第2話:氷結の指先と、甘闇に笑う狐
隅田川の川面を撫でた夜風が、焼け跡の匂いを帝都の闇へと運んでいく。
現場検証を終え、警視庁への帰路につく凜の足取りは、僅かにだが、確実に鈍っていた。
(……いつもより、ひどい)
白衣のポケットに突っ込んだ両手は、氷のように冷え切っていた。
死者の最期に触れる「残声聴取」。それは魂の底冷えを己の身に引き写す行為だ。今回は特に、被害者の『水底で息絶えた絶望』が深くまとわりついている。
ふと、前を歩いていた来栖が立ち止まり、振り返った。
「おい、桔梗院。顔色がさっきより悪化してるぞ。まるで幽霊だ」
「失礼なことを言わないでください。……少し、夜風が冷たいだけです」
強がる凜の横を通り抜け、来栖は無言で彼女の腕を掴んだ。
「あっ、来栖さ——」
「黙ってついてこい」
有無を言わさぬ力で引かれ、連れてこられたのは、銀座煉瓦街の裏手にある遅くまで開いている西洋喫茶だった。蓄音機から流れるジャズの音色が、大正の夜を彩っている。
「……何ですか、ここは」
「座ってろ」
乱暴に椅子を引いた来栖は、給仕に何かを告げると、やがて戻ってきた。その手には、湯気を立てる二つの洋鳥の子が握られている。
ことり、と凜の前に置かれたのは、熱いココアだった。
「飲め。それと、手を出せ」
「手、ですか……?」
凜が戸惑いながらポケットから両手を出すと、来栖はその震えるほど冷え切った指先ごと、熱いカップを包み込むようにギュッと握らせた。
「っ……!」
「お前が死体の声を聞くたびに、体温を奪われてるのくらい、ずっと見てりゃわかるんだよ。……一人で全部抱え込もうとするな。馬鹿が」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、来栖の手から伝わる熱は、驚くほど温かかった。
「……ありがとうございます」
凜は小さく息を吐き、ココアを一口すする。濃厚な甘さが口いっぱいに広がり、凍りついていた感覚がじんわりと溶けていく。
「……美味しい」
鉄の女と恐れられる凜の顔が、年相応の少女のようにふわりと綻んだ。
その無防備な表情の緩みに、来栖は一瞬言葉を失い、誤魔化すようにそっぽを向いて自分の珈琲を煽った。
「さて、一息ついたところで仕事の話だ」
来栖が照れ隠しのように咳払いをして手帳を開く。
「あの死体の喉にあった『銀色の鱗』。あれは一体なんだ?」
凜も表情を引き締め、医学生の顔に戻った。
「あれは生物の鱗ではありません。遺体安置所に運んだ後、顕微鏡で成分を分析しました。結果は……『銀』と『水銀』、そして微量の『骨粉』が混ざった特殊な合金でした」
「骨粉だと……? なぜそんなものが」
「わかりません。ですが、ただの殺人ではありません。呪術的な儀式……何かを『封じる』か、あるいは『捧げる』ための術式の可能性があります」
その時だった。
「――ご明察。流石は、帝大上がりの屍語り師のお姫様だ」
喫茶店の隅。いつの間にか、ガス灯の影が落ちる席に『それ』は座っていた。
人間離れした美貌を持つ、年齢不詳の男。仕立ての良い着流しの上から、西洋のインバネスコートを羽織り、細長い煙管を吹かしている。
来栖が弾かれたように立ち上がり、懐の拳銃に手をかけた。
「誰だ、貴様! いつからそこにいた!」
「おっと、野蛮な真似はおよしなさいな、警察の旦那。僕はただの親切な情報屋さ」
男は紫煙を吐き出しながら、狐のように目を細めて笑った。
「巷じゃあ、『狐火の弥勒』なんて呼ばれてる」
「狐火の弥勒……」凜はその名に聞き覚えがあった。帝都の裏社会で、怪異と人の境を歩くと噂される情報屋だ。
弥勒は煙管で凜をスッと指し示した。
「その銀の鱗はね、お姫様。帝都の地下水路に巣食う『水霊』を呼び覚ますための供物さ。……あの溺死した女学生は、最初の生贄に過ぎない」
弥勒の言葉に、凜の背筋に再び冷たいものが走る。
「最初の、とはどういうことですか」
「文字通りの意味さ。水霊はまだ飢えている。次の新月の夜、また必ず一人、女学生が『水底の花嫁』として攫われる。……止められるかい? 科学のメスと、その呪われた耳で」
弥勒はクスクスと笑いながら、紫煙の中に溶けるように立ち上がり、そして幻のように姿を消した。
残されたのは、甘いココアの匂いと、冷や汗を流す二人の静寂だけだった。
「……来栖さん」
凜は立ち上がり、残ったココアを飲み干した。瞳には再び、静かな決意の炎が宿っている。
「死体が増える前に、生者を救います。次の新月……帝都の地下水路を調べましょう」




