やり直しスイッチ
第一章 『やり直しスイッチ』
Scene 1 いつもの朝
朝六時四十分。
スマートフォンのアラームが鳴る三秒前に、春人は目を覚ました。
天井を見つめたまま、小さく息を吐く。
「……今日もか。」
独り言ともため息ともつかない声が、静かな部屋に溶けていく。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、床に細い線を描いていた。
冷蔵庫を開ける。
ミネラルウォーター。
卵が二つ。
賞味期限が今日までの食パン。
「買い物、忘れてたな。」
そうつぶやいて食パンを焼く。
焦げ目が少しだけ付きすぎた。
「まぁ、何とかなる。」
それが春人の口癖だった。
うまくいかない日も。
失敗した日も。
少しだけ笑ってそう言う。
「まぁ、何とかなる。」
誰に聞かせるわけでもない、その一言が彼を支えていた。
テレビでは朝のニュースが流れている。
「今日は各地で夕焼けが美しく見られるでしょう。」
キャスターが笑顔でそう伝えていた。
春人はコーヒーを一口飲み、ネクタイを締める。
鏡の中の自分は、少し疲れた顔をしていた。
「今日ぐらい、早く帰れるかな。」
玄関を開ける。
夏の朝の空気が少しだけ湿っている。
蝉の声。
遠くで電車が走る音。
小学生たちの笑い声。
どれも昨日と同じ。
変わらない朝だった。
少なくとも、この瞬間までは。
⸻
Scene 2
いつもの道
会社まで歩いて十五分。
春人は決まって駅前のコンビニに寄る。
自動ドアが開く。
「おはようございます。」
店員の女性が笑顔を向けた。
「ホットコーヒー、いつものサイズでよろしいですか?」
「はい。お願いします。」
この何気ないやり取りが、春人は好きだった。
名前も知らない。
趣味も知らない。
でも、お互いに「いつもの朝」を知っている。
それだけで十分だった。
レジ横には、小さな募金箱が置かれている。
春人は財布から十円玉を一枚入れた。
店員は軽く会釈をした。
「ありがとうございます。」
春人も軽く頭を下げる。
そのやり取りを見ていた一人の小さな男の子が、母親に聞いた。
「どうして、お兄ちゃん、お金入れたの?」
母親は少し考えてから答えた。
「誰かの今日が、少しだけ良くなるかもしれないからじゃないかな。」
春人は振り返らなかった。
でも、その言葉だけは耳に残った。
Scene 3 「いつもの会社」
会社に着くと、エレベーターの前には見慣れた顔が並んでいた。
「おはようございます。」
誰かが言えば、誰かが「おはよう」と返す。
特別な朝ではない。
だからこそ、後になって春人は何度も思い返すことになる。
──この朝が、一番幸せだった。
「おっ、春人!」
背中を軽く叩かれ、振り返る。
佐藤だった。
学生時代からの友人であり、今は同じ会社で働く同僚。
「また寝癖ついてるぞ。」
「嘘だろ?」
春人は慌てて髪を触る。
佐藤は腹を抱えて笑った。
「冗談だって。」
「朝から人を騙すなよ。」
「その反応が面白いんだよ。」
二人は笑いながらオフィスへ向かった。
この何気ない会話を、春人はあとになって何百回も思い出すことになる。
⸻
午前中は慌ただしかった。
印刷会社への大口案件。
資料の修正。
得意先からの電話。
メール。
会議。
時計を見る暇もない。
昼を少し過ぎたころ、美咲からメッセージが届いた。
『今日、早く終われそう?』
春人は少し考えてから返信した。
『たぶん無理。ごめん。』
すぐに返事が返ってくる。
『また今度でいいよ(o^^o)』
その笑顔の絵文字に、胸が少し痛んだ。
最近、「また今度」が増えている。
本当は今日、一緒に夕飯を食べる約束だった。
春人はスマートフォンを伏せ、小さく息をつく。
「ごめんな……。」
その言葉は、美咲にも、自分にも向けたものだった。
⸻
午後三時。
会議室の空気は重かった。
取引先へ提出する最終データ。
その中に、一つだけ重大なミスが見つかった。
「……誰が確認した?」
部長の低い声が響く。
誰も答えない。
資料を見た春人の顔から血の気が引いた。
自分だった。
最終確認のチェック欄には、自分の名前がある。
「私です。」
部長は怒鳴らなかった。
その代わり、静かに言った。
「急いで修正してくれ。」
その静かな声の方が、春人にはつらかった。
会議室を出ると、佐藤が缶コーヒーを差し出した。
「飲め。」
「……ありがとう。」
「人間、ミスぐらいする。」
春人は苦笑いした。
「でもさ。」
佐藤は窓の外を見ながら続ける。
「その一回のミスだけで、自分全部を否定するなよ。」
春人は返事をしなかった。
返事ができなかった。
その言葉は、今の自分には少しだけ重かった。
⸻
夕方。
ようやく仕事が終わる。
時計は午後七時四十分を指していた。
オフィスを出ると、空は茜色に染まっている。
朝、ニュースで言っていた通りだった。
「今日は各地で夕焼けが美しく見られるでしょう。」
その言葉を思い出し、春人は空を見上げる。
「……きれいだな。」
その夕焼けは、なぜか少し寂しく見えた。
駅へ向かう途中、公園のベンチに目をやる。
毎日同じ時間に座っている、おばあさんがいた。
今日も鳩にパンくずを分けている。
鳩たちは安心しきった様子で、おばあさんの足元に集まっていた。
春人は軽く会釈をする。
おばあさんも微笑んで、小さく手を振った。
言葉を交わしたことは、一度もない。
それでも、このやり取りは春人の「いつもの帰り道」の一部だった。
⸻
その日の帰り道。
春人はまだ知らなかった。
この「いつもの風景」が、もう二度と同じ形では戻ってこないことを。
Scene 4 寄り道
駅へ向かう人の流れから、春人は少しだけ外れた。
理由はなかった。
いや、理由をつけるほどのものではなかった。
ただ、少し歩きたいと思っただけだ。
夏の夜は、昼間の熱気をアスファルトの上に残している。
スーツの上着を肩に掛け、ネクタイを少し緩める。
スマートフォンには、美咲とのやり取りが残ったままだ。
『また今度でいいよ(o^^o)』
画面を閉じても、その一文だけは胸の奥に残っていた。
「……また今度、か。」
その”また今度”が、どれだけ簡単に失われるものなのか。
このときの春人は、まだ知らない。
⸻
住宅街へ入ると、人通りは急に少なくなった。
昼間なら子どもたちが遊んでいる小さな公園も、今はブランコが風に揺れているだけだった。
ギィ……。
ギィ……。
規則正しい音だけが夜に溶けていく。
春人は足を止めた。
誰も乗っていないブランコが揺れている。
風だろう。
そう思った。
それなのに、なぜか胸がざわついた。
そのときだった。
どこからか、小さな歌声が聞こえた。
♪ 今日の日はさようなら
またあう日まで……
子どもの声だった。
透き通るような、優しい歌声。
春人は思わず辺りを見回す。
公園には誰もいない。
歌声だけが、どこか遠くから流れてくる。
「……誰だ?」
一歩。
また一歩。
歌に導かれるように歩いていく。
⸻
住宅街のはずれ。
古びた商店街。
ほとんどの店はシャッターを閉めていた。
八百屋。
文房具店。
時計屋。
どれも時代から取り残されたように静まり返っている。
その一角だけが、ぼんやりと明かりを灯していた。
小さなネオン。
何度も点滅を繰り返しながら、かろうじて文字を照らしている。
GAME PALACE
春人は眉をひそめた。
「こんな店……あったっけ?」
毎日この駅を利用している。
何度もこの道を歩いている。
それなのに、この店を見た記憶がない。
ネオンが一度だけ強く光り、また弱くなる。
まるで「入っておいで」と呼んでいるようだった。
歌は、まだ続いている。
♪ 今日の日はさようなら……
春人は無意識に扉へ手を伸ばした。
カラン……
鈴の音が静かに鳴る。
⸻
Scene 5 止まった時間
店の中は驚くほど静かだった。
ゲームセンターなのに、騒がしさがない。
古いアーケードゲーム。
ブラウン管のレースゲーム。
埃をかぶったクレーンゲーム。
壁には色あせた映画のポスター。
どれも電源は入っているのに、まるで時間だけが止まっているようだった。
店内には、さっきまで聞こえていた歌が、オルゴールのような音色で静かに流れている。
春人はゆっくり歩き出す。
ふと、壁に掛かった時計が目に入った。
八時十七分。
その隣の時計も。
さらに奥の時計も。
全部、八時十七分で止まっていた。
「……故障か?」
そう呟いた瞬間、
「違うよ。」
声がした。
驚いて振り返る。
ゲーム機の影から、小さな女の子が顔をのぞかせていた。
赤いランドセル。
白いワンピース。
胸の前で、小さな紙飛行機を抱えている。
春人は少し笑う。
「こんな時間に、一人?」
少女は答えない。
代わりに、春人の目をまっすぐ見つめた。
そして、小さく首を横に振る。
「お兄ちゃん……」
その声は、どこか悲しそうだった。
「まだ、来ちゃだめだったのに。」
春人は意味が分からず苦笑する。
「え?」
少女は紙飛行機を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「一回だけなら、まだ帰れるかもしれない。」
その言葉の意味を聞き返そうとした、そのとき——
店の奥から、ゆっくりと椅子を引く音がした。
ギ……。
薄暗いカウンターの向こう。
白髪の老人が静かに立ち上がる。
春人を見る。
その目には驚きはない。
まるで、何年も前から今日という日を待っていたかのように。
老人は小さくため息をつき、穏やかな声で言った。
「……来てしまったか。」
その一言に、春人は説明のできない寒気を覚えた。
老人は春人ではなく、少女を見て静かに言う。
「この子は止めたんじゃろう?」
少女はうつむいたまま、小さくうなずく。
老人は目を閉じ、そして春人へ向き直る。
「若いの。」
「一つだけ聞く。」
「お前さんには……」
老人は少し間を置いた。
「今日を、やり直したい理由があるか?」
Scene 6 赤いボタン
店内は静まり返っていた。
聞こえるのは、古いスピーカーから流れるオルゴールの音色だけ。
♪ 今日の日はさようなら……
老人はカウンターの奥から一つの湯飲みを取り出し、ゆっくりとお茶を注いだ。
湯気が細く立ち上る。
「座りなさい。」
春人は戸惑いながら木製の椅子に腰を下ろした。
少女は少し離れたクレーンゲームの前に立ち、ガラス越しにぬいぐるみを見つめている。
取る気はない。
ただ、眺めているだけだった。
老人は湯飲みを春人の前に置く。
「温かいうちに飲め。」
「……ありがとうございます。」
一口飲む。
不思議だった。
初めて来た店なのに、どこか懐かしい味がした。
祖父の家で飲んだ麦茶に似ている。
老人は春人を見つめたまま言った。
「人はのう。」
「人生で二種類の後悔をする。」
春人は黙って耳を傾ける。
「やってしまった後悔。」
老人は指を一本立てる。
「そして。」
もう一本。
「やれなかった後悔じゃ。」
店内に沈黙が落ちる。
「どちらが苦しいと思う?」
春人は少し考えて答えた。
「……やれなかった方、ですか。」
老人は静かに笑った。
「わしもそう思う。」
「だから人は、“あの日に戻りたい”と願う。」
老人は立ち上がる。
「ついて来なさい。」
⸻
店の一番奥。
そこだけは照明が少し暗かった。
ゲーム機もない。
ポスターもない。
まるで、その空間だけが店の外にあるようだった。
木の台座が一つ置かれている。
その上に、ガラスケース。
中には、赤いボタンがあった。
直径十センチほどの、丸いボタン。
新品ではない。
何度も誰かに押されたように、表面だけが少し擦れている。
春人は思わず笑った。
「これ……ですか?」
老人はうなずく。
「やり直しスイッチじゃ。」
「冗談ですよね?」
「そう思うなら、それでいい。」
老人は否定もしなかった。
肯定もしなかった。
春人は肩をすくめる。
「押したら、何が起きるんです?」
老人は少しだけ目を閉じた。
そして、ゆっくりと答える。
「今日が終わる。」
「……え?」
「それだけじゃ。」
「今日が終わって、新しい今日が始まる。」
春人は苦笑する。
「毎日そうですよね。」
「違う。」
老人の声が初めて強くなった。
「お前さんの知っとる『今日』が終わる。」
その言葉に、春人は笑えなくなった。
⸻
少女が、そっと近づいてきた。
その小さな手が、春人の袖をつかむ。
「お願い……。」
震える声だった。
「押さないで。」
春人はしゃがみ込み、少女と目を合わせる。
「どうして?」
少女は唇を噛みしめる。
「一回なら……まだ大丈夫。」
「でも……」
そこから先の言葉が出てこない。
代わりに、大きな瞳から涙が一粒だけこぼれた。
「もう……誰も、いなくなってほしくない。」
春人の胸が締めつけられる。
見ず知らずの少女。
それなのに、その涙は不思議なくらい心に刺さった。
⸻
「若いの。」
老人が静かに言う。
「押すも押さぬも、お前さんが決めることじゃ。」
「わしは勧めん。」
「止めもせん。」
「人生というものは、人に決めてもらうものではないからの。」
春人は赤いボタンを見る。
美咲との約束。
仕事の失敗。
佐藤の言葉。
「その一回のミスだけで、自分全部を否定するなよ。」
コンビニの店員。
鳩に餌をやるおばあさん。
焦げたトースト。
今日見た夕焼け。
何気ない一日が、頭の中をゆっくり流れていく。
「……もし。」
春人は小さく呟いた。
「もし、本当に今日をやり直せるなら。」
「美咲との約束を守れたかもしれない。」
「仕事も失敗しなかったかもしれない。」
「もっと、ちゃんと笑えたかもしれない。」
少女は首を横に振る。
何度も。
何度も。
「違う……。」
その声は、祈るようだった。
「その”かもしれない”が、一番こわいの。」
⸻
春人はガラスケースに手を伸ばす。
カチリ。
蓋が、音もなく開いた。
老人は目を閉じた。
少女は顔を伏せた。
店のスピーカーから流れるオルゴールが、少しだけ大きくなる。
♪ 今日の日はさようなら……
春人の指先が、赤いボタンに触れる。
温かかった。
まるで、誰かの手のひらのように。
「……一回だけ。」
その言葉は、自分に言い聞かせるためのものだった。
指先に、ゆっくりと力が入る――。
Scene 7 今日の日はさようなら
春人の指先が、赤いボタンに触れていた。
店の中は、息をすることさえためらうほど静かだった。
少女は春人の袖をつかんだまま、小さく震えている。
老人は目を閉じていた。
止めない。
勧めない。
ただ、その選択を見届けようとしていた。
春人は赤いボタンを見つめる。
そこに映っているのは、自分の顔だった。
疲れた顔。
どこか諦めたような目。
ふと、今日一日が頭の中を流れ始める。
焦げたトースト。
コンビニで買ったコーヒー。
佐藤の笑い声。
「寝癖ついてるぞ。」
美咲から届いたメッセージ。
『また今度でいいよ(o^^o)』
部長の静かな声。
夕焼け。
鳩に餌をあげるおばあさん。
何気ない。
本当に何気ない一日。
春人は思う。
「この一日を、やり直したい。」
その瞬間だった。
少女が、泣きながら叫んだ。
「だめぇっ!」
その声は、店中に響いた。
けれど、もう遅かった。
春人の指が、ゆっくりと赤いボタンを押し込む。
カチッ。
あまりにも小さな音だった。
まるで、電気のスイッチを切るような音。
なのに、その一音だけが世界中に響いたような気がした。
⸻
オルゴールの音色が止まる。
一瞬の静寂。
そして――
♪ 今日の日はさようなら
またあう日まで
歌が流れ始めた。
今度はオルゴールではない。
誰かが本当に歌っている。
子どもたちの合唱だった。
優しく。
あたたかく。
それなのに、どうしようもなく切ない。
春人は振り返る。
ゲームセンターの照明が、一つ、また一つと消えていく。
パチン。
パチン。
パチン。
暗くなる。
でも、不思議と怖くはない。
まるで、一日が眠りにつくようだった。
クレーンゲームの光が消える。
ブラウン管の画面が消える。
ネオンが消える。
最後に、天井の蛍光灯が静かに明滅した。
少女は泣きながら歌を口ずさんでいた。
♪ 今日の日はさようなら……
老人は帽子を胸に当て、目を閉じている。
春人だけが立ち尽くしていた。
「……何が起きるんだ。」
誰も答えない。
歌だけが続く。
♪ またあう日まで……
床が揺れた。
いや。
揺れたのは世界の方だった。
壁の色がゆっくりと薄れていく。
ゲーム機の輪郭が滲む。
空気そのものが、水面のように波打ち始める。
春人は自分の手を見る。
指先が少しだけ透けていた。
「……え?」
少女が涙をぬぐいながら、小さく微笑んだ。
その笑顔は、どこまでも優しかった。
「お願い。」
「忘れないで。」
春人は聞き返そうとする。
「何を――」
言葉の途中で、世界は白く染まった。
音も。
景色も。
匂いも。
全部、光の中へ溶けていく。
最後まで聞こえていたのは、少女の声だった。
「また……会えるから。」
⸻
まぶたの裏に、朝日が差し込む。
鳥のさえずり。
カーテンが風に揺れる音。
春人はゆっくりと目を開けた。
天井。
時計。
見慣れた部屋。
スマートフォンを見る。
六月十七日 午前六時四十分。
昨日と同じ日付だった。
「……夢?」
安心して起き上がろうとした、そのとき。
リビングから声が聞こえた。
「春人ー! 朝ごはんできてるぞ!」
男の声。
聞き覚えのある声。
でも、いるはずのない声。
春人の身体が凍りつく。
ゆっくりとドアを開ける。
ダイニングには母がいた。
父が新聞を読んでいた。
そして――
笑いながら味噌汁をよそっている、一人の青年。
「お、春人。寝坊だぞ。」
その顔を見た瞬間、春人の喉から声にならない息が漏れた。
家族写真でしか見たことのない顔。
十年前、事故で亡くなったはずの兄。
青年は、不思議そうに首をかしげた。
「どうした?」
春人は震える唇を動かす。
「……兄ちゃん?」
青年は笑って答えた。
「朝から変なこと言うな。」
「俺は毎日ここにいるだろ。」
第二章 「消えた名前」
Scene 1 違和感の朝
味噌汁の湯気が、ゆっくりと食卓の上へ昇っていく。
焼き鮭。
だし巻き卵。
漬物。
朝食の匂いが部屋いっぱいに広がっていた。
「春人。」
母が笑う。
「何ぼーっとしてるの?」
春人は返事ができなかった。
目の前では、兄が当たり前のように味噌汁をすすっている。
新聞をめくる父。
キッチンでおかわりをよそう母。
どこを見ても、幸せな朝だった。
……幸せすぎた。
「春人。」
兄が箸を止める。
「昨日、遅かったんだろ?」
その声。
その笑い方。
家族写真でしか知らなかったはずの兄が、そこにいる。
春人は震える声で聞いた。
「兄ちゃん……仕事、何してるの?」
兄は目を丸くした。
「何だよ急に。」
父が笑う。
「寝ぼけてるんじゃないか?」
母まで笑い始める。
兄は照れくさそうに頭をかいた。
「市役所だよ。」
「もう五年になるだろ。」
五年。
春人の頭が真っ白になる。
兄は十年前に亡くなった。
その記憶だけは、はっきり残っている。
交通事故。
雨の日。
黒い傘。
病院の廊下。
母の泣き声。
全部、覚えている。
なのに。
「……そうだった。」
春人は笑うしかなかった。
世界がおかしいなんて言えるはずがない。
⸻
Scene 2 写真
会社へ向かう支度をしていると、玄関に飾られた家族写真が目に入った。
昨日までは三人だった。
父。
母。
春人。
今日の写真は違う。
四人。
父。
母。
兄。
春人。
兄は春人の肩に手を置き、満面の笑みを浮かべている。
写真立てを持つ手が震えた。
「どうしたの?」
母が不思議そうに聞く。
「その写真、好きだったでしょ?」
「高校卒業の日に撮ったやつ。」
春人は写真を見つめる。
昨日まで存在しなかった思い出が、写真の中には確かに存在していた。
そして、その写真を見ているうちに、奇妙な感覚が生まれる。
――兄と旅行に行ったような気がする。
――一緒に野球をしたような気がする。
知らないはずの記憶が、霧のように頭の中へ入り込んでくる。
春人は思わず額を押さえた。
「……違う。」
「これは、俺の記憶じゃない。」
その瞬間だった。
玄関の鏡に映った自分の姿が、一瞬だけ遅れて動いた。
春人は息を呑む。
もう一度見る。
何も変わらない。
鏡には、自分しか映っていない。
「気のせい……か。」
そう言い聞かせても、胸の鼓動だけは速くなる一方だった。
⸻
Scene 3 「いつもの」が一つ増える
駅前のコンビニ。
自動ドアが開く。
「おはようございます。」
店員は、いつもと同じ笑顔だった。
春人は少し安心する。
少なくとも、この人は変わっていない。
「ホットコーヒーですね。」
「はい。」
会計を済ませようとすると、店員が言った。
「今日はお兄さんはご一緒じゃないんですか?」
春人の手が止まる。
「……え?」
「いつも弟さんのこと待ってますよね?」
春人の喉が乾く。
「兄……ですか?」
店員は笑う。
「仲がいいですよね。」
「毎週水曜日は、お二人で来られるじゃないですか。」
今日は、水曜日だった。
春人は財布を落としそうになる。
そんな記憶はない。
一度もない。
でも、店員は嘘をついている顔ではなかった。
春人はコーヒーを受け取り、店を出る。
外の空気を吸っても、胸の苦しさは消えない。
「世界が変わったんじゃない。」
「世界は、最初からこうだったことになっている。」
その事実が、じわじわと春人の心を侵食し始める。
⸻
Scene 4 最初の喪失
会社の自動ドアが開く。
「おはようございます。」
いつものように挨拶をしながら、春人は辺りを見回した。
佐藤の姿がない。
「まだ来てないのか。」
そう思って席へ向かう。
だが。
佐藤のデスクがない。
観葉植物が置かれている。
春人は立ち止まる。
「……あれ?」
見間違いではない。
昨日まで、佐藤が座っていた場所だ。
隣の同僚に尋ねる。
「佐藤、休みですか?」
同僚は首をかしげた。
「佐藤?」
「営業二課の佐藤です。」
「……誰です?」
その一言で、世界から音が消えた。
コピー機の音。
電話のベル。
キーボードを打つ音。
全部、遠くなる。
春人は笑おうとした。
「いやいや、冗談でしょ。」
誰も笑わない。
「うちに佐藤って人、いましたっけ?」
別の社員までそう言う。
春人は急いで社員名簿を開く。
スクロールする。
さ行。
佐伯。
坂口。
桜井。
佐々木。
……
佐藤がいない。
スマートフォンを取り出す。
連絡先。
検索。
「佐藤」。
0件。
昨日まで毎日のようにやり取りしていた友人が、この世界から跡形もなく消えていた。
その瞬間、春人はようやく理解する。
少女が言った言葉は、脅しではなかった。
「一回だけなら、まだ帰れるかもしれない。」
“まだ”という言葉には、期限があったのだ。
Scene 5 覚えているのは、僕だけ
春人は自分の席に座ったまま、動けなかった。
モニターには営業資料が映っている。
電話が鳴る。
誰かが笑う。
コピー機が紙を吐き出す。
世界は昨日と何一つ変わらない速度で回っている。
変わってしまったのは、自分だけだった。
「春人さん。」
新人の女性社員が声を掛ける。
「この見積書、確認お願いできますか?」
「あ……うん。」
受け取る。
紙が少し震えていた。
いや、震えているのは自分の手だった。
「大丈夫ですか?」
「顔色、悪いですよ。」
「寝不足かな。」
自分でも驚くほど自然に笑えた。
笑顔というものは、不思議だ。
心が壊れかけていても作れてしまう。
⸻
昼休み。
春人は社員食堂へ向かわず、屋上へ出た。
真夏の日差しがコンクリートを照らしている。
風だけが少し気持ちよかった。
缶コーヒーを一本買い、ベンチへ座る。
いつもなら佐藤も一緒だった。
缶をぶつけて、
「午後も頑張るか。」
そう笑っていた。
春人は缶コーヒーを見つめる。
無意識に、もう一本買っていた。
隣へ置く。
誰も座らない。
それでも片付けられなかった。
「……馬鹿だな。」
笑おうとした。
声が震えた。
「いるじゃないか。」
返事はない。
風が空き缶を転がした。
カラン。
乾いた音が、屋上に響く。
春人は初めて、自分が泣いていることに気づいた。
⸻
Scene 6 世界の修正
午後の会議。
部長が資料を配る。
「この案件は、山口くんが担当してくれ。」
山口。
その名前に春人は顔を上げた。
山口は昨日まで別の部署にいたはずだった。
それなのに誰も不思議がらない。
山口も自然に営業二課の席へ座っている。
会議が終わると、春人は思い切って話しかけた。
「山口さん。」
「はい?」
「前から営業二課でしたっけ。」
山口は笑う。
「何言ってるんですか。」
「入社してからずっとですよ。」
「佐藤さんの後任で――」
そこまで言って、山口は首をかしげた。
「……あれ?」
一瞬だけ表情が止まる。
「後任……?」
自分で言った言葉に違和感を覚えたようだった。
しかし次の瞬間には笑っていた。
「すみません、変なこと言いました。」
春人の背筋を冷たいものが走る。
世界は矛盾を許さない。
矛盾が生まれると、人の記憶ごと書き換える。
それを、春人は初めて目の当たりにした。
⸻
Scene 7 もう一人の記憶
仕事を終えた帰り道。
春人は無意識に、公園へ足を向けていた。
夕焼けが街を赤く染めている。
昨日と同じ時間。
昨日と同じ景色。
……のはずだった。
ベンチが空いている。
鳩だけが集まっている。
パンくずは落ちていない。
あのおばあさんがいない。
春人はベンチの前に立った。
毎日いた。
雨の日も。
風の日も。
必ずここにいた。
「……今日は休みか。」
そう言い聞かせても、胸騒ぎは消えない。
近くで犬を散歩させていた男性に聞いてみた。
「あの、このベンチにいつも座っていたおばあさん、ご存じですか?」
男性は不思議そうな顔をした。
「おばあさん?」
「ええ。毎日鳩に餌を……」
男性は公園を見回し、首を横に振る。
「この公園で鳩に餌をあげてる人なんて、見たことないですよ。」
春人の呼吸が止まる。
昨日まで確かにいた。
コンビニの帰り、手を振ってくれた。
笑ってくれた。
それなのに。
春人はベンチへ手を伸ばす。
木の座面は、まだ少しだけ温かかった。
まるで、ついさっきまで誰かが座っていたように。
そのとき、風が吹いた。
ベンチの下から、一羽の白い折り鶴が転がってくる。
春人はゆっくり拾い上げた。
羽の内側に、小さな文字が書かれていた。
「まだ、間に合う。」
春人の心臓が大きく脈打つ。
この文字を知っている。
あの少女の字だ。
春人は折り鶴を握りしめ、夕焼けに染まるゲームセンターの方角を見つめた。
もう一度、あの場所へ行かなければならない。
答えを知るためではない。
誰かを、これ以上失わないために。
Scene 8 優しい世界
ゲームセンターへ向かう途中。
春人のスマートフォンが鳴った。
画面には、
美咲
の文字。
春人は少し迷ってから通話ボタンを押した。
「もしもし。」
『お疲れさま。』
その声は昨日と同じ。
優しい声。
安心する声。
「今日は……早く終わったんだ。」
『うん。』
少し笑う声。
『ご飯、一緒に食べない?』
春人は驚いた。
昨日は自分が断った。
今日は、美咲の方から誘ってきた。
「いいの?」
『今日は約束してた日でしょ。』
その一言に、春人の足が止まる。
約束していた。
その言葉は同じなのに、響きが違う。
まるで、この世界では昨日の約束がちゃんと守られていたかのようだった。
「……うん。」
春人は返事をした。
ゲームセンターへ行くはずだった。
でも、
今日は美咲を選んだ。
⸻
Scene 9 少しだけ違う
駅前の小さなレストラン。
窓際の席。
夕焼けがガラスを橙色に染めていた。
美咲はメニューを閉じる。
「今日はハンバーグにしようかな。」
春人は笑う。
「珍しいね。」
「え?」
「いつも魚じゃなかった?」
美咲は不思議そうな顔をする。
「私、お肉の方が好きだよ?」
春人は笑顔を作る。
「……そうだったね。」
でも違う。
美咲は魚が好きだった。
初めて旅行へ行った日も。
誕生日も。
いつも魚を選んでいた。
食後にコーヒーが運ばれてくる。
美咲は砂糖を二本入れた。
春人は思わず言う。
「甘いの飲めたっけ?」
美咲は笑う。
「昔からこれだよ。」
その笑顔に嘘はない。
演技でもない。
この世界の美咲は、本当にそういう人なのだ。
春人は、自分の中の「美咲」と、目の前の美咲が少しずつ重ならなくなっていくのを感じた。
⸻
Scene 10 思い出は書き換わる
店を出ると、夏祭りの準備が始まっていた。
提灯が並び、子どもたちが走り回っている。
「覚えてる?」
美咲が笑う。
「高校のとき、このお祭りで迷子になったよね。」
春人は首をかしげる。
そんな記憶はない。
「ほら。」
美咲が指を差す。
神社の石段。
「あそこで泣いてたじゃん。」
春人は否定しようとした。
でも。
頭の奥が少し熱くなる。
石段。
金魚すくい。
りんご飴。
浴衣姿の美咲。
「……。」
知らない。
知らないはずなのに。
映像が浮かぶ。
笑い声まで聞こえる。
「思い出した?」
美咲が微笑む。
春人は、ゆっくりとうなずいてしまった。
「……うん。」
その返事をした瞬間。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
自分は今、嘘をついたのか。
それとも。
本当に思い出したのか。
もう分からない。
⸻
Scene 11 夕焼けの少女
美咲と別れた帰り道。
春人は橋の上で立ち止まった。
夕焼けが川を赤く染めている。
その欄干に、一人の少女が座っていた。
赤いランドセル。
白いワンピース。
足をぶらぶらと揺らしながら、夕日を見つめている。
春人は駆け寄った。
「君!」
少女は振り返る。
少しだけ笑った。
「こんばんは。」
「探してたんだ。」
「ゲームセンターへ行こう。」
少女は首を横に振る。
「今日は行かない。」
「え?」
「今日は、お兄ちゃんがこの世界を好きになる日だから。」
春人は言葉を失う。
少女は夕焼けを見上げたまま続ける。
「最初はみんな、この世界を嫌うの。」
「でもね。」
「少しずつ好きになる。」
「家族がいて。」
「友達がいて。」
「恋人がいて。」
「幸せになって。」
「そして。」
少女は春人を見た。
その瞳は、涙で揺れていた。
「元の世界を忘れる。」
風が吹く。
少女の髪が夕日に透ける。
「それが、一番悲しい。」
春人は言葉を返せなかった。
少女は立ち上がる。
「だから急いで。」
「まだ、お兄ちゃんは間に合う。」
「何に?」
少女は少しだけ笑う。
初めて会った日のように。
でも、その笑顔はどこか寂しかった。
「大切な人を、大切な人だって思えるうちに。」
そう言って、少女は橋を渡っていく。
夕焼けの中へ。
春人が追いかけたときには、もう姿はなかった。
橋の上には、小さな紙飛行機が一つだけ残されていた。
春人はそれを拾う。
翼の内側には、たった一行。
『今日は、二度と来ない。』
春人はその文字を見つめながら、ゆっくりと空を見上げた。
茜色の空は、あの日と同じように美しかった。
そしてその美しさが、初めて少しだけ怖いと思えた。
第三章 境界線
Scene 1 帰る場所
夜の商店街は静まり返っていた。
昼間の喧騒が嘘のように、シャッターだけが長く並んでいる。
その一番奥。
古びたネオンが、弱々しく瞬いていた。
GAME PALACE
春人は立ち止まる。
昨日よりも古く見える。
いや。
疲れているのは、自分の方なのかもしれない。
扉を押す。
カラン……
鈴の音だけが、昨日と同じだった。
⸻
店の中では、
♪ 今日の日はさようなら……
オルゴールが静かに流れている。
老人は相変わらずカウンターで湯飲みを磨いていた。
春人を見る。
少しだけ笑う。
「来ると思っとった。」
春人は老人の前まで歩く。
迷いはなかった。
「教えてください。」
老人は答えない。
代わりに湯飲みへお茶を注ぐ。
「今日は冷える。」
真夏なのに。
春人は少し苛立った。
「そんな話をしてるんじゃない!」
店の中に初めて怒鳴り声が響く。
少女がびくっと肩を震わせた。
老人は怒らない。
静かに椅子へ座る。
「なら、お前さんは何を知りたい。」
春人は息を整える。
「兄は何なんですか。」
「佐藤はどこへ行った。」
「どうして美咲は少しずつ違う。」
「どうして俺だけ覚えてる。」
「どうして……」
言葉が止まる。
「どうして俺なんですか。」
店は静まり返る。
オルゴールだけが流れている。
⸻
老人は、ようやく口を開いた。
「全部同じ質問じゃ。」
「……え?」
「お前さんは」
老人は春人を見る。
「自分が何を失ったのか」
ではなく、
「どうして自分なのか」
ばかり考えておる。
春人は何も言えなかった。
老人は続ける。
「それでは、いつまで経っても出口は見えん。」
⸻
Scene 2
消えていく記憶
少女が、小さなノートを春人へ差し出した。
「開いて。」
古びた大学ノート。
表紙には何も書かれていない。
一ページ目を開く。
真っ白だった。
二ページ目。
三ページ目。
全部白紙。
「……何これ。」
少女は悲しそうに笑う。
「まだ見えないんだね。」
「何が?」
「思い出。」
春人は首をかしげる。
少女はノートを受け取り、最後のページを開いた。
そこには、子どもの字でたった一文だけ書かれていた。
『忘れたくないことを書いてください。』
春人は眉をひそめる。
「日記?」
少女は首を横に振る。
「違う。」
「これはね。」
「世界に消されないためのノート。」
春人の表情が変わる。
少女は静かに続けた。
「世界は人を消すんじゃない。」
「思い出を上書きするの。」
「だから。」
「書いて。」
「忘れたくない人を。」
「忘れたくない今日を。」
「忘れたくない言葉を。」
⸻
春人はペンを受け取る。
少し考えてから、一行だけ書いた。
佐藤。
書き終えた瞬間だった。
白紙だったページが、淡く光り始める。
春人は驚いて手を離した。
ノートには、勝手に文字が増えていく。
⸻
佐藤は缶コーヒーが好きだった。
人を笑わせるのが得意だった。
「その一回のミスだけで、自分全部を否定するな。」
よく遅刻した。
犬が苦手だった。
⸻
春人の目から涙があふれる。
「……覚えてる。」
少女は優しく微笑んだ。
「うん。」
「まだ、大丈夫。」
⸻
Scene 3
老人の一言
老人はその様子を黙って見ていた。
やがて、小さく口を開く。
「若いの。」
春人は涙を拭う。
「世界はな。」
「お前さんを殺そうとはしとらん。」
「むしろ逆じゃ。」
「幸せにしようとしておる。」
春人は顔を上げる。
老人は窓の外を見る。
夕焼けだった。
「あまりにも幸せな世界では、人は後悔を忘れる。」
「後悔を忘れれば。」
「失った人も忘れる。」
「だから世界は優しい。」
「優しいから、残酷なんじゃ。」
店の中に沈黙が落ちる。
少女はノートを胸に抱えた。
春人は静かに目を閉じる。
兄と笑った食卓。
美咲との夕食。
新しい思い出。
それらは本当に幸せだった。
でも。
その幸せは、「佐藤がいなかった世界」の上に成り立っている。
その事実だけが、胸を締めつける。
⸻
Scene 4
二度目のスイッチ
老人はカウンターの奥へ歩いていく。
ガラスケース。
赤いボタン。
前回と同じ場所。
老人は振り返らないまま言った。
「もう一度押すか。」
春人は息をのむ。
「押せば。」
「また違う世界じゃ。」
「押さねば。」
「この世界で生きていく。」
老人は静かに続ける。
「どちらも間違いではない。」
「人生とは、そういうものじゃ。」
春人は赤いボタンを見つめる。
今度は前回とは違う。
“失敗をやり直したい”からではない。
“大切な人を忘れたくない”。
その思いだけが、春人をここまで連れてきた。
少女は春人の隣へ来る。
「今度は。」
「ちゃんと考えて。」
「やり直すためじゃなくて。」
「守るために押すなら……私は止めない。」
春人はゆっくりと目を閉じた。
店内には、再びあの歌が流れ始める。
♪ 今日の日はさようなら……
赤いボタンへ伸びる指先。
しかし今回は、ためらいがあった。
最初の一回とは違う。
春人はもう知っている。
一つ世界を選ぶたびに、別の世界を手放すことを。
指先が、ボタンの上で静かに止まる――。
Scene 5
「また明日」
春人の指先は、赤いボタンの上で止まっていた。
押せない。
いや。
押したくない。
この世界には兄がいる。
母が笑う。
父がいる。
美咲も幸せそうだった。
失ったものもある。
でも、手に入れたものもある。
老人は何も言わない。
少女も黙っている。
店内には、古い扇風機の羽根が回る音だけが響いていた。
カタ……
カタ……
カタ……
その音を破ったのは、店の入口だった。
カラン。
鈴が鳴る。
全員が振り返る。
一人の中年男性が入ってきた。
スーツ姿。
ネクタイは少し曲がっている。
仕事帰りなのだろう。
男性は店内を見回し、不思議そうに笑った。
「まだ営業してたんだ。」
老人は静かに頭を下げる。
「いらっしゃい。」
男性はゲーム機を眺めながら歩く。
春人の横を通り過ぎる。
その瞬間だった。
少女の表情が変わる。
「……。」
顔から血の気が引いていく。
小さな手が震え始めた。
春人は気付く。
「知ってる人?」
少女は答えない。
ただ、その男性を見つめている。
まるで、長い長い夢を見ていた人が、突然現実に引き戻されたような目だった。
⸻
男性は古いレーシングゲームの前で立ち止まる。
「懐かしいな。」
コインを入れる。
ゲームが起動する。
電子音。
アクセル。
画面の中を古いスポーツカーが走り始めた。
「昔さ。」
男性は誰に話すでもなく笑う。
「娘とよく来たんだ。」
春人と少女の時間が止まる。
「小学校一年だったかな。」
「毎回クレーンゲームで負けて泣くんだよ。」
男性は笑う。
本当に幸せそうに。
「そのたびにラムネ買って帰った。」
少女の肩が、小さく震えた。
「大きくなったら、また来ような。」
「そう約束してた。」
ゲームオーバーの音が鳴る。
男性は少しだけ寂しそうに笑った。
「結局、一回来れなかったな。」
店内が静まり返る。
老人は目を閉じている。
春人だけが、何も分からない。
少女は一歩だけ前へ出た。
唇が震えている。
「……お父さん。」
春人の鼓動が止まる。
男性は聞こえなかったように立ち上がる。
少女はもう一度。
今度は少しだけ大きな声で。
「お父さん。」
男性は振り返らない。
少女は駆け出そうとした。
しかし老人が、そっと肩へ手を置いた。
首を横に振る。
少女はその場で立ち尽くした。
涙だけが落ちていく。
男性は出口へ向かう。
扉を開ける。
そして帰り際に、何気なく言った。
「また明日。」
カラン。
扉が閉まる。
静寂。
少女は、その場へ崩れ落ちた。
「……明日は。」
涙で声が途切れる。
「もう、来ないのに。」
春人は息が詰まる。
老人は帽子を脱ぎ、静かに胸へ抱いた。
「この店にはの。」
老人がぽつりと呟く。
「人生で一度だけ、どうしても会いたい人を探して来る者がおる。」
春人は少女を見る。
少女は扉だけを見つめている。
もう泣いていなかった。
ただ、静かに微笑んでいた。
「会えた。」
その一言だけだった。
「……声は届かなかったけど。」
「会えたから。」
少女は袖で涙を拭く。
「それでいい。」
その笑顔は、今までで一番きれいだった。
春人は胸が締めつけられる。
“会えただけでいい。”
その言葉が、こんなにも切ないなんて。
⸻
Scene 6
境界線
老人は春人へ向き直る。
「見たじゃろ。」
春人は小さくうなずく。
老人は続ける。
「世界は変わる。」
「人も変わる。」
「思い出も変わる。」
「じゃが。」
老人はゲームセンターの扉を見る。
「会いたいという気持ちだけは、どの世界でも変わらん。」
その言葉を聞いた春人は、ようやく理解する。
少女は、このゲームセンターに「世界の秘密」を知るためにいるのではない。
もう一度だけ、お父さんに会うためにここへ来続けている。
その願いが叶う日はない。
それでも来る。
何度でも。
何百回でも。
春人はノートを取り出した。
新しいページを開く。
震える手で書く。
赤いランドセルの少女。
その下に続けて書く。
お父さんのことが大好きだった。
ページは静かに光る。
文字が増えていく。
ラムネはビー玉が好きだった。
かけっこが速かった。
お父さんと手をつなぐと安心した。
「また明日」が大好きだった。
春人の目に涙が滲む。
少女はそのページを見て、少し驚いたように微笑んだ。
「……ありがとう。」
その笑顔を見た春人は、心の中で静かに誓う。
この子だけは、絶対に忘れない。
Scene 7
名前のない少女
少女はゲームセンターの入口に立っていた。
夜風が白いワンピースを揺らす。
春人は隣に並ぶ。
しばらく二人とも何も話さなかった。
遠くで踏切が鳴る。
夏の匂いがした。
「ねえ。」
春人が静かに口を開く。
「君の名前、教えてくれない?」
少女は少しだけ笑った。
でも、その笑顔はどこか寂しい。
「まだだめ。」
「どうして?」
少女は商店街の向こうを見つめたまま答えた。
「名前はね。」
「誰かが覚えていてくれたら、消えないの。」
春人は首をかしげる。
「じゃあ教えてくれた方が…」
少女はゆっくりと首を振った。
「違う。」
「名前を知るってね。」
「その人の人生を預かることなんだよ。」
その言葉に、春人は何も返せなかった。
⸻
Scene 8
ノートの異変
店内へ戻る。
春人は記憶のノートを開いた。
昨日書いた佐藤のページ。
少女のページ。
確かにある。
安心した、その瞬間だった。
ページの端が、白く霞んでいる。
文字が少しだけ薄くなっていた。
「……え?」
春人は目を凝らす。
『犬が苦手だった。』
その一文だけが消えている。
代わりに、新しい文字が浮かび上がる。
『猫が好きだった。』
春人は息をのむ。
「違う……。」
「佐藤は猫アレルギーだった。」
老人は静かにうなずく。
「始まったな。」
「何がです?」
老人はノートを閉じる。
「世界は、人だけでは足りん。」
「思い出まで、自分に都合のいい形へ直していく。」
「それを止めることは?」
春人の問いに、老人は静かに答えた。
「できる。」
春人は身を乗り出す。
老人は一拍置いてから言った。
「一人では。」
⸻
Scene 9
初めての歌
少女が店の隅へ歩いていく。
古いアップライトピアノ。
鍵盤の象牙は少し黄ばんでいた。
少女は椅子へ座る。
「聞いて。」
小さく言う。
細い指が鍵盤へ触れる。
ポーン……
澄んだ音が店内へ広がる。
春人は息を止めた。
少女が弾き始めたのは、
**『今日の日はさようなら』**だった。
歌はない。
ピアノだけ。
でも。
一音一音が、胸へ落ちていく。
春人は目を閉じた。
兄の笑顔。
佐藤の笑顔。
美咲の笑顔。
父。
母。
知らないはずの祭り。
本当だった思い出。
偽物だった思い出。
全部が混ざり合う。
涙が頬を伝う。
演奏が終わる。
少女は振り返らずに言った。
「この歌ね。」
「お父さんが好きだった。」
春人は静かにうなずく。
「だから毎日弾いてる。」
「忘れないように。」
⸻
Scene 10
世界の外側
老人は店の照明を一つ消した。
店内が少し暗くなる。
「若いの。」
春人は顔を上げる。
老人は窓の外を指さした。
「外を見てみなさい。」
春人はガラス越しに商店街を見る。
誰もいない。
……いや。
人は歩いている。
でも。
全員が同じ方向へ歩いている。
同じ速度。
同じ歩幅。
同じ表情。
誰も立ち止まらない。
誰も笑わない。
誰も空を見ない。
まるで、決められた道を歩く人形のようだった。
「……何なんだ。」
老人は静かに言う。
「お前さんには、もう見え始めた。」
「この世界の継ぎ目が。」
春人はもう一度外を見る。
すると、一人だけ。
小さな男の子が立ち止まった。
空を見上げる。
そしてゲームセンターへ向かって、小さく手を振った。
次の瞬間。
母親らしき女性が男の子の手を引く。
男の子は何かを忘れたように歩き出した。
ゲームセンターを見ることもなく。
老人は目を閉じる。
「世界は、自分を守るために。」
「時々、ほころぶ。」
春人は胸の奥で何かがつながるのを感じた。
やり直しスイッチ。
人格が少しずつ変わる人々。
消えた佐藤。
兄が生きている世界。
名前を言えない少女。
そして、この店。
全部が一本の糸で結ばれ始めていた。
しかし、その糸の先だけは、まだ闇の中だった。
Scene 11
世界が忘れる日
ゲームセンターを出た春人は、夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
蝉の声。
信号機の電子音。
遠くを走る電車。
昨日までと変わらない街。
それなのに、世界はどこか薄く見えた。
まるで、一枚の写真の色が少しずつ抜けていくように。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
母
春人は通話ボタンを押す。
「もしもし。」
『春人?』
いつもの母の声。
「今日は遅いの?」
「うん、少しだけ。」
『お兄ちゃんが心配してるよ。』
その一言で、春人は目を閉じた。
兄がいる世界。
もう違和感はなくなり始めている。
それが、何より恐ろしかった。
⸻
家に帰ると、兄がソファでテレビを見ていた。
「おかえり。」
「ああ。」
自然に返事をしてしまう。
兄は笑う。
「明日さ。」
「久しぶりにキャッチボールでもするか?」
春人は思わず笑った。
「いいね。」
その返事をした瞬間。
胸の奥がズキッと痛んだ。
キャッチボールなんてしたことがない。
兄は十年前に亡くなった。
なのに。
ボールの感触。
グローブの匂い。
河川敷の風景。
兄の笑い声。
全部、鮮明に思い浮かぶ。
春人は額を押さえた。
「……違う。」
兄が心配そうに近づく。
「大丈夫か?」
その優しさは本物だった。
だからこそ苦しい。
⸻
Scene 12
消えていく文字
深夜。
春人は机に向かった。
記憶のノートを開く。
佐藤のページ。
少女のページ。
兄のことは、まだ書いていない。
書けなかった。
書けば、本当に「二つの兄」が存在してしまう気がしたからだ。
ふと、佐藤のページを見る。
春人の呼吸が止まる。
昨日まであった文章が、また消えている。
「よく遅刻した。」
その一文が消え、
代わりに、
「時間に正確だった。」
と書き換わっていた。
「違う……。」
春人は急いでペンを握る。
消えた文章を書き直す。
よく遅刻した。
すると、文字は一瞬だけ戻る。
しかし数秒後。
インクが水に溶けるように薄れ、
また消えた。
「なんでだ……!」
何度書いても。
何度書いても。
世界は静かに修正していく。
そのとき、ノートの最後のページが勝手に開いた。
誰も触っていない。
白紙だったページに、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
残り 四回
春人は凍りついた。
「……四回?」
意味が分からない。
しかし、その数字だけが異様な現実味を持っていた。
四回。
何が四回なのか。
考えたくないのに、頭は答えを探し始める。
⸻
Scene 13
老人の告白
翌日。
春人は仕事を休み、ゲームセンターへ向かった。
扉を開ける前から、歌が聞こえる。
♪ 今日の日はさようなら……
今日は少女ではない。
老人が歌っていた。
かすれた声。
それでも優しい歌声だった。
春人は店へ飛び込む。
「これ!」
ノートを老人へ見せる。
「残り四回って何なんですか!」
老人はノートを見る。
そして静かに目を閉じた。
「……出たか。」
「教えてください!」
老人は春人を見つめる。
長い沈黙。
やがて、ぽつりと言った。
「その数字は。」
「お前さんが、あと何回世界を選べるかじゃ。」
春人の心臓が大きく鳴る。
「世界を……選ぶ?」
「やり直しスイッチは、一生に何度でも押せるものではない。」
「押すたびに。」
「世界は、お前さんに新しい幸せを与える。」
老人は赤いボタンへ目を向ける。
「じゃが。」
「その代わり。」
「前の幸せを、少しずつ奪う。」
春人は息を呑む。
老人は続ける。
「残り四回。」
「それが終わったとき。」
店内が静まり返る。
少女も演奏を止めた。
老人は、春人の目を真っ直ぐ見つめる。
「お前さんは、元いた世界そのものを思い出せなくなる。」
その一言が、春人の胸に深く突き刺さる。
元の世界。
佐藤がいた世界。
兄を失った世界。
悲しかった。
苦しかった。
それでも、本物だった世界。
それを忘れる。
その意味を、春人は初めて理解した。
⸻
そのとき。
店の外から、小さな子どもの笑い声が聞こえた。
少女は窓の外を見て、静かにつぶやく。
「……始まる。」
春人も振り返る。
商店街の向こうから、一人の少年がこちらへ歩いてくる。
その姿を見た老人の表情が、初めて大きく変わった。
驚きと、焦りが入り混じった声で言う。
「まさか……。」
「あの子まで来てしまったのか。」
少年は、まっすぐゲームセンターを見つめていた。
そして、小さく笑った。
その笑顔を見た少女は、震える声で、たった一言だけつぶやいた。
「……やっと、会えた。」
第四章
会いたい人
⸻
Scene 1
少年の願い
ゲームセンターの扉が、ゆっくりと開く。
カラン……
少年は十歳くらいだった。
ランドセルを背負ったまま。
制服も少し汚れている。
まるで学校帰り、そのまま迷い込んできたようだった。
老人は静かに立ち上がる。
「……来てしまったか。」
少年は小さくうなずく。
その目は年齢に似合わないほど静かだった。
春人はしゃがみ込み、優しく声をかける。
「一人なの?」
少年は少し考えてから答えた。
「ううん。」
「お母さんがいる。」
春人は少し安心する。
「じゃあ、お母さんは?」
少年は笑った。
「向こうに。」
そう言って指を差した。
ゲームセンターの外ではない。
天井でもない。
胸の奥を指差すように、自分の心へ手を当てた。
「ここ。」
春人は言葉を失う。
⸻
Scene 2
「忘れたくない」
老人は少年の前に一冊のノートを置いた。
少年は迷わずページを開く。
ペンを持つ。
書き始める。
春人は何気なく、その文字を見た。
お母さんはカレーを焦がすのが上手でした。
思わず笑ってしまう。
少年も笑った。
「本当なんだ。」
「いつも焦げてた。」
次の一行。
でも、そのカレーが世界で一番好きでした。
春人の笑顔が消える。
ページは静かに光り始める。
文字が勝手に増えていく。
運動会では大きな声で応援してくれた。
雨の日は長靴を履かせてくれた。
寝る前に絵本を読んでくれた。
少年は文字を見ながら笑っていた。
泣いていない。
泣くことを、もう通り越しているようだった。
⸻
Scene 3
世界で一番短いお願い
春人は聞いた。
「どうしてここへ来たの?」
少年は少しだけ空を見上げた。
「忘れそうだから。」
その一言だけだった。
「夢を見たの。」
「お母さんがいた夢。」
「朝起きたら、顔が少し思い出せなくなってた。」
少年は両手をぎゅっと握る。
「声も。」
「笑い方も。」
「匂いも。」
「忘れたくない。」
その四文字が、店中へ静かに落ちた。
少女はうつむいている。
老人も何も言わない。
春人だけが、少年を見つめていた。
⸻
Scene 4
春人の記憶
その夜。
春人は家へ帰る。
兄が笑う。
「明日、休みだろ?」
「釣りでも行くか。」
春人は笑って答える。
「いいね。」
自然だった。
あまりにも自然だった。
部屋へ戻る。
ベッドへ腰掛ける。
机の上には、小学校の卒業アルバム。
何気なく開く。
兄がいる。
運動会。
入学式。
家族旅行。
全部に兄が写っている。
そして。
春人は、一枚の写真で手が止まる。
中学一年の運動会。
春人は転んで泣いている。
兄が笑いながら起こしている。
その写真を見た瞬間。
春人の頭へ映像が流れ込む。
土の匂い。
膝の痛み。
兄の声。
「立てるか?」
……
……
「違う。」
春人は写真を落とした。
その記憶は。
本当に自分のものなのか。
もう判断できなかった。
⸻
Scene 5
ノートに書けない名前
夜更け。
春人は机にノートを広げる。
新しいページ。
ペンを持つ。
ゆっくり書こうとする。
兄。
書けない。
手が止まる。
元の世界の兄。
今いる兄。
どちらを書けばいい?
どちらが本物?
ペン先が震える。
インクが紙へ落ちる。
小さな黒い染みだけが広がっていく。
その瞬間。
ノートへ、新しい文字が浮かび上がった。
春人が書いたのではない。
本物とは、失わないものではない。
忘れたくないと願ったものだ。
春人は目を見開く。
誰が書いた。
老人か。
少女か。
少年か。
違う。
ページの隅には、小さな子どもの字で一つだけ署名があった。
──お兄ちゃんへ
春人は息を呑む。
ゆっくりと顔を上げる。
窓の外。
向かいの電柱の下に。
赤いランドセルの少女が立っていた。
春人を見て、少しだけ笑う。
そして、静かに口を動かした。
声は聞こえない。
でも、春人には分かった。
少女はこう言った。
「思い出して。」
その瞬間、春人の頭の奥で、ずっと閉ざされていた一枚の記憶が、かすかに軋む音を立てた――。
Scene 6
星の見える屋上
「お兄ちゃん。」
翌日の夜。
ゲームセンターへ行くと、少女は初めて春人の手を引いた。
「今日はこっち。」
店の奥ではない。
階段だった。
ギシ……
ギシ……
木の階段を上る。
ゲームセンターの二階。
いや、屋上だった。
古びたフェンス。
錆びたベンチ。
空いっぱいの星。
商店街に、こんな屋上があったことを春人は知らなかった。
少女はベンチへ座る。
「ここね。」
「お父さんと流れ星を見た場所。」
春人も隣へ座る。
しばらく沈黙。
夏の夜風だけが吹いている。
「ねぇ。」
少女が空を見たまま言う。
「人ってね。」
「忘れるから生きていけるんだって。」
春人は答えない。
「でも。」
少女は小さく笑う。
「私は忘れたくなかった。」
その笑顔は、大人びていた。
年齢ではなく。
たくさんの別れを知ってしまった人の笑顔だった。
⸻
Scene 7
星に名前はない
少女が空を指さす。
「あの星、見える?」
春人はうなずく。
「うん。」
「あの星の名前、知ってる?」
「いや。」
少女は少し嬉しそうに笑った。
「私も知らない。」
「でもね。」
「名前を知らなくても、きれいって思える。」
春人は空を見上げる。
確かにそうだった。
名前も。
距離も。
何も知らない。
それでも美しい。
少女は続ける。
「人も同じなんだ。」
「全部覚えてなくても。」
「全部思い出せなくても。」
「大好きだった気持ちだけ残ってたら。」
少女は胸へ手を当てた。
「その人は消えない。」
春人は、その言葉を心の奥へしまった。
⸻
Scene 8
古い写真
少女はポケットから一枚の写真を取り出した。
色あせた写真。
父親と少女が笑っている。
ゲームセンターの前だった。
まだネオンも新しい。
「これ。」
「最後に撮った写真。」
春人は受け取る。
写真の裏には、手書きで日付が書いてある。
二〇〇九年 八月二十日
その下に、小さな文字。
また来ようね。
春人の胸が熱くなる。
「来れなかったの?」
少女は首を横に振る。
「来たよ。」
「何回も。」
「でも。」
少し笑う。
「会えなかった。」
その言葉の意味が、春人には少しだけ分かった。
このゲームセンターは、
**“会いたい人がいる場所”**ではない。
**“会いたい気持ちが集まる場所”**なのだ。
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Scene 9
初めて触れた手
風が少し強くなる。
写真が飛ばされそうになる。
春人が手を伸ばす。
少女も同時に手を伸ばく。
指先が触れた。
その瞬間だった。
春人の頭の中へ、映像が流れ込む。
赤いランドセル。
雨の日。
小さな交差点。
白い横断歩道。
女の子が笑っている。
「お兄ちゃん!」
その声。
誰の記憶だ。
女の子が転ぶ。
春人が駆け寄る。
手をつなぐ。
信号が青になる。
笑い声。
夏の日差し。
突然。
ブレーキ音。
キィィィィッ!!
映像が途切れる。
春人は思わず少女の手を離した。
呼吸が乱れる。
「……今の。」
少女は何も言わない。
ただ、春人を見つめている。
その目には涙が浮かんでいた。
「少しだけ。」
少女が静かに言う。
「思い出したね。」
春人は震える声で聞く。
「君は……。」
少女は首を横に振る。
「まだ。」
「まだ言えない。」
「全部思い出したら。」
「ちゃんと教える。」
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Scene 10
一番大切な約束
屋上を降りる前。
少女は春人へ、小さな鍵を渡した。
真鍮色の古い鍵。
何の鍵か分からない。
「預かって。」
「これは?」
少女は少しだけ照れくさそうに笑う。
「約束の鍵。」
「約束?」
「うん。」
少女は春人をまっすぐ見る。
今までで一番真剣な目だった。
「もし私が消えても。」
春人は思わず遮る。
「消えない。」
少女は微笑む。
「聞いて。」
その笑顔が、どこか覚悟を決めた人のようで、春人は何も言えなくなった。
「もし私が消えても。」
「この鍵だけは。」
「絶対に捨てないで。」
春人は強く握りしめる。
「約束する。」
少女は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。」
夜空で流れ星が一つだけ流れる。
少女は目を閉じ、小さく願い事をした。
春人は聞かなかった。
その願いは、聞かない方がいい気がしたから。
Scene 11
鍵が開く夜
その夜、春人は眠れなかった。
少女から渡された小さな真鍮の鍵。
何度見ても見覚えがない。
それなのに、手の中へ乗せると不思議な温もりがあった。
午前一時。
窓の外では雨が降り始めていた。
ふと、机の引き出しが少しだけ開いていることに気付く。
「……?」
そこには、小学生の頃から一度も開けていない木箱があった。
春人はゆっくりと蓋を開ける。
中にはビー玉。
折れた鉛筆。
古いゲームセンターのメダル。
そして、一冊の小さなアルバム。
アルバムを開く。
幼い春人。
母。
父。
兄。
ページをめくる指が止まった。
そこにはゲームセンターの前で撮られた写真があった。
兄と高校生の春人。
その足元で、赤いランドセルを背負った少女が笑っている。
春人は息を止めた。
「……いた。」
少女は昔から知っていた。
知っていたはずなのに。
思い出せなかった。
写真の裏には、兄の字で書かれていた。
『泣き虫のおチビちゃん。また一緒に遊ぼうな。』
その文字を見た瞬間、胸が締めつけられた。
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Scene 12
消えた夏の日
翌朝。
春人はゲームセンターへ駆け込んだ。
「この写真!」
老人は写真を見るなり、深く息をついた。
「……とうとう見つけたか。」
「この子を知ってるんですね?」
老人は答えない。
代わりに写真の隅を指差した。
そこには、小さく日付が印字されていた。
2009年8月20日。
少女が持っていた写真と同じ日。
「この日、何があったんですか。」
老人は静かに目を閉じた。
「お前さんは、何も覚えておらんのじゃな。」
「覚えてない!」
春人は声を荒らげる。
「だから知りたいんです!」
老人は春人を見つめる。
「……人は、本当に耐えられない悲しみだけは、自分で封じることがある。」
店内が静まり返る。
少女も黙っている。
老人は続けた。
「お前さんは、忘れたんじゃない。」
「生きるために、忘れた。」
⸻
Scene 13
雨の交差点
その日の夕方。
春人は写真を握りしめながら、町を歩いていた。
自然と足はある場所へ向かう。
古い交差点。
信号機。
歩道橋。
濡れたアスファルト。
胸がざわつく。
「ここ……。」
雨が強くなる。
その瞬間。
世界がゆっくりと暗くなった。
信号の音。
タイヤが水を切る音。
子どもの笑い声。
景色が十五年前へと重なっていく。
高校生の自分。
隣には兄。
ゲームセンター帰り。
その前を、小さな女の子が走る。
赤いランドセル。
「待ってー!」
少女の声。
兄が笑う。
「危ないぞ!」
その瞬間。
赤信号を無視した大型トラックが交差点へ飛び込んできた。
キィィィィィィッ!!
春人は反射的に飛び出す。
少女を突き飛ばす。
少女は歩道へ転がる。
助かった。
しかし。
その次の瞬間だった。
誰かが春人の背中を思い切り押した。
兄だった。
「春人!!」
ドンッ。
世界が回る。
ガラスが砕ける音。
悲鳴。
ブレーキ。
そして。
兄の姿だけが見えなくなった。
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Scene 14
思い出した
「……兄ちゃん。」
春人は雨の中へ膝をついた。
全部思い出した。
兄は自分を助けた。
自分は少女を助けた。
兄は帰ってこなかった。
だから。
だから自分は。
兄が生きている世界を作ってしまった。
やり直しスイッチを押したとき、
心が一番望んだ世界。
それが今の世界だった。
涙が止まらない。
雨と涙が混ざる。
春人は初めて、声を上げて泣いた。
「兄ちゃん……!」
「ごめん……!」
「ごめん……!」
そのとき。
背中に小さな手が触れた。
振り返る。
少女だった。
傘も差さず、雨に濡れながら立っている。
そして、ゆっくりと頭を下げた。
「……ごめんなさい。」
春人は首を振る。
少女は震えながら続ける。
「私が飛び出したから。」
「私がいたから。」
「お兄ちゃんのお兄ちゃんが……。」
最後まで言えなかった。
春人は少女の前へ歩く。
そして。
静かにしゃがみ込んだ。
「違う。」
少女は顔を上げる。
春人は泣きながら笑った。
「兄ちゃんはね。」
「君を助けたこと、きっと後悔してない。」
少女の瞳から、大粒の涙があふれた。
「でも……。」
「私はずっと。」
「ありがとうって言えなかった。」
春人はそっと少女の頭へ手を置く。
兄が自分によくしてくれたように。
優しく。
優しく。
「今、言って。」
少女は嗚咽をこらえながら、大きく息を吸った。
そして。
十五年間、胸にしまってきた言葉を、ようやく口にした。
「ありがとう、お兄ちゃん。」
雨音だけが、静かに二人を包んでいた。
最終章
今日の日はさようなら
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Scene 1
最後の夏
事故の記憶を取り戻してから数日が過ぎた。
兄は、まだ家にいる。
朝になれば「おはよう」と笑う。
夕食ではくだらない話で笑い合う。
テレビを見ながら文句を言う。
その姿は、本物と変わらない。
でも春人は知っている。
これは、自分の心が生み出した「兄が生きている世界」。
だからこそ、一日一日が愛おしかった。
春人は兄の顔を見つめる。
兄は笑う。
「どうした?」
「いや。」
春人も笑う。
「顔を覚えておこうと思って。」
兄は照れくさそうに頭をかいた。
「変なやつだな。」
その何気ない笑顔を、春人は心に刻んだ。
もう、逃げないために。
⸻
Scene 2
少女の名前
ゲームセンター。
いつものオルゴール。
♪ 今日の日はさようなら……
少女はカウンターに座っていた。
春人を見ると、小さく笑った。
「お兄ちゃん。」
春人も笑う。
「今日は教えて。」
「君の名前。」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりとうなずく。
「うん。」
「もう思い出したから。」
少女は少し照れくさそうに笑った。
「私ね。」
「**結衣**っていうの。」
春人はその名前を何度も心の中で繰り返した。
結衣。
ようやく、名前で呼べる。
「結衣。」
少女は嬉しそうに目を細めた。
「うん。」
「ありがとう。」
「名前ってね。」
「呼んでもらうと、生きてきたって思える。」
春人は胸が熱くなった。
「結衣。」
もう一度呼ぶ。
結衣は笑った。
「その呼び方、お兄ちゃんのお兄ちゃんに似てる。」
春人は笑いながら涙をぬぐった。
⸻
Scene 3
老人の願い
老人は赤いスイッチの前に立っていた。
「若いの。」
春人は静かに歩み寄る。
「残りは。」
老人はノートを見る。
残り 四回
数字が、静かに変わる。
残り 三回
春人は驚く。
「押してないのに。」
老人はうなずく。
「選んだからじゃ。」
「え?」
「人はの。」
「何かを選ぶたびに、別の何かを手放して生きておる。」
「お前さんは今。」
「兄が生きている幻想より。」
「兄が守ってくれた現実を選び始めた。」
老人は微笑んだ。
「だから、一つ世界が閉じた。」
春人は赤いスイッチを見つめる。
押さなくても、世界は変わる。
人は変われる。
そのことを初めて知った。
⸻
Scene 4
最後のお願い
結衣はゲームセンターの外へ出る。
夕焼けだった。
あの日と同じ色。
結衣はランドセルを下ろし、小さな鍵を春人へ返そうとする。
春人は首を振った。
「預かるよ。」
「でも。」
「約束しただろ。」
「捨てないって。」
結衣は笑う。
「覚えてた。」
「忘れない。」
春人は答える。
「もう忘れない。」
その言葉を聞いた結衣の瞳に、涙が浮かんだ。
「じゃあ。」
「最後に一つだけお願い。」
春人はうなずく。
「いつか。」
結衣は空を見上げた。
「悲しい日じゃなくても。」
「この歌を歌って。」
春人は耳を澄ます。
結衣は、小さな声で歌い始めた。
♪ 今日の日はさようなら
またあう日まで……
春人も一緒に歌う。
二人の歌声は、夕暮れの商店街に静かに溶けていった。
⸻
Scene 5
やり直しスイッチ
ゲームセンターへ戻る。
赤いスイッチは、静かにそこにあった。
老人は何も言わない。
結衣も何も言わない。
春人はゆっくり近づく。
手を伸ばす。
指先がボタンに触れる。
兄と笑った日々。
美咲。
佐藤。
父。
母。
結衣。
全部が頭の中を流れていく。
春人は静かに目を閉じる。
そして──
赤いスイッチから、そっと手を離した。
「押しません。」
老人は笑った。
「どうしてじゃ。」
春人は迷わず答える。
「兄ちゃんが守ってくれた今日を、もう一度やり直したくないから。」
「悲しかった今日も。」
「泣いた今日も。」
「全部、兄ちゃんがくれた人生だから。」
老人は深くうなずいた。
「それでええ。」
その瞬間。
店内のオルゴールが止まった。
静寂。
そして、どこからともなく子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
ゲームセンターのネオンが、ゆっくりと消えていく。
結衣は微笑んだ。
「卒業だね。」
春人は振り返る。
「結衣?」
そこには、もう誰もいなかった。
ランドセルも。
白いワンピースも。
古いゲームセンターも。
全部、夕焼けの中へ溶けるように消えていった。
⸻
春人は一人、商店街に立っていた。
ポケットには、あの小さな真鍮の鍵だけが残っている。
夢だったのか。
現実だったのか。
もう分からない。
でも、一つだけ確かなことがあった。
春人は空を見上げ、小さく笑う。
「ありがとう。」
その言葉は、兄へ。
結衣へ。
そして、今日という一日へ向けた言葉だった。
遠くで、子どもたちの歌声が聞こえる。
♪ 今日の日はさようなら
またあう日まで
春人は歩き出す。
振り返らない。
明日へ向かって。
エピローグ
また会う日まで
⸻
五年後。
蝉が鳴いていた。
春人は三十二歳になっていた。
あの日から、一度も「あのゲームセンター」を見つけることはできなかった。
商店街には新しい建物が建ち、ゲームセンターがあった場所には、小さな公園ができている。
古いネオンも、赤いスイッチも、老人も。
もうどこにもいない。
けれど春人は、不思議と寂しくはなかった。
ポケットには、あの日からずっと持ち歩いている真鍮の鍵がある。
鍵は少し色あせ、角が丸くなっていた。
何の鍵なのかは、結局分からないままだった。
⸻
その日。
春人は兄の墓前に花を供えた。
「久しぶり。」
写真の中の兄は、昔と変わらず笑っている。
「俺さ。」
春人は照れくさそうに笑った。
「ちゃんと生きてるよ。」
風が吹く。
木々が揺れる。
「最初は、毎日後悔してた。」
「もしあの日、違う道を歩いていたら。」
「もし俺が先に気付いていたら。」
「もし、やり直せたら。」
春人は空を見上げた。
青く澄んだ夏空だった。
「でもさ。」
「兄ちゃん。」
「やり直したいって思ってたのは、兄ちゃんを失ったからじゃなかった。」
「兄ちゃんに、『ありがとう』を言えなかったからなんだ。」
静かな沈黙。
春人は深く息を吸う。
そして、墓石に向かって、まっすぐに言った。
「ありがとう。」
その瞬間だった。
風鈴のような、澄んだ音がどこからか聞こえた。
カラン……
ゲームセンターの扉の鈴と、同じ音だった。
⸻
帰り道。
小さな横断歩道。
信号待ちをしている親子がいた。
赤いランドセルを背負った女の子。
父親と手をつないで笑っている。
女の子がふと春人を見る。
目が合う。
そして、にっこり笑った。
「こんにちは!」
春人も笑って頭を下げる。
「こんにちは。」
信号が青になる。
親子は手をつないだまま歩いていく。
春人は、その後ろ姿を見送った。
不思議だった。
その女の子は結衣ではない。
顔も違う。
声も違う。
でも、その笑顔が、少しだけ結衣に似ていた。
春人は胸に手を当てる。
痛みはもうない。
そこには、優しい温もりだけが残っていた。
⸻
その夜。
帰宅した春人は、机の引き出しを整理していた。
古いアルバム。
兄との写真。
学生時代の思い出。
そして、一冊のノート。
あの「記憶のノート」ではない。
何も書かれていない、新しいノートだった。
春人はペンを手に取る。
一ページ目を開く。
ゆっくりと書き始める。
忘れたくないことを書いてください。
その下に続ける。
兄は、最後まで笑っていた。
佐藤は、缶コーヒーが好きだった。
美咲は、ブラックコーヒーしか飲まなかった。
春人は少し笑う。
「危なかった。」
「忘れるところだった。」
そして最後に、一番丁寧な字で書く。
結衣は、『ありがとう』と言えた。
インクが乾く。
ページは光らない。
文字も増えない。
ただ静かに、紙の上に残る。
春人は、その方が好きだった。
奇跡じゃない。
魔法じゃない。
自分の手で残した記憶だから。
⸻
窓を開ける。
夏の風が部屋へ入ってくる。
遠くの小学校から、合唱の練習が聞こえてきた。
♪ 今日の日はさようなら
またあう日まで
春人は目を閉じ、小さく口ずさむ。
歌い終えたあと、空へ向かって微笑んだ。
「また会おう。」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
兄か。
結衣か。
それとも、昨日までの自分か。
⸻
机の上には、真鍮の鍵が置かれていた。
夕日に照らされ、その鍵には小さく文字が刻まれていることに、春人は初めて気付く。
何年も持ち歩いていたのに、一度も見えなかった文字。
そこには、たった一言だけ。
「今日を、大切に。」
春人は鍵を握りしめ、ゆっくりとうなずいた。




