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倫理に反するような不道徳な表現も守らねばならぬ!──表現の自由に関する論争についての意見覚書──

掲載日:2026/01/22

 わしは以前、不適切な表現をも守らねばならぬという趣旨で書いたことがあり──それがために二番煎じとなるやもしれぬが、だがそれを覚悟の上で、ふたたび筆を取るに至った次第にある。


 何故か? それはまたしても、創作関連の話題が熱を帯びて噴き上がっており、その過程に於いて表現の自由が脅かされかねぬ言説がいくらも飛び出し、或いは飛び交い、しかもそれらが大手を振ってまかり通ろうとしているがためである。これは、よくない兆候である。


 さらによくないことがある。そうした言説は、結構な割合にて、人の心情に訴えかけるような色を帯びているのである。──これは、危ない。じつに危ない。心情や感情に訴えかけるは、冷静にて適切なる判断力を奪いかねぬからだ。


 議論は大切である。だが冷静に進めねばならぬ。心情にまったく左右されぬというは、我々が人間である以上限りなく不可能に近いが、しかしなるたけそれを排除して行わねばならぬ。──すくなくとも、『議論』に於いてのみならば。


 そもそも、議論とは、何か? その最終目標は、何か? つまり、何のために議論を行うのか?──最もよい最終目標は、『互いにわかり合う』ことであろう。双方が相手の云い分を理解した上で、それを認め、納得し、互いに矛を収めて和平に至るというが理想的な最終目標にある。


 つまり、『相手を一方的にやり込める』のではないということだ。それは最終到達点としては下の下にある。──昨今は『論破』などと申して相手をぐうの音も出ぬほどにやり込めてしまうがもてはやされている傾向があるが、それはあまり──かなりよくない解決方法であるということを、我々は理解しておかねばならぬ。


 何故か? それは、なるほど己らはそれが正しいと信じて主張したことに間違いはなかろうが、しかし『相手もまたそれを正しいと信じて』主張していたのであるから。──この前提を見失うと、大変なことになる。問題は解決せぬどころか事実上不可能な状況にまでなりかねぬ。


 『正義は我々にあり』! というは、己らのみならず、相手もそうなのである。それを忘れ、己ら『だけが』正しいと思い込んでしまうと、相手側を悪だと、それも一片の疑いもない『絶対悪』だと思い込んで、或いは『看做(みな)して』しまいかねぬ。


 ──慈悲のないことを申せば、そもそも相手を悪だと思い込んでしまっているから、『打ち倒すべき絶対悪』だと看做してしまっているから、ぐうの音も出ぬほど完膚なきまでにたたきのめして、やり込めてしまうのだ。


 己をようく思い返してみよう。反論に一切耳を貸さず、己の主張のみを押し通しはしなかったか? 耳を貸す振りをしながら、その実は何ら相手の云い分を聞こうともしなかったということはなかったか? かたちだけは受け入れる振りをしながら、相手の要求を一切受け入れず、向こうだけに負担を強いる結論にばかり至ってはいなかったか?


 これは、よくない。非常によくない。先に述べたように、問題解決は遠のいたかたちとなるがほとんどにある。──表面上は、敵対者をやっつけたというかたちにて、問題は解決したかのように見えるが、実のところ、まったく解決なぞしておらぬのである。


 ほとんどの場合、再燃する。ふたたび、議論という名の紛争が起きるのである。──つまりは、後に続く火種を、或いは禍根を残したというだけで、解決なぞしていなかった。問題の先送りに等しい。


 何故か? 解決したように見えながら、何故そうしたことになるのか?──それを理解するには、打ち倒した悪とされた、相手側の立場に立って考えねばならぬ。さもなくば死ぬまで──否、死んでも理解することは叶うまい。


 相手側も己を正しいと思っている。故に同じように、己らの正義を主張した。──しかしながら、それは受け入れられなかった。故に敗れ、悪とされたという次第にあるが、この、『受け入れられなかった』というが、どういうかたちで受け入れられなかったかによって、その後の流れが変わってくる。


 先に、理想的な解決方法、つまり先に述べた、互いに納得してわかり合うというかたちについて。例を挙げると、「あなた方の云い分はわかった、いくつかの点については受け入れましょう、だがここやここはアレなので、そこについては──」といったところにあろうか。


 悪い云い方をすれば妥協にあるがため、一部の過激派は納得ゆかずさらなる論争を望むやもしれぬが、しかしまあこれが最も穏当なところであろう。


 最もよくないは、まったく耳を貸さず、一方的にたたき潰してしまうやり方だ。声の大きさや数の力で蹂躙するやり方なぞ、最悪なかたちにあろう。──ほぼ間違いなく、将来に禍根を残す。


 何故か? やられた側の立場になって考えてみよう。議論、つまり話し合いにて解決するというかたちにありながらも、その実、何ら云い分を聞いてもらえずに完膚なきまでに打ちのめされたのであれば──それは言葉に於ける虐殺にも等しい。銃剣の代わりに口舌を振るわれたも同じこと。


 そのような行いが、禍根を残さぬはずもあるまい。怨みは消えぬ。特にこうした類の怨みは。時とともに癒えるものではなく、むしろ日を夜を経るごとに勢いを増してゆく怒りの炎にある。──つまり絶対になびかぬ不倶戴天の敵を自ら作り出す愚行と呼べる。


 とくにこうした議論に於いては、個人の尊厳、或いは棲息条件といった領域にも及ぶものなのであるから。


 表現の自由が絡む論争に於いては、大抵の場合が規制論である。個々の差はあれど、「この表現は何々であるから控えるべし」というがおおよその筋にある。『何々』には、治安を乱すだの差別を助長するだの人権を侵害するだの不快を極めるだのというものが入る。──主にこうしたことで論争が起こっているものとして話を進めよう。


 さて、そうした規制論、掲げた建前は立派なものだ。『その表現によって不利益を被る者たちを守る』というは、なるほど立派で、抗うはむずかしい。


 しかしここには大きな落とし穴!『それが規制されることにより不利益を被る者』は、守られない!


 そもそも、不快な表現と云うならば、すべての表現が不快となる。人はそれぞれひとりひとり事情も育ってきた或いは今現在暮らしている環境が異なるのだ。ある者にとっては不快を極める表現も、別なる者にとっては「おお、快なり!」となることが往々にしてあるのだ。──逆もまた然り。多数より高評価を得て何百万枚も売り上げ、名誉ある賞を受賞したような人気作や名作を、皆が皆受け入れられるとは限らぬのだ。どうしても好みに合わんという人もおるのだから。


 よく不快と云われ、規制論の対象とされるは、エロ、次いでグロであろう。ナンセンス系に至っては、今現在は規制対象となることはすくない。──故にエログロを中心として述べてゆく。


 昨今は多様性の尊重が叫ばれているが、エログロはまさに多様性の極みである。我々の暮らす現実世界に於いては法的にも物理的にも再現不可能な、一種の幻想世界となっているほどに。


 そうした幻想世界は、まこと、エロ・グロ・ナンセンスのすべてが──同居、或いは融合し合うかたちにて──存在しているとも云える。


 たとえば──性行為とは基本的に穴へちんぼを突っ込むことであるが、まずこの穴が多様性に満ちている。現実世界に於いても本来挿入すべき性器に非ず、口や肛門という別なる穴が存在するが、フィクションたる幻想世界に於いては、耳の穴や鼻の穴であったり、乳頭から乳管にかけて、つまり本来ならば母乳が出るために存在する乳首の穴であったりと、じつに多様である。


 くり返すがこれは物理的に不可能だ。たとえ小学校低学年児童程度の大きさしかなくとも無理だ。どうあがいても現実世界で再現はできぬ。──故に幻想世界なのだ。


 現実世界で再現できぬは、今しがた述べた物理的に不可能というものの他、法的に不可能というも存在す。たとえば児童を対象とする性愛、動物を対象とする性愛など。国によっては同性愛も法的に禁止されていることもある。──しかしながら、幻想世界に於いてはそうした制約からは解き放たれる。なにせ現実には存在せぬフィクション世界なのであるから。


 以前、児童ポルノに関するエッセイを書いたことがあるが、その際にも述べたは、児童ポルノを規制する法律の目的は、『被害を受ける児童を守ること』にある。──しかしながら幻想世界に於いては現実には存在せぬ世界なのであるから、つまり法律の対象外なのである。


 守ると云うのなら、その作品内にて非道の限りを尽くされている獣人娘を出してからにしてくれたまえ。


 ──話が脱線気味にあるがため、ふたたびもとの軌道に戻る。


 今しがた述べたこれらエロに、グロ成分をもうすこし加えると、たとえば眼孔つまり眼ン玉が入っていた穴に突っ込むというものがある。一種のスカルファックか。『フルメタルジャケット』で教官殿が云っていた、つまり『頭蓋骨が女性器になるまでブチ込んでやる』というほうの意味のスカルファックである。女性器に頭蓋を突っ込むのではなく。(※註1)


 こちらのスカルファックの派生系と云うか亞種と申すべきであろうかといったものに、脳髄にブチ込むものがある。ちょうど入るだけの穴を頭蓋に開けるものもあれば、グラディウスIIのラスボスたるゴーファー親父のように、月代(さかやき)にあたる部分から上の頭蓋を取り外して脳髄の大半を剥き出しにするものもあるのだ。


 ここよりもうすこし先に踏み込むと、人体改造の領域となる。現実世界にも、頭蓋にビスを埋め込んで(ツノ)を生やしたり、舌先を縦に切って蛇のような二又にしたりするものがあるが、幻想世界に於いてはさらに進んでいる。──たとえば犬猫などの動物と融合させて獣人と呼ぶにふさわしきものとしたり。わざわざ女の子に犬のちんぼを外科手術にてくっつけたものもある。当然ながら現実世界では不可能だ。(※註2)


 俗語で『肉便器』というものがあるが、実際に便器へ改造したものもある。──これはイタリアのポルノグラインド・バンドである『2 Minuta Dreka』が、『カスミ・トイレット』というアルバムのジャケットに採用したことで、知っている読者諸兄もおられるかもしれない。──無論これも、現実には再現不可能だ。そんな腕前があれば、施術者は世界一の外科医になれるはおろか、ノーベル賞のメダルでオセロができることであろう。


 医術は生命を救うが、しかし及ばず死することもある。死もまた、エログロにて用いられることのある題材にある。屍体愛好癖というものがあるのだ。現実世界に於いても、いわゆるネクロと呼ばれるかたちにて存在しており、また、エロ目的ではなく愛情のひとつのかたちとして死体を保存する事件が起きたりもしている。


 死が絡むと途端に拒否反応が強まるが、しかしエログロマンガにとどまらず、文学や音楽といった領域にても取り扱われる題材のひとつだ。


 こうした、エロとグロとの融合とでも呼ぶべきものらを他と区別して、俗に『リョナ』と呼ぶことがある。これらを愛好する者らは──その割合こそすくないも、しかし確実に存在しているのだ。


 すくないが存在する。これはつまり少数派ということである。なるほどドマイナーで、多くの者には賛同を得られぬであろう特殊な性癖と呼べるも、しかし彼ら、或いは彼女らは確かに存在しているのである。


 数こそが絶対正義にて、少数派に権利なしという法が敷かれているならばともかく、今現在はすべてが平等に権利を有する社会にある。すくなくとも建前上は。──ならば、こうしたごく少数派の特殊な連中にも同等の権利があるとするが、当然のことにある。正義を旗印に掲げるならば。


 しかも、今現在声高に主張されているは、『性的少数派にも平等に権利を与えよ』である。──おそらく、すくなからぬ者たちがこれに歓喜し、賛同したことにあろう。「我らについに救いの手が差し伸べられた」と。ロリコン、ペド、リョナファン、ファーリーと呼ばれる、いわゆるケモナー勢、その他諸々の特殊な、少数派の性癖を持つ者たちは、新たな時代の幕開けに歓呼の声を上げた──


 とは、ならなかった。ならなかったんだよ。──それも最悪のかたちにて。彼ら、或いは彼女らは、『裏切られた』のだ。或いは、『見捨てられた』と呼ぶべきか。


 結論から云うと、『一緒にするな』と、拒絶されたのだ。──無論、云い分も理由もあるだろう。「あくまでも現実世界の話にて、幻想世界は対象外」であるとか。それならば納得はできぬとて、理解はできよう。


 しかし、「図に乗るな変態どもが」とか、「被害者面するな犯罪者どもめ」とか、「擦り寄ってくるな穢らわしい」などと云われるは、さすがにあまりが過ぎる。それに、道理が通らぬであろう。すくなくとも掲げた虹色の旗印の理念に、それでは反してしまう。


 ──このような経緯が実際にあったのだ。裏切られた、見捨てられたという思いを強く味わうに至った者たちが存在するのだ。


 そうした経験をするに至った者たちの中に、『規制派許すまじ滅すべし』と、心に誓うに至った者が結構な割合で出るに至ったは、想像に難くあるまい。

 

 喩えが乱暴かもしれぬが、侵略や虐殺の被害者にかなり近いと云える。すくなくとも共通点は幾らかあるとわしは信じている。──故に、彼ら、或いは彼女らは反撥するのだ。抵抗するのだ。規制から。──規制という名の侵略から。

 

 彼ら或いは彼女らの抵抗は、侵略に対する防衛なのだ。


 大抵の場合は揶揄する目的で用いられるが故に、個人的にはしるしたくはない言葉なのであるが──『表現の自由戦士』というは、ある意味では形容表現としてふさわしいと呼べるやもしれぬ。──侵略に対する防衛戦を、ずっと最前線にて続けてきた歴戦の歩兵たちと考えることができるがために。


 歴戦の歩兵たちであるが故に、経験で知っている。規制という侵略をわずかでも許してはならぬことを。「事を大きくするよりは一歩退いて」などと考えていると、じわじわと切り取られてしまうことを。或いはそこからどしどしと増援を送られて、終いには抵抗することすら叶わず蹂躙されることを。──それ故に、一歩も退かぬ覚悟が決まっているのだ。


 そう、『規制には一歩も退かぬ』という考えが骨身にしみている。退いたが最後ということを、嫌と云うほどわからされたのだ。──それ故に、「事を大きくするよりは一歩退いて」などという言説には、一切の耳を貸さぬのだ。


 退いていてはいけないのだ。規制というものに幾らも領土を切り取り奪われている状況下に今現在はあるのだ。『今では許されない表現』などというが、その証!──むしろ積極的に、反転攻勢に打って出るべき事態にあるのだ!『むかしは許されていた』のであるならば、最低でもその水準にまで押し戻すを目標とすべきだ。


 すべては、表現を守るため。そして表現に関わる創作者らの自由を守るため。──我々と同じような悲慘な思いを、他の者には、後に続く者たちにはさせたくないがため。


 しかしながら、規制に屈せよという言説の何と多いことか!──言葉は違えど、退くを促すには変わりがない。やれ倫理だ、やれ道徳だなどと、そうした大義名分に流される者のいかに多いことであろうか。


 しかも事あろう、創作者から!


 我々創作者は、玄人素人の別はあれど、絵や音楽や文章といった形態の違いはあれど、ともに同じ仲間、同志であるという意識をうっすらながらも持っている。すくなくともわしは。


 しかしそうした同志らの中から、事もあろうに規制という侵略に対して退くなどと──下手をすると規制側に立った論を声高に説いてまわる者がいようとは!


 これは、重大な裏切り行為と映る。『利敵行為』という許されざる行いに映る!──故に、歴戦の歩兵たちは反撥するのだ。戦に喩えるならば、領土を自ら明け渡すにも等しき行いなのであるから!


 故に、怒りの声が上がるのだ。──同じ創作仲間、同志であるがためなおさらに。正直、「いやあやっぱり倫理観は大切なので攻めた表現はすべきではないですよ」などと公言する創作者は、利敵行為を積極的にやってまわる裏切者として映るのだ。──古い言葉で云うと、『非國民』だの『國賊』だの『唾棄すべきブルジョワとなり下がった人民の敵』だのと同列にある。規制推進派のケツナメ野郎どもめが。


 ──ここに、冒頭に述べた議論の話を入れる。互いに理解しわかり合うという目標をめざせ、相手をやり込めるのではないぞということに。──故についぞ今しがた前の段落に書いたような罵倒語の使用は慎むべきである。──それはわかっているのだが……。


 しかし、手前等のつくっている物と異なるをつくる者らには守ろうとする意志も素振りもみせず、むしろ積極的に規制派の味方をするような言動、行動をしておいて、いざ、手前等のつくっている物がひと度攻撃されれば、烈火のごとくに怒り出して徒党を組んで過剰な反撃をしてくるようなものを見せられては、文句のひとつやふたつや3(ダース)も出ようものである。せめて行動の筋くらいは通してもらいたい。


 いつ手前等に規制の矛先が向かうかわからぬのだぞ。


 我々歴戦の歩兵たちは、なるほど確かに冷静ではないやもしれぬ。先に述べた事情があるのだから。──とて、なるたけ冷静にわかり合おうと努めてはおるのだ。すくなくともわしは。


 しかしその結果は──悲慘なものだ。わかり合えることは、ほぼなかった。すくなくとも、『議論』の果てにては。


 わかってくれる者たちはいた。議論するまでもなく。すでにわかっていたと云えるかもしれぬ。──問題は、議論するに至った者らは、ほとんどがわかってくれなかった。個人的には、わかろうとする意志がみられなかったとすら感じた。


 何故であろうか? 己が好きなものを蹂躙され奪われた経験がないためか?──はっきり申して、『話が通じなかった』というが、正直なところだ。


 ──ここで冒頭に述べたことをくり返す。互いに、己を正しいと思っている。それが前提である。我々が己らを正しいと思っていると同じように、相手も己を正しいと思っている。故に互いの意見を尊重せねばならぬ。


 ──しかしそこに、規制という侵略をもたらす蟻の一穴が存在していたら? そこは見過ごせぬ。故に、規制を肯定する論に我々は攻撃的となってしまうのだ。


 その蟻の一穴が、昨今、錦の御旗のごとくに振りかざされがちな──『表現の自由には、批判される責任もある』というものにある。


 これそのものに、異論を唱えるつもりはない。全肯定のみが許されるというものではないということを、我々も知っている。


 しかしその先も──我々は知っている!


 まず、『その批判は、果たして正当なるものか?』ということがある。難癖のようなものが存在するからだ。──まあ、それはよいとする。ひと眼にて「何云ってんだ?」というようなおかしなものになびく者はそうはおらぬがため。


 しかしながら時に、一見すると正当なるように見えて、その実、規制へとつながる、地獄への道の第一歩のようなものが存在するのだ。──これが蟻の一穴である。


 こうした、正当なる批判の皮をかぶった、まるでトロイの三角木馬のようなものは、主に、エログロナンセンス、その中でも少数派に於いて向けられるが顕著にある。


 なるほど確かにいかがわしい表現には違いない。そこは認めざるを得ぬ。──得ぬのだが、しかし、それが法に反せぬ限り、いや仮に反していたとても、『批判を無限大に受け入れるわけにはゆかぬ』のである。


 批判を何故無限大に受け入れてはならぬのか?──先に、侵略からの領土防衛戦に喩えたが、まことその喩えの通り、そこからどしどしと押し込まれて焼き払われ蹂躙されるにつながるからである。


 批判が、やがて抗議となり、その抗議の声が無視できぬほど大きくなれば、やがては法による、或いは自主的な、『規制』という『最悪の結末』を迎えることがある。──現に、あったのだ。


 これは大袈裟に、被害妄想から述べたものに非ず。実際にそんな例は幾つもあるのだ!


 たとえば──昨年の年末に話題になった、『ウルトラセブン』の㐧12話、『遊星より愛をこめて』は、抗議によって『欠番』にされるという自主規制に追い込まれた。──正規の方法で視聴する手段は、一切ないのだ。(※註3)


 同じ円谷プロ作品である『怪奇大作戦』の㐧24話、『狂鬼人間』も同じようなものだ。猛烈なる『抗議』によって、『欠番』にされるという自主規制に追い込まれたのである。東宝特撮怪獣映画のひとつとされる『獣人雪男』もそうだ。


 このように、有名作品でさえ規制、封印という最悪の結果に追い込まれるのだ。いち度こうなったが最後、容易にはもとへ戻らぬ。取られた領土と同じである。


 こうした有名作品、支持者の多い作品でさえこうなることを我々は知っている。──ならば、支持者のすくない、ドマイナーな部類の作品なれば? 容易くこうした事態に追い込まれるであろうことは、火を見るより明らかにある。──そうした作品を守ろうと声を上げてくれる者たちの絶対数がすくないのであるから。


 故に、我らは主張す。『表現の自由には批判される責任もある』と、軽々しく振りかざすなと。一切の批判も許さぬなどということは無論ならぬが、しかしあまりにも無制限に受け入れすぎるな、受け入れ『させ』すぎるなというを、声を大にして述べねばなるまい。


 『事実上の規制』というも、存在するからだ。


 これは自主規制の亞種と呼べる。先に述べた、自主規制による欠番などの封印というは、生産者が自ら出さぬという選択肢をとったと云える。──対し、事実上の規制とは、販売者など、その作品を消費者へ届ける場所を提供する者に規制をさせるというものである。


 たとえば、書店に対し、特定のジャンルの作品を並べるなという批判や抗議を行うことにより、それらが店頭に並ばなくなることがある。この『特定のジャンル』には、エロ本の他に政治関連の本が対象となることがある。──政治もまた表現のひとつにあり、それぞれの視点や立場によって支持が異なるもの。(※註4)『広く会議を興し万機公論に決すべし』と明治期に云われたように、さまざまな視点から広く意見を集めて議論する必要があるのだ。──いくら気に入らんからといって特定の思想を排除するは、よくない。全体主義への第一歩にある。


 エロビデオに関しても特定のジャンルの作品については、的外れな批判を受けたことにより大手販売サイトから閉め出され、或いは自社の販売窓口ですら並べることができぬ状況となったものがある。──以前書いた児童ポルノに関するエッセイにて述べた、ジュニアアイドル設定のエロビデオがそれである。


 音楽関連はもっと兇悪で、特定のジャンルの作品は規制によりそもそも輸入ができないというものの他、Web上のマーケット販売が禁止されているとか、なんでも聴き放題を謳うサブスクリプションサービスから除外されるとか……一時期はアーカイヴサイトで紹介文などの情報を載せることすら禁止されていた次第にある。


 恐ろしいことに、YouTubeからも除外され、聴くことが極めてむずかしいバンドすらもある。──DailymotionやVK.comならば聴けるものもあるが、それは一部にすぎぬ。基本的に、発表の場を奪われているも同然の状況下にあるのだ。


 こうした、迫害にも等しき扱いを受けている音楽ジャンルとは何か?──それはロックの中でも最先端をゆくジャンルである、ナチブラックメタルであるとかヘイトコアであるとか差別主義ハードコアパンクであるとか……つまり尖りまくった、聴く人を選びに選ぶジャンルのロックである。


 こうしたものは、批判されやすい。「批判されて当然」と公言してはばからぬ者が多数派であると云っても過言ではあるまい。彼ら或いは彼女ら、批判者の言を幾らか引用すると、「倫理的にも道徳的にも許されないことを自ら進んでしているのであるから批判されて当然である」などと、臆面もなく述べるほどには。──正義の御旗、ここにあり、か。鎌鎚や星や鉤十字が描かれていそうだな。


 まこと喩えは悪いが、『亀頭四兄弟の末っ子みてぇな髪型した女の子がガンギマった眼をして「これはなぐっていい、なぐっていいんだ」というような状況』となりやすいのである。不道徳とされたものは。


 その結果、こうしたものの愛好家は不自由を強いられるに至った次第にある。倫理や道徳、つまり正義を旗頭に据える者らによる、迫害水準にも及ぶほどの攻撃に普段より曝されるかたちとなっているのだ。


 なるほど批判する自由は皆に存在する。しかしその批判も、ようく考えてから行ってほしいものだ。──その結果、迫害レヴェルの規制を受けることになるかもしれない、とのことくらいは考えてから。責任感を持って批判してもらいたい。


 先に述べた『棲息条件』という言葉をここでくり返す。その作品があったから今日まで生きてこれた、今日も生きられる、明日を生きる活力となる、人もいるのだ。そうした人たちから正義の名の下に奪い取ってしまうことは、消し去ってしまうことは果たして正義なのか? 生きる活力を奪われて、死──にはせずとも、活力もなにもなくただ生きているだけという、まるで生ける屍のごとき状態に追いやることは、果たして正義なのか?


 ──まあどうせ、「そこまでするつもりはなかったんだ」と、責任から逃れるであろうことは眼に見えておるが。今しがた述べた、生きる活力を失った人に対しても、「生命は奪われていないじゃないか」とか、真顔で云いそうだ。いや実際に云っていたのを確認している。「世界にはもっと苦しい人たちがいる、本当に殺されている人たちが」などと云う言葉とともに。そうだ、そうだ、きみたちはそんなヤツなのだ。


 或いは、「世をよくするための仕方のない犠牲」とでも云うつもりか?──幾人もの少数派の屍の上に築かれた新しい世は、さぞよいものとなるであろうな!


 このように、批判もイキスギィてはならない。すくなくとも、存在を消滅させてしまうための便利な武器──殺すための免罪符ではないのだ。みだりに濫用していると、お盆にルターが化けて出てきても知らんぞ。


 そのようなイキスギィた批判はどこから出てくるのであろうか?──わしは、倫理や道徳といった、つまり正義の暴走ではないのかと考えている。


 正義とは暴走しやすい。中世の魔女狩り然り、近年のナチ党然り共産党然りファシスト党然りイカレ宗教然り。──すくなくとも彼ら自身は、己を正義と思っていたことは間違いあるまい。「さあ、今日も悪いことをしてやろう」と考える人間は、そうそうはおらぬのだ。


 世の揉め事の大半は正義と正義のぶつかり合いと云える。紛争も戦争もそうである。連合側は正義を掲げて戦ったが、敗れた枢軸側にも正義はあったのだから。──すくなくとも彼らなりの云い分はあった。それは事実である。


 我々はそうした過去の出来事より教訓として学ぶことがあるだろう。──相手を絶対悪としてたたき潰すのではなく、しっかりと云い分を聞き、互いに譲歩して落とし所をつくるという、双方納得できる解決方法へともってゆくべきであろう。──実現できるかどうかは、さて置きとして。せめて理想だけは明確に描いておきたい。


 まあ、そうした解決方法へともってゆくための規範と申すか基準と申すか、そうしたものが法律であり司法機関であるのだが。──したがって法に則り動くべきなのであるが……昨今……法にて認められておるにも関わらず、手前等の倫理や道徳をまるで法に優越するものであるかのごとくに振りかざして、押しつけ、一方的にたたき潰さんとする者たちの、いかに多いことか……。


 彼ら、或いは彼女らも己の正義に則ってそうしているであろうことは理解できるが──あまりにも相手のことを理解しなさすぎではないか? 耳を傾けなさすぎではないか? 一方的に相手を絶対悪と決めつけてはいないか?


 そうした決めつけ行為の中に、『違法ではない行いを違法であるかのように扱う』ことがある。これは法律を理解しておらぬか、或いは理解しているが意図的に悪と決めつけているかのどちらかと云わざるを得ぬ。──さすがにそれでは分が悪いと踏んだのか、『倫理』や『道徳』といった、心情に訴えかける戦法が昨今みられる。


 これは、ある意味では卑劣卑怯な戦法とも呼べる。いわゆるレッテル貼り戦法のひとつとも呼べる。相手を不道徳で倫理に反する者だと看做(みな)す行い。──こう書くと稚拙な戦法のように思えるが、実のところ成功すれば効果は高い。──そして案外と、こうした心情に訴えかける戦法に引っかかる者は多いのである。


 たとえば、先に不当なる弾圧を受けている例にて述べたジュニアアイドルネタの合法的なエロビデオ。これを児童ポルノ扱い、または準児童ポルノなどという莫迦げた名前で呼び、さぞ違法であるかのごとくに扱うというに、見事に引っかかった莫迦どもは多い。


 『犯罪者予備軍』などという言葉はまさに典型例だ。今現在まったく違法行為をしていない、そもそも違法ではない行為を、まるでさぞ違法であるかのごとくに扱う非道なレッテル貼り行為だ。法にて規制されていない行為を、法ならぬ力で無理矢理に禁止させるという行いは、云ってしまえば法治国家に対する挑戦や叛逆にあたるのだが──それを正義の名の下に行う者のいかに多いことか! それもすくなからぬ創作者が。ああ嘆かわしい。


 また、暴力的な描写のある作品、とくに被害者が児童、少女にあり、性被害を受けるようなフィクション作品に至っては、「実際に影響を受けてやる者がいる」などと主張し、規制しようとする者が創作者にもすくなくない。


 「きみはなにを莫迦なことを真顔で云っているのだね同志よ。ウオトカを飲みすぎているのか?」と思わず訊きたくなるが、恐るべきことに素面(シラフ)で云っていたりする。──苦労して話を聞いてみれば、心情に訴えかける戦法にまんまと引っかかっていたりするのであるから、始末におけぬ。


 曰く、「わたしは実際に過去に性被害を受けたのだ、だからこうしたものを野放しにしていてはならない」などという、嘘かまことかわからぬ──すくなくとも我々にはその真偽を確かめる(すべ)のないことを、まことの真実と受け止めてしまったとはな。──つくづく、救いようがない。


「知るッけや! そやつがほんまに性被害受けたんなら、そりゃあ気の毒なこっちゃ。ほやけどな、それがわしらに関係あるんけや? わしらはそやつにも、他のヤツにも性加害なんざしとらんのやけんな!──それどころか性行為自体したことないヤツらもごろごろおるやん! してすらないことをなんでできるんぜ! アホけな! 莫迦けや!──そもそも、エロマンガじゃのエロ小説じゃのを読んで影響受ける莫迦どもがおったとして、その責任を、なんでわしらが負わないかんの?わしらはそやつらの親でも嫁でもないんぜ? 看護責任なんかないわ! わしら看護婦でもないんやけんな!──だいたい仮に影響受けたヤツがおったとして、それもう頭おかしい糞莫迦やん! 介護が要るんけや? んなら介護代よこせや! なんでんなガイジどもの介護を無料(タダ)でやらなあかんのぜ? イカレとんねや!──そもそもがよ、そやつが仮にほんまに性被害を受けとったとしてねや、なんでわしらに関係あるんぜ? 知らんがな! んな、知りもせんところで起きた事件のこととか。──あんたァ、今はじめて名前もはじめて知ったような、地図のどこにあるんかもよう知らへん国で何ぞ事故か事件かあってなんぼも人が死んだとして、それを手前の親類じゃの近所の人らが死んだとかとおんなじように悲しむんけ? 線香あげて香典包むんけ?──せまいげ! それとついやがな! アホけや! 莫迦やげ!」などと、思わず本音でまくしたたててしまいそうになる。


 あまりな物云いであることは自覚しておるが、しかしこの精神はある意味では必要なのである。心情や感情に訴えかける戦法に対しての抵抗、或いは対抗手段なのであるから。──心情、感情に流されず、冷静に対応するための相対化手段と呼べるやもしれぬ。


 しかしながらこれをやるには勇気が要る。『被害者をなぐりつける悪党』というレッテルを貼られかねぬからだ。立場がある者はこれを恐れ、それがため流されるかたちとなる傾向があるようにみられる。


 まあわしには守るべき立場なぞ微塵もないので、容赦なくなぐりつけてゆくが。わしは『悪の枢軸』だ! かわいそうな被害者であろうと、わしの好きな表現を規制または排除せんとする者に対しては容赦せん!


 とて、これは諸刃の剣。攻撃する者に対しての防御手段としては効果的なるも、傍観者らの支持は得られにくい。わかっている者はわかってくれるが──わからん者にはまこと悪の化身のようにしか見えぬ。それらは心情に流されておるのであるから、是非もないか。


 なら、何かね?「じ、じつはわしも過去に性被害を受けてな。おかげでケツがえらいことになっておるのだ同志よ」とか、「わしは中学のときホモ教師に迫られて、両手で花瓶を掲げさせられて“産まれてきてすみません”と云わされながら無理矢理ちんぼをしゃぶられたんじゃ」などと涙の告白をすれば、ころりとなびいてこちらの云うことをマルコロ信じ込むのか? 哀れな被害者という設定のわしの味方となってくれるのか?──んな事はないだろう。「嘘をつくなクソボケ」と云われるが関の山にある。


 ひどい話だな! 本当にわしが受けたかもしれんと云うに嘘つき扱いとは! さっきの例との違いはなんじゃね──差別やん。それもドストレートな。つまり相手によって態度を変えるのだな! と云われても文句の云えぬ行いを真顔でやってのける。──恐るべきは倫理や道徳を掲げて心情に訴えかける戦法! こんなものに負けるわけにはゆかない!


 まこと救いようのない話にあるが、今まさにそれが横行しまくっているのであるから──我々はどうすればよいのか。我々はどこから来て、どこへ行くのか?


 とて、悲観していてもはじまらぬ。我々は我々にできることを、ただ愚直にやってゆくのみである。──その志を胸に抱いて。


 最後に、くそみてぇな詩を載せて本稿を終える。


 “はじめに、彼奴輩(きゃつばら)がロリマンガを攻撃したとき、汝等(うぬら)は声を上げなかった。汝等はロリマンガ愛好者ではなかったからだ。


 次に彼奴輩がリョナを攻撃したとき、汝等は声を上げなかった。汝等はグロゴアと看做して忌み嫌っていたからだ。


 彼奴輩がナチブラックメタルや排斥主義ロックや差別主義パンクを迫害したときも汝等は声を上げなかった──どころか、一緒になってたたいてくれた(のう)


 彼奴輩がジュニアアイドルネタエロビデオを攻撃したときも、ラブドールを攻撃したときも、汝等はまるで関係ないですよという顔をしているはおろか、犯罪者予備軍だというレッテルを貼ったり、或いは塵芥(ゴミ)を見るような蔑みの眼で見てくれた喃。──いい御褒美ではあったが、それはまた別の話じゃあ……


 そして彼奴輩は未だたたいておらぬものを、汝等は彼奴輩の代わりに攻撃しておる喃。嗚呼嘆かわしや。汝等は彼奴輩の尖兵と自らなりおったか。


 そして最後に──彼奴輩が汝等を攻撃したとき、汝等の味方はもはやどこにもおらぬ。先に地獄で待っておるぞ……”


 ──フルチン=ニーメラー──

註1:これもまた物理的に現実世界での再現は不可能にある。ちいさな赤児の頭蓋ですら通る際に激しい苦痛を伴うのだ。成人は無論のこと、ゴブリンガキの頭蓋すら入るわけがない


註2:同じ生物である人間同士でさえ拒否反応というもののせいでそう易々と融合させることが叶わぬのだ


註3:よく『違法視聴』と呼ばれるが、現行法に於いて、視聴のみならば違法とはならぬ。意図的にダウンロードしてはじめて違法となる。さもなくば、たとえばメールなどに添付して騙し討ちのように視聴させて刑務所にブチ込むなどという悪質な手法が横行しかねぬ


註4:昨今はよく、「あんな地獄の独裁者をどうして支持、或いは擁護するんだ」という意見がみられるが、それはあくまでも一方的な視点にすぎぬ。独裁大統領の施策によって救われた者もいたであろう可能性についても考えるべし。『知己』の語源となった、智伯と豫譲の例のように、そうした例は過去に幾らもあるのだ

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