引いても、うちの手元には十分な実入りが残る。商会側にとっても、自前で馬車を仕立てて維持費を払い続けるより、うちと請負の形をとる方が、最初に必要な費用も、運行が止まった際の持ち出しも格段に少なくて済むはずです」
ロベールは目を細め、台の上の紙に視線を落とした。
指先で自分の髭を撫でながら、数字を追う。
「なるほど。……ですが、それでは現在の一路線しか補給できませんね。商会としては主要三路線を押さえたいのですが」
「今すぐには無理です。うちは一台しかありませんから」
ヴァンサンははっきりと言った。
「ですが、この一路線で安定した取引が続けば、うちの蓄えも計画通りに進みます。二年半で二台目の馬車を自分たちで仕立てる。信頼できる料理人と御者を育て、その二台目が走れるようになった時に、二路線目の提携を結べればいい」
「二台目は、自分たちのお金で出します」
エステルが言葉を重ねた。
「献立も、価格も、運行の最終判断も私たちが持ちます。その代わり、商隊の皆さんには、街道で一番美味しくて腹にたまるご飯を出すって約束します」
ロベールは麦茶の残りを静かに飲み干した。
羊皮紙に書かれた収支の見積もりをもう一度見てから、顔を上げる。
「なるほど。……それなら、こちらにも利がありますね」
ロベールは紙を丁寧に巻き直した。
「自前で五台を急ぎ揃える計画には、車両の調達や人員の質という点で、運行管理部内でも懸念の声が出ていたところです。確実に実績のある一台と手を組み、商隊の補給を安定させられるなら、商会としても無理のない落としどころです。……持ち帰って本部に諮ります。おそらく通るでしょう」
「よろしくお願いします」
ヴァンサンが一礼した。ロベールは帽子に手を当て、馬車へ戻る直前にエステルを振り返った。
「エステルさん。王都の店は、本当に惜しいと思いますが」
「ありがとう。でも私、馬車の上が性に合ってるみたい」
エステルが笑うと、ロベールも頷き、馬車へと乗り込んでいった。
二頭立ての馬車が土煙を上げて遠ざかっていくのを、二人は並んで見送った。
「……二年半で貯めるの、本当にやるんだからね」
「毎日お前が仕入れの基準を守ればな」
「守るわよ」
「今日からだぞ。昼の仕込みの大麦、一升あたりの単価を言ってみろ」
「ええと……銀貨半分?」
「銅貨四枚半だ。もう一度最初から叩き込む」
「うう……厳しい……」
文句を言いながらも、エステルの足取りは軽かった。
*
それから三週間が過ぎた。
白梟商会との提携は正式に決まり、峠越えの路線を通る商隊の通過日程が事前に共有されるようになった。定期商隊が通る日は必要な食数が前日までに分かるようになり、仕入れの読み違いは以前より減った。エステルは毎日、油の染みた帳簿と格闘しながら、大鍋の火加減を調節している。
雲ひとつない青空の下、峠の休憩地に止めた《銀匙号》の車体横で、ヴァンサンが金槌を振るっていた。
幌の下、古い看板が外された跡に、新しい木製の看板を打ち付けているところだった。
以前の看板には、エステルの名前だけが焼き付けられていた。料理人の名前を前面に出した方が客を引きやすいという、開業当初のヴァンサンの判断だった。
だが、新しい看板を注文しようと言い出したのはエステルだった。
「別に変える必要はなかっただろ。看板代だって銅貨六十枚かかってるんだぞ」
釘を口にくわえたまま、ヴァンサンが不服そうに言った。
「いるの。二台目を出すんでしょ? 誰の店か、ちゃんと外にも中にも示しておかないと気が引き締まらないじゃない」
「俺の名前が入ったところで、客が美味そうだと思うわけじゃない」
「私には必要なの」
エステルが腕を組むと、ヴァンサンは呆れた顔で最後の一打を力強く打ち込んだ。
磨かれた硬木に、焼き印でくっきりと焼き付けられた文字。
《銀匙号》
店主 エステル・ノアール
店主 ヴァンサン・ベルク
二つの名前が、まったく同じ大きさで並んでいた。
「よし、水平だ」
ヴァンサンが脚立から降りたのと、街道の向こうから足音が聞こえてきたのはほぼ同時だった。
見慣れない革鎧を着た、若い冒険者の男が二人。腹を空かせた様子で足早に近づいてくる。跳ね上げた側板の下から漂う肉の匂いに引き寄せられたようだった。
「すいません、開いてますか!」
「いらっしゃい! ちょうど煮込みが出来上がったところだよ!」
エステルが声を上げ、布巾で手を拭いた。
若い冒険者たちは足を止め、看板の文字をまじまじと見つめてから、台の前に並び立つエステルとヴァンサンを交互に見比べた。
「あの……店主さんは、どちらです?」
二人は示し合わせたわけでもなく、同時に口を開いた。
「私です」
「俺です」
声が重なり、二人は互いの顔を見合わせた。
エステルが吹き出しそうになるのを堪え、苦笑いを浮かべて言った。
「二人です」
「面倒ですが」
ヴァンサンがぼそりと付け加える。
「ちょっと、余計なこと言わない!」
「事実だろ」
冒険者の二人はぽかんとしていたが、やがて顔を見合わせて小さく笑った。
「じゃあ、店主さんたち。おすすめを二人前もらえますか。腹が減って死にそうなんです」
「はいよ、任せて!」
エステルは鉄鍋の重い蓋を持ち上げた。
ごうと白い湯気が立ち上り、春の澄んだ空気の中へ、煮込まれた肉と香味草の匂いが一気に広がっていった。
「今日のはね、しっかり歩いた人にちょうどいいように、塩を利かせて、大麦もたっぷり入れてあるよ。パンも温めるから、少し待っててね」
木杓を構えたエステルの横で、ヴァンサンが素早く清潔な木皿を二枚、台の上に滑らせた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
面白かったと思っていただけましたら、評価していただけると今後の作品制作の参考になります。




