君は錨(You I Live By)
“――君は錨だった。生活も仕事も、そういうの全部捨てて海へ出てしまいたかった私を、繋ぎ止めて生かしてくれたのは、たぶん君だった。”
「……うーん」
エイリは持っていた本をゆっくりとした動作で閉じた。レミに勧められた手前、酷評するのも気が引けるが、嘘をつきたくもない。何と言えばいいか、エイリは考えていた。
「面白くなかった?」
レミは淡々と尋ねる。エイリは借りていた文庫本をそっと差し出した。
「つまらなかったわけじゃない。ただ、文学的な表現に慣れなくて」
「どこ?」
「最後の『君は錨』ってところとか」
レミは僅かに目を細める。
「これはメタファーで、錨が船を繋ぎ止めるように――」
エイリはさっと手を挙げて制止する。
「意味はわかってる。ちょっと回りくどい気がして」
「回りくどい?」
レミは首を小さく傾げる。エイリは遠慮がちに切り出した。
「言語の第一目的は、記号によって意味を伝えることのはずだろ。なら、最も良い文章というのは最も簡潔な文章ということになる。メタファーは過剰な修飾に思えるんだ」
「そっか」
返答は短かった。何か言葉をかけるべきかエイリは考えたが、やめた。表面的な慰めは意味がない。エイリは小さく溜息をついて、閉じていたラップトップの蓋を開いて作業を再開した。レミは返された本の表紙を見つめて何かを考えているようだった。
「何をしてるの?」
しばらくして、唐突にレミが訊いた。
「ライフゲームの亜種、みたいな」
エイリはタイピングしながら答えた。
「順調?」
「苦戦してる。ライフゲームの世界線を遅延された木として表現してるんだけど、ノードの評価タイミングに何かバグがあるみたいなんだ」
「遅延された木?」
エイリはまだディスプレイを睨みつけている。
「うん、木構造。現在の世界を根としたとき、未来は分岐する枝だろ。でも、すべての未来を予め計算すると大変だから、必要なときだけ計算するように枝を遅延してるんだ」
「木、根、枝」
ぽつりとレミは呟いた。
「どうかした?」
「葉もあるの?」
「葉はない。無限に枝が伸びるだけ。遅延してるからね」
「遅延してなかったらあるの?」
「普通の木なら葉はある」
「それってメタファーじゃない?」
エイリは沈黙した。
「……いや、違うよ」
「違うの?」
「だって、これはそういう専門用語なんだ。木構造っていうデータ構造の名前だよ」
レミは持っている本の背表紙を人差し指の腹で撫でる。
「木構造って何?」
エイリは腕を組んで考え込んだ。やがて、観念したように説明する。
「根ノードから出発して、次々と他のノードに枝分かれしていくようなデータ構造。ただし、ループは許さない」
「葉は?」
「葉ノードはそれ以上先のない末端のノードのこと」
レミはどこか嬉しそうだった。
「つまり、木構造はデータの構造を根から枝分かれする木に喩えたメタファーだよね」
「そう、なるのか」
「うん」
エイリはラップトップの蓋を閉じて考え込む。
「ひょっとして、メタファーって案外ありふれているのか?」
「そうかも」
「何か具体例ある?」
問われて、レミは即座に答える。
「『心を開く』」
エイリは首をひねって考える。
「信頼するって意味だ」
「うん」
「反対に『心を閉じる』と言ったときは信頼してないって意味になる」
「うん」
「心には扉や蓋がついているわけじゃない。そもそも物理的な形をもたないから。だからメタファーなのか」
「『心の中』とか『心の内』とかもメタファーだよ」
「本心って意味だよね?」
「たぶん」
「心を内と外を隔てる壁をもつかのように喩えているのか」
レミはさらにメタファーを付け加える。
「『秘密を心にしまったり』、『悲しみで心が満たされたり』」
「心には内部の空間があって、ものを入れることができるかのように喩えている。逆に、『心が空っぽになる』とも言うよね」
「そうだね。『穴の空いた心はどれだけ愛情を注いでも満たされることはない』とかも言うよね」
エイリは怪訝そうに眉をひそめて、しばらく黙って考えた。
「それは知らない。けど、レミの意図はわかったよ。ある種のメタファーには一定の傾向があるんだ。心のメタファーなら容器に喩えられることが多い。それも、ある程度底が深くて、不透明で中が見えなくて、蓋がついているような、ええと――」
「甕?」
「まあ、うん。甕か」
耳慣れない響きにエイリは少し戸惑いつつも続ける。
「心のメタファーは甕の言語的構造を借用しているんだ。つまり、まず『心は甕』という中心的なメタファーがあって、そこから付随的なメタファーが導かれる。『甕を開く』ように『心を開く』し、『甕が水で満たされる』ように『心は悲しみで満たされる』」
レミは頷く。
「すぐには具体例を出せないけど、きっと他のメタファーでも同じような構造の借用があるんだろう」
「ある。感情は液体だから、悲しみに満たされたり、喜びがあふれたり、怒りが沸騰したりする。時間はお金だから、稼いだり、浪費したり、節約したりできる。人生は旅だから、分かれ道があるし、時には足踏みをしたり、遠回りをすることもある」
「随分すらすら例が出てくるな」
エイリは皮肉混じりに言った。
「こういうふうに、ある概念を表現するために他の概念の言語的構造をまるごとメタファーで写すことを概念メタファーという。心や時間みたいな抽象的な概念に対する直接的な表現は比較的乏しくて、具体的な概念の表現をメタファーで借用することが多い。きっと、無闇に語彙を増やすよりも、メタファーを使うほうが人間にとって楽なんだろうね」
エイリはレミの言葉を咀嚼するようにしばらく考えて、やがて降参するように両手を挙げた。
「わかったよ、認める。メタファーが言語の表現力に寄与するのは確かにそうだ。よく考えればIT用語もメタファーだらけだしね」
「木構造とか?」
「それもあるけど、プログラムは走るし、リクエストを投げるし、データベースに問い合わせるし、プロセスを殺す。新規な概念に対して新規な語彙を網羅的に用意できるわけじゃない。既存の構造を借用することで言語を拡張しているんだ」
「そうなんだ」
「そうなんだよ。メタファーについて何もわかってなかったんだな、僕は」
エイリは俯いて溜息をついた。自分には物事を単純化して断じてしまうところがあるのかもしれない。時折、レミと話していると己の安直さを突き付けられるような気持ちになる。
「気にしないで。誰にでも得手不得手はある。それに、私は君の錨だから」
「何だって?」
エイリは不服そうに聞き返した。
「エイリは船。私を遠い海に連れ出してくれる。でも、たまに迷ってしまうから、私が繋ぎ止めてあげる」
「どこに?」
「社会と常識に」
嫌な響きだ。エイリは苦笑いを浮かべる。
「それはそれは、ご親切にありがとう」
「どういたしまして」
レミは涼しげに言ってのけた。エイリは甘んじてそれを受け入れることにした。迂闊な発言をした自分の落ち度なのだから。しかし、最後に一矢報いたい気持ちも確かにあった。
「でも、やはりメタファーにも危険はあると思うよ」
エイリの言葉にレミの瞳が期待で輝き出す。
「どんな?」
「さっき、レミが言ってただろ。心の穴がなんとかって」
「穴の空いた心はどれだけ愛情を注いでも満たされることはない」
「それは欺瞞だ」
レミは首を傾げる。
「どういうこと?」
「それは、心に傷をもつ人はどれだけ愛されても満足できないという意味だろ」
心に傷をもつというのもメタファーだな、とエイリは内心思う。
「たぶん」
「そういうこともあるかもしれないが、常にそうだとは限らない。つまり、正しい主張とは言えない」
レミは小さく頷く。
「うん」
「穴の空いた甕はどれだけ水を注いでも満たされることはない。こっちは基本的に正しい主張だ」
「うん」
「わからないか? 甕のメタファーによって、真偽のわからない心についての主張に虚偽の説得力を与えているんだ」
レミは目を見開いて、それから小さく笑みを浮かべた。
「なるほど、確かに」
「穴が空いてると満たされないというのは、甕の話であって心の話じゃない。このメタファーは甕にしかない概念を強引に心に写すことで虚像を生み出している」
「だから欺瞞?」
「そう」
「おー」
レミは感心したように唸った。さらに自分の理解を整理する。
「メタファーは概念から概念へ表現を写す。でも、写す先に対応する概念が存在しないこともある。そのとき、メタファーは嘘になるってことか」
「そうだね」
「幽霊メタファーと名付けるのはどうだろう?」
「えー、まあ、いいんじゃない?」
「面白いね、とっても」
レミは上機嫌に目を細めた。エイリはほっと一息をつく。
「レミに喜んでもらえて何より」
レミは文庫本をぱらぱらめくっている。幽霊メタファーを探しているのだろう。こんな錨にだったら繋がれていてもいいのかもしれない。ふとそんなことを考えて、エイリは自分らしくないなと苦笑した。




