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丞相を継ぐ者「泣いて馬謖を斬る」2万字 短話版

作者: こくせんや
掲載日:2026/02/16

長編小説「丞相を継ぐ者」の単話バージョン2万字です。

【第一章:優しい嘘】


1.泥濘の敗戦


建興六年(二二八年)、冬。

祁山(ぎざん)の山々は、針のように冷たい氷雨に煙っていた。


街亭の南、列柳城。

かつて蜀漢軍の物資集積拠点として機能していたこの城は、今や城としての形を失い、巨大な濁流の只中にあった。

その濁流とは、水ではない。

敗走する兵士と、泥と、そして絶望の奔流である。


「――急げ!軽微な傷者は自力で歩かせろ!重傷者は荷車に乗せよ!駄目だ、その糧秣(りょうまつ)は捨て置け!敵に渡すくらいなら燃やしなさい!」


怒号が飛び交う中、私――向朗(しょうろう)は、泥濘(ぬかるみ)の中に立ち尽くしていた。六十をとうに過ぎた老骨に、冬の雨は容赦なく染み込む。

だが、体の震えは寒さのせいだけではなかった。


「長史!前線の第五部隊、壊滅!魏の張郃(ちょうこう)軍、なおも追撃の構え!」

「第三倉庫の搬出、間に合いません!放棄の許可を!」


次々と飛び込む凶報。

私はそれらを、頭の中で冷徹な「数字」へと変換していく。

失われた兵数、残存する食料、追っ手との距離、撤退に必要な時間。

私は、感情を持たぬ算盤(そろばん)にならねばならなかった。

一瞬の迷いが、数千の命を奪う。それが兵站(へいたん)を預かる者の丞相の副官、長史たる私の(ごう)だ。


「……第三倉庫は焼き払え。一粒の麦も張郃にくれてやるな。後衛部隊に伝えよ、あと半刻(一時間)持ちこたえれば、本隊の撤退路は確保できると」


私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

周囲の若き幕僚たちは、恐慌に陥りかけている。

その彼らを繋ぎ止めているのは、この白髪の老人が放つ、枯れ木のような静謐(せいひつ)さだけだった。


(……だが、計算が合わぬ)


私は雨空を見上げた。街亭の喪失。

それは想定されうる最悪の事態の一つだった。


だが、負け方があまりにも早すぎる。

副将に王平がいるはずだ。

あの慎重居士の王平が、そして何より、丞相・諸葛亮孔明が手塩にかけて育てた麒麟児・馬謖がいるはずだ。

彼らが、なぜ、これほど脆く崩れ去ったのか。


2.あり得ない解


その時だった。


城門の方から、ひときわ大きな悲鳴が上がった。

泥まみれの伝令が、馬から転げ落ちるようにして私の天幕へと駆け込んでくる。

その顔色は、死人のように蒼白だった。


「ほ、報告!街亭本陣、崩壊!王平将軍は残存兵をまとめ、必死の防戦に努めておられますが……!」

「馬謖はどうした!」


私は、思わず伝令の襟首を掴んでいた。

普段の私にはあり得ない激情だった。

伝令は震えながら、唇を戦慄かせた。


「そ、それが……馬謖将軍は……行方不明……いえ、その……」

「はっきり言いなさい!」

「……敵前逃亡の疑いあり、と!本陣が包囲される直前、側近と共に南の山道へ……!」


時が、止まった。


周囲の喧騒が、遠い波音のように遠ざかっていく。敵前逃亡?あの馬謖が?


「……馬鹿な」


喉の奥から、乾いた笑いが込み上げてくる。

あり得ない。あの馬謖が?

それは計算間違いだ。

ふざけた誤報だ。


私の脳裏に、荊州での日々が蘇る。

若き日の馬謖。

兄である馬良の背中を追いかけ、兵書を読み耽っていた少年。

『向兄、見ていてください。僕はいつか、孔明様のような軍師になって、漢室を復興させます』キラキラとした瞳。

才気煥発な言葉。


彼は知っているはずだ。

軍律の重さを。

大将が背を見せれば、軍がどうなるかを。

彼は机上の空論を弄ぶだけの男ではないと、私は信じていた。

丞相も、そう信じたからこそ、彼に街亭を任せたのだ。


(あやつが、逃げる?命惜しさに?……有り得ぬ!)


私は伝令を突き放した。


「妄言だ!貴様、戦場の混乱で目がいかれたか!」

「し、しかし、目撃者が……」

「黙れ!」


私は一喝した。天幕内の幕僚たちが息を呑む。

私は、震える手を強引に握りしめ、高速で思考を回転させた。

ここで「総大将が逃げた」などという情報が広まればどうなる?士気は地に落ちる。

統制は失われる。撤退戦はただの「潰走」となり、数万の兵が張郃の餌食となるだろう。

そして何より、丞相・諸葛亮の権威が失墜する。

愛弟子が敵前逃亡したとなれば、丞相の任命責任は免れない。


蜀漢という国の屋台骨が折れるのだ。


……認められない。実務家としての計算も、個人的な感情も、その「答え」を拒絶していた。


ならば。答えを書き換えるしかない。


(馬謖よ。お前は逃げてなどいない。……そうだな?)


私は自分に言い聞かせた。

彼は策士だ。

窮地に陥り、あえて姿を消して奇策を狙っているのかもしれない。

あるいは、王平らを逃がすために、自ら囮となって山中に踏みとどまったのかもしれない。

いや、そうに違いない。

彼は「馬氏の五常」の末弟なのだから。


3.優しい嘘、罪深い祈り


私は机上の筆を執った。墨を含ませた筆先が、木簡の上で震える。

だが、私はその震えを意思の力でねじ伏せた。


「……記録せよ。丞相への第一報である」


幕僚たちが、固唾を飲んで私の言葉を待つ。

私は、霧の中に消えた若者の姿を幻視しながら、力強く告げた。


「『街亭の戦い、利あらず。……然れども、馬謖参軍は、最後まで戦線に踏みとどまり、魏の大軍を引きつけ、壮絶なる戦死を遂げた模様』」


「なっ……!?」

伝令が目を見開く。

「ちょ、長史!まだ確認が……!」

「私が確認した!これが事実だ!」


私は彼を睨みつけた。

その眼光に気圧され、伝令は口をつぐむ。


私は続けた。

「総大将は、身を挺して我々を逃がしてくれたのだ!その忠義に応えずして、何が漢の兵か!……全軍に伝えよ!馬謖将軍の死を無駄にするな!歯を食いしばって漢中へ帰還せよ!」


――おおおおおおッ!!天幕の外で、どよめきが、悲壮な決意の叫びへと変わっていくのが聞こえた。

「逃亡者を見捨てて逃げる」のと、「英雄の死を背負って撤退する」のとでは、兵の足取りはまるで違う。

私の判断は正しかったのだ。そして、我が軍の最悪の崩壊は免れた。


私は書き上げた報告書を、筒に入れて封をした。

それは、丞相を欺く偽りの報告書だ。

だが、これは優しさだ。

丞相にとっても、馬謖にとっても、そして蜀漢にとっても。

卑怯な逃亡者として生き恥を晒すより、国のために散った若き英雄として歴史に残る方が、あやつも幸せだろう。


(許せ、馬謖。……これが、兄代わりの私がしてやれる、最後の手向けだ)


私は筒を早馬の使いに渡し、冷たい雨の降る外へと出た。

北の空は、厚い雲に覆われている。

あの雲の下で、私の愛した弟分は、今頃、冷たい土の上で息絶えているのだろうか。

それとも、魏兵の刃に倒れたのだろうか。


頬に当たる雨が、涙のように冷たかった。


私は知らなかったのだ。


この時ついた私の「願望の嘘」が、やがて亡霊となって帰還し、私たち全員を地獄の底へ突き落とすことになるなどとは。


霧は深く、私の視界を白く塗りつぶしていた。その白さは、死装束の色によく似ていた。


【第二章:帰還した亡霊】


1.美しい弔い


漢中への撤退は、奇跡的なほど整然と行われた。

本来ならば総崩れとなってもおかしくない敗走であった。

だが、「馬謖、壮絶な戦死」という報は、全軍に悲壮な結束をもたらしていた。


「あのアホな馬謖が、殿しんがりで散っただと?……へっ、口先だけの青二才かと思ってたが、最期は根性見せやがったな」


あの魏延将軍ですら、帰還した漢中の陣営でそう呟き、西の空へ向かって黙祷を捧げていた。

王平も、廖化も、誰もが泥にまみれた顔で、亡き若き将軍の霊を悼んでいた。


私は、その光景を丞相府の窓から眺め、胸の内で安堵の息を吐いた。


これでよかったのだ。

軍の崩壊は免れた。

馬謖の名誉も守られた。


私のついた「嘘」は、現実という泥沼を塗り固めるための漆喰(しっくい)として、完璧に機能していた。

執務室では、丞相諸葛亮が一人、私の報告書を前に沈黙していた。

彼の手には、いつも肌身離さず持っていた白羽扇が握られているが、その羽先は微かに震えていた。


「……向兄(向朗)」


彼は顔を上げず、掠れた声で私を呼んだ。


「馬謖は……苦しんだであろうか」


その問いに、私の心臓が早鐘を打った。

だが、ここまできて引き返すわけにはいかない。

私は実務家としての冷徹な仮面を貼り付け、静かに答えた。


「……即死であったと聞いております。魏の大軍を引きつけ、孤立無援の中で最後まで指揮を執り……見事な最期であったと」

「そうか」


諸葛亮は深く息を吸い、そして天井を仰いだ。

その目から、一筋の涙が静かに伝い落ちた。


「私の……人選の誤りだ。私が彼を殺した。……だが、彼が最期まで漢の武人として散ったことだけが、せめてもの救いか……」


彼は涙を拭おうともせず、卓上の木簡を撫でた。

そこには、馬謖への追悼文と、遺族への厚遇を記した草案があった。

丞相の悲しみは深い。

だが、その悲しみは「美しい」ものだった。

愛弟子を失った師の、純粋な哀悼。そこには、裏切りへの怒りや、汚名を着せられた屈辱は微塵もない。


(すまぬ、孔明。……だが、これでいいのだ)


私は心の中で許しを請う。

真実を知れば、この男は壊れてしまうかもしれない。

馬謖が逃げたと知れば、その美しい涙は、凍てつくような絶望へと変わるだろう。

ならば、墓場まで持っていくのが私の役目だ。

馬謖は死んだ。

英雄として死んだのだ。

その虚構の上に、これからの蜀漢くにを再建すればいい。


そう信じていた。あの夜までは。


2.深夜の急報


撤退完了から三日後の深夜。

私は自室で、戦後処理の書類仕事に追われていた。

外は冷たい雨が降っている。

街亭で降っていたあの雨と同じ、骨まで凍みるような雨だ。


扉が激しく叩かれた。


「長史!向朗長史!緊急の報告です!」


入ってきたのは、山間部の検問所を守る部隊長だった。

彼は泥まみれで、顔面は蒼白だった。

嫌な予感がした。

背筋に冷たいものが走る。


「何事だ。魏軍の奇襲か?」

「いえ、違います!検問所で……不審な男を捕縛しました」

「不審者?なぜ私のところへ来る。間者なら楊儀の部署へ……」

「ち、違うのです!その男が……!」


部隊長は震える唇で、信じがたい言葉を口にした。


「農民の服を着て、顔を泥で隠しておりましたが……洗い流したところ……その……」

「……誰だと言うのだ」

「戦死されたはずの、馬謖将軍に……瓜二つなのです」


筆が、手から滑り落ちた。

カラン、という乾いた音が、静寂な部屋に響き渡った。


「……馬鹿な」


私は立ち上がった。

膝が震えて、机に手をつく。

亡霊か?いや、亡霊ならば検問所で捕まるはずがない。


「その男は……今、どこにいる」

「山中の土牢に仮監禁しております。本人は『向朗長史に会わせてくれ、話せば分かる』と喚いており……」


目の前が暗くなった。

生きている。

あやつは、生きていたのだ。


私が描いた「壮絶なる戦死」という筋書きを、あろうことか本人自身が、最も最悪な形で破り捨てて帰ってきたのだ。


「……馬を用意せよ。他言無用だ。誰にも、特に丞相には絶対に知らせるな!」


私は叫ぶように命じ、雨の降る闇の中へと飛び出した。


3.泥濘の再会


漢中の外れ、山あいの粗末な土牢。

松明の明かりが揺れる中、私は鉄格子の前に立った。

鼻をつくようなカビと排泄物の臭い。

湿った土の匂い。


その暗がりの隅に、何かがうずくまっていた。

ボロボロの農民服。

泥と垢にまみれた手足。

伸び放題の髭。


かつて白羽扇を揺らし、才気煥発に兵法を語っていた麒麟児の面影は、どこにもなかった。


私が松明を掲げると、その「塊」が動いた。泥に汚れた顔が上がり、私を見た。


「……向兄?」


その声を聞いた瞬間、私の中で何かが、音もなく崩れ落ちた。

怒りではない。

それは、底の見えない井戸の底へ突き落とされたような、深く、重い絶望だった。


馬謖は、鉄格子に這いずり寄ってきた。

泥だらけの手で格子を掴み、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を押し付けてくる。


「向兄!助かった!ああ、よかった、あなたが来てくれて!」

「……馬謖」


私は呻くように名を呼んだ。その声は震えていた。


「なぜ……ここにいる」

「逃げてきたのです!怖かった……魏軍が、張郃が!山の上で水を絶たれ、兵たちが次々と倒れて……。私は、私は死ぬのが怖くて……!」


「……部下はどうした。王平は。副将たちは」


「分かりません!乱戦の中で散り散りになりました!きっと全滅したでしょう!だから私も、着の身着のまま山を降りて、農家に隠れて……!」


馬謖は、悪びれる様子もなく、ただ己の恐怖体験をまくし立てた。

彼の中には、将としての責任や恥という観念が欠落していた。

あるのは、幼児のような生存本能と、「自分は助かるはずだ」という根拠のない願望だけだった。


「向兄、丞相に取りなしてください!私は生きて帰りました!敗戦の責は受けますが、命までは取られないでしょう?また一からやり直します。私の才は、こんなところで終わるべきではないのです!」


私は、冷たい鉄格子に額を押し当てた。やり直す?才を活かす?


(ああ、馬謖。……お前は何も分かっていない)


私は、自分がついた「優しい嘘」が、鋭利な刃物となって自分たちの喉元に突きつけられているのを感じた。


私が彼を「戦死」と報告したことで、彼は今や蜀全軍の英雄となっていた。

丞相も涙を流し、その死を悼んだ。

その状況で、彼が「生きて、逃げ帰ってきた」という事実は、もはや単なる「敗戦」では済まされない。

それは丞相の涙への、死んでいった兵士たちへの、そして国家そのものへの、許されざる裏切りとなるのだ。


「……馬謖よ」


私は、祈るように囁いた。


「お前は、帰ってくるべきではなかった……」


馬謖の顔が凍りつく。


「え……?」


「私が……私が、お前を『名誉ある戦死』として報告したのだ。そうすることでしか、お前の名を、馬家の誇りを守れぬと思ったからだ」


「せ、戦死……?」


「そうだ。今や全軍が、お前を英雄として崇めている。丞相も、お前の死を深く悲しんでおられる。……そこへ、お前がこのような姿で戻ればどうなるか、分かるか?」


馬謖の瞳が揺れた。

ようやく生きて辿り着けたと、ただただ興奮していた彼もにも、事態の深刻さが理解が深まり、みるみる青ざめていく。


悲劇の英雄が、実は卑怯な逃亡者だった。


その落差は、慈悲深い丞相の心を、最も冷酷な氷へと変えるだろう。


「そ、そんな……。し、死ぬのですか?私は、処刑されるのですか?」

馬謖はガタガタと震え出した。


「嫌だ、嫌だ!やり直させてください!やっと帰って来れたのに、一度の失敗で、全てを奪われるのですか!?」


その叫びは、私の胸を抉った。


(……そうだ。一度の失敗も許さぬ。それこそが、今の蜀軍の病だ)


私は唇を噛んだ。

諸葛亮が作り上げた軍律は、あまりに美しく、あまりに脆い。

完璧であることが求められ、一度躓けば、その汚名は死ぬまで(すす)げない。

だからこそ、馬謖は逃げたのだ。

死そのものへの恐怖以上に、「失敗した自分」が許されないという重圧に耐えきれず、彼は逃げ出したのではないか。


この窒息しそうな冷たさ。

氷の城のような厳格さ。


それが、才ある若者を追い詰め、英雄を逃亡者に変え、そして今、私のついた嘘によって彼を断頭台へと送ろうとしている。


(間違っている……。こんなことは、間違っている)


軍律は守らねばならぬ。

だが、人が生きるには「熱」が必要だ。

失敗を許し、泥にまみれても這い上がることを認める、人間臭い土壌がなければ、この国は氷漬けになって死に絶える。


私は、鉄格子越しに、震える馬謖の手を握りしめた。その手は氷のように冷たかった。


「……立つんだ、馬謖」

「向兄……」

「丞相がお待ちだ。……私が、お前を連れて行く」


私の嘘が、彼を殺すことになるかもしれない。

だが、このまま「冷たい法」の犠牲にしてはならない。

彼が死ぬとしても、それは「法」の数字として処理される死であってはならない。


(私が……私が風穴を開けねばならぬ)


この凍りついた空気に、生きた人間の、見苦しいほどの熱い息吹を吹き込まねばならぬ。

たとえそれで、私が晩節を汚す愚者と罵られようとも。


「行こう。……最期まで、私が側にいる」

私は、泣きじゃくる馬謖を抱き起こした。

雨は、夜明けまで止むことはなかった。

それは、来るべき断罪の朝を告げる、冷たい涙のようだった。


【第三章:断罪の夜】


1.壊れた偶像


その夜、丞相府の執務室は、墓所のように静まり返っていた。

外では冷たい雨が降り続いている。

だが、室内の空気はそれ以上に冷たく、呼吸をするたびに肺が凍りつくようだった。


床には、泥と涙で汚れた一人の男が転がされている。

かつて麒麟児と呼ばれ、蜀漢の未来を担うはずだった男。


馬謖。


彼は猿ぐつわを噛まされたまま、充血した目で必死に何かを訴えかけている。

だが、その姿はあまりにも惨めで、見るに耐えないものだった。


その彼を見下ろしているのは、丞相諸葛亮。

彼は白羽扇を卓に置き、微動だにせず、ただじっとその「生き恥」を見つめていた。


私は、その横で深く頭を垂れていた。

弁解の余地などなかった。

私がついた「名誉の戦死」という嘘は、この瞬間、最も残酷な形で暴かれた。

丞相は、愛弟子を失った悲しみの中で喪に服していたのだ。

その涙を、その純粋な哀悼を、私たちは愚弄した。


諸葛亮が、ゆっくりと口を開いた。

「……向兄しょうけい


その声には、怒りの熱さすらなく、ただ無機質な響きだけがあった。


「私が流した涙は、何だったのですか」

「……申し訳ござらぬ」

私は額を床に擦り付けた。


「すべては私の独断。幼常の名誉を守り、軍の士気を維持するため、私が偽りの報告を……」

「名誉、ですか」


諸葛亮は、床に転がる馬謖に視線を落とした。

馬謖は、猿ぐつわの隙間から「うーっ、うーっ!」と喚き、必死に首を振っている。

命乞いをしているのだ。

兄・馬良の名を出せば助かるとでも思っているのだろうか。


「……見てください、向兄。あそこに転がっているのは、名誉ある武人ですか?それとも、ただ死を恐れる獣ですか」


私は顔を上げられなかった。

そこにいるのは、私が愛した弟分ではない。

恐怖に支配され、魂を喪失した抜け殻だ。

諸葛亮の心の中で、何かが音を立てて砕け散るのが分かった。

それは「信頼」という名の、最も美しい宝石だった。


「連れて行け」


諸葛亮が短く命じた。

衛兵たちが無造作に馬謖を引きずっていく。

馬謖は床に爪を立て、見苦しく抵抗したが、やがてその声は雨音の向こうへと消えていった。


部屋には、私と諸葛亮だけが残された。

永遠にも似た沈黙。蝋燭の炎が揺れる。

その影が、諸葛亮の蒼白な顔に落ち、彼を氷像のように見せていた。


彼は、自らの心を殺そうとしていた。

情を捨て、愛を捨て、ただ「法」を執行するだけの器械へと、自らを再構築しようとしていた。

そうでなければ、この絶望に耐えられないからだ。


2.絶望


「……処刑せよ」


その声は、あまりにも静かで、あまりにも短かった。

天幕を支配していた沈黙が、その一言によって決定的な「死」へと凝固する。


私は、自分の喉が引きつるのを自覚した。

弁護の言葉、慈悲を乞う叫び、あるいは怒声。

それらが喉元までせり上がってきたが、私は無理やり飲み込み、砂利を噛むような思いで一言だけを絞り出した。


「……御意」


深く頭を垂れ、逃げるように踵を返した。

背後には、再びあの重苦しい沈黙が、墓石のように鎮座していた。

丞相・諸葛亮孔明は、私の退出を見送りもしない。

ただ机に向かい、微動だにせず、自らの言葉がもたらした血の匂いに耐えているようだった。


天幕を出る。


外の世界は、皮肉なほど静謐な夜に包まれていた。

漢中の山々から吹き下ろす夜気は肌を刺すように冷たい。

だが、先ほど浴びせられた諸葛亮の言葉、あの骨髄まで凍らせる絶望の冷気には及ぶべくもない。


馬謖は、敗戦、逃亡、そして虚偽報告の露見という三重の罪で、明日処刑されるだろう。

私は天幕の支柱に手をつき、荒くなった呼吸を整えた。


吐く息が白い。その白さが、これから消えゆく若者の命のように儚く見えた。


「……ふう」

大きく息を吐き出し、夜空を見上げた。

いつしか雨は止み、雲の切れ間から星が覗いている。

あの星の下で、馬謖は今、何を思っているのだろうか。

縛められ、土牢の冷たさに震えながら、かつて夢見た栄光の残骸に埋もれているのか。


脳裏に、かつての光景が蘇る。荊州の、暖かな夜。


若き日の孔明がいた。

私の親友であり、馬謖の兄である馬良がいた。

そして、その傍らで目を輝かせ、「僕もいつか、兄上や孔明様のような軍師になります!」と無邪気に笑っていた少年の馬謖がいた。


あの才気煥発な瞳。

溢れる才を隠そうともせず、少し生意気で、けれど誰よりも漢室の復興を信じていた若者。

それが、明日、首を刎ねられる。

他ならぬ、彼が最も崇拝していた師の手によって。


3.氷の城


「処刑せよ」

その一言が、頭の中で反響し続ける。

私情を挟まず、功ある者も罰し、愛する者も斬る。


「泣いて馬謖を斬る」。

後世、それは美談として語られるかもしれない。

法家としての完成であり、一国の宰相として、あまりに正しい姿だ。

規律こそが軍の命であり、それを曲げれば組織は腐敗する。


頭では分かっている。

私は長史だ。法の番人だ。

だが、その「正しさ」が、私の背筋を氷柱のように貫いていた。


寒気が止まらない。


これは、本当に我々が目指した国の姿なのか。

(孔明よ、……お前は蜀漢を、氷の城にするつもりか)

私は震える拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みだけが、今の私が生きている証だった。

法がなければ、敗戦が続き、人材も資源も乏しい我が国は立ち行かない。

法は、国の骨格だ。それはわかっている。


しかし、骨格だけでは人は生きられない。


そこに温かい血が流れ、肉が躍動してこそ、人は「情」に動き、「義」のために命を燃やすことができるのだ。


思い出せ。先帝・劉備玄徳様がおられた頃を。


あの御方は、決して完璧な君主ではなかった。

戦には負け続け、判断を誤ることもあった。

時には感情に任せて理屈に合わぬ行動をとることもあった。

だが、我々はなぜ、あの人の下に集ったのだ。

法が厳しいからか。報酬が高いからか。


違う。


あの人の発する熱、不器用なまでの人間味溢れる「情」に惹かれ、「この人のためなら死ねる」「この人と共に夢を見たい」と思ったからこそ、我々は自らの血肉を捧げようとしていたではないか。


魏延を見ろ。

あの荒くれ者が、なぜ二十年も荒野で耐え忍んだか。

先帝への恩義と情愛があったからだ。


趙雲を見ろ。

老骨に鞭打ち、一軍を引き受けたか。

この国に、守るべき愛おしさがあったからだ。


だが、今の孔明はどうだ。

あの街亭の敗戦以来、彼は自らの心を氷に閉ざし、蜀漢という国を、法だけで動く冷徹な器械に変えようとしているように見える。

愛弟子を、それも一度は死んだと思って涙した相手を、生き恥を晒したからといって顔色一つ変えずに斬る。

その姿を見た将兵たちはどう思うか。


「法を犯せば殺される」

「失敗は許されない」

「丞相は、血も涙もない」


恐怖で統制は取れるだろう。

軍律は守られるだろう。

だが、そこからは「国のために死のう」という熱狂は生まれない。

失敗を恐れ、保身に走り、ただ命令を待つだけの、冷たい骸の軍団が残るだけだ。


(それでは、魏には勝てない。……天下の心は掴めない)


魏という巨大な敵に立ち向かうには、我々は「正しさ」以上の何かを持たねばならぬのだ。


それは「熱」だ。


理屈を超えた、狂おしいまでの情熱だ。


それを失った蜀漢は、ただの小さな地方政権に成り下がり、やがて歴史の闇に消えていくだろう。


4.覚悟


私は、自分の胸に手を当てた。

老いた心臓が、早鐘を打っている。


……ああ、面倒くさい。


できることなら、こんな厄介ごとは御免こうむりたい。

さっさと仕事を終わらせて、書庫に籠もって古書を読み耽っていたい。

政治の汚泥も、人の死生も、書物の中だけで十分だ。

周りからは、志が足りない、何を考えているか分からぬ古狸だと思われていることも知っている。

それでいいと思っていた。


だが今、この胸の奥で燻っている残り火はなんだ。

消そうとしても消えない、この苛立ちはなんだ。


骨格が凍てつくならば、誰かがそこに熱き血を注がねばならない。

法が絶対ならば、誰かがその法を犯してでも、人の情けを叫ばねばならない。

誰もが孔明を恐れ、沈黙するならば、誰かがその沈黙を破らねばならない。


それができるのは誰だ。

これから出世を望む若手にはできない。

法を遵守する楊儀のような堅物にもできない。

共に荊州を知り、劉備様の熱を知り、そして孔明の苦悩も、馬家の悲劇も知る者。


そして、いつ官職を追われても未練のない、老い先短い「志」のない私しかいないではないか。


「……やれやれ。損な役回りだな」


私は自嘲気味に呟いた。


だが、不思議と足取りは軽くなっていた。

迷いは消えた。

私は夜空を見上げた。荊州の星は遠い。

だが、胸の奥には、まだあの夜の残り火が、馬良と語り合ったあの熱が、確かに残っている。


友よ。


お前は、国の頂点に立つ者として、非情にならざるを得ないのだろう。

その苦しみは察するに余りある。

お前が泣いて馬謖を斬るならば、その涙すらも凍らせて、完璧な宰相を演じきらねばならぬのだろう。


ならば、私は。


「孔明よ、お前が法の鬼となって馬謖を斬るなら、私は情の愚者となって、彼を送ろう」


私は、馬謖の処刑に反対し、丞相に逆らったと糾弾されるかもしれない。

虚偽報告の罪に加え、公衆の面前での乱心。

長史の職を解かれ、庶民に落とされるかもしれない。


上等だ。


だが、その前に。

私は、馬謖という男が、ただの卑怯な逃亡者としてではなく、かつて我々が愛した「馬氏の五常」の末弟として、人間らしく逝けるよう、最後の手向けをしてやらねばならぬ。

そして、軍の中に「情」の場所を残さねばならぬ。


「向朗という老いぼれが、情にほだされて馬鹿なことをした」

そう笑われることで、兵たちの心に「蜀にもまだ、人間味のある馬鹿がいる」という安堵を残せるならば、安いものだ。


私は、天幕の入り口で足を止めた。

夜風は相変わらず冷たい。

だが、私の視線はすでに、ここではない「明日」の光景を見据えていた。


明日の処刑場。

そこは、法と情がぶつかり合う、

私の最後の戦場となるだろう。


私は、懐に入れた一冊の書物――馬良の形見である書簡を強く握りしめ、闇の中へと歩き出した。

その背中は、もはやただの老骨のものではなかった。一人の覚悟を決めた、男の背中であった。


【第四章:泣いて馬謖を斬る】


1.愚者


そして、馬謖処刑の日が明けた。


翌朝、漢中本営の広場は、死の(とばり)が下りたかのように静まり返っていた。

空は鉛色に淀み、今にも雪が散らつきそうな寒気が、数万の将兵の肌を刺している。


その中央に、一人の男が引き出された。

かつて白羽扇を揺らせて才気を誇った馬謖幼常。

だが今の彼の手首には荒縄が食い込み、着衣は泥と汗にまみれ、見る影もない。

数日前まで、彼らはこの男を「殿軍を務めて散った英霊」だと信じていた。

だが今、目の前にいるのは、死を恐れて逃げ出し、おめおめと捕縛された「卑怯者」である。


広場には、押し殺された呻きが充満していた。

それは失望であり、軽蔑であり、そして行き場のない怒りだった。


「あの男の才など、紙切れに書かれた文字に過ぎなかった」

「多くの友が、あの男の愚かさで死んだ」


無言の声が、広場に充満する。

掴みかけていた勝利を逃した、才に溺れた若き将への怨嗟。

静寂で凍りつく法廷であった。


上段には、諸葛亮孔明が座している。

その顔は能面の如く無表情であり、彼が纏う冷気が、広場全体を支配していた。

誰もが息を潜め、ただ「法」が執行されるのを待っている。

その沈黙を切り裂くように、私は声を張り上げた。


「お待ちくだされ、丞相!」


周囲の視線が一斉に私に突き刺さる。

私は列を離れ、よろめきながら中央へと進み出た。


「幼常の才は、一度の失敗で捨て去るには、あまりに惜しすぎます!彼には、必ずやこの罪を償い、国家に尽くす道があろう!この蜀漢には、彼の才が必要なのです!」


私はその厳粛な場で、長史という重職も、老いの分別もかなぐり捨て、馬謖の助命をなりふり構わず叫んだ。丞相の足元に(すが)りつき、涙を流し、理屈の通らぬ情を喚き散らす老いぼれとなるのだ。

魏延が驚いた顔で見ている。

楊儀が侮蔑の眼差しを向ける。

誰もが眉をひそめ、私の失態を嘲笑うだろう。


だが、それでいい。


すべてが凍りついた、この敗戦の空気の中で、誰かが理屈を超えた「熱」を見せねばならぬ。

法という氷の刃が振り下ろされる前に、人間としての見苦しいほどの「情」が爆発したという事実こそが、将兵たちの凍てついた心の底に届くのだ。


「裁きの場であるぞ。控えよ向朗長史!」

楊儀が金切り声を挙げる。


それを諸葛亮は羽扇をかざし制す。


「ならぬ」

諸葛亮の声が響く。

それは、いかなる感情の混入も許さない、乾ききった音。


「……馬謖。汝は軍律を破り、街亭を失い、全軍を危機に陥れた。そしてその敗戦の責を全うせず、逃げ出したのだ。その罪、死罪を免れぬ」

「丞相!それでも、彼が必要であろう!一度の失敗に、これまでの功績を無にしてはならない!」

楊儀が睨みつけるが、私は引き下がれない。

引き下がってはならぬのだ。

私の叫びは、法を司る場において許されざる私情の暴発であった。

だが、この瞬間、私は長史ではなく、ただ一人の友として、眼の前の友の心に巣食う「冷徹な孤独」に抗わなくてはならない。


「軍律は、誰もが法の前に平等でなければならぬ。もし今、ここで馬謖を許せば、他の将兵はどうなる。街亭で、彼の命令に従い命を落とした数千の兵たち、そして撤退戦で散っていった彼らの命の重さを、そなたは私情で軽んじるのか」


諸葛亮が応じる。

その論理は完璧だ。あまりにも正しく、あまりにも冷たい。


「しかし……法の前に、法の前ならばこそ、情が必要であろう!!」


私は床に頭を擦り付け、言葉にはならない叫びをあげた。

頬を熱い涙が伝い、土を濡らす。友が、蜀を支える冷厳な「骨」であり続けるのであれば、私はあえて身を焦がして、この国を、そして友を、温める「血」となろう。


「法は、国家の骨格である。いかなる者も、丞相たる私も、この法の上に立つことは許されない。才ある者を許せば、明日、凡庸な兵士が『なぜ馬謖は許され、我々は罰されるのか』と疑いを持つだろう。その瞬間、軍律は崩壊し、故・先帝より託された大業は潰えるのだ」


諸葛亮はそれでも丞相として情を排除し、国家という絶対的な法の執行を宣言する。

数万の兵が、民が沈黙する。

その冷酷な宣言に、彼らの心は恐怖で縮こまっている。


(届かぬか……。いや!)


私は、最後の札を切った。

諸葛亮という男の、最も柔らかく、最も痛い場所を突く言葉を。


「何が大業だ!孔明!お前は玄徳様のあの大きな手を忘れたのか!」


叫ぶ。


――それは、陽だまりのような記憶だった。かつて、どれほどの敗戦を重ねても、どれほど泥にまみれても、先帝・劉備玄徳という男は常に笑っていた。


荊州で敗れ、夷陵で敗れ、多くの若者を失い、絶望の淵に立たされた時でさえ、彼は残った者たちの肩を抱いた。その手は、ゴツゴツとして分厚く、そして火傷しそうなほどに温かかった。


『生きておれば、道はある』

『わしにはお前たちがいる。それだけで、また天下を夢見ることができる』


その大きな手が、震える部下の背を叩くたび、冷え切った心に血が通い、萎縮した魂に再び火が灯った。

理屈でも、法でもない。

ただ「この人と共にありたい」と思わせる、太陽のような情熱。

失敗を許し、その悔しさを次の力へと変えさせる、底なしの包容力。それが、我々の愛した蜀漢くにではなかったか。


「あの御方は、人が人を想う情こそが、世を照らす光だと信じておられた!だからこそ我らは、あの大きな手に惹かれ、命を預けたのだ!」


私は血を吐くように叫んだ。


「それがどうだ、孔明!今のお前の手は、氷のように冷たい!その手で幼常を斬り、法を守ったとして、その先に玄徳様が夢見た『人の国』はあるのか!誰もが法に怯え、息を殺して生きる国が、我らの目指した漢室の復興なのかッ!」


2.それぞれの想い


向朗の叫びは、並み居る将兵の胸を突き刺した。

彼らの瞼の裏にも、あの温かい笑顔が浮かんでいた。

敗走の最中、自分の愛馬から降り、泥まみれとなったなけなしの糧を牽かせ、自らも徒歩で泥道を歩いた主君の姿。

薄い煮汁を雑兵とも分け合い、「次は勝とう」と豪快に笑ったあの声。


処刑場を支配していた冷たい空気の中に、かつての熱い風が吹き込んだようだった。

そして、その風は、鉄の仮面を被った男の心を、揺り動かす。


諸葛亮の羽扇を持つ手が、白くなるほど強く握りしめられ、羽扇が震えていた。


「……ならぬ。ならぬのだ、向兄」


その声は、私の怒りを押し留めるような威厳あるものではなかった。

喉の奥から絞り出すような、嗚咽へと変わっていた。


「情に流され、理を失えば……国はまた道を誤る。あの夷陵のように……!」


諸葛亮は羽扇を強く胸に押し当てた。

まるで、そこに空いた巨大な穴を塞ごうとするかのように。

その瞬間、広場に集まる全ての人々が見た。

天才軍師と呼ばれる男の瞳の奥で渦巻く、暗く、果てしない悔恨の炎を。


「あの時……なぜ私は成都に……私は、私なれば……!!!」


彼はうわごとのように漏らした。

その言葉を聞いた瞬間、皆、彼の苦しみの正体を悟り、息を呑んだ。


彼自身の脳裏には、今も焼き付いて離れない光景があるのだ。

彼は誰より後悔していた。

情熱の太陽であった劉備が、情ゆえに軍を興し、夷陵の炎の中に消えていった日を。

最も敬愛する主君が火の海で孤立し、陸遜の猛火に焼かれていたその瞬間、自分は成都に留め置かれ、安全な執務室にいたという事実。

主君が泥水をすすり、兵たちが焼死していく中、自分は涼しい顔で筆を走らせていたという、軍師としての致命的な罪。


(あの日、私が傍にいれば……!)


彼の悲痛な表情が、そう叫んでいるように見えた。

幾千の夜、夢の中で繰り返し叫んだであろう悔恨が、治りきらない古傷のように彼を苛んでいる。私が殺したのだ。私の不在が、あの方を殺したのだ――。


孔明は、そう自らを責め続けていたのか。


だからこそ、彼は二度目の過ちを許さない。情で国が傾くことを、死んでも許容できないのだ。


「私が……私だけは、鬼にならねば……!!」


諸葛亮は、血が滲むほど強く唇を噛み締めた。


「玄徳様は、最期にこの国を、この孔明に託された。情で滅びかけたこの国を、生き延びさせよと遺言されたのだ。ならば、私は心を殺してでも『理』の柱となろう。愛弟子だろうと、我が身だろうと、国の害となるならば斬り捨てる。そうでなければ……!」


彼は天を仰いだ。張り詰めていた糸が切れ、堰を切った涙が蒼白な頬を伝い落ちる。


「そうでなければ、私は……あの方に……………………玄徳様。……なぜ、あの時……」


沈む。崩れ落ちる。


その響きは、神の名に縋る敬虔な祈りのようでもあり、夕闇の中で迷子になった子供の泣き声のようでもあった。

天下の奇才と謳われ、冷徹な仮面を被り続けた丞相諸葛亮。

その仮面の下にあったのは、あまりに人間臭く、あまりに脆い、喪失を抱えた一人の男の姿であった。


その一瞬の崩壊に、数万の将兵は言葉を失い、ただ涙に沈む丞相の姿を、瞬きすら忘れて見守るしかなかった。

氷のように冷たい言葉を発する彼の目から、一筋の涙が静かに流れているのを。止めることが出来ない情熱の流れを。


3.泣いて馬謖を斬る


その時。


「……もう、良いのです。向兄」


静かな、本当に静かな声が、広場に響いた。

私は、はっとして顔を上げた。縄に縛られ、地面に跪かされていた馬謖が、私を見ていた。


昨夜、土牢で見た怯えきった表情は消えていた。

その瞳には、恐怖も、未練も、驕りもなかった。あるのは、濁りきった泥水を濾過した後に残る、澄み切った一滴のような、静謐な光だけだった。


「馬謖……」

馬謖は、私に向かって、静かに首を横に振った。

その頬を、一筋の涙が伝い落ちる。

それは死を嘆く涙ではない。


自らの過ちを悔い、そして自らの運命を従容として受け入れた者だけが流せる、浄化の涙であった。


「向兄。あなたの情け、身に染みます。……ですが、……もう、これ以上、丞相を苦しめないでください」


彼の澄み切った声が、永遠の別れの合図であることを悟り、私は言葉を呑み込む。


そして、馬謖は向き直り、遥か上段に座す諸葛亮を見上げた。


「丞相」


その声は、広場を埋め尽くす万の兵の隅々にまで届くほど、凛と澄み渡っていた。


「この幼常の不明、軍律を冒涜せし大罪。……もはや、慈悲は願いません。法に従い、我が首を刎ねていただきとうございます」


諸葛亮の羽扇を持つ手が、微かに、微かに震えていた。

それは羽扇が滑り落ちそうになるのを、必死に指の力だけで理性で繋ぎ止めているかのような、痛々しい痙攣であった。


馬謖は、涙を流しながらも、子供のような無垢な笑みを浮かべた。


「ただ……最期に。父を早くに亡くし、兄・馬良をも失った私にとって、丞相は……厳しき師であり、慈深き父であり、そして誰よりも慕う兄でありました。……これまでの多大なる温情、そして私ごときに夢を託してくださったこと……心より、感謝いたします」


馬謖は深く、深く頭を垂れた。

地面に額を擦り付け、慟哭を噛み殺すその背中は、あまりに小さく、脆かった。


永遠とも思える沈黙が落ちた。風さえも息を潜めた静寂の中、諸葛亮の唇が動いた。


「………………ああ」


それは、肯定の言葉でもなく、悲嘆の声でもなかった。

言葉になる前の、魂の底から漏れ出した、たった一音の「情」の残響であった。


諸葛亮は立ち上がろうとして、よろめき、椅子に手をつく。

震える手が虚空を掴もうとする。その距離は遠い。

物理的には、断罪する者と断罪される者、天と地ほどに離れている。


だが、その場にいた誰もが――私だけでなく、魏延も、王平も、そして広場を埋め尽くす兵士、民たちでさえも――確かに感じたのだ。

丞相の涙が、言葉が、まるで目に見えない腕となって階段を駆け下り、泣き崩れる馬謖の震える肩を、力強く抱きしめたことを。


師が弟子の肩を抱き、弟子が師の胸で泣く。

法によって引き裂かれようとしている二つの魂が、最後の瞬間に、法を超えた「情」によって一つに結ばれていた。


「…………処刑せよ」


その声は、涙で濡れていた。

もはや誰も、何も言わなかった。

馬謖は一礼し、衛兵に促されることなく歩き出した。


彼は一度も振り返らなかった。

振り返れば、師の決意が鈍ることを知っていたからだ。

泥に汚れたその背中は、かつて私が見たどの英雄の背中よりも気高く、そして痛々しいほどに孤独だった。


処刑人が刀を振り上げる。

私は目を閉じなかった。

見届けることが、嘘をつき、彼を追い詰め、それでも彼を愛した私の最後の義務だった。


一閃。


残された者たちは、ただその場に泣き崩れた。

漢中の空に響くのは、風の音ではない。

それは、法という冷徹な刃が、師弟の絆を永遠に断ち切った瞬間の、万の兵の慟哭であった。


【終章:継承される熱】


1.灰の降る朝


処刑から一夜が明けた漢中は、嘘のように静かだった。

昨日の喧騒、万の兵の慟哭、そして振り下ろされた刃の音。

それら全てが、夜来の風に吹かれ、どこか遠い彼方へと運び去られたかのようだった。


私の私室には、朝の冷たい光が差し込んでいる。

机の上には、一通の竹簡が置かれていた。

今朝、楊儀(ようぎ)が持ってきた「免職辞令」である。

罪状は、戦況の虚偽報告、および処刑場における公然たる秩序撹乱。

長史の職を解き、成都への帰還を命ずるものだ。

丞相に次ぐ職責であった私は軍を去ることになる。


「……ふう」


私は荷物をまとめながら、小さく息を吐いた。

不思議と、後悔はなかった。

むしろ、長く背負っていた重荷を下ろしたような、憑き物が落ちたような清々しさがあった。


楊儀は、辞令を渡す際、私を蔑むような目で見下ろして言った。


『いい年をして見苦しい。晩節を汚しましたな、向朗殿』

私は微笑んで答えたものだ。

『汚れるのも、老人の仕事だよ』


楊儀のような堅物には分かるまい。

私が道化となり、泥を被り、見苦しく泣き叫んだ意味を。

そのおかげで、諸葛亮は「冷血漢」にならずに済み、兵士たちのやり場のない感情も「あの爺さんが代わりに泣いてくれた」という形で昇華されたのだ。

馬謖の死を、単なる「粛清」ではなく、涙を伴う「悲劇」として終わらせる。

それが、長史としての私の最後の仕事だった。


「さて、行くか」


私は少ない荷物を持ち、部屋を出た。

振り返ることはしなかった。ここでの役目は終わったのだ。


2.遺された種火


丞相府の裏門には、一台の馬車が待っていた。

公式の見送りはないはずだった。

罪人として追放される身に、別れの言葉をかける者はいない。……そう思っていた。


朝霧の向こうから、数人の人影が現れた。若い。姜維。王平。そして、腕を組んで不貞腐れたように立っている魏延。彼らは、楊儀らとは違う。現場の痛みを知る者たちだ。


「……爺さん」


魏延が、ぶっきらぼうに口を開いた。

「精々長生きしろよ。……昨日のあんたの喚き声、悪くなかったぜ」


私は苦笑した。この荒くれ者からの、最上級の賛辞だ。


私は懐から、一束の竹簡を取り出した。

それは、馬謖が獄中で最期まで書き記していたものである。

震える手で、蝋燭の灯りを頼りに、己の失敗を分析した記録。

『街亭敗戦の分析と、山岳戦における兵站考察』。


「姜維殿」

私は、まだ若く、才気溢れる姜維にそれを差し出した。


「……あやつの失敗を、無駄にするな。この書き付けは、あやつの血であり、涙だ。才に溺れた者がどこで躓くか、その痛みを知る者がこれを読めば、最強の兵法書になる」


姜維は、目を見開いた。

受け取った手が、小刻みに震えている。

それは単なる竹簡の束ではない。

死んだ友の、無念の魂そのものだ。


「……必ず。……馬謖参軍の無念、そして向朗様の想い、私が引き継ぎます」


姜維は深く頭を下げた。王平も無言で敬礼する。その瞳には、恐怖だけではない、先人たちの屍を乗り越えて進む、強い意志の火が灯っていた。


馬謖は死んだ。

だが、彼の「熱」は消えていない。こうして、次の世代へと手渡されていくのだ。


3.無言の氷解


若者たちが去り、再び霧が立ち込めた頃。

門の柱に、一人の人影が寄りかかっているのに気づいた。

白羽扇を持った、痩身の男。護衛も連れず、ただ一人でそこに立っている。


「……丞相」


諸葛亮孔明であった。

その顔はやつれ、目は赤く腫れ上がっている。

だが、昨日の処刑場で見せた「張り詰めた氷」のような危うさは、きれいに消え失せていた。


二人の間に、言葉はなかった。


「すまない」とも「ありがとう」とも、互いに口にはしなかった。


言葉にすれば、全てが崩れてしまう気がしたからだ。


私は深々と頭を下げた。

諸葛亮もまた、ゆっくりと、胸の前に両手を組み合わせ深くゆうを返す。


その瞳が語っていた。


『救われた』と。


私の瞳が答える。

『背負いすぎるな』と。


氷は溶け、澄んだ水となって流れている。

二人の道はここで分かれる。

彼は中央で法を守り、私は野に下る。

だが、その根底にある「漢室復興」「民への想い」は繋がっている。

その確信だけで、十分だった。


4.決別


馬車に乗る前、私は最後に政庁の回廊を通った。

大広間から、地鳴りのような熱気が湧き上がっているのが聞こえた。


それは、恐怖と敗北感に凍り付いていた臣下たちの心が、丞相諸葛亮の言葉という火によって、再び燃え上がった音であった。


「臣、亮。この命の灯火が尽きる最期の刻まで……」


その誓いは、分厚い扉を隔てた回廊の闇に佇む私の耳にも、痛いほど鮮明に突き刺さった。

広間の兵たちが歓喜に震えるその熱気が、私には恐ろしい。

それは希望の暖かさなどではない。

友が、自らの骨を薪とし、血を油として燃やし尽くそうとする、命を焦がす熱だ。


私は、柱の陰で胸を強く鷲掴みにした。

締め付けられるような悲痛な情が、喉元までせり上がってくる。


(友よ、……なぜそこまで己を犠牲にするのか)


愛弟子馬謖を失うも、その志は留まることを許さない。

私の脳裏に焼き付いている、彼の後ろ姿。

かつては瑞々しかった(うなじ)は、今や皮と骨だけになり、冠の紐さえ重たげに見えた。

私よりひと回りも若いはずの彼が、私よりも遥かに老いさらばえ、枯れ木のようになりながら、なお千鈞の重荷を背負って立っている。


「法」と「理」で国を縛り、自らをも縛り上げ、その命を薪として漢室再興の炎を維持する。

その生き様はあまりに壮絶で、そしてあまりに孤独だ。


(お前は、生きようとしているのではない。死に場所を探して、自らを灰にするつもりか)


広間からは、再び軍の再編と次なる戦いへの準備を整える者たちの足音が響き始めた。

彼らは再び、友が敷いた道の上を走り出す。

だが、その先にある未来に、私はどうしても暗い影を拭い去ることができない。

今回の街亭のような悲劇が、また繰り返されるのではないか。

厳格すぎる法についていけず、零れ落ちる者たちがこれからも現れるのではないか。


(私に、彼を止める力はない……)


私は官を去った身だ。あの場に踏み込み、『休んでくれ』などという甘い言葉を掛ける資格はない。

止めたい。

止めに入って、その細い体を抱き留める権限もない。

何もできない。友が命を削る音を聞きながら、ただ扉の外に立ち尽くす。……無力だ。


だが。ただ指をくわえて、友が燃え尽きるのを見ているだけで良いのか?


「……いいや」


私は小さく、しかし力強く首を振った。


友が「法」で国を骨組みするなら、誰かがその隙間を埋める「肉」とならねばならぬ。

友が厳格な法として民を導くなら、誰かが慈愛ある情として、傷ついた者たちを癒やさねばならぬ。


(友よ。君が天下という大河を征くなら、私はその岸辺で、君がこぼれ落とさざるを得なかった「情」を拾い集めよう)


戦場で散る命、残された家族の涙、法に裁かれた者の無念。

それらを救い、次代の若者たちに「人が人として生きる道」を説くこと。

それこそが、官位を持たぬ私にしかできない、もう一つの闘いではないか。

友の身体を蝕む「孤独」を、私が民草の間から支えるのだ。


「行かれよ、友よ。君の背中は、この向朗が支え続けよう」


私は広間に背を向けた。

その足取りは、ここに来た時よりも軽く、確かな熱を帯びていた。

私の戦場は、ここではない。成都の市井、人々の暮らしの中にこそあるのだから。


5.丞相を継ぐ者


馬車が動き出した。

車輪が泥を跳ね上げ、漢中の門をくぐり抜ける。


空を見上げると、長い雨が上がり、厚い雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいた。

その光は、遠く南の成都へと続いている。


私は、かつて荊州で、馬良や孔明と語り合った日々を思い出した。

多くのものを失った。

馬謖も、先帝も、荊州の地も。


だが、残ったものも確かにある。


私は自分の手を眺めた。

老いた手だ。剣は握れず、軍配も振るえない。

だが、誰かの涙を拭い、若者の背中を押すことくらいはできる。


「さて。成都に着いたら、まずはうまい酒でも飲むか」


私は独りごちた。

そして、まだ見ぬ若者たちに語ってやらねばならぬ。

失敗しても、泥にまみれても、生きていれば道はあるのだと。

かつて、あの大きな手をした主君が、私たちにそうしてくれたように。


馬車は進む。

背後の漢中では、諸葛亮が掲げる「漢」の軍旗が、風に吹かれて翻っているのが見えた。

その赤き旗の色は、私たちの胸に宿る熱い血の色と、同じであった。


(完)

最後まで読んでいただけた方、誠にありがとうございます。


向朗。

三国志好きの多くの人にとっても、街亭で無様に敗北した馬謖を庇い、連座失職した文官という程度の認識の人物です。


ですが、彼にはあまり知られていない役職があります。それは丞相諸葛亮死後に任じられる、「行丞相事(丞相代行)」という役職。


なぜ、諸葛亮の後継者とは言われないのか?

また、徐庶・龐統・馬良と親交の厚い向朗ですが、なぜ諸葛亮の友人とは書かれていないのか?


そのような諸葛亮と向朗の関係性を書いた物語です。


気に入った方、ポイントやリアクション、感想を書いていただけると大変励みになります。

よろしくお願いします。

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